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11そして二年が経って
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僕たちが化け狐の八代師匠の下で妖術の訓練を始めてから早二年。
彼女は驚くべき速度で妖術を身に着け、まるで手足のように自由自在に操って見せていた。
もはや、僕はかくれんぼで彼女を見つけることは不可能だった。
変化の術で別のものに成りすますのはもちろん、彼女はいくつもの自分の幻影を生み出すことを可能として、それによって僕のことをもてあそんだ。
――かわいらしく頬を染めた彼女につんつんと肩をたたかれ、頬を赤らめた僕を見て変化の術であの爺さんの姿に戻ったお茶目の師匠のいたずらを、僕はきっと一生許さない。
変化の術をほぼマスターした彼女に比べて、僕の成長は亀の歩みのようだった。
記憶にあるウサギと亀の童話。そこでは必死に努力する亀がウサギを追い抜くという話だったが、残念なことにどれだけ僕が微々たる速度で成長を続けていても、努力を怠らない彼女に追いつくことなどどだい無理な話だった。
努力を続けて妖術を身に着けた妖狐の彼女と、まともに身につけられたのは生前の少年の姿変わる変化の術だけの僕。
僕と彼女の差は開くばかりで、ここの所、僕は彼女を避けてしまっていた。
彼女もまた、僕がよそよそしくなったことを気にしつつも、楽しい妖術の訓練にばかり励んでいて、僕たちの溝が狭まることはなかった。
そんなある日、師匠が久方ぶりに旅に出ると告げた。
季節は秋。八代師匠が行先に告げたのは、神が集まる大舞台、出雲だった。
神在月、という言葉を思い出した。確か神無月――十月には、神様は出雲に集まって様々なことを協議するのだ。
だから十月は、出雲は神がいるから神在月で、ほかの場所には神様がいないから神無月なのだ。
僕はそこでようやく、僕のことをからかってばかりな八代師匠が、神様と自称していたことを思い出した。
まあ、妖術の難しさを痛感している僕は、変化の術を巧みに操って見せる師匠のことを神じゃないなんて言えないのだけど。
「いや、コツさえつかめれば変化の術はそれほど難しくない術だぞ?むしろお前が下手すぎるんだ」
……こんな風に思考を読んでくるあたり、やっぱり師匠は神様なのだろう。
「いやいや、お前がわかりやすすぎるんだよ。わしでなくとも、お前の感情を読むことなどたやすいぞ?なあ?」
師匠が視線を向けた先には、旅装束に身を包んだ彼女がいた。最も、正確には僕たちさんにんともが、旅に出るために人間の格好をしているのだけれど。
「……そういえば、人間として旅をするうえで名前を呼ぶ機会も多い。仮でもいいが、自分の呼び名はないのか?」
師匠は彼女にそう聞いて、彼女は僕に視線を向けた。
「特にはないわ。名前なんて、あまり重要だとは思えないもの。けれど、そうね、せっかくだからあなたに決めてもらいたいわ。ねぇ、今後私を呼ぶときに使う呼び名よ。大事に決めてよね?」
そういって、彼女はクスクス笑って僕にウインクする。
僕は心臓をはねさせながら、ああでもないとこうでもないと考え、そして――
「ユキメ、はどうかな?」
真っ白だから「雪」、そして意外とたくましいところがあるから、雪から顔をのぞかせた春の新芽ということで「芽」で雪芽。
その呼び名をどのように思ったのか、彼女は数度ユキメと繰り返し、満足そうにうなずいた。
こうして、彼女はユキメという名前を得た。
僕はといえば、彼女が僕の考えた名前を名乗ってくれるという事実に天まで飛んで行ってしまいそうな多幸感に包まれていた。そして、名前を拒否されなくてよかったという安堵と、名前の由来を丁寧に説明しなくて済んだことにほっと息を吐いた。
「なぁるほど?雪の芽なぁ?」
なぜかにやにやしていた師匠は放っておいて、ユキメは僕のことをまっすぐ見つめながら、その柔らかそうなピンクの唇を震わせた。
「それで、あなたの名前はどうするの?」
こちらは、考えることもなく僕の喉からするりと言葉が出た。
無意識だったから、僕はその名を口に出していたことに気づいてひどく驚いた。
それは確かに僕の名で、けれど僕が失った名前だったから。
