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第3話 死に抗う
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その日、僕は6時に目を覚ました。
既に両親は起きていて、特に父は慌ただしく仕事に行く準備をしていた。
母が家を出るのは僕の後。共働きだったけれど、僕が引きこもるようになってから、母はそれまでの仕事を止めて、パートで働くようになった。なんでもそれなりに融通の利く職場で、月に数回程度なら当日に休む連絡をしても代わりの人が入れるのだという。
それはともかく、もう一度寝る気になれなかった僕は学校に行く準備を始めることにした。
「……あら、今日は早いのね?」
今日は――その言葉に込められた驚きはきっと、僕は先生が来ずとも登校する準備を始めていたから。
何しろ、今日を境に僕が不登校でいる理由は無くなる。先生を救って、死に抗うことができると証明する。
今日は、僕による革命の日なのだ。
「うん。もう目が覚めちゃったんだ」
早くに目が覚めた――僕の言葉に、母は一瞬悲しそうに目を伏せた。その目は、僕の目を、目尻を見て、パジャマを見た。
多分、悪夢を見たんじゃないかと思ったのだろう。
それは、ある意味で正しく、そして少し間違っていた。
僕が今日見た夢は晃の死の記憶ではなく、今日に余命の迫った服部先生を助けることができずに死なせてしまう未来だった。
大丈夫、僕ならできる。
洗面所で顔を洗いながら、僕は決意に心を燃やしていた。
その言葉は、失敗に怯える自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
運命は絶対だ――死が見える漫画の主人公は、そう結論を下した。
死の運命は、そう簡単には変えられない。
例えば本来の死の原因を取り除いたとしても、運命の修正力とでも呼べる力が働いて、その人は死んでしまう。7時25分に先生に僕の部屋の前に居てもらえることで死を防ぐという方法は確実ではない。
絶対である余命。漫画では、それを変える例外が、本来はその人にもたらされるはずだった運命を別の人が背負うことだった。
運命には絶対量が決まっていて、その運命が達成された時点で死という収束から逃れることができるのだとか。
同じ方法で、僕は今日、服部先生を助ける。
こんな僕に親身になってくれた服部先生を助ける代わりに、他人を犠牲にして――
気づけば、時計の針は朝7時10分を指していた。
玄関で車が止まる音がする。
僕は決意をみなぎらせながら靴を履き、背後にいる母に力強くあいさつした。
「行ってきます」
涙ぐむ母に背中を向けて、僕は一人、先生という心の支えなしに外に出た。
驚きすぎて目が落ちてしまうんじゃないか。そう心配になるほどの顔をした先生が僕を助手席に乗せてくれる。
「今日はとっても早いね」
「うん。早くに目が覚めちゃったから」
服部先生は、僕が悪夢を見た可能性に思い至った様子はなかった。ただ、「そっかあ。先生、実は低血圧で朝に弱いんだよね」なんて言いながら車を発進させる。
十分ほどかけて学校にたどり着く。
時間は、7時20分。
正門を入って脇にある教員用の駐車場に車を止める予定だった服部先生だけれど、校内にそのまま入ることはできなかった。
門は、まだ閉まっていた。
歩道と門の間にあるスペースに車を横に入れて一時的に駐車する。
車の後ろを大きなトラックが走り抜けていった。
「あっちゃあ。いつもより早いから、教頭先生が門を開けるよりも早く着いちゃったみたいだね」
「……先生は鍵を開けれないの?」
「うーん、確かここの鍵って南京錠だったよね……」
言いながら先生は車から降りる。
僕もまた、先生を追うようにして車から降りた。
助手席から下りた目の前にある正門は近くで見ると錆が目立つ。
残念ながらしっかり南京錠がかかっていて、通用口はさておき、車を学校内に入れることはできそうになかった。
