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26若き神がつないだ未来

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 足音が、聞こえた。誰もいないはずの、誰も入れないはずの森の中。
 そこを、迷うことなく一直線にこちらへ進む足音が、僕の耳に届いた。
 僕はゆっくりと目を開く。空は枝葉に遮られていて見えなくて。けれど木漏れ日はかつてのように僕の体を温めていた。
 風が吹く。
 森の匂いがした。草と、土と、水と、動物と、それから太陽の匂い。
 それは、この森にはもう、香るはずのない匂い。
 記憶の中にだけ存在する、過ぎ去った世界の匂い。

 僕の視界に、影が落ちる。
 逆光の中、僕の視界に収まった少女が、にぱっと笑う。

「つい気になって来てしまったわ」

 そして少女は、そんな風に僕に話しかけた。
 それから彼女は、大の字になって寝そべっていた僕の腕を枕にして、僕と逆向きに寝そべった。
 隣に来た黒髪から、懐かしい森の匂いがした気がした。

「懐かしいわねぇ」

 少したどたどしい活舌で、ほんわかと彼女はそう告げた。
 小さな少女が、この森のことを知っているはずがないのだ。この森は、とうの昔に消えてしまった。かつてのこの森を知るのは、今となっては僕一人のはずで。
 けれど、その声音にこの森をいとおしむ響きを聞き取って、僕は彼女の嘘を受け入れた。
 正確には、どうでもよかった。そんな分かり切った嘘を否定する意味が感じられなかった。少女がこの森に入って来られた理由は気になったけれど、それだけ。
 外見に似合わない古風な話し方をする少女を放っておいて、僕は目を閉じる。

「太陽の匂いがするわ」

 そよ風のささやきに混じって、少女の声がする。

「私が感じたのも、こんな温かな太陽の匂いと、光と、力の流れだったのよ」

 衣擦れの音。少女が、その手を空に向かって伸ばす。

「痛みはすぐに消えて、代わりに暗闇が襲ってきたの。光一つない、暗闇」

 目を閉じた僕の網膜にさえ、瞼を透過した光があった。きっと夜の森でだって、視界が闇に囚われることはない。何しろ、狐の目は闇を見通すから。
 だから、少女の言う光の無い「暗闇」が、その正体が少しだけ気になった。
 どこかで、そんな闇を、経験した気がした。

「私は、その何もない場所に飲まれて消えるのだと思ったの。でも、そうはならなかった」

 少女がぱたりと手を下ろす。ふわりと、折れた草が匂いを放った。

「私の近くに、光が見えたの。いいえ、その時の私には光を感じることなんてできなくて、ただ温かな太陽のような熱が、思いが、そこにあるのを感じたのよ」

 やっぱり光はあったのか。なんだ、暗闇ではなかったのか。
 僕の心が囚われている世界は、少女のいう場所とは違って暗闇な気がする。だって、そこには太陽みたいな熱なんてないから。

「私は、その線を辿って歩き始めたの。その先へと、漂っていったの。それ以外に、できることもなかったわ」

 僕の心の行き先には、その足元には、辿るべき道なんてなかった。目指す先なんてなかった。未来は真っ暗だ。僕の心は、闇の中だ。

「そうして私は死んで、生まれたの」

 僕の心は、闇の中にいるはずなのに。まるで産声を上げたがっているように、ドクンと心が脈打った。
 ドクン、ドクンと命の旋律が聞こえる。体に、熱が宿っていく。

『そうして僕は死に――』

 記憶の中、誰かが彼女の後を追うように話す。それは、間違いなく、僕の声。人間だったころの、僕の心の声。

「そうして僕は死に、狐に生まれ変わったんだ」

 口が独りでに動いた。まるで、告げるべき言葉はこれだと、心が判断したように。
 ふわりと、少女が微笑んだ気配がした。

 僕は首を巡らせ、少女の方を向いた。
 少女は、僕の方をじっと見ていた。

 その顔に、覚えがあった。
 もうずいぶん前のように感じる、お母さんに会いに行ったその先で、人面犬に追われていた少女。
 僕が狐の姿を見せた少女。
 僕を怖がることなく、それどこか目を輝かせて僕のことを見ていた少女。
 森の匂いをさせた、不思議な少女。

