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2-12サツキとハクト
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サツキの涙を見て、すごく混乱している自分がいた。
僕を育ててくれた間、お母さんが涙を見せた記憶はない。
病弱な息子を育てていた彼女は、きっといろいろなものを胸の奥に抱え込んでいたんじゃないかと思う。大変なディスアドバンテージを抱えた息子の心を守るために、自分の弱さを隠して、頼れるお母さんを演じていたのだと思う。
そう思うと、すごく胸が苦しくなった。
あの日、生まれ変わった僕が会いに行った日、彼女は僕を拒絶した。あの声は、決して作りものじゃなかった。彼女の本心だった。
もうやめてと、お願いだから忘れさせてと、自由にさせてと。
そんな魂の悲鳴は、今も耳の奥に残っている。
どれだけ僕は、お母さんのことを苦しませていたのだろう。
自分だけが苦しいと、いつからそう思い込んでいたのだろう。
消毒液の香る病室のベッドの上、窓の外から聞こえてくる子どもたちの楽しげな声がうらやましかった。あの集団に交じって、自由に駆け回りたかった。
その願いを、僕もまた口にしなかった。
きっと、僕たちは似た者親子だったのだ。苦しくて、けれど相手を気遣ってそのことを言えなかった。
本当の親子なのに、勝手に溝を作ってしまっていた。
今の僕たちは親子ではない。血のつながりはなくて、狐としての僕は大人で。
だから今度は、知人として、あるいは改めて友人として、やっていけたらと思うんだ。
友だちになって、なんて恥ずかしくて言えやしない。第一、母親だった相手に、どうして友だちなんて言葉を口にできるだろう。それに、断られたらと思うと言葉が出てこない。
そう思いながらちらとサツキを見ると、目があった。僕たちの距離はこぶし一つ分もなく、ひざを並べながらお互いを見る。
その視線の交錯は、きっとそれほど長い時間ではなかった。
けれど僕たちは確かに、お互いの気持ちを知った。
改めて、仲良くなりたい――同じように思ってくれていることがうれしくて。
僕たちはどちらからともなく笑って、そして。
「わたしはのけ者なの?」
「お母さんだから大丈夫?」
不満げなスズとフラフの声に、慌てて二人を輪の中に加えた。
冷たいほうじ茶はするりとのどを通っていく。
あれほど走り回っていたのだからのどが渇くのは当然で、何よりどこか懐かしい味のするお茶は気づけばコップの中から消えていた。
「……追加はいる?」
「ううん。もう十分だよ。ほら、スズ」
水筒についていたカップを回して水分補給。一度少しお茶を飲んでいたスズは、けれどボクが飲んでいるところを見てまた飲みたくなったようで、目をキラキラさせていた。
サツキから水筒を受け取ってお茶を上げれば、スズはぱあっと笑みを浮かべてこくこくとお茶を飲んでいく。
その体は、人のそれ。けれど僕は、自然と暑いあの夏の日を思い出していた。
日照りが厳しかった、僕たちが生まれた年の夏。
あの夏、日照りの合間に短い夕立が降った時があった。その時、僕たちははしゃぎまわって雨を謳歌した。
慈雨の雨。救いの雨。暑さから救ってくれる雨。
雨を全身に浴び、なんだかスマートになりながら、僕たちは雨を楽しんだ。
それは、お母さんも同じだった。僕たち子どもに交じって、お母さんも水たまりに体を浸して熱を逃し、葉についたしずくをなめとって嬉しそうな顔をしていた。
あの日の顔に、重なった。
狐と人。まったく違う顔なのに姿がダブって見えるのは、きっとそれほどにボクの中にお母さんの存在が深く根付いているからなのだと思う。
たとえ狐としてのお母さんが死んでしまっても、その存在は今も確かに僕の中にある。
そう気づけたことがうれしかった。
それに今の僕の中には、お母さん直伝の求愛ダンスの知識もある。
「そういえば、ダンスはどうだった?」
さっき聞いた時には返事がもらえなかったことを思い出して、改めてサツキに質問する。
そうすると、サツキはなんだかすごく変な顔をした。
こう、ぎゅっと眉を寄せて、もごもごと口の中を動かす。そんなに言葉を選ぶようなことなのかと、少し怖くなった。
けれど、ここで逃げたらだめだ。ユキメに惚れ直してもらうために、僕はこのダンスを完璧なものにしなければならないのだから。
気を悪くしないでほしいのだけれど、と前置きをして、サツキはややためらいがちに口を開く。その首筋を伝う汗がやけに目を引いた。
「……あのね、正直に言って、ただ遊んでいるだけにしか見えなかったわ」
「遊んでいる……」
「そのね、狐の姿をしていれば確かに求愛のダンスに見える、かもしれないわ……いや、やっぱりそれも、じゃれあっているようにしか見えないかもしれないのだけれど」
