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79襲撃
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*クローディア視点に戻ります*
ハンナの家を後にする頃には、すでに外は真っ暗になっていた。
外に出れば、身を切られるような強い寒さが襲い掛かる。昼間の太陽のぬくもりなどどこかに捨て置いたその風は、まるで刃のように怜悧にわたしたちへと突きつけられる。
心の不安を誘う風と同時に、ガチャリ、と背後で音がする。
扉一枚隔てた先、そこにはぎっくり腰で今もベッドの上にいるハンナはおらず、当然ながらわたしたちに鍵をかけることができるわけではない。
背後でひとりでに掛かる鍵は魔法だとわかっていても、フィナンではないけれど言葉にできない恐怖を感じさせるものだった。
そのせいか、目の前に広がる暗闇が、一層怖いものに見える。
道を照らす美しい精霊の宿り木は、王都の闇を切り払っている。
完全な闇とは程遠い。うっそうと生い茂る樹木の枝葉が月を隠してしまうような、あるいは雲が空の星さえも飲み込んでしまうような、そんな暗さとは違う。
そこには確かな明かりがあって、けれど明かりがあるからこそ、闇が引き立って見えた。
「寒っ!」
強い風が吹き付け、体から熱を一気に奪っていく。
ぶるりと震えたのは寒さのせいであって、決して恐怖のせいじゃない。
……わたしは、誰に何を言い訳しているのだろうか。
「なんだか、幽霊が出そうですよね」
腕をさすりながら周囲を見回すフィナンの腰はやけに引けている。
ハンナの家に入ったとき、勝手に玄関扉の鍵が開いたとき以上の恐怖に身を包まれている様子で、そんな風に自分よりもおびえているフィナンを見てしまえば、心の奥にわずかに芽生えていた不安なんてあっさりと吹き飛んでしまった。
なんとなく手を伸ばし、フィナンの手を片手で包み込む。
使用人仕事の中で少しだけ荒れた手はかさかさとしていて、とはいえそれは仕事とまっすぐに向き合ってきた証。だからその手に触れながら心地よい、なんていう風に感じてしまうのは決しておかしなことじゃない。
肌の上、指を這わせればフィナンはびくりと体を震わせ、ジト目でわたしをにらんでくる。
少しは気持ちが軽くなったのかと問えば、再び恐怖心を思い出してしまったらしく暗い顔でうつむいてしまう。
「……幽霊はきっと、いまだにどんちゃん騒ぎをしている人のところに向かうんじゃない? 楽しそうだ、って」
「幽霊も楽しいものに惹かれるんですかね?」
一体何を話しているのか、自分でも首をひねりながら、闇の先を見据える。
町は暗く、けれど精霊の宿り木が点々と並び、さらには酒場や食事処が並ぶ方角からは陽気な掛け声が響いてくる。
「どうかしら。どちらかというと生者の声に引き寄せられるような……?」
言いながら、ふと言葉が止まる。
ちり、と首の裏の毛が逆立つ。
寒さのせいじゃない。
闇に沈む森に踏み込んでしまったような感覚。
――敵。
「……フィナン、気を保ちなさい。それから、わたしが指示を出したら全力で走って」
「え、ええ?」
困惑しているフィナンに構っている余裕はない。
この感覚は、かなり大きな命の危機が近くにある。いつからかわからないけれど感じられるようになったこの直感は、今思えば、精霊による支援なのかもしれない。
するりと話した手のひらから一瞬にして熱が奪われていくのにわずかなもの悲しさを覚えつつ、闇の先へと目を凝らす。
足はまだ止めない。歩みを止めると、気づかれるから。
闇から、光のもとへ。
精霊の宿り木の下に来たその時、前に人の姿を見つけた。
呆然と見開かれた、氷の瞳。銀糸のような髪は闇の中にあって、わずかな光を帯びて妖艶な色味を持っていた。
知っている顔だった。知っていないはずがない人物がそこにいた。
