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5 復讐
田中という男 3
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エレベーターに乗った後で……いや、乗る前から思っていたことがある。このマンションは明らかに人が住んでいる気配がない。まるで、僕たちを迎え入れるためだけにある要塞のようだ。
中から開かないドア、人通りのまるでない通路、指示を与えるまで動かなかったエレベーター。そのどれもが、僕たちを部屋まで連れて行くために作られたものであるように思える。――まあ、僕の思い込みだろう。
たった二人の生徒と会うために、マンションひとつ買うような無駄金が国にあるとは思えない。何より、僕たちがここを訪れると知ったとしても、それはついさっきのことだ。ここまで早く準備できるはずがない。
「それで、このエレベーターはいつ止まるんだ?」
「口が悪いね? 私が高校生の頃は、もっと年上を敬ったものだが……これもゆとり教育のたまものというわけかな」
「いいから、教えろ」
「はぁ、私の部屋は最上階の8階だよ。そんなにあわてなくてもすぐつくから黙って待っててくれないかな」
ようやく、僕の言葉にうんざりした様子で、田中は大きくため息をついた。
僕は先輩と違って黙り続けるなんてことは出来ないんだ。じっとしているのも嫌だし、静かな空間も嫌だ。特に狭い空間で物音がまるでないというのは、数秒たりとも我慢ならない。そんな性分だから、今まで嫌というほど人の嘘を聞いてきた。
人に気味悪がられる。それを体験する前の話だ。
今となってはかなり我慢できるようになっている。本当のところ、我慢すれば黙り続けることだってできるぐらいには成長している。
だがそれをできない理由があった。
「8階ぐらいなら、もっと早く着くはずだろう? もう1分はたったぞ?」
「もうつくから」
「ていうか、公務員がマンジョンの最上階に住んでるってどういうことなんだ?」
「私ぐらいになると住めるんだよ」
「へえ、じゃあ結構もらってるんだな」
田中は呆れたような顔を少しだけ僕の方に向けた。
「つまらないことを聞くものじゃない。金の話をしたがるのは成金だけだよ。たかだか公務員じゃ自慢できるだけもらってないしね」
彼が嘘をついているかどうかを見分けられるか、それを知るためには常に話し続けるしかない。僕の能力を知っていてもたいていの人間は、絶対にどこかで嘘をつく、先輩レベルになれば別だが、たいていの人間には嘘をつくという習慣があるからだ。
いつかボロが出る。この男も例外ではないだろう。
もし、一度たりとも嘘をつかなかったとするなら、おそらく、僕の能力が封じられているということだろう。
たったそれだけを確認するために、僕は言葉を発し続けなければならないというわけだ。
そんなことをしている間に、エレベーターは到着する。目的地に着くときの無重力感、それが僕を
気持ち悪くさせる。
「……気分がすぐれないようですね?」
僕の様子に気がついた先輩が、僕に耳打ちをする。
田中は先に歩いているため、僕たちのことなど気にする様子もない。
「いえ、少しだけ酔っただけです」
「エレベーターにですか?」
「はい。それに、あの男の言葉も気持ちが悪くて……やつは決して嘘をついてません。だけど、言葉は嘘くさい。僕が聞いたのはどれも他愛もないものでしたが、そのすべてが嘘っぽく感じて仕方がないんです。まるで自分の力が信じられないようで……」
いつもなら、嘘を見分けるのなんて簡単なことだ。だから感覚なんて言うものに頼って、嘘を嗅ぎ分けたことなんて一度もなかった。
だけど、16年も生きてきて、僕はようやく嘘の恐ろしさに気がついた。本当の意味での恐怖にだ。
僕は思わず身震いすらしている。
「嘘ってこんな怖いものだったんですね……」
