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私の名前は……
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翌日、私は店長の芽衣子さんに頼んで、休みをもらうことにした。「復帰したばかりなのに」と文句を言うでもなく、彼女は二つ返事で了承してくれる。
記憶を取り戻したことを、私はまだ告げていなかった。芽衣子さんも樂斗さんも昨日のことには触れず、いつもと同じように接してくれる。だからもう少し、このままでいたい。
私は非番の樂斗さんを、この前の河原に行こうと誘った――いわゆるデートだ。彼との思い出が、どうしても欲しくて。樂斗さんは私を怖がる風でもなく、嬉しそうに笑ってくれる。
「せっかくだから、手を繋ごう」
「いえ、それはあの……」
首を振って断った。うっかり力を入れると、彼の手が壊れてしまうかもしれない。研究所にいる時よりも力は弱まっていると思う。けれど、ただの『怪力』では済まされないと、私自身が一番よく知っていた。『化け物』――人と呼ぶには遠い存在に、私はたぶん変化している。
「それならこれは?」
樂斗さんが、私の小指に自分の小指を絡めた。その仕草に、私の胸はドキドキしてしまう。好きな人の隣で、彼の温かさを感じる。それは、白く狭い部屋に閉じ込められていた私が、夢見ていたことでもあった。
「それにしても、この前と同じ所がいいとは。他にももっと、鷹華が楽しめそうな場所があるぞ?」
「いいえ。私は樂斗さんの側にいられればそれで……あ、いえ」
恥ずかしくなって、語尾を濁す。今日が過ぎればそれすらも、私には叶わない。
「俺もだ。鷹華が笑いかけてくれたら、それだけで頑張れる。いや、近いうちにその先へ――」
樂斗さんが少し照れながら、未来を語る。
だけど私は、彼の言葉をあえて聞かないようにした。彼の望むその先に、私はいないから。
素手で車を止めた私。そのことを聞いたはずなのに、彼は私の身を真っ先に案じてくれた。
――だからこそ、私はここには居られない。
研究所は権力者達と繋がっていて、平気で人体実験を繰り返す。国の依頼を受けて研究している節もあり、その存在は脅威だ。私と関わる者は、危険な目に遭うかもしれない。だから離れよう。私の大切な人達を、巻き込むわけにはいかないのだ。
「暗い顔をしてどうした。ほら見て、鷹華。珍しいな、何だろう?」
私を元気づけようと、彼が空に向かって伸ばした腕の先に大きな鳥が見える。秋の空は澄やかに晴れていて、悠々と飛ぶ鳥がくっきり浮かび上がっていた。
「トンビでしょうか? この辺では確かに珍しいですね」
「鷹かもな。鷹華が呼び寄せたのか?」
鷹匠ではないので、そんなことは無理だ。けれど、できることなら私の代わりに、この大切な人を見守っていてほしい……
楽しい時間はあっという間だった。気づけば夕暮れで、もう帰る時間。
川の水面はこの前来た時と同じように、キラキラ輝いている。だけど私の心は全く違い、悲しい思いを抱えていた。
このまま時が止まればいいのに。
私は貴方の横で、普通の暮らしがしてみたかった。
「……鷹華」
名前を呼ばれて見上げると、樂斗さんの端整な顔が近づく。私はそっと目を閉じる。この瞬間をいつまでも覚えていたくて。
――私はこの日、愛しい人と最初で最後のキスをした。
翌日は、早朝から霧が立ち込めていた。
これなら大丈夫。うまく姿を隠してくれそう。私は樂斗さんにもらった小さな鈴を握り締める。
「さよならも言えずに、ごめんなさい」
そう呟いて『LUCK―MAY館』を後にした。
だって、私の名前は鷹華。鷹のように強く生き、自由に羽ばたくの。そしていつか……全てが終わったその時は、またこの場所に戻って来たい。
*****
この時間帯、店は閑散としている。店長のあたしとしては、ゆゆしき問題だ。あの子がいなくなってから、こんな日が多くなってきたように思う。
