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63喫茶店にて
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わたしたちは、ぎっくり腰になったハンナのお見舞いの品のためにお店に足を運んでいたはずだった。
マドレーヌ・グレシャで食材を選び、手早く料理をしてハンナの家に向かうはずで。
それが一体どうして、アヴァロン王子殿下と一緒にテーブルを囲んでお茶をするようなことになったのだろうか。
目の前には、眼鏡だけで変装したふりをしている王子殿下の姿がある。カッコイイ、なんて視線を集め、ひそひそとうわさ話をされているけれど、悠然とした態度を貫いているからか目の前の彼こそがこの国の王子であると気づいた人はいないらしい。
わたしたちが店に入ってから新たに入店した客もおらず、ミーハー?的な意味合いで殿下を見る女性客ばかりだから、相変わらず護衛の一人もいないようで。
それは良いのだ。問題は、なぜ殿下とこうしてお茶などをしないといけないのかということ。
「ああ、いい香りだ。それに体が温まる」
ゆるりとほほ笑むその顔がいけ好かない。正直に言えば、今すぐにその顔面にこぶしを叩き込みたい。
いや、しない。しないけれど、そういう気持ちになるのは仕方が無いと思うのだ。
相変わらず余裕綽々の殿下は、わたしに王子妃に向ける視線をしていない。つまりは、今もまだ彼はわたしが何者かわかっていないということで。
それなのに、そんな優しい目つきをしているのが気に食わない。気持ち悪い。
自分の中、言葉にできない感情が這いまわる。
身に爪を立てたいほどの不快感が肌の上を駆けまわる。
殿下の視線が向かうところが、かゆくて、気持ち悪くて仕方がない。
差し込む光、木目が美しい落ち着いた店内の装飾は、適度に設置された観葉植物の緑が目に優しい。
室内に広がる紅茶と珈琲の香りは一種の芸術作品を思わせ、壁にかかっている絵画がくすんで見える。
そうして視線が最後に向いた先にはフィナンの姿がある。
「………」
「………」
今ばかりはフィナンがひどくうらやましい。
使用人として背後に控えたフィナンは一言も口を利かずに立っている。身じろぎ一つしないのは、殿下の前で粗相をしないように、という緊張と不安のせいだろう。まるで喫茶店の柱の一つにでもなってしまったように感じる。
棒立ちのフィナンは他のお客さんからの視線を集めているけれど反応はない。せめてこう、さっきみたいに可愛らしい反応をしてくれれば、少しはわたしの気もまぎれたかもしれないのに。
そんな恨み言を心の中でぐちぐちと繰り返しながら、紅茶の水面を眺める。
琥珀色の液体の表面には、窓から差し込む柔らかな午後の日差しが反射していた。美しくきらめくその液面が、少しだけわたしの気持ちを落ち着けてくれる。
ぼんやりと琥珀色の水面を眺めながら、はたと気づく。
そうだ、どうしてわたしが背中を丸めているのか。
まるで罪の意識を感じる罪人のようにしていないといけないのか。
悪いのは王子殿下だ。
わたしは何一つ問題のある行為はしていなはず――ああ、今って、王城から抜け出してきたんだっけ。
こみ上げる罪悪感を、殿下のせいだ、と責任転嫁する。間違っていない。それなのに、小心者なわたしは今更ながらにおびえていた。全く、これではフィナンの小者臭について何も言えないじゃないか。
「…………」
「紅茶は、好きだったな?」
「…………」
何を話すというのか。何を、口にすればいいというのか。
ひとたび口を開けば罵詈雑言が零れ落ちてしまいそう。
それはもう、アヴァロン王子殿下を前にするといつものこと。
最初にあったとき、彼はもっと恐ろしい存在だった。こんな風に、わたしを気遣うことをいうような存在じゃなかった。
それなのに、どこからおかしくなったのだろう。どうして彼は、こんな風にわたしにかかわろうとするのだろう。
「スミレの乙女、そんなに唇を強く噛んでいると後ができてしまうだろう?」
「………」
でた、またその呼び方。
どうしてスミレの乙女なんて呼んで、わたしにまるで敬愛のような視線を向けて、わたしをまっすぐに見つめてくるのだろう。
腹が立って仕方がなかった。わたしのことをないがしろにしてきたあなたが、今更どんなつもりでそんな目をわたしに向けているのかと。
怒りで狂ってしまいそうで、でも。
ちらと、顔を上げて。
同時に、殿下の目が、わたしの心に、怒りとは別種の何かを生み出す。
氷のように冷たいはずの瞳には確かな熱があって、鋭い眦は緩み、目じりをわずかに下げた彼の表情は、とてもではないけれど冷徹な王子殿下とは似ても似つかない。
知らない顔、けれど知っている顔。
王子妃は知らず、戦友が知っている顔。
「……調子が悪いのか?」
調子は悪くない。むしろ絶好調だった。
すごく楽しかったのだ。フィナンと町を出歩くときは、いつもすごく楽しい。時に振り回され、時に振り回し、そんな、ありふれた友人付き合いはわたしの無聊を慰めてくれるから。
わたしを、ありふれた普通の女にしてくれるから。
何より、これからさらに楽しみが待っているはずで、だから。
「……そろそろ、いい?」
自分でも驚くほどにかすれた声が出た。これでは本当に病人のようだ。
もう、あなたの前にはいたくないから。
もう、こんなみじめな思いはしたくないから。
これだけ遭遇して、けれどいまだにわたしが誰かも知らないようなあなたに、もう、そんな目を向けられたくないから。