「いいえ、嘘は怖いことではありません。怖いのは嘘ばかりつく人です。嘘ばかりついていると、本当のことがわからなくなりますからね」
先輩が達観したように言った。
だけど、僕はそれほど長く生きていない。嘘をたくさんつくほど人生経験が豊富ではない。だから、そんな感覚がわからない。
「嘘なんてスパイスぐらいにしておいたほうがいいってことですね?」
「また、よくわからないたとえですね……ですが、そういうことです。優しかろうが、優しくなかろうが、嘘をついたという事実は、積み重なると心を壊します。ですから、嘘はほどほどにしなければいけませんよ」
なんというか、先輩と話していると教師と話しているような錯覚に陥る時が度々ある。たった一年先に生まれた人とは到底思えないからかもしれない。それだけ、先輩が僕よりも悲惨な経験をしてきたということだろう。
魔女と呼ばれた先輩の人生がどれほど悲惨だったのか、それは僕もあまり詳しくは知らない。だけど、先輩に合う前は僕だって、少なからず、先輩のことを怖い人だと思っていたから、それだけ、先輩に対する世間からの偏見は大きかったということだろう。
「嘘も方便だよ。自分で言うのもどうかと思うけど、君たちには正しい道を歩んでほしいと思っているからね。だからね、君たちには、私や彼のように嘘をつき続けなければならない大人にはなってほしくないのさ」
どうやら、僕たちの秘密話は、まるで秘密ではなかったららしい。
絶対という確信はないが、聞こえたとしてもほんの少し聞こえたら地獄耳だと言えるほどには小さな声で話していたつもりだ。なのに、話を聞かれてしまったというのは、僕たちのミスではなく、相手が上手だったと思うほかない。
僕は再び、田中に対する警戒心を高めるとともに、これ以上無駄口をたたくのはやめるべきだと感じた。むしろ、今まで、自分で思っているよりも考えが甘かったようだ。といっても、そんな決断も無駄に終わったようだ。
「ここだよ」
ずいぶんと歩いた気がするが、エレベーターからはさほど遠くない扉の前に僕たちは立っていた。
なんだか、長い時間話していたような気がしたが、そんなこともなかったようだ。それにしても――
「フロアに部屋は二つか……ずいぶんと広いとこに住んでるんだな?」
「公務員の分際でってことかい?」
「いや、公務員じゃなかったとしても、こんなところに住める人間なんて一握りだろう?」
田中は僕の言葉をすべて嫌みと受け取るつもりなのだろうか……まあ、自分のことをよく思ってないやつが発する言葉なんて、全部ネガティブに聞こえるものなのかもしれない。
「たしかにそうかもね。こんなのはマンションのオーナーとかの資産家が住むところだろう……まあ中に入ってみれば、私がこんなところに住んでいる理由もわかるだろう」
僕の言葉など実のところ、田中にとってはどうでもいいことだったのだろう。彼はそのまま、僕たちを部屋の中へと招き入れるために、扉の鍵を取り出して鍵を開ける。鍵とは言っても、管理近未来的なカードキーだ。
まるでホテルの部屋だ。
普通のマンションでカードキーを採用しているところなんてそう多くないだろう。
「ちょっと、セキュリティーにうるさいやつがいてね」
別に聞いてもいないことを田中は説明する。
僕たちの他にも、同じことを気にする人が多いのだろう。まあ珍しいから説明するのもなれているのだろう。
そんなことよりも、もっと気になるところは別にある。表札がないということだ。といっても今の時代、表札を掲げていないところも多い。なんでも個人情報がさらされるのを嫌うからだそうだ。僕に言わせれば過剰な反応だと思うが、中にはそういった細かいことが気になる人もいるということだ。
とにかく、中に入れと促す田中に釣られ部屋の中に入る僕と先輩に、田中は心なしか満足げな表情を浮かべている。
「何がそんなに嬉しいんだ?」
「いや、部屋に外の人が来ることなんて珍しいからね……ともかく、玄関で話すよりは中で話したほうがいいだろう。ここは人通りが多いからね」