アヴァロン殿下が、どうして――まさか、彼が。
思考の流れは、そこで断ち切られる。
右斜め前方で、闇の中で何かが動く。
わたしか、殿下か。
とっさにポケットに手を入れて飴の包装を握って。
闇の中から溶け出すように現れた敵は、殿下のほうへと走り出した。
「フィナン、向こうへ走って!」
敵の数も能力も未知数。ただ、非戦闘員のフィナンを守って戦えるほど、わたしは器用じゃない。
もつれそうになりながら走り出したフィナンは、明かりの多い大通りのほうへと逃げていく。
その背中に投げられた刃を、とっさに発動した微風でそらす。
フィナンのそばで魔法を使ってしまった――わずかな後悔は、すぐに緊迫感の中に塗りつぶされて消えていく。
「走って!」
背後を見て、真横を何かが飛んで行ったことに躓きそうになるフィナンの背中に叫び、彼女を守るような位置に移動する。
これでフィナンは大丈夫。
そんな風にただ安堵できていればどれだけよかったか。
フィナンはこの場から去り、けれど状況は少しもよくなってくれない。
無音の襲撃者はフィナンになど目もくれない。そうして狙うは、殿下――ではなくわたし。
おそらくは規模こそ小さいもののとっさに魔法を発動してフィナンを守ってしまったわたしが警戒に値すると判断したのだろう。
戦いにおいて、邪魔になる数を減らすのは有効な選択肢の一つ。
だから敵は、殿下を攻撃すると見せかけて、わたしにナイフを放とうとした。
「彼女には触れるなッ」
再びわたしに攻撃しようとする相手を殿下が一喝する。
そうして、男は興味をわたしから興味を失ったように殿下へと意識を向ける――ふりをして、捨て置くようにわたしにナイフを投げつけて走る。
緩急と、虚実。
意思が感じられない動きと選択は攻撃を読むのが難しくて、何よりもこの手の類は厄介極まりない。
敵はただ一人――されど、容易く撃破できるような相手ではない。
全身に黒い布を身に着けた暗殺者のごとき者は、足音一つ響かせることなく、流水のごとく疾走して殿下へと襲い掛かった。
ハンナの家を後にする頃には、すでに外は真っ暗になっていた。
外に出れば、身を切られるような強い寒さが襲い掛かる。昼間の太陽のぬくもりなどどこかに捨て置いたその風は、まるで刃のように怜悧にわたしたちへと突きつけられる。
心の不安を誘う風と同時に、ガチャリ、と背後で音がする。
扉一枚隔てた先、そこにはぎっくり腰で今もベッドの上にいるハンナはおらず、当然ながらわたしたちに鍵をかけることができるわけではない。
背後でひとりでに掛かる鍵は魔法だとわかっていても、フィナンではないけれど言葉にできない恐怖を感じさせるものだった。
そのせいか、目の前に広がる暗闇が、一層怖いものに見える。
道を照らす美しい精霊の宿り木は、王都の闇を切り払っている。
完全な闇とは程遠い。うっそうと生い茂る樹木の枝葉が月を隠してしまうような、あるいは雲が空の星さえも飲み込んでしまうような、そんな暗さとは違う。
そこには確かな明かりがあって、けれど明かりがあるからこそ、闇が引き立って見えた。
「寒っ!」
強い風が吹き付け、体から熱を一気に奪っていく。
ぶるりと震えたのは寒さのせいであって、決して恐怖のせいじゃない。
……わたしは、誰に何を言い訳しているのだろうか。
「なんだか、幽霊が出そうですよね」
腕をさすりながら周囲を見回すフィナンの腰はやけに引けている。
ハンナの家に入ったとき、勝手に玄関扉の鍵が開いたとき以上の恐怖に身を包まれている様子で、そんな風に自分よりもおびえているフィナンを見てしまえば、心の奥にわずかに芽生えていた不安なんてあっさりと吹き飛んでしまった。
なんとなく手を伸ばし、フィナンの手を片手で包み込む。
使用人仕事の中で少しだけ荒れた手はかさかさとしていて、とはいえそれは仕事とまっすぐに向き合ってきた証。だからその手に触れながら心地よい、なんていう風に感じてしまうのは決しておかしなことじゃない。