サツキの言葉がぐさぐさと心に突き刺さる。
見れば、サツキの向こうでスズもすごく驚いた、そして悲しげな顔をしていてた。まるで、自分の教え方が悪かったと後悔している様子だった。
それに気づいたサツキはわたわたと手を動かし、ぎゅっとスズのことを抱きしめながら続ける。
「スズの指導は完璧だったと思うわよ。何をしたいか、どうすればいいか、確かによくわかったもの。……ただ、狐の姿でないから、求愛に見えなかっただけかもしれないわ」
「わたしが狐の姿になれれば、ハクトに完璧なダンスを教えることができたのね」
「そう、そのとおりよ。だから落ち込まないで。与えらえたものの範囲で、スズは精一杯やったと思うわ」
言葉を重ねるけれど、それはつまり、今のスズでは及ばなかったということを言っていて。
スズはどんどんその声音を暗くしていって、ついにはサツキの腕の中でもぞもぞと動くばかりになってしまった。
仕方なさそうに、けれどどこか愛おしそうにスズの背中を撫でるサツキは改めてボクの方を見る。
「そういうわけで、狐姿なら求愛できているのかもしれないけれど、……そもそも、ダンスっていうのは相手がいる前提よね。ユキメさんは、ダンスのことをどれくらい理解しているのかしら?」
「ユキメが?」
「ええ。話を聞いていた限り、狐の子はみんな親から求愛を教わるのよね?でも、ハクトは教わっていなかった」
「うん。その前にお母さんが死んでしまったからね」
あの日を思い出すとチクリと胸が痛む。そんな僕の頭を片手で撫でながら、サツキは僕に謝ってくる。
「大丈夫だよ。つらいけれど、今はもう、大丈夫だから」
「……そう」
そうなんだよ。だって、今はこうして、ここにスズとして、確かに居るのだから。それに僕には、お母さん以上に大切な相手ができたから。
ユキメのことを誇ると、ますますスズが肩を落とした気がした。お母さん離れをするのね――そんな寂しげな声が聞こえた気がした。
「……とにかく、まずはユキメさんのことを理解するのが大事だと思うのよね。だから、ユキメさんついて教えてくれるかしら?その、私も彼女のことを知りたいのよ」
「うん!ええと、じゃあまずはユキメと会った時のことから話そうかな。最初に見たとき、ユキメは今よりずっと尖っていて――」
僕が大好きなユキメのことを、サツキも大好きになってくれるように。そう言葉を重ねながら、僕たちは夏の空の下、公園のベンチで昔話を続けた。
ユキメとの出会い、妖術で人に変化した日のこと……話したいことは山ほどあって、そのすべてを、サツキとスズはじっと聞いてくれていた。
僕を育ててくれた間、お母さんが涙を見せた記憶はない。
病弱な息子を育てていた彼女は、きっといろいろなものを胸の奥に抱え込んでいたんじゃないかと思う。大変なディスアドバンテージを抱えた息子の心を守るために、自分の弱さを隠して、頼れるお母さんを演じていたのだと思う。
そう思うと、すごく胸が苦しくなった。
あの日、生まれ変わった僕が会いに行った日、彼女は僕を拒絶した。あの声は、決して作りものじゃなかった。彼女の本心だった。
もうやめてと、お願いだから忘れさせてと、自由にさせてと。
そんな魂の悲鳴は、今も耳の奥に残っている。
どれだけ僕は、お母さんのことを苦しませていたのだろう。
自分だけが苦しいと、いつからそう思い込んでいたのだろう。
消毒液の香る病室のベッドの上、窓の外から聞こえてくる子どもたちの楽しげな声がうらやましかった。あの集団に交じって、自由に駆け回りたかった。
その願いを、僕もまた口にしなかった。
きっと、僕たちは似た者親子だったのだ。苦しくて、けれど相手を気遣ってそのことを言えなかった。
本当の親子なのに、勝手に溝を作ってしまっていた。
今の僕たちは親子ではない。血のつながりはなくて、狐としての僕は大人で。
だから今度は、知人として、あるいは改めて友人として、やっていけたらと思うんだ。
友だちになって、なんて恥ずかしくて言えやしない。第一、母親だった相手に、どうして友だちなんて言葉を口にできるだろう。それに、断られたらと思うと言葉が出てこない。
そう思いながらちらとサツキを見ると、目があった。僕たちの距離はこぶし一つ分もなく、ひざを並べながらお互いを見る。
その視線の交錯は、きっとそれほど長い時間ではなかった。
けれど僕たちは確かに、お互いの気持ちを知った。
改めて、仲良くなりたい――同じように思ってくれていることがうれしくて。
僕たちはどちらからともなく笑って、そして。
「わたしはのけ者なの?」
「お母さんだから大丈夫?」
不満げなスズとフラフの声に、慌てて二人を輪の中に加えた。
冷たいほうじ茶はするりとのどを通っていく。
あれほど走り回っていたのだからのどが渇くのは当然で、何よりどこか懐かしい味のするお茶は気づけばコップの中から消えていた。