田中招かれるまま、僕たちは靴を脱いで奥に入ろうとする。
「靴は脱ぐ必要ないよ。脱ぎたいと言うのなら止めることもしないけどね」
「ずいぶんと欧米的なんだな」
靴を脱がない家が日本にどれぐらいあることだろう。まあ、どうでもいいけど。
「仕事をするときは靴を履いている方がなんとなく捗る気がしてね……」
「ですが、靴を脱いで人の家に入ると言うのはなんとなく申し訳ない気もしますけどね」
「いいんだよ。ここは私の住処だからね」
僕や先輩がどう思おうと、ここは、田中の家だ。表札が掲げられていなかったから、断定は出来ないが、カードキーを所持していたんだからそう思うことにしよう。僕がどうのこうの言ったところで、事実を知ることも出来ない。
それこそが、僕が無能たるゆえんだ。
能力を持っていても無能。それはなんとも滑稽な笑い話だ。しかし自分を卑下してばかりもいられない。
僕たちは、更に奥へと入っていく。
「これは……なんだ?」
眼前に広がるのは、おおよそ生活感などまるで存在しない部屋で、人が暮らすというよりも、仕事をするのに特化した事務所だとでも呼んだほうがはるかにしっくりくる部屋だ。
数台のパソコンに、乱雑に置かれた資料が机からもはみ出たのだろう、地面にいくつも散乱している。それも不自然なほどにだ。まるで人が何人もいることを示唆しているようで、逆に気持ちが悪い。
「落ち着くだろう……私は散らかった部屋のほうがリラックスできるたちでね。これぐらい汚らしくないと落ち着いて話も出来ない」
「私は全く落ち着きません」
「なるほど……やはり、君とは趣味趣向が合わないようだ。最初にあった時からそんな気はしていたがね……私は完成されたものが嫌いだからね」
「私は好き嫌いしない主義なんで、問題ありませんよ」
確かにここは、先輩が番人をしている部室とはかなりかけ離れている。
よくよく考えればわかることだが、先輩はかなりの綺麗好きだ。そして話し方からもわかるように、かなり強がりだ。すべてのことを理解しているかのように話し、そして傲慢さはまるで見えない。
だけど先輩はすべてを理解しているわけではないし、好き嫌いがないというわけでもない。そんなことは僕にもわかる。
だからこそ先輩は、大雑把であり、何も知らないように話しながらも、すべてを知っている傲慢な田中が気に食わないのだろう。
二人はというよりも、先輩は表面上は冷静に見えても、かなり頭にきているのかもしれない。拳を強く握り込んでいるのがその証拠だろう。問題を解決できるはずだった男が何もしなかったことにも腹を立てているのかもしれない。
「落ち着いてください……先輩」
「私は冷静です」
「いいえ、僕たちは得体のしれない男の前に立っているのですよ。心を乱されてはいけません。汚い部屋で落ち着かないのもわからなくもありませんが、それこそ田中の思う壺ですよ」
明らかにわざとらしく散らかされた部屋も、わざとらしい喋り方もすべてが、一番厄介な相手を少しでも冷静でいさせないためだとしたら、田中の目的はすでに成功している。だけど先輩はその苛立ちさえもいとも簡単に抑えることができるだろう。
しかしそんなことは田中にもわかりきっていることのはずだ。そうでもなければ、ここまで先輩の嫌がることをやってのけるのは不可能に近いからだ。
普通であれば、先輩の能力について話すことで先輩が精神的に揺らぐなんて言う勘違い起こす。なぜなら、先輩の心の強さを知らないが故に、先輩が克服したこともまるで理解できないからだ。一般の人間にはそれを理解することは不可能だ。自分の知らないことを知るということは、事実上不可能である。
それが出来るというのであれば、また彼も僕たちと同じだということだ。
もとより、今のこの状況下において、彼が普通の人間だと考えること自体おかしな話だろう。普通の人間は僕たちの前で、冷静さを失わずにいられない。