新しい生を歩むうえで、心機一転、新たな名前を考えよう、ユキメと関連した名前がいいなぁ、雪は冬を連想するし、僕は秋かな、毛皮の色から紅葉とかをイメージして――という僕の思考は、すべて無駄になった。
「ハクト」
その三文字を聞いては、彼女はぱちぱちと目を瞬かせる。師匠もまた、どこか怪訝そうに僕のことをじっと見つめていた。
内心で動揺しきりな僕をよそに、彼女はパッと顔をほころばせ、僕の名を口にした。
「ハクト!いい名前ね。あなたにぴったりだと思うわ!」
その太陽のような笑みに、僕の思考はすべて溶かされ、頭が真っ白になった。だから――
「おい、ハクト。お前は別行動だ」
突如そう告げた師匠の言葉を、僕はすぐに理解することができなかった。
「……え?」
「だから、お前は別行動だ、ハクト」
空耳ではなかった。
その言葉をかみしめる。別行動?誰と?決まっている。師匠と――そして、ユキメとだ。
僕は突如として、言いようのない激情が体の奥からこみあげてくるのを感じた。
不安、不信感、怒り、孤独感、悲観――
濁流のような感情に思考がのまれ、満足に頭が働かない中、それでも僕はゆっくりと唇を震わせた。
「……どう、して?」
「そうよ。納得のいく理由を説明してもらうわよ」
僕の言葉に賛同してくれたユキメが、キッと師匠のことをにらむ。
そんなユキメを、師匠はまあ落ち着けって、と手で制し、飄々とした態度のまま僕に向き合う。
そこにはいつもと変わらぬ雰囲気の師匠がいて。
けれどその瞳は、どこまでも真剣に僕のことを見つめていた。
「ハクト。お前には、やらなければならないことがある、だろ?」
師匠の言葉の意味が理解できない――ことはなかった。
なぜなら、僕はハクトだから。
ハクトと名乗り、そして僕は記憶の欠損を回復した。
僕は名づけによって、あるいは名乗りによって自分という存在を定義した。
僕は、転生前の人間だったころから、変わらずにハクトという存在だと。
そしてその定義によって、曖昧な境界上にあった僕の記憶が、すべて復活したのだ。
僕はすべてを思い出した。
僕は、前世の心残りを含めて、そのすべてを思い出したのだ。
そうだ、僕が変化の術でこの姿以外になれないのは、きっと僕の心が叫んでいたからだ。
忘れるな、目をそらすな、と。
僕は、ユキメとの幸せな日々を夢想して、過去から目をそらしていた。
未来を見つめることで、過去の自分を見て見ぬふりをしていた。
けれど僕はハクトだ。
僕の心残りを、僕の願いを、僕が無視してどうするのだろう。
師匠は言っていた。妖術にとって、変化の術にとって重要なのはイメージだと。
そしてイメージとは、言い換えれば思いなのだと。
僕は、かつての僕の姿しか取れないほどに、その姿に強い思いを抱いていた。
なぜなら、その姿で成さねばならないことがあったから。
僕は、過去と向き合う覚悟を決めた。
僕は、過去を乗り越え、そして、妖狐として生きていくという、決意をした。
そんな僕の思いを感じたのか、ユキメは何か言おうと口を開き、けれど何も告げることなくその言葉を飲み込んだ。
そうして、僕とユキメは袂を分かった。
ユキメは師匠とともに出雲へ。
僕は、生きているかもわからない母を探して、「ハクト」の心残りを解消するために。
小指を突き出した僕を見て、ユキメは不思議そうに首を傾げた。
真似してやりな、という師匠の言葉を受けて、ユキメはおずおずとそのほっそりとした女性らしい小指を突き出した。
僕はユキメと小指を絡めた。そして、彼女の瞳をじっと見つめながら、口を開いた。
「からなず。必ず、また会おう、ユキメ」
「……ええ。必ずまた会いましょう、ハクト」
僕とユキメの小指が離れる。
そのぬくもりを名残惜しく思いながら、僕はその手を下ろし――
「約束を破ったら、わしが責任をもって針を千本のませてやるさ」
「……どうして師匠が罰を与えようとするんだよ。それに、僕はユキメとの約束は絶対に破らないよ」
暗に「師匠との約束をしっかり守るかどうかは知らないけどね」という響きを持たせた僕の言葉に、師匠は苦笑を返した。
ユキメは不思議そうに、僕と師匠の会話の意味を考えていた。
それから、様々な思いを込めて、僕は師匠の背中をばしんと叩いた。
涙目の師匠は、けれど僕の顔に何を見たのか、まったく、と小さくぼやいて背を向けた。
「じゃあな」
「またね」
「うん、またね」
師匠とユキメと僕はそうして別れ。
そして、僕は久しぶりに一人の道を歩き始めた。