「……追加はいる?」
「ううん。もう十分だよ。ほら、スズ」
水筒についていたカップを回して水分補給。一度少しお茶を飲んでいたスズは、けれどボクが飲んでいるところを見てまた飲みたくなったようで、目をキラキラさせていた。
サツキから水筒を受け取ってお茶を上げれば、スズはぱあっと笑みを浮かべてこくこくとお茶を飲んでいく。
その体は、人のそれ。けれど僕は、自然と暑いあの夏の日を思い出していた。
日照りが厳しかった、僕たちが生まれた年の夏。
あの夏、日照りの合間に短い夕立が降った時があった。その時、僕たちははしゃぎまわって雨を謳歌した。
慈雨の雨。救いの雨。暑さから救ってくれる雨。
雨を全身に浴び、なんだかスマートになりながら、僕たちは雨を楽しんだ。
それは、お母さんも同じだった。僕たち子どもに交じって、お母さんも水たまりに体を浸して熱を逃し、葉についたしずくをなめとって嬉しそうな顔をしていた。
あの日の顔に、重なった。
狐と人。まったく違う顔なのに姿がダブって見えるのは、きっとそれほどにボクの中にお母さんの存在が深く根付いているからなのだと思う。
たとえ狐としてのお母さんが死んでしまっても、その存在は今も確かに僕の中にある。
そう気づけたことがうれしかった。
それに今の僕の中には、お母さん直伝の求愛ダンスの知識もある。
「そういえば、ダンスはどうだった?」
さっき聞いた時には返事がもらえなかったことを思い出して、改めてサツキに質問する。
そうすると、サツキはなんだかすごく変な顔をした。
こう、ぎゅっと眉を寄せて、もごもごと口の中を動かす。そんなに言葉を選ぶようなことなのかと、少し怖くなった。
けれど、ここで逃げたらだめだ。ユキメに惚れ直してもらうために、僕はこのダンスを完璧なものにしなければならないのだから。
気を悪くしないでほしいのだけれど、と前置きをして、サツキはややためらいがちに口を開く。その首筋を伝う汗がやけに目を引いた。
「……あのね、正直に言って、ただ遊んでいるだけにしか見えなかったわ」
「遊んでいる……」
「そのね、狐の姿をしていれば確かに求愛のダンスに見える、かもしれないわ……いや、やっぱりそれも、じゃれあっているようにしか見えないかもしれないのだけれど」
サツキの言葉がぐさぐさと心に突き刺さる。
見れば、サツキの向こうでスズもすごく驚いた、そして悲しげな顔をしていてた。まるで、自分の教え方が悪かったと後悔している様子だった。
それに気づいたサツキはわたわたと手を動かし、ぎゅっとスズのことを抱きしめながら続ける。
「スズの指導は完璧だったと思うわよ。何をしたいか、どうすればいいか、確かによくわかったもの。……ただ、狐の姿でないから、求愛に見えなかっただけかもしれないわ」
「わたしが狐の姿になれれば、ハクトに完璧なダンスを教えることができたのね」
「そう、そのとおりよ。だから落ち込まないで。与えらえたものの範囲で、スズは精一杯やったと思うわ」
言葉を重ねるけれど、それはつまり、今のスズでは及ばなかったということを言っていて。
スズはどんどんその声音を暗くしていって、ついにはサツキの腕の中でもぞもぞと動くばかりになってしまった。
仕方なさそうに、けれどどこか愛おしそうにスズの背中を撫でるサツキは改めてボクの方を見る。
「そういうわけで、狐姿なら求愛できているのかもしれないけれど、……そもそも、ダンスっていうのは相手がいる前提よね。ユキメさんは、ダンスのことをどれくらい理解しているのかしら?」
「ユキメが?」
「ええ。話を聞いていた限り、狐の子はみんな親から求愛を教わるのよね?でも、ハクトは教わっていなかった」
「うん。その前にお母さんが死んでしまったからね」
あの日を思い出すとチクリと胸が痛む。そんな僕の頭を片手で撫でながら、サツキは僕に謝ってくる。
「大丈夫だよ。つらいけれど、今はもう、大丈夫だから」
「……そう」
そうなんだよ。だって、今はこうして、ここにスズとして、確かに居るのだから。それに僕には、お母さん以上に大切な相手ができたから。
ユキメのことを誇ると、ますますスズが肩を落とした気がした。お母さん離れをするのね――そんな寂しげな声が聞こえた気がした。
「……とにかく、まずはユキメさんのことを理解するのが大事だと思うのよね。だから、ユキメさんついて教えてくれるかしら?その、私も彼女のことを知りたいのよ」
「うん!ええと、じゃあまずはユキメと会った時のことから話そうかな。最初に見たとき、ユキメは今よりずっと尖っていて――」
僕が大好きなユキメのことを、サツキも大好きになってくれるように。そう言葉を重ねながら、僕たちは夏の空の下、公園のベンチで昔話を続けた。
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