おはようございます、と先生が挨拶を交わす声が聞こえる。見れば、犬の散歩をしていた五十代くらいの女の人と話をしている。
余命1日の三十代ほどの先生と、余命20年の壮年の人の並びは、僕の目にはひどくおかしなものに見えた。
まだ門が開いていないんですね、そうなんですしばらく待つしかありませんね、生徒さんが来るより早く開くといいですね、ああ歩行者が通れる脇の門は南京錠などでしっかり鍵がかかっているわけではないので生徒は入れますよ――
二人の間で、大きな白い長毛種の犬がお利口にお座りしていた。
鼻がツンと尖っていて、頭は細い円錐形。先ほど歩いていた姿は、一瞬アリクイのように見えた。
そんなアリクイモドキの犬がピクリと耳を震わせて顔を上げる。視線は、僕がいる門の反対側に向く。
その先を目で追って、息を飲んだ。
車が、こちらに向かって来ていた。
この学校は交通量の多い道の横にある。ガードレールはあったけれど、大きいなトラックはまるで紙を引きちぎるようにガードレールを吹き飛ばして進む。
斜めに、校門前のスペースにいる僕たちの方に向かって。
「先生!」
僕が声を出せたのはきっと、先生の死を、この事故を予感していたから。
けれど、タイミングが悪かった。
場所が悪かった。
動き出した僕がどれだけ早く足を動かしたところで、先生をトラックの進路から突き飛ばすことは難しそうだった。それどこか、このまま駆け寄れば僕もトラックの進路に入ってしまいかねなかった。
居眠り運転手がトラックの進路を変えることはない。
僕の視界の先、先生はただただ立ち尽くしていて――
くるりと振り返ったアリクイ犬が、その真っ黒な目で僕を見る。
僕は、心の中で彼に頼んだ。
先生を、救って――。
その思いが伝わったのは、あるいは魂かDNAに刻み込まれた野生の本能のせいか、そのアリクイ犬は目を瞠るほどの俊足で動き出した。
たわませた足で地面を蹴って、トラックから少しでも遠ざかるように走る。
その先に、先生がいて。
服部先生の体が、アリクイ犬の頭突きによって吹き飛ばされる。
きれいにみぞおちあたりに頭突きを受けた先生は体をくの字に折り曲げて、勢いよく背後に転がって。
先生の姿が、トラックの向こうに消える。
そして、アリクイ犬の全身全霊の行動によってリードを引っ張られた飼い主の女性はバランスを崩し、そこにトラックが飛び込んだ。
女性が、犬が、トラックに押され、そして、先生の車との間に消える瞬間を、僕は瞬き一つもせずに見ていた。
車が大破する音。
門に突撃したトラックが響かせる甲高い音。
門が、内側に倒れこむ。トラックの後輪が一瞬だけ浮いた気がした。
鼓膜が破れそうな音による耳鳴りが収まった頃、僕は腰が抜けて座り込んだ。
果たして、先生は無事だった間一髪トラックの進路からはじき出された先生は、ようやっと立ち上がり、僕の無事に気付いて胸をなでおろして。
先ほどまで会話をしていた相手の姿が見えないことに気づいて、青白い顔で大破したトラックへと視線を向けた。
風が吹き抜ける。
わずかな血の香りがした。
赤い液体が、トラックと車の間あたりから一筋、灰色のコンクリートを伝わって流れていた。
先生の無事を喜ぶことも、余命という運命は帰られるのだと希望を抱くこともできなかった。
こみ上げる吐き気のまま、僕は地面に両手をついて口の中の物を吐き出した。
胃酸が喉を蹂躙する。
苦しくて、気持ち悪くて、怖くて、辛くて、悲しくて、涙がにじんだ。
僕は、先生を助けるということの意味を、全然理解していなかった。
先生を救うということは、先生の死を誰かに押し付けるということ。
それはもはや、僕がその人を殺すようなものだった。
死なないはずの、まだあと20年は生きる人と犬は、きっともう助からない。
涙でにじむ顔を上げれば、震えながらも救急車を呼ぶために電話をする先生の姿が見える。
その、頭上。
僕にだけ見える寿命の数字は、42.317を示していた。
50代ほどの人の20年と、30代かそこらの服部先生の40年とを比較することなんてできない。
生きていけるはずだった人の命を、奪ったのだ。
ほかでもない、僕が。