「それで? 鷹華ちゃんは誰にも内緒でいなくなったのかい?」
「ええ。思い詰めた様子だったから、そっとしておこうと言ったあたしが、バカだったんだけど」
「芽衣子さんでも間違うことがあるんだな。で、弟君はそのあとを?」
「そう。あっさり官憲を退職したの。どうしても彼女を探すんだって」
鷹華がいなくなった後の、樂斗の行動は素早かった。辞表を出した翌日に、自分の刀と革袋を担いでここを出て行ったのだ。
『どうしても行くの?』
『ああ。鷹華を守ると約束したから』
『きな臭い匂いがするけど、それでも?』
『もちろん。彼女を一人で泣かせるわけにはいかない』
決意を秘めたその顔は、我が弟ながらカッコ良かった。
『それなら気をつけて、としか言えないわね。あとはここで帰りを待っている、としか』
『そうしてくれ。彼女と行き違いになっても困るから』
『まあ頑張りなさい。あら、その鈴……鷹華とお揃い?』
鷹華は桃色だったが、樂斗は水色の紐のようなものを付けていた。二人が初めてのデートをした翌日に、彼女が嬉しそうに見せてくれたから、よく覚えている。
『ああ。こんなことなら、もっといいものをあげていれば良かったな』
『それは帰ってからね。男なら、好きな子は生涯大事にするものよ?』
『姉貴が言うと、妙に説得力があるな』
『うるさいわね。いい、一人で戻って来るんじゃないわよ』
『心得た。それじゃあ』
刀に結わえた鈴が、ちりんと小さな音を立てる。迷わず旅立つ弟を、あたしは笑顔で見送った。
「まっ、そんなわけよ。あたしはまた、すぐに会えると信じてる。さ、そろそろ混むからひやかしは帰った帰った」
「ひっどいな。常連が店の名前が変わった理由を聞いただけなのに」
あたしはふふ、と笑うと店の外に立て看板を出しに行く。この時間のお薦めは、あの子の好きなワッフルだ。
「鷹華、みんなが帰りを待っているのよ? あんたを『化け物』と言った車の持ち主は、こっちでしめておいたから。いったいどこにいるのかしらね?」
『LUCK&YO館』――樂斗と鷹華に幸運を。
空はどこまでも青かった。
記憶を取り戻したことを、私はまだ告げていなかった。芽衣子さんも樂斗さんも昨日のことには触れず、いつもと同じように接してくれる。だからもう少し、このままでいたい。
私は非番の樂斗さんを、この前の河原に行こうと誘った――いわゆるデートだ。彼との思い出が、どうしても欲しくて。樂斗さんは私を怖がる風でもなく、嬉しそうに笑ってくれる。
「せっかくだから、手を繋ごう」
「いえ、それはあの……」
首を振って断った。うっかり力を入れると、彼の手が壊れてしまうかもしれない。研究所にいる時よりも力は弱まっていると思う。けれど、ただの『怪力』では済まされないと、私自身が一番よく知っていた。『化け物』――人と呼ぶには遠い存在に、私はたぶん変化している。
「それならこれは?」
樂斗さんが、私の小指に自分の小指を絡めた。その仕草に、私の胸はドキドキしてしまう。好きな人の隣で、彼の温かさを感じる。それは、白く狭い部屋に閉じ込められていた私が、夢見ていたことでもあった。
「それにしても、この前と同じ所がいいとは。他にももっと、鷹華が楽しめそうな場所があるぞ?」
「いいえ。私は樂斗さんの側にいられればそれで……あ、いえ」
恥ずかしくなって、語尾を濁す。今日が過ぎればそれすらも、私には叶わない。
「俺もだ。鷹華が笑いかけてくれたら、それだけで頑張れる。いや、近いうちにその先へ――」
樂斗さんが少し照れながら、未来を語る。
だけど私は、彼の言葉をあえて聞かないようにした。彼の望むその先に、私はいないから。
素手で車を止めた私。そのことを聞いたはずなのに、彼は私の身を真っ先に案じてくれた。
――だからこそ、私はここには居られない。