「それで……あんたは何が目的なんだ?」
僕の言葉に、田中は薄気味悪い笑みを浮かべる。
「いやはや、最初に言ったとおりだよ……」
「ストーカー退治か?」
「はっはっ、それは過程にすぎないよ……ああそういえば、直接口にはしていなかったね。――僕の依頼はただ一つ。はじめてのFA事件解決の事例を作ってもらうことだよ」
「つまり、あなたの心にあった……」
「ああ、君は僕の心を読んだんだったね。でもそれは気にする必要はないさ、人間には悪い人間もいれば、良い人間もいる。それはFAだって同じことだろう? お互いに心は強く持つべきだね。そうじゃないと、簡単に飲み込まれてしまうから……」
「そんなことはありません。人の心はそんなに簡単じゃありませんから」
「簡単さ、山田くんだって……いやお兄さんの方の山田くんだって、簡単に飲まれてしまったからね。心の在り処なんてことは些末な問題でしかないんだよ。君たち子供にはわからないだろうけどね。だからこそ、君たちは心なんてとるに足らないもののことを気にするんだろう? 脳が判断し、心が決断する。簡単なことだ。心を飲まれるっていうのは、決断を必要としないってことでしかないのさ……簡単だろう?」
田中はしたり顔で、まるで説法でも解くかのように話す。それがまたわざとらしくて、少しだけ腹が立つ。
だけどそれこそが田中のやり方なのだろう。状況によって役を変える。そんな芸当ができるからこそ、彼はエリート足りえるのかもしれない。ふと僕はそんなことを思った。
だからこそ、僕はそれ以上彼について何らかの感情を抱くこともなく、話すことができたのだろう。
「簡単じゃないさ……あんたが知ってることを話してくれないんならな」
「はは、簡単さ。君たちをここに呼んだのは……いや、君たちがここを訪れた時点ですべてを話すことに決めていたからね」
「すべて?」
すべてとは、宮下のことを指すのだろうか……それとも、彼の依頼のことか。違う、そんなことはどっちでもいい。僕にとって重要なことは、宮下でも田中でもない――
「つまるとこ、君が知りたいであろうすべてさ」
中から開かないドア、人通りのまるでない通路、指示を与えるまで動かなかったエレベーター。そのどれもが、僕たちを部屋まで連れて行くために作られたものであるように思える。――まあ、僕の思い込みだろう。
たった二人の生徒と会うために、マンションひとつ買うような無駄金が国にあるとは思えない。何より、僕たちがここを訪れると知ったとしても、それはついさっきのことだ。ここまで早く準備できるはずがない。
「それで、このエレベーターはいつ止まるんだ?」
「口が悪いね? 私が高校生の頃は、もっと年上を敬ったものだが……これもゆとり教育のたまものというわけかな」
「いいから、教えろ」
「はぁ、私の部屋は最上階の8階だよ。そんなにあわてなくてもすぐつくから黙って待っててくれないかな」
ようやく、僕の言葉にうんざりした様子で、田中は大きくため息をついた。
僕は先輩と違って黙り続けるなんてことは出来ないんだ。じっとしているのも嫌だし、静かな空間も嫌だ。特に狭い空間で物音がまるでないというのは、数秒たりとも我慢ならない。そんな性分だから、今まで嫌というほど人の嘘を聞いてきた。
人に気味悪がられる。それを体験する前の話だ。
今となってはかなり我慢できるようになっている。本当のところ、我慢すれば黙り続けることだってできるぐらいには成長している。
だがそれをできない理由があった。
「8階ぐらいなら、もっと早く着くはずだろう? もう1分はたったぞ?」
「もうつくから」
「ていうか、公務員がマンジョンの最上階に住んでるってどういうことなんだ?」
「私ぐらいになると住めるんだよ」
「へえ、じゃあ結構もらってるんだな」
田中は呆れたような顔を少しだけ僕の方に向けた。
「つまらないことを聞くものじゃない。金の話をしたがるのは成金だけだよ。たかだか公務員じゃ自慢できるだけもらってないしね」