僕は、絶対に立ち入ってはならない禁忌に足を踏み入れてしまったことを理解した。
既に両親は起きていて、特に父は慌ただしく仕事に行く準備をしていた。
母が家を出るのは僕の後。共働きだったけれど、僕が引きこもるようになってから、母はそれまでの仕事を止めて、パートで働くようになった。なんでもそれなりに融通の利く職場で、月に数回程度なら当日に休む連絡をしても代わりの人が入れるのだという。
それはともかく、もう一度寝る気になれなかった僕は学校に行く準備を始めることにした。
「……あら、今日は早いのね?」
今日は――その言葉に込められた驚きはきっと、僕は先生が来ずとも登校する準備を始めていたから。
何しろ、今日を境に僕が不登校でいる理由は無くなる。先生を救って、死に抗うことができると証明する。
今日は、僕による革命の日なのだ。
「うん。もう目が覚めちゃったんだ」
早くに目が覚めた――僕の言葉に、母は一瞬悲しそうに目を伏せた。その目は、僕の目を、目尻を見て、パジャマを見た。
多分、悪夢を見たんじゃないかと思ったのだろう。
それは、ある意味で正しく、そして少し間違っていた。
僕が今日見た夢は晃の死の記憶ではなく、今日に余命の迫った服部先生を助けることができずに死なせてしまう未来だった。
大丈夫、僕ならできる。
洗面所で顔を洗いながら、僕は決意に心を燃やしていた。
その言葉は、失敗に怯える自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
運命は絶対だ――死が見える漫画の主人公は、そう結論を下した。
死の運命は、そう簡単には変えられない。
例えば本来の死の原因を取り除いたとしても、運命の修正力とでも呼べる力が働いて、その人は死んでしまう。7時25分に先生に僕の部屋の前に居てもらえることで死を防ぐという方法は確実ではない。
絶対である余命。漫画では、それを変える例外が、本来はその人にもたらされるはずだった運命を別の人が背負うことだった。
運命には絶対量が決まっていて、その運命が達成された時点で死という収束から逃れることができるのだとか。
同じ方法で、僕は今日、服部先生を助ける。
こんな僕に親身になってくれた服部先生を助ける代わりに、他人を犠牲にして――
気づけば、時計の針は朝7時10分を指していた。
玄関で車が止まる音がする。
僕は決意をみなぎらせながら靴を履き、背後にいる母に力強くあいさつした。
「行ってきます」
涙ぐむ母に背中を向けて、僕は一人、先生という心の支えなしに外に出た。
驚きすぎて目が落ちてしまうんじゃないか。そう心配になるほどの顔をした先生が僕を助手席に乗せてくれる。
「今日はとっても早いね」
「うん。早くに目が覚めちゃったから」
服部先生は、僕が悪夢を見た可能性に思い至った様子はなかった。ただ、「そっかあ。先生、実は低血圧で朝に弱いんだよね」なんて言いながら車を発進させる。
十分ほどかけて学校にたどり着く。
時間は、7時20分。
正門を入って脇にある教員用の駐車場に車を止める予定だった服部先生だけれど、校内にそのまま入ることはできなかった。
門は、まだ閉まっていた。
歩道と門の間にあるスペースに車を横に入れて一時的に駐車する。
車の後ろを大きなトラックが走り抜けていった。
「あっちゃあ。いつもより早いから、教頭先生が門を開けるよりも早く着いちゃったみたいだね」
「……先生は鍵を開けれないの?」
「うーん、確かここの鍵って南京錠だったよね……」
言いながら先生は車から降りる。
僕もまた、先生を追うようにして車から降りた。
助手席から下りた目の前にある正門は近くで見ると錆が目立つ。
残念ながらしっかり南京錠がかかっていて、通用口はさておき、車を学校内に入れることはできそうになかった。
おはようございます、と先生が挨拶を交わす声が聞こえる。見れば、犬の散歩をしていた五十代くらいの女の人と話をしている。
余命1日の三十代ほどの先生と、余命20年の壮年の人の並びは、僕の目にはひどくおかしなものに見えた。
