契約妃は隠れた魔法使い

雨足怜

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71お見舞い

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「……ハンナ、いますか?」
『クローディアかい? 今鍵を開けるよ』

 思っていたよりも張りのある声が聞こえてきて胸をなでおろす。ぎっくり腰であって重い病気ではないとわかってはいたものの、いざこうして声を聴けば安堵せずにはいられなかった。

「いえ、腰を痛めたのなら無理を……」

 わざわざ出迎えてくれるのが申し訳なくて、けれど当然のことながら外からカギを開けることはできなくて。
 対応に困っている中、すぐさまカチリと鍵が開く音がした。

 思ったよりもずっと早くて、ハンナはもうすっかり腰の痛みが引いているのだろうかと思いながら扉が開くのを待つ。
 十秒ほど待っても扉を開かず、代わりに、自由に入っておくれという声が室内から響いてくる。その声は先ほどと変わらない、少し遠く、室内の奥の方から響いているように聞こえた。

 ――まるで、フォトスのように一瞬で遠くまで瞬間移動をしたようだった。

「お邪魔します」
「ハンナ様?」

 家の中に入ってすぐ、続く廊下にやっぱりハンナの姿はなかった。

 先ほど玄関扉の鍵が開いてから、足音は感じられなかった。開く前にだって、床がきしむ音一つなかったと思う。
 扉越しとはいえ、衣擦れの音一つ感じさせずに鍵を開けて速やかに退避するのを聞き逃すとは思えない。何より、腰を痛めたという今のハンナにそんな動作ができるとは思えなかった。

 何か空恐ろしいものを感じて、足がすくむ思いだった。この場所は、魔女の庵。不思議な力を――魔法を使う魔女の住処。
 絵本の悪い魔法使いの老婆に一瞬だけハンナが重なってしまったことは胸の内に秘め、恐れる自分の心を落ち着けるべく胸元でこぶしを握る。

「……奥様、これって」

 まさか幽霊か――そう言いたげなフィナンの顔はひどく青ざめていた。
 体は小さく震え、歯がカチカチと音を立てる。

 幽霊が家の扉を勝手に開けた――なるほど、確かに成立しなくはない。
 その幽霊とやらが存在するのなら、という条件付きではあるけれど。

 それよりももっと簡単な解決方法がある。
 魔法使いらしい――魔女らしい手段。

「魔法で鍵を開けたのね」

 馬鹿な、と言いたげな顔でわたしを見てきたフィナンの疑い深い視線が気に食わなかったから、とりあえず鼻先にデコピンをしておいた。

「魔法で、鍵を?」

 痛みに呻き、涙目になったフィナンは、自分に言い聞かせるようにぶつぶつとつぶやきながら廊下の先を眺める。
 魔物の口のような、あるいは正体不明の怪物の食道へと続くような、そんな不気味さを感じる暗がりの先をじっと見やる。

「そんな、それじゃあ魔法使いは鍵が開け放題じゃないですか」
「ハンナはそんなことに魔法を使う人じゃないでしょ」

 言うに事欠いてそれか、としばく意味でフィナンの頭を一叩きして、廊下の奥へと歩き出す。
 もう恐怖はなく――それどころか好奇心ばかりが心には満ち満ちていた。

 魔法でカギを開ける。言うは易く行うは難し、だ。
 精霊に人の倫理観があるのかはさておき、ただ鍵を開けるようにお願いして精霊がそれを実行してくれるかは不明だ。ただ鍵を開けるようにお願いをすれば行ってくれるのか、けれどそれでは玄関以外の扉の鍵を開けるだけにとどまるかもしれない。精霊にそこまで人間の常識があるとは――いや、イメージを言葉にして伝わるわけだから、常識があってしかるべきなのだろうか。

 ああ、今すぐに試したい。すぐに――ちょうどいいところに開けたままの鍵が。

「もしかして、ハンナ様と私の知らないところで会っていますか?」

 背後、鍵を開けたままの玄関扉を精霊に閉めてもらうイメージをしようとしたところで、フィナンの問いが頭に投げ込まれ、思考が千々に乱れる。

 それはまるで、規則正しくさざ波を描いていた湖の水面に小石が投げ込まれたよう。一つの波紋が広がり、けれど描き出すこと困難なほどに乱れた水面の波は、まさしく今の私の思考を表していた。

「……あの一度だけよ」

 フィナンが疑っているのは、わたしがフィナンにも隠れて町に出て、ハンナを訪ねていたのではないか、ということなのだろう。そもそもハンナがぎっくり腰になったという情報だって、どうやって耳に入ったのかと聞かれれば答えられないのだ。
 ただ、ハンナと一度しか会っていないという事実を告げてごまかすしかなかった。

「本当に?」
「こんなことで嘘はつきませんよ。わたしがフィナンに隠れてハンナに会いに来ていると思いましたか?」
「……どーせ、私には内緒でお城から抜け出していますよね?」

 ノーコメント。

「一度会っただけにしては、ずいぶんとハンナ様を気にしていますよね?」

 それはまあ、フィナンとは出会いの価値が違ったそうもなる。
 わたしに魔女の円卓のことを教えてくれたというだけで、ハンナはわたしの人生の師匠と呼ぶにふさわしい人物に格上げされているのだから。

 自分との扱いの落差に顔をしかめるフィナンをよそに、扉を開いて奥の部屋――店部分の先、おそらくは私的なスペースへと踏み入る。

 以前お邪魔した店部分と同じように薬草の香りが満ちる部屋は、けれどおどろおどろしさはなく、アンティーク調の家具と私物が置かれた、どこか物置を思わせる様相をしていた。

 そんな部屋をさらに奥に行くと、ベッドに横たわったまま動けずにいるハンナの姿が現れた。
 腰を痛めているというのは本当らしく、しおらしく、あるいはばつの悪そうな顔をして出迎えてくれる。
 なんだかその顔は、以前に比べてずいぶんと老けて見える。

「すまないね、ワタシが出迎えられれば良かったのだけれど」
「病人はじっとしていてください。これ、お見舞いの品です。手作りなのでなるべく早めに食べてください。それと、何か手が足りていないことはありますか?」

 フレッシュ・ボール入りの籠を差し出せば、律儀に確認を取ってから覆いを開ける。そうして現れたころころと丸いお菓子たちからわずかに香るバターや果実の砂糖漬けなどのにおいに、ハンナは心から笑みをこぼした。

「おやまあ、うれしいねぇ。ああ、やるべきことは知人がしてくれているから大丈夫だよ」
「やっぱり魔法ですか?」
「そうさね。……せっかく来てくれたのだから、少しワタシの話し相手になってくれるかい?」
「もちろんです」

 むしろハンナに迷惑をかけていやしないか気になったけれど、暇で暇で仕方がないとどこか茶目っ気あふれる様子で告げれば早く退席するというのもためらわれた。
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