彼が嘘をついているかどうかを見分けられるか、それを知るためには常に話し続けるしかない。僕の能力を知っていてもたいていの人間は、絶対にどこかで嘘をつく、先輩レベルになれば別だが、たいていの人間には嘘をつくという習慣があるからだ。
いつかボロが出る。この男も例外ではないだろう。
もし、一度たりとも嘘をつかなかったとするなら、おそらく、僕の能力が封じられているということだろう。
たったそれだけを確認するために、僕は言葉を発し続けなければならないというわけだ。
そんなことをしている間に、エレベーターは到着する。目的地に着くときの無重力感、それが僕を
気持ち悪くさせる。
「……気分がすぐれないようですね?」
僕の様子に気がついた先輩が、僕に耳打ちをする。
田中は先に歩いているため、僕たちのことなど気にする様子もない。
「いえ、少しだけ酔っただけです」
「エレベーターにですか?」
「はい。それに、あの男の言葉も気持ちが悪くて……やつは決して嘘をついてません。だけど、言葉は嘘くさい。僕が聞いたのはどれも他愛もないものでしたが、そのすべてが嘘っぽく感じて仕方がないんです。まるで自分の力が信じられないようで……」
いつもなら、嘘を見分けるのなんて簡単なことだ。だから感覚なんて言うものに頼って、嘘を嗅ぎ分けたことなんて一度もなかった。
だけど、16年も生きてきて、僕はようやく嘘の恐ろしさに気がついた。本当の意味での恐怖にだ。
僕は思わず身震いすらしている。
「嘘ってこんな怖いものだったんですね……」
「いいえ、嘘は怖いことではありません。怖いのは嘘ばかりつく人です。嘘ばかりついていると、本当のことがわからなくなりますからね」
先輩が達観したように言った。
だけど、僕はそれほど長く生きていない。嘘をたくさんつくほど人生経験が豊富ではない。だから、そんな感覚がわからない。
「嘘なんてスパイスぐらいにしておいたほうがいいってことですね?」
「また、よくわからないたとえですね……ですが、そういうことです。優しかろうが、優しくなかろうが、嘘をついたという事実は、積み重なると心を壊します。ですから、嘘はほどほどにしなければいけませんよ」
なんというか、先輩と話していると教師と話しているような錯覚に陥る時が度々ある。たった一年先に生まれた人とは到底思えないからかもしれない。それだけ、先輩が僕よりも悲惨な経験をしてきたということだろう。
魔女と呼ばれた先輩の人生がどれほど悲惨だったのか、それは僕もあまり詳しくは知らない。だけど、先輩に合う前は僕だって、少なからず、先輩のことを怖い人だと思っていたから、それだけ、先輩に対する世間からの偏見は大きかったということだろう。
「嘘も方便だよ。自分で言うのもどうかと思うけど、君たちには正しい道を歩んでほしいと思っているからね。だからね、君たちには、私や彼のように嘘をつき続けなければならない大人にはなってほしくないのさ」
どうやら、僕たちの秘密話は、まるで秘密ではなかったららしい。
絶対という確信はないが、聞こえたとしてもほんの少し聞こえたら地獄耳だと言えるほどには小さな声で話していたつもりだ。なのに、話を聞かれてしまったというのは、僕たちのミスではなく、相手が上手だったと思うほかない。
僕は再び、田中に対する警戒心を高めるとともに、これ以上無駄口をたたくのはやめるべきだと感じた。むしろ、今まで、自分で思っているよりも考えが甘かったようだ。といっても、そんな決断も無駄に終わったようだ。
「ここだよ」
ずいぶんと歩いた気がするが、エレベーターからはさほど遠くない扉の前に僕たちは立っていた。
なんだか、長い時間話していたような気がしたが、そんなこともなかったようだ。それにしても――
「フロアに部屋は二つか……ずいぶんと広いとこに住んでるんだな?」
「公務員の分際でってことかい?」