まだ門が開いていないんですね、そうなんですしばらく待つしかありませんね、生徒さんが来るより早く開くといいですね、ああ歩行者が通れる脇の門は南京錠などでしっかり鍵がかかっているわけではないので生徒は入れますよ――
二人の間で、大きな白い長毛種の犬がお利口にお座りしていた。
鼻がツンと尖っていて、頭は細い円錐形。先ほど歩いていた姿は、一瞬アリクイのように見えた。
そんなアリクイモドキの犬がピクリと耳を震わせて顔を上げる。視線は、僕がいる門の反対側に向く。
その先を目で追って、息を飲んだ。
車が、こちらに向かって来ていた。
この学校は交通量の多い道の横にある。ガードレールはあったけれど、大きいなトラックはまるで紙を引きちぎるようにガードレールを吹き飛ばして進む。
斜めに、校門前のスペースにいる僕たちの方に向かって。
「先生!」
僕が声を出せたのはきっと、先生の死を、この事故を予感していたから。
けれど、タイミングが悪かった。
場所が悪かった。
動き出した僕がどれだけ早く足を動かしたところで、先生をトラックの進路から突き飛ばすことは難しそうだった。それどこか、このまま駆け寄れば僕もトラックの進路に入ってしまいかねなかった。
居眠り運転手がトラックの進路を変えることはない。
僕の視界の先、先生はただただ立ち尽くしていて――
くるりと振り返ったアリクイ犬が、その真っ黒な目で僕を見る。
僕は、心の中で彼に頼んだ。
先生を、救って――。
その思いが伝わったのは、あるいは魂かDNAに刻み込まれた野生の本能のせいか、そのアリクイ犬は目を瞠るほどの俊足で動き出した。
たわませた足で地面を蹴って、トラックから少しでも遠ざかるように走る。
その先に、先生がいて。
服部先生の体が、アリクイ犬の頭突きによって吹き飛ばされる。
きれいにみぞおちあたりに頭突きを受けた先生は体をくの字に折り曲げて、勢いよく背後に転がって。
先生の姿が、トラックの向こうに消える。
そして、アリクイ犬の全身全霊の行動によってリードを引っ張られた飼い主の女性はバランスを崩し、そこにトラックが飛び込んだ。
女性が、犬が、トラックに押され、そして、先生の車との間に消える瞬間を、僕は瞬き一つもせずに見ていた。
車が大破する音。
門に突撃したトラックが響かせる甲高い音。
門が、内側に倒れこむ。トラックの後輪が一瞬だけ浮いた気がした。
鼓膜が破れそうな音による耳鳴りが収まった頃、僕は腰が抜けて座り込んだ。
果たして、先生は無事だった間一髪トラックの進路からはじき出された先生は、ようやっと立ち上がり、僕の無事に気付いて胸をなでおろして。
先ほどまで会話をしていた相手の姿が見えないことに気づいて、青白い顔で大破したトラックへと視線を向けた。
風が吹き抜ける。
わずかな血の香りがした。
赤い液体が、トラックと車の間あたりから一筋、灰色のコンクリートを伝わって流れていた。
先生の無事を喜ぶことも、余命という運命は帰られるのだと希望を抱くこともできなかった。
こみ上げる吐き気のまま、僕は地面に両手をついて口の中の物を吐き出した。
胃酸が喉を蹂躙する。
苦しくて、気持ち悪くて、怖くて、辛くて、悲しくて、涙がにじんだ。
僕は、先生を助けるということの意味を、全然理解していなかった。
先生を救うということは、先生の死を誰かに押し付けるということ。
それはもはや、僕がその人を殺すようなものだった。
死なないはずの、まだあと20年は生きる人と犬は、きっともう助からない。
涙でにじむ顔を上げれば、震えながらも救急車を呼ぶために電話をする先生の姿が見える。
その、頭上。
僕にだけ見える寿命の数字は、42.317を示していた。
50代ほどの人の20年と、30代かそこらの服部先生の40年とを比較することなんてできない。
生きていけるはずだった人の命を、奪ったのだ。
ほかでもない、僕が。
僕は、絶対に立ち入ってはならない禁忌に足を踏み入れてしまったことを理解した。
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