契約妃は隠れた魔法使い

雨足怜

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78不穏な風

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 フレッシュ・ボールをすべてを食べ終えたころには、私はすっかり疲れ切り、だらしなくソファにもたれてぼんやりとしていた。

 すべてを放棄するように頭を空っぽにして、天井をただ眺める。
 白地に儚く浮かび上がる花。踊りくねる蔓。おそらくは蔓バラなのだろうが、ただ静寂とともにたたずむありかたは、もっと淡いものを思わせる。

 ――例えば、ユリか、あるいはスミレか。

 ふわりと香る甘い匂い。記憶を刺激するその花の名前は思い出せず、その香りをどこで嗅いだのかもはっきりしない。
 ただ、刺激された頭は急速に動き出していく。

 脳が、いくつもの彼女の顔を思い出させる。私に突きつけるように。

 初めて会ったときの、どこか楽しげに魔物と戦う姿。
 精霊の「いたずら」にあって、フードの下で驚きに目を見開いた様子。
 再会したときの困り果てた顔。
 毒を飲んだと平然と告げ、使用人の醜態から眼をそらす彼女。
 魔女の円卓とやらに参加し、楽しげに魔法を使うところ。
 ――私を拒絶するように、激情を腹の中で煮えたぎらせながら口を開く姿。

 すべてが、彼女の顔なのだ。思い出すたびにそわそわと落ち着かなくなって、けれど忘れたいというわけでもない、そんな顔。

 その顔は、けれど私を前にすると怒りと憎しみにゆがむ。

 そんな顔を向けてほしいわけじゃないのに。
 それでも、私をその目に映してくれているだけで心が温かくなる。

 目を閉じれば、すぐに彼女の姿が思い浮かぶ。
 楚々としていて、けれど気骨があって、時折いたずらっぽい側面を見せる、ちぐはぐで、目が離せなくて、わからなくて。

 知りたくて、たまらない。

 今頃、友人だという人物を訪ね、フレッシュ・ボールを見舞いとして届けているのだろう。
 確か、歳の離れた友人。一度会ったばかりの相手に見舞いを送りに向かうほどには、彼女は心優しい人で。

 だからこそ、私との対応の落差に胸が痛む。

 いくら頭を悩ませても答えは出ない。
 どうして私相手に、彼女はこんな対応をするのか。

 伸ばした指は、されどするりと確信をすり抜け、手掛かりは雲をつかむよう――

 答えへの手がかりは目前に迫っていて、けれど心が、答えを手にすることを拒絶していた。

 今日は、王城の設備を使ったのだ。誰が使用許可を取ったか、それさえわかれば、きっとすぐに答えにたどり着く。
 その先に、スミレの乙女の秘密がある。

 けれど、その秘密を暴いていいのか、暴かずに秘密としておくのか。
 どちらが正しいのかも、どちらを私自身が望んでいるのかも、私にはもう、わからなかった。

 その秘密を知ったとき、見たくないものを見ることになるのではないか、そんな恐怖があった。
 絶望を予感した。彼女が姿を消す未来を幻視した。

 だから、私は逃げてきたのだ。
 目をそらすために、耳をふさぐために、心を閉ざすために、せめて少しでも衝撃を和らげようと、エインを訪ねてきたのだ。

 それでも結局、答えは得られなかった。それどころか私の罪を突き付けられただけだった。

 視線は蔓を追い、天井を這い進んで窓のほうへと向かう。

 本当に、私は何をしているのだろうか。
 こんなことをしている余裕など、ないというのに。

 それでも、私の心はスミレの乙女のことばかり考えていた。
 考えずにはいられなかった。

 窓の外。
 すでに西日は水平線の向こうに消えている。感覚よりもずっと、エインと話し込んでいたらしい。あるいは、エインが去ってから、驚くほどに長い間、思考を止めてぼんやりとしていたのか。

 空には半月が浮かび、世界を淡く照らしている。
 その月を覆い隠そうというように、少しずつ雲が流れてきていた。月はただそこにあり、雲に隠されるがままになる。
 粛々と、受け入れるのだ。

 窓枠に切り取られた外の景色。見えるのは樹木の枝と橙色の空ばかり。
 目を閉じれば、夕日に照らされた街を歩く彼女の姿が見えた気がした。

 こんな時間に、彼女が出歩いているとは思えなくて。
 それでも、一目でもこの目に彼女を映したいと、体が起き上がる。重い足を進める。

 見送りの馬車を断り、一人歩きだす。
 黄昏。夜を前にどこかあわただしく今日という一日の幕引きを進める者たち。この時間は貴族区画とてややせわしなさがある。

 歩む先は王城とは正反対。すっかり静まり返った市場へと足は向いていた。
 それはまるで、黒々とした影を帯びて見せる王城という怪物から逃げているよう。彼女を孕む獅子から、目を背けているよう。

 目線は道行く者を追う。使用人、馬車、商人らしき一向――その中に、私はただ一人を探していた。

 きっと、彼女は見舞いのために出歩いていた。ならば、暗くなってから王城へと移動するかもしれない。
 その際、偶然を装って会うことくらい許されるのではないか――

 ただ、当然のことながらそんな偶然が早々訪れるはずがない。
 いや、今日はその偶然があったわけで、全くないというわけではないのだろうが。

 だからこそ、期待してしまう。足が向いてしまう。浮足立ってしまう。
 自分が信じられなかった。大量の政務を思えば私とて憂鬱になり、けれどそれでも、今この時ばかりは彼女を探して時間を無為にすることだって許されてもいいのではないだろうか。

 そんな言い訳を自分自身にすることしばし。

 貴族区画を抜けて商業区に入ったあたり、わずかに周囲の空気が変わったような気がした。
 それは太陽がすっかり地平線の向こうに姿を消し、夜が訪れたから――ではない。

「……?」

 ちり、と首筋の毛が逆立つ感覚があった。

 ――殺意あるいは敵意。

 一気に心が冷える。
 スミレの乙女を思い、浮かれていた意識はすぐに戦闘態勢へと切り替わる。

 町に等間隔に置かれた精霊の宿り木だけが世界を照らす闇の中、目だけを動かして周囲を探る。
 浮かれていても、おかしくなっていても、私は王子だ。騎士だ。
 害する者の可能性は常に意識にあったし、何より、自衛ができずに一人でいたりなどしない。

 足を止めることなく、敵に気づいたと悟られないように相手の姿を探して。

 そうして、見てしまった。

 通りの向こうにいる純白の衣を身にまとった彼女、思った以上に近くにいたスミレの乙女に。

 精霊の宿り木の下にいる彼女と目が合って、そして。



 彼女が開いた口が言葉を紡ぐよりも先に、市街に不自然な突風が吹き抜けた。
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