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第一章 幸せな今

あなたの側にいたかった

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 白い壁と天井、無機質なベッドは、研究所内に与えられた部屋の記憶。警備は厳重で、逃げることなどできなかった。開発中の怪しい薬で身体を強化された私は、力だけがどんどん強くなっていく。気がついた時には、人の域を超えるものとなっていた。

「この結果には、現総帥そうすいも満足されるだろう」
「ああ。もう少し手を加えれば、軍事利用もできるな。高く売れそうだ」

 研究者達の心ない会話に、胸が痛む。
 前総帥の一人娘である私は、ここに来るまで何不自由なく育った。けれど、彼らにとっての私はもはや人ではなく、研究材料だったのだ。

 そんな自分が大嫌い。小さな窓が一つだけの、白くて狭い部屋。切り取られた空の青だけを見て生涯を終えるのかと思うと、絶望が襲う。

「閉じ込められたまま、一生を終えるつもり?」

 自分に問いかけ悲観しては、打ちひしがれる日々。
 しかし、研究所での生活が十年を超えたある日、着替え中にこんなことを考えた。
 
 ――太もものあざは、特殊な薬を入れた注射針のあと。これは、繰り返される実験に耐え抜いた証拠だ。無力? いいえ、今の私はここにいる誰よりも強いはずでしょう?
 
 肩までの薄茶の髪に眼鏡をかけた若い博士が入室し、甘い言葉をささやく。でもそれは、私をだまして数々の実験に協力させるためだと、知ってしまったのだ。

 彼は私を利用した。
 それなら私も……彼を利用しよう。

 博士の服からカギを抜き取り騒ぎを起こし、研究所を抜け出した。山中に身を隠し、ある時は走りある時は汽車に紛れ、とにかく遠くを目指す。
 何度も追いつかれそうになるものの、必死に逃げ延びた。

 そして、この街にたどり着く。
 ここの夜は、どこよりもキラキラしていた。
 
 ――都会にまぎれれば、見つからないかもしれない。

 そう考えて疲れ切った顔を上げると、幼い頃に読んでもらった絵本のような可愛らしい建物があった。緑の屋根に白い壁、窓越しに見える温かそうなオレンジの光。中から聞こえてくるのは、楽しそうな笑い声。父が好きだと言ったコーヒーの香りが、表にまでただよう。

LUCKラックMAYメイ館?」

 ここは、幸せだった頃の我が家を象徴しているみたい。懐かしさと憧れの滲む目でボーっと眺めていたところ、ふいに誰かが近づいた。その人の腕の中で、私は急に意識を失う。

 ――なんてことはない。過去の記憶は、私自身が手放したものだった!


 ◇◆◇


鷹花ようか! 今、下で聞いた。怪我けがはなかったか?」

 息を切らした樂斗らくとさんが、血相を変えて飛び込んで来る。
 だけど私は知ってしまった。車なんかに私は傷つけられない、と。

 全てを思い出し、小刻みに震える。
 樂斗さんがそんな私に腕を回し、優しく包みこむ。
 だけど私は、彼にしがみつくことすらできない。自分の力がわかった以上、抱きしめ返す行為は危険だ。私は力を抜くため両腕をわきに垂らすと、まぶたを閉じた。

「樂斗さん……」
「鷹花、大丈夫だ。俺がずっと側にいる」

 彼の引きしまった身体は温かく、響く鼓動は力強い。爽やかな香りとかすれた声には、胸がときめく。
 けれど、手は伸ばせない。
 いくら彼の気持ちに応えたくとも、呪われた身体がそれを許さないのだ。

 あと少し、ほんの少しでいいから。
 私はただの鷹花として、あなたの側にいたかった。
 どこにでもいる18歳の女の子として、幸せな夢を見ていたかったのに――。



 翌日、私は樂斗さんが非番だと聞き、店長の芽衣子めいこさんに休みをもらうことにした。芽衣子さんは「復帰したばかりなのに、もう?」と文句を言うでもなく、二つ返事で了承してくれる。

 ――昨日の騒ぎがあった後では、お店に出せないからかしら?

 皮肉っぽい考えは、すぐに打ち消す。
 芽衣子さんも樂斗さんも昨日のことには触れず、今朝もいつもと同じように接してくれた。あんなことがあった後なのに、優しい二人は私を奇異の目で見ない。

 記憶を取り戻したことは、まだ内緒。
 お願いだからもう少し。
 このままでいたい。

 私は樂斗さんに、「この前の河原に行きたい」と訴えた。
 勇気を出して自分から、彼をデートに誘ったのだ。樂斗さんは私を怖がる素振りは見せず、嬉しそうに笑ってくれる。

「鷹花に誘われるのは、初めてだな。いいよ。せっかくだから、手をつなごうか」
「いいえ、それはダメです!」

 首を激しく横に振る。
 うっかり力を入れると、彼の手が壊れてしまうかもしれない。薬がない分、研究所にいる時よりも力は弱まっていると思う。だからといって、単なる『怪力』では済まされないことを、私自身が一番よく知っている。私は『化け物』――人と呼ぶには遠い存在に変化しているのだ。

「それならこれは?」

 樂斗さんが、私の小指に自分の小指をからめた。彼の優しい仕草に、泣きたくなるほど胸が熱くなる。
 好きな人の隣で感じる、その人のぬくもりと息づかい。それは、白く狭い無機質な部屋に閉じ込められていた私が、長年夢見ていたことでもあった。

「本当にこの前と同じところでいいのか? 他にももっと、鷹花が楽しめそうな場所があるぞ」
「いいえ。私は樂斗さんの側にいられれば、それで…………あっ、いえ」

 思わず本音を言ってしまい、恥ずかしくなって語尾をにごす。

「俺もだ。鷹花が笑いかけてくれたら、それだけで頑張れる」
「そんな……」

 耳に心地よい会話。
 今日が過ぎればそれすらも、かなわないと知っている。
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