研究所は権力者達と繋がっていて、平気で人体実験を繰り返す。国の依頼を受けて研究している節もあり、その存在は脅威だ。私と関わる者は、危険な目に遭うかもしれない。だから離れよう。私の大切な人達を、巻き込むわけにはいかないのだ。
「暗い顔をしてどうした。ほら見て、鷹華。珍しいな、何だろう?」
私を元気づけようと、彼が空に向かって伸ばした腕の先に大きな鳥が見える。秋の空は澄やかに晴れていて、悠々と飛ぶ鳥がくっきり浮かび上がっていた。
「トンビでしょうか? この辺では確かに珍しいですね」
「鷹かもな。鷹華が呼び寄せたのか?」
鷹匠ではないので、そんなことは無理だ。けれど、できることなら私の代わりに、この大切な人を見守っていてほしい……
楽しい時間はあっという間だった。気づけば夕暮れで、もう帰る時間。
川の水面はこの前来た時と同じように、キラキラ輝いている。だけど私の心は全く違い、悲しい思いを抱えていた。
このまま時が止まればいいのに。
私は貴方の横で、普通の暮らしがしてみたかった。
「……鷹華」
名前を呼ばれて見上げると、樂斗さんの端整な顔が近づく。私はそっと目を閉じる。この瞬間をいつまでも覚えていたくて。
――私はこの日、愛しい人と最初で最後のキスをした。
翌日は、早朝から霧が立ち込めていた。
これなら大丈夫。うまく姿を隠してくれそう。私は樂斗さんにもらった小さな鈴を握り締める。
「さよならも言えずに、ごめんなさい」
そう呟いて『LUCK―MAY館』を後にした。
だって、私の名前は鷹華。鷹のように強く生き、自由に羽ばたくの。そしていつか……全てが終わったその時は、またこの場所に戻って来たい。
*****
この時間帯、店は閑散としている。店長のあたしとしては、ゆゆしき問題だ。あの子がいなくなってから、こんな日が多くなってきたように思う。
「それで? 鷹華ちゃんは誰にも内緒でいなくなったのかい?」
「ええ。思い詰めた様子だったから、そっとしておこうと言ったあたしが、バカだったんだけど」
「芽衣子さんでも間違うことがあるんだな。で、弟君はそのあとを?」
「そう。あっさり官憲を退職したの。どうしても彼女を探すんだって」
鷹華がいなくなった後の、樂斗の行動は素早かった。辞表を出した翌日に、自分の刀と革袋を担いでここを出て行ったのだ。
『どうしても行くの?』
『ああ。鷹華を守ると約束したから』
『きな臭い匂いがするけど、それでも?』
『もちろん。彼女を一人で泣かせるわけにはいかない』
決意を秘めたその顔は、我が弟ながらカッコ良かった。
『それなら気をつけて、としか言えないわね。あとはここで帰りを待っている、としか』
『そうしてくれ。彼女と行き違いになっても困るから』
『まあ頑張りなさい。あら、その鈴……鷹華とお揃い?』
鷹華は桃色だったが、樂斗は水色の紐のようなものを付けていた。二人が初めてのデートをした翌日に、彼女が嬉しそうに見せてくれたから、よく覚えている。
『ああ。こんなことなら、もっといいものをあげていれば良かったな』
『それは帰ってからね。男なら、好きな子は生涯大事にするものよ?』
『姉貴が言うと、妙に説得力があるな』
『うるさいわね。いい、一人で戻って来るんじゃないわよ』
『心得た。それじゃあ』
刀に結わえた鈴が、ちりんと小さな音を立てる。迷わず旅立つ弟を、あたしは笑顔で見送った。
「まっ、そんなわけよ。あたしはまた、すぐに会えると信じてる。さ、そろそろ混むからひやかしは帰った帰った」
「ひっどいな。常連が店の名前が変わった理由を聞いただけなのに」
あたしはふふ、と笑うと店の外に立て看板を出しに行く。この時間のお薦めは、あの子の好きなワッフルだ。
「鷹華、みんなが帰りを待っているのよ? あんたを『化け物』と言った車の持ち主は、こっちでしめておいたから。いったいどこにいるのかしらね?」
『LUCK&YO館』――樂斗と鷹華に幸運を。
空はどこまでも青かった。
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