寂しくて、怖くて、けれど一歩一歩、進んでいく。
待ち受けるものにどきどきしながら、僕は人間界を目指して歩き続けた。
彼女は驚くべき速度で妖術を身に着け、まるで手足のように自由自在に操って見せていた。
もはや、僕はかくれんぼで彼女を見つけることは不可能だった。
変化の術で別のものに成りすますのはもちろん、彼女はいくつもの自分の幻影を生み出すことを可能として、それによって僕のことをもてあそんだ。
――かわいらしく頬を染めた彼女につんつんと肩をたたかれ、頬を赤らめた僕を見て変化の術であの爺さんの姿に戻ったお茶目の師匠のいたずらを、僕はきっと一生許さない。
変化の術をほぼマスターした彼女に比べて、僕の成長は亀の歩みのようだった。
記憶にあるウサギと亀の童話。そこでは必死に努力する亀がウサギを追い抜くという話だったが、残念なことにどれだけ僕が微々たる速度で成長を続けていても、努力を怠らない彼女に追いつくことなどどだい無理な話だった。
努力を続けて妖術を身に着けた妖狐の彼女と、まともに身につけられたのは生前の少年の姿変わる変化の術だけの僕。
僕と彼女の差は開くばかりで、ここの所、僕は彼女を避けてしまっていた。
彼女もまた、僕がよそよそしくなったことを気にしつつも、楽しい妖術の訓練にばかり励んでいて、僕たちの溝が狭まることはなかった。
そんなある日、師匠が久方ぶりに旅に出ると告げた。
季節は秋。八代師匠が行先に告げたのは、神が集まる大舞台、出雲だった。
神在月、という言葉を思い出した。確か神無月――十月には、神様は出雲に集まって様々なことを協議するのだ。
だから十月は、出雲は神がいるから神在月で、ほかの場所には神様がいないから神無月なのだ。
僕はそこでようやく、僕のことをからかってばかりな八代師匠が、神様と自称していたことを思い出した。
まあ、妖術の難しさを痛感している僕は、変化の術を巧みに操って見せる師匠のことを神じゃないなんて言えないのだけど。
「いや、コツさえつかめれば変化の術はそれほど難しくない術だぞ?むしろお前が下手すぎるんだ」
……こんな風に思考を読んでくるあたり、やっぱり師匠は神様なのだろう。
「いやいや、お前がわかりやすすぎるんだよ。わしでなくとも、お前の感情を読むことなどたやすいぞ?なあ?」
師匠が視線を向けた先には、旅装束に身を包んだ彼女がいた。最も、正確には僕たちさんにんともが、旅に出るために人間の格好をしているのだけれど。
「……そういえば、人間として旅をするうえで名前を呼ぶ機会も多い。仮でもいいが、自分の呼び名はないのか?」
師匠は彼女にそう聞いて、彼女は僕に視線を向けた。
「特にはないわ。名前なんて、あまり重要だとは思えないもの。けれど、そうね、せっかくだからあなたに決めてもらいたいわ。ねぇ、今後私を呼ぶときに使う呼び名よ。大事に決めてよね?」
そういって、彼女はクスクス笑って僕にウインクする。
僕は心臓をはねさせながら、ああでもないとこうでもないと考え、そして――
「ユキメ、はどうかな?」
真っ白だから「雪」、そして意外とたくましいところがあるから、雪から顔をのぞかせた春の新芽ということで「芽」で雪芽。
その呼び名をどのように思ったのか、彼女は数度ユキメと繰り返し、満足そうにうなずいた。
こうして、彼女はユキメという名前を得た。
僕はといえば、彼女が僕の考えた名前を名乗ってくれるという事実に天まで飛んで行ってしまいそうな多幸感に包まれていた。そして、名前を拒否されなくてよかったという安堵と、名前の由来を丁寧に説明しなくて済んだことにほっと息を吐いた。
「なぁるほど?雪の芽なぁ?」
なぜかにやにやしていた師匠は放っておいて、ユキメは僕のことをまっすぐ見つめながら、その柔らかそうなピンクの唇を震わせた。
「それで、あなたの名前はどうするの?」
こちらは、考えることもなく僕の喉からするりと言葉が出た。
無意識だったから、僕はその名を口に出していたことに気づいてひどく驚いた。
それは確かに僕の名で、けれど僕が失った名前だったから。
新しい生を歩むうえで、心機一転、新たな名前を考えよう、ユキメと関連した名前がいいなぁ、雪は冬を連想するし、僕は秋かな、毛皮の色から紅葉とかをイメージして――という僕の思考は、すべて無駄になった。
「ハクト」
その三文字を聞いては、彼女はぱちぱちと目を瞬かせる。師匠もまた、どこか怪訝そうに僕のことをじっと見つめていた。