「いや、公務員じゃなかったとしても、こんなところに住める人間なんて一握りだろう?」
田中は僕の言葉をすべて嫌みと受け取るつもりなのだろうか……まあ、自分のことをよく思ってないやつが発する言葉なんて、全部ネガティブに聞こえるものなのかもしれない。
「たしかにそうかもね。こんなのはマンションのオーナーとかの資産家が住むところだろう……まあ中に入ってみれば、私がこんなところに住んでいる理由もわかるだろう」
僕の言葉など実のところ、田中にとってはどうでもいいことだったのだろう。彼はそのまま、僕たちを部屋の中へと招き入れるために、扉の鍵を取り出して鍵を開ける。鍵とは言っても、管理近未来的なカードキーだ。
まるでホテルの部屋だ。
普通のマンションでカードキーを採用しているところなんてそう多くないだろう。
「ちょっと、セキュリティーにうるさいやつがいてね」
別に聞いてもいないことを田中は説明する。
僕たちの他にも、同じことを気にする人が多いのだろう。まあ珍しいから説明するのもなれているのだろう。
そんなことよりも、もっと気になるところは別にある。表札がないということだ。といっても今の時代、表札を掲げていないところも多い。なんでも個人情報がさらされるのを嫌うからだそうだ。僕に言わせれば過剰な反応だと思うが、中にはそういった細かいことが気になる人もいるということだ。
とにかく、中に入れと促す田中に釣られ部屋の中に入る僕と先輩に、田中は心なしか満足げな表情を浮かべている。
「何がそんなに嬉しいんだ?」
「いや、部屋に外の人が来ることなんて珍しいからね……ともかく、玄関で話すよりは中で話したほうがいいだろう。ここは人通りが多いからね」
田中招かれるまま、僕たちは靴を脱いで奥に入ろうとする。
「靴は脱ぐ必要ないよ。脱ぎたいと言うのなら止めることもしないけどね」
「ずいぶんと欧米的なんだな」
靴を脱がない家が日本にどれぐらいあることだろう。まあ、どうでもいいけど。
「仕事をするときは靴を履いている方がなんとなく捗る気がしてね……」
「ですが、靴を脱いで人の家に入ると言うのはなんとなく申し訳ない気もしますけどね」
「いいんだよ。ここは私の住処だからね」
僕や先輩がどう思おうと、ここは、田中の家だ。表札が掲げられていなかったから、断定は出来ないが、カードキーを所持していたんだからそう思うことにしよう。僕がどうのこうの言ったところで、事実を知ることも出来ない。
それこそが、僕が無能たるゆえんだ。
能力を持っていても無能。それはなんとも滑稽な笑い話だ。しかし自分を卑下してばかりもいられない。
僕たちは、更に奥へと入っていく。
「これは……なんだ?」
眼前に広がるのは、おおよそ生活感などまるで存在しない部屋で、人が暮らすというよりも、仕事をするのに特化した事務所だとでも呼んだほうがはるかにしっくりくる部屋だ。
数台のパソコンに、乱雑に置かれた資料が机からもはみ出たのだろう、地面にいくつも散乱している。それも不自然なほどにだ。まるで人が何人もいることを示唆しているようで、逆に気持ちが悪い。
「落ち着くだろう……私は散らかった部屋のほうがリラックスできるたちでね。これぐらい汚らしくないと落ち着いて話も出来ない」
「私は全く落ち着きません」
「なるほど……やはり、君とは趣味趣向が合わないようだ。最初にあった時からそんな気はしていたがね……私は完成されたものが嫌いだからね」
「私は好き嫌いしない主義なんで、問題ありませんよ」
確かにここは、先輩が番人をしている部室とはかなりかけ離れている。
よくよく考えればわかることだが、先輩はかなりの綺麗好きだ。そして話し方からもわかるように、かなり強がりだ。すべてのことを理解しているかのように話し、そして傲慢さはまるで見えない。
だけど先輩はすべてを理解しているわけではないし、好き嫌いがないというわけでもない。そんなことは僕にもわかる。