殿下の目から逃げるように立ち上がって、歩き出そうとして。
まるで階段を踏み外したように膝から力が抜けた。
マドレーヌ・グレシャで食材を選び、手早く料理をしてハンナの家に向かうはずで。
それが一体どうして、アヴァロン王子殿下と一緒にテーブルを囲んでお茶をするようなことになったのだろうか。
目の前には、眼鏡だけで変装したふりをしている王子殿下の姿がある。カッコイイ、なんて視線を集め、ひそひそとうわさ話をされているけれど、悠然とした態度を貫いているからか目の前の彼こそがこの国の王子であると気づいた人はいないらしい。
わたしたちが店に入ってから新たに入店した客もおらず、ミーハー?的な意味合いで殿下を見る女性客ばかりだから、相変わらず護衛の一人もいないようで。
それは良いのだ。問題は、なぜ殿下とこうしてお茶などをしないといけないのかということ。
「ああ、いい香りだ。それに体が温まる」
ゆるりとほほ笑むその顔がいけ好かない。正直に言えば、今すぐにその顔面にこぶしを叩き込みたい。
いや、しない。しないけれど、そういう気持ちになるのは仕方が無いと思うのだ。
相変わらず余裕綽々の殿下は、わたしに王子妃に向ける視線をしていない。つまりは、今もまだ彼はわたしが何者かわかっていないということで。
それなのに、そんな優しい目つきをしているのが気に食わない。気持ち悪い。
自分の中、言葉にできない感情が這いまわる。
身に爪を立てたいほどの不快感が肌の上を駆けまわる。
殿下の視線が向かうところが、かゆくて、気持ち悪くて仕方がない。
差し込む光、木目が美しい落ち着いた店内の装飾は、適度に設置された観葉植物の緑が目に優しい。
室内に広がる紅茶と珈琲の香りは一種の芸術作品を思わせ、壁にかかっている絵画がくすんで見える。
そうして視線が最後に向いた先にはフィナンの姿がある。
「………」
「………」
今ばかりはフィナンがひどくうらやましい。
使用人として背後に控えたフィナンは一言も口を利かずに立っている。身じろぎ一つしないのは、殿下の前で粗相をしないように、という緊張と不安のせいだろう。まるで喫茶店の柱の一つにでもなってしまったように感じる。
棒立ちのフィナンは他のお客さんからの視線を集めているけれど反応はない。せめてこう、さっきみたいに可愛らしい反応をしてくれれば、少しはわたしの気もまぎれたかもしれないのに。
そんな恨み言を心の中でぐちぐちと繰り返しながら、紅茶の水面を眺める。
琥珀色の液体の表面には、窓から差し込む柔らかな午後の日差しが反射していた。美しくきらめくその液面が、少しだけわたしの気持ちを落ち着けてくれる。
ぼんやりと琥珀色の水面を眺めながら、はたと気づく。
そうだ、どうしてわたしが背中を丸めているのか。
まるで罪の意識を感じる罪人のようにしていないといけないのか。
悪いのは王子殿下だ。
わたしは何一つ問題のある行為はしていなはず――ああ、今って、王城から抜け出してきたんだっけ。
こみ上げる罪悪感を、殿下のせいだ、と責任転嫁する。間違っていない。それなのに、小心者なわたしは今更ながらにおびえていた。全く、これではフィナンの小者臭について何も言えないじゃないか。
「…………」
「紅茶は、好きだったな?」
「…………」
何を話すというのか。何を、口にすればいいというのか。
ひとたび口を開けば罵詈雑言が零れ落ちてしまいそう。
それはもう、アヴァロン王子殿下を前にするといつものこと。
最初にあったとき、彼はもっと恐ろしい存在だった。こんな風に、わたしを気遣うことをいうような存在じゃなかった。
それなのに、どこからおかしくなったのだろう。どうして彼は、こんな風にわたしにかかわろうとするのだろう。
「スミレの乙女、そんなに唇を強く噛んでいると後ができてしまうだろう?」
「………」
でた、またその呼び方。
どうしてスミレの乙女なんて呼んで、わたしにまるで敬愛のような視線を向けて、わたしをまっすぐに見つめてくるのだろう。
腹が立って仕方がなかった。わたしのことをないがしろにしてきたあなたが、今更どんなつもりでそんな目をわたしに向けているのかと。
怒りで狂ってしまいそうで、でも。
ちらと、顔を上げて。
同時に、殿下の目が、わたしの心に、怒りとは別種の何かを生み出す。
氷のように冷たいはずの瞳には確かな熱があって、鋭い眦は緩み、目じりをわずかに下げた彼の表情は、とてもではないけれど冷徹な王子殿下とは似ても似つかない。
知らない顔、けれど知っている顔。
王子妃は知らず、戦友が知っている顔。
「……調子が悪いのか?」
調子は悪くない。むしろ絶好調だった。
すごく楽しかったのだ。フィナンと町を出歩くときは、いつもすごく楽しい。時に振り回され、時に振り回し、そんな、ありふれた友人付き合いはわたしの無聊を慰めてくれるから。
わたしを、ありふれた普通の女にしてくれるから。
何より、これからさらに楽しみが待っているはずで、だから。
「……そろそろ、いい?」
自分でも驚くほどにかすれた声が出た。これでは本当に病人のようだ。
もう、あなたの前にはいたくないから。
もう、こんなみじめな思いはしたくないから。
これだけ遭遇して、けれどいまだにわたしが誰かも知らないようなあなたに、もう、そんな目を向けられたくないから。
殿下の目から逃げるように立ち上がって、歩き出そうとして。
まるで階段を踏み外したように膝から力が抜けた。
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