『大きくなったのね――』

 少女の声が、耳元でよみがえる。

 頭をなでる手つき。僕のことを舌で舐める動き。フラフが見えていたこと。死んで、生まれたという話。人間としてのお母さんへと、彼女がたどりついたという事実。彼女へと、繋がっていた太陽のような道。

 かつて、僕は虚無の世界に身を落とした。そこは何もない死後の世界。けれど僕は気が付けばそこから拾い上げられていて、太陽差す空の下へと帰って来ていて。

 太陽のような温かい道というのは、きっと魂に繋がる思いの架け橋。
 僕の「お母さん」への思いが、死んだ彼女の魂を導いていたとしたら。

「お、母さん……?」

 ハクトとして決別した女性に対してではなく、狐として僕を産み、育ててくれたお母さんへと、僕は呼びかけてみた。
 果たして、視界いっぱいに映る彼女の顔は、太陽を喜ぶ大輪のように花開いた。

「大好きよ、ハクト。私の愛しい、愛しい子。私を助けてくれて、私を導いてくれてありがとう。私は無事よ。私はこうして生きているわ。毎日が新鮮で、驚きばかりで、とっても楽しいの。全部、ハクトのお陰よ」

 僕がお母さんの元に生まれたことには、意味があったのだ。僕は何もできなかったわけではなかった。お母さんを助けられず、人間に殺されるのを阻止できなかったけれど。僕は確かに、お母さんを救っていた。
 こつん、と額がぶつかる。お母さんの温もりが、あの日消えたはずの熱が、命が、魂が、そこにあった。

「立派になったわね、ハクト」

 ゆっくりと、心に満ちた淀が消えて行く。後から後から溢れる思いが、温かな感情が、僕の心に巣食っていた暗黒を斬り払う。
 気づけば森には、動物たちの活力が満ちていた。

「ハクト!」

 愛しい、愛しい、彼女の声が聞こえた。

 今の僕ならば、彼女の前に立つことができる。彼女と、顔を向かい合わせることができる。
 僕は、もう、泣きそうな声で僕の名前を呼ぶ彼女の思いを、わかることができるから。

「ユキメ」

 僕は彼女の名前を呼ぶ。

「ハクト」

 彼女も僕の名前を呼んだ。

 立ち上がった僕の腕の中に、ユキメが飛び込んできた。温かくてやわらかくて愛おしくて、触れ合っているだけでとめどなく幸せな感情が溢れて来て。
 だから。

「好きだよ、ユキメ」

 するりと、そんな言葉が僕の口から滑り出て来た。

「私も、ハクトが大切よ」

「そこは好きだって言うところじゃない?」

「だって、好きってよくわからないんだもの。愛するとか、好きだとか、そんな言葉より」

 ユキメは僕の顔を覗き込み、笑う。

「ハクトと時間を共にできることが、うれしくて仕方がないんだもの。あなたと一緒にいる時間が、他の何よりも大切なのよ」

 その顔は、これまで見たことがないほど、晴れ晴れとしたものだった。

「あらあら、お熱いわねぇ」

「お母さんがいるから大丈夫なの!」

「あら、ふふふ。フラフさん、あなたったらハクトのお母さんのつもりなのね?残念だけれど、その座は渡せないわよ。それは、私の立場なんだもの」

 僕とユキメは、顔を見合わせたまま固まって。それからギギギ、とさび付いた金属のような動きで、お母さんとフラフの方へと視線を向けた。

 お母さんの前で、ユキメに告白する。
 なんという羞恥プレイなのだろう。

 これは、ひょっとしなくても僕は八代師匠のことを笑えないかもしれない。

 ころころと笑うお母さんと、だいぶ姿の変わったフラフを見つめながら、僕はユキメと手をつないで、前に向かって一歩を踏み出した。
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