内心で動揺しきりな僕をよそに、彼女はパッと顔をほころばせ、僕の名を口にした。
「ハクト!いい名前ね。あなたにぴったりだと思うわ!」
その太陽のような笑みに、僕の思考はすべて溶かされ、頭が真っ白になった。だから――
「おい、ハクト。お前は別行動だ」
突如そう告げた師匠の言葉を、僕はすぐに理解することができなかった。
「……え?」
「だから、お前は別行動だ、ハクト」
空耳ではなかった。
その言葉をかみしめる。別行動?誰と?決まっている。師匠と――そして、ユキメとだ。
僕は突如として、言いようのない激情が体の奥からこみあげてくるのを感じた。
不安、不信感、怒り、孤独感、悲観――
濁流のような感情に思考がのまれ、満足に頭が働かない中、それでも僕はゆっくりと唇を震わせた。
「……どう、して?」
「そうよ。納得のいく理由を説明してもらうわよ」
僕の言葉に賛同してくれたユキメが、キッと師匠のことをにらむ。
そんなユキメを、師匠はまあ落ち着けって、と手で制し、飄々とした態度のまま僕に向き合う。
そこにはいつもと変わらぬ雰囲気の師匠がいて。
けれどその瞳は、どこまでも真剣に僕のことを見つめていた。
「ハクト。お前には、やらなければならないことがある、だろ?」
師匠の言葉の意味が理解できない――ことはなかった。
なぜなら、僕はハクトだから。
ハクトと名乗り、そして僕は記憶の欠損を回復した。
僕は名づけによって、あるいは名乗りによって自分という存在を定義した。
僕は、転生前の人間だったころから、変わらずにハクトという存在だと。
そしてその定義によって、曖昧な境界上にあった僕の記憶が、すべて復活したのだ。
僕はすべてを思い出した。
僕は、前世の心残りを含めて、そのすべてを思い出したのだ。
そうだ、僕が変化の術でこの姿以外になれないのは、きっと僕の心が叫んでいたからだ。
忘れるな、目をそらすな、と。
僕は、ユキメとの幸せな日々を夢想して、過去から目をそらしていた。
未来を見つめることで、過去の自分を見て見ぬふりをしていた。
けれど僕はハクトだ。
僕の心残りを、僕の願いを、僕が無視してどうするのだろう。
師匠は言っていた。妖術にとって、変化の術にとって重要なのはイメージだと。
そしてイメージとは、言い換えれば思いなのだと。
僕は、かつての僕の姿しか取れないほどに、その姿に強い思いを抱いていた。
なぜなら、その姿で成さねばならないことがあったから。
僕は、過去と向き合う覚悟を決めた。
僕は、過去を乗り越え、そして、妖狐として生きていくという、決意をした。
そんな僕の思いを感じたのか、ユキメは何か言おうと口を開き、けれど何も告げることなくその言葉を飲み込んだ。
そうして、僕とユキメは袂を分かった。
ユキメは師匠とともに出雲へ。
僕は、生きているかもわからない母を探して、「ハクト」の心残りを解消するために。
小指を突き出した僕を見て、ユキメは不思議そうに首を傾げた。
真似してやりな、という師匠の言葉を受けて、ユキメはおずおずとそのほっそりとした女性らしい小指を突き出した。
僕はユキメと小指を絡めた。そして、彼女の瞳をじっと見つめながら、口を開いた。
「からなず。必ず、また会おう、ユキメ」
「……ええ。必ずまた会いましょう、ハクト」
僕とユキメの小指が離れる。
そのぬくもりを名残惜しく思いながら、僕はその手を下ろし――
「約束を破ったら、わしが責任をもって針を千本のませてやるさ」
「……どうして師匠が罰を与えようとするんだよ。それに、僕はユキメとの約束は絶対に破らないよ」
暗に「師匠との約束をしっかり守るかどうかは知らないけどね」という響きを持たせた僕の言葉に、師匠は苦笑を返した。
ユキメは不思議そうに、僕と師匠の会話の意味を考えていた。
それから、様々な思いを込めて、僕は師匠の背中をばしんと叩いた。
涙目の師匠は、けれど僕の顔に何を見たのか、まったく、と小さくぼやいて背を向けた。
「じゃあな」
「またね」
「うん、またね」
師匠とユキメと僕はそうして別れ。
そして、僕は久しぶりに一人の道を歩き始めた。
寂しくて、怖くて、けれど一歩一歩、進んでいく。
待ち受けるものにどきどきしながら、僕は人間界を目指して歩き続けた。
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