だからこそ先輩は、大雑把であり、何も知らないように話しながらも、すべてを知っている傲慢な田中が気に食わないのだろう。
二人はというよりも、先輩は表面上は冷静に見えても、かなり頭にきているのかもしれない。拳を強く握り込んでいるのがその証拠だろう。問題を解決できるはずだった男が何もしなかったことにも腹を立てているのかもしれない。
「落ち着いてください……先輩」
「私は冷静です」
「いいえ、僕たちは得体のしれない男の前に立っているのですよ。心を乱されてはいけません。汚い部屋で落ち着かないのもわからなくもありませんが、それこそ田中の思う壺ですよ」
明らかにわざとらしく散らかされた部屋も、わざとらしい喋り方もすべてが、一番厄介な相手を少しでも冷静でいさせないためだとしたら、田中の目的はすでに成功している。だけど先輩はその苛立ちさえもいとも簡単に抑えることができるだろう。
しかしそんなことは田中にもわかりきっていることのはずだ。そうでもなければ、ここまで先輩の嫌がることをやってのけるのは不可能に近いからだ。
普通であれば、先輩の能力について話すことで先輩が精神的に揺らぐなんて言う勘違い起こす。なぜなら、先輩の心の強さを知らないが故に、先輩が克服したこともまるで理解できないからだ。一般の人間にはそれを理解することは不可能だ。自分の知らないことを知るということは、事実上不可能である。
それが出来るというのであれば、また彼も僕たちと同じだということだ。
もとより、今のこの状況下において、彼が普通の人間だと考えること自体おかしな話だろう。普通の人間は僕たちの前で、冷静さを失わずにいられない。
「それで……あんたは何が目的なんだ?」
僕の言葉に、田中は薄気味悪い笑みを浮かべる。
「いやはや、最初に言ったとおりだよ……」
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「ああ、君は僕の心を読んだんだったね。でもそれは気にする必要はないさ、人間には悪い人間もいれば、良い人間もいる。それはFAだって同じことだろう? お互いに心は強く持つべきだね。そうじゃないと、簡単に飲み込まれてしまうから……」
「そんなことはありません。人の心はそんなに簡単じゃありませんから」
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田中はしたり顔で、まるで説法でも解くかのように話す。それがまたわざとらしくて、少しだけ腹が立つ。
だけどそれこそが田中のやり方なのだろう。状況によって役を変える。そんな芸当ができるからこそ、彼はエリート足りえるのかもしれない。ふと僕はそんなことを思った。
だからこそ、僕はそれ以上彼について何らかの感情を抱くこともなく、話すことができたのだろう。
「簡単じゃないさ……あんたが知ってることを話してくれないんならな」
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「すべて?」
すべてとは、宮下のことを指すのだろうか……それとも、彼の依頼のことか。違う、そんなことはどっちでもいい。僕にとって重要なことは、宮下でも田中でもない――
「つまるとこ、君が知りたいであろうすべてさ」
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それが両親の口癖でした。
ええ、ええ、確かに私は容姿も学力も裁縫もダンスも全て人並み程度のただの凡人です。体は弱いが何でも器用にこなす美しい妹と比べるとその差は歴然。
ただ少しばかり先に生まれただけなのに、王太子の婚約者にもなってしまうし。彼も妹の方が良かったといつも嘆いております。
ですから私決めました!
王太子の婚約者という席を妹に譲ることを。
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