肌の上、指を這わせればフィナンはびくりと体を震わせ、ジト目でわたしをにらんでくる。
少しは気持ちが軽くなったのかと問えば、再び恐怖心を思い出してしまったらしく暗い顔でうつむいてしまう。
「……幽霊はきっと、いまだにどんちゃん騒ぎをしている人のところに向かうんじゃない? 楽しそうだ、って」
「幽霊も楽しいものに惹かれるんですかね?」
一体何を話しているのか、自分でも首をひねりながら、闇の先を見据える。
町は暗く、けれど精霊の宿り木が点々と並び、さらには酒場や食事処が並ぶ方角からは陽気な掛け声が響いてくる。
「どうかしら。どちらかというと生者の声に引き寄せられるような……?」
言いながら、ふと言葉が止まる。
ちり、と首の裏の毛が逆立つ。
寒さのせいじゃない。
闇に沈む森に踏み込んでしまったような感覚。
――敵。
「……フィナン、気を保ちなさい。それから、わたしが指示を出したら全力で走って」
「え、ええ?」
困惑しているフィナンに構っている余裕はない。
この感覚は、かなり大きな命の危機が近くにある。いつからかわからないけれど感じられるようになったこの直感は、今思えば、精霊による支援なのかもしれない。
するりと話した手のひらから一瞬にして熱が奪われていくのにわずかなもの悲しさを覚えつつ、闇の先へと目を凝らす。
足はまだ止めない。歩みを止めると、気づかれるから。
闇から、光のもとへ。
精霊の宿り木の下に来たその時、前に人の姿を見つけた。
呆然と見開かれた、氷の瞳。銀糸のような髪は闇の中にあって、わずかな光を帯びて妖艶な色味を持っていた。
知っている顔だった。知っていないはずがない人物がそこにいた。
アヴァロン殿下が、どうして――まさか、彼が。
思考の流れは、そこで断ち切られる。
右斜め前方で、闇の中で何かが動く。
わたしか、殿下か。
とっさにポケットに手を入れて飴の包装を握って。
闇の中から溶け出すように現れた敵は、殿下のほうへと走り出した。
「フィナン、向こうへ走って!」
敵の数も能力も未知数。ただ、非戦闘員のフィナンを守って戦えるほど、わたしは器用じゃない。
もつれそうになりながら走り出したフィナンは、明かりの多い大通りのほうへと逃げていく。
その背中に投げられた刃を、とっさに発動した微風でそらす。
フィナンのそばで魔法を使ってしまった――わずかな後悔は、すぐに緊迫感の中に塗りつぶされて消えていく。
「走って!」
背後を見て、真横を何かが飛んで行ったことに躓きそうになるフィナンの背中に叫び、彼女を守るような位置に移動する。
これでフィナンは大丈夫。
そんな風にただ安堵できていればどれだけよかったか。
フィナンはこの場から去り、けれど状況は少しもよくなってくれない。
無音の襲撃者はフィナンになど目もくれない。そうして狙うは、殿下――ではなくわたし。
おそらくは規模こそ小さいもののとっさに魔法を発動してフィナンを守ってしまったわたしが警戒に値すると判断したのだろう。
戦いにおいて、邪魔になる数を減らすのは有効な選択肢の一つ。
だから敵は、殿下を攻撃すると見せかけて、わたしにナイフを放とうとした。
「彼女には触れるなッ」
再びわたしに攻撃しようとする相手を殿下が一喝する。
そうして、男は興味をわたしから興味を失ったように殿下へと意識を向ける――ふりをして、捨て置くようにわたしにナイフを投げつけて走る。
緩急と、虚実。
意思が感じられない動きと選択は攻撃を読むのが難しくて、何よりもこの手の類は厄介極まりない。
敵はただ一人――されど、容易く撃破できるような相手ではない。
全身に黒い布を身に着けた暗殺者のごとき者は、足音一つ響かせることなく、流水のごとく疾走して殿下へと襲い掛かった。
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