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知らない場所

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『イオリちゃん、しょうらい、ずっといっしょにいようね』
 そう言った少年の顔を、伊織はもう何年も思い出せずにいる。






「いやいやここどこ」

 神田伊織、十八歳。彼女いない歴十四年。四歳のころにできた彼女が果たして本当に彼女に入るかどうかはさておき、伊織は平和に暮らしてきたはずだった。かわいらしくてツンデレなかわいい幼馴染がいるわけでもなく、まじめで優しい文学少女な委員長と仲良くなるわけでもなく、ただ伊織は淡々と平和に生きてきただけだった。帰宅部で特に用事もなく、そのまま高校から帰ろうと思っていた帰り道、突然足元のマンホールが光ったかと思えば全く見知らぬ土地にいたのだ。

「いや何ここマジで意味わかんない」

 鬱蒼と生い茂る森の中に突然ワープさせられて動揺しない人間がいたら目の前に来てほしいのだが、どうにも人間という生き物自体が今現在見えない状況だ。誰でもいいから説明してほしい。
 ここは〇国ですとかNPCみたいな人間でもいいから。幻覚でも見ているならば匂いはアスファルトと車の排気ガスの匂いがするはず。だがそんな淡い期待は裏切られて匂いまで完全に木々と土の匂いだ。

「……ええ、なに……? 遭難……?」

 住宅街から突然森に移動させられて遭難も何もないが、誰もいない中でそう判断せざるを得ない。ぱっと見て分かる深い森の中で人口建造物も、人の通った形跡すらない。樹海ですら人が通った形跡ぐらいはあるし、そのあたりに人の持ち物が転がっている。少し歩いてみたが、道どころかうまく歩ける気配すらない。足元も見えないほどの鬱蒼と生い茂る草花に足を取られて、足元がどうなっているのかも分からないのだ。ぬかるんでいるのか、乾燥しているのか、足元に生き物がいるのかどうかもわからない。目の前に広がる色は大体が緑色。時折見える赤色やオレンジ色は花や得体の知れない植物ばかりだ。
 試しにかき分けて歩いてみると数歩歩いただけで何かに躓いて転んだ。派手に転んでシャツが汚れたがもうそれどころではなかった。足元に転がっていたのは動物の死骸だったのだ。

「おえ、」

 蛆や蠅、虫がたかった死骸を見て吐き気を催したが、今ここで吐いてしまっては唯一の栄養素を失ってしまう。今ここにあるものは幻覚だと思い込んで歩くしかない。かろうじて伊織の背丈ほどの草花たちは人間に害のない植物ばかりだったことが唯一の救いだった。触れただけでかぶれたり、毒をまき散らすような植物がないだけマシだった。けれどそれだけだ。上を見上げても背丈の高い木々が覆いつくし、視界のほとんどが植物のみ。木々の間から鳥の声が聞こえて、少なからず生き物が存在していることにほっと息を吐いた。

 けれどそれにしたってなにもない。辺り一面の緑に辟易してくる。座ろうにも足元が見えないのだからどうすることもできず、唯一持っていた鞄をぎゅうと握りしめた。ポケットから取り出した携帯電話は圏外だった。

「当然かあ……」

 もうここで死んでしまうのではないだろうか。こんな何もない山奥で、誰にも見つからずひっそりと死んで、誰にも見つかることなく自然に還っていく。そんなのは嫌だった。とにかく道でもなんでも、人間の気配がするものにたどり着きたい。その一心で歩き進める。足元が見えないから走ることもできないが、大きく一歩一歩確実に足を進めていった。

「せめて動物かなんか……ああ、生きてる方がいいな……」

 先ほどみたいに死骸は勘弁だ。確かに動物は動物だが、虫もできたら勘弁してほしい。

「ここがどこなのか……せめて近所であってほしいなあ」

 マンホールの先が一体どこにつながっていたのかも分からないが、もしかしたらあの光ったマンホールに落ちてしまって流されたのかもしれない。

「えうそ、下水って森に繋がってんの?」

 そんなはずがないのだが、そう考えることしかできなかった。伊織は背後を振り返る。通ってきた草の根は伊織の足によって踏まれ、折れている。伊織が現れたあの場所には、人が通ったと思しき道がなかったのだ。そう考えたら誰かに連れて来られたと考えることもおかしければ、夢遊病のように己で歩いてきたと考えるのも妙な話だ。せめてどうしてここにいるのか、それだけでも知ってから死にたい。

「誰かいませんかー!」

 叫んで誰かいるならよし、いなかったらただの体力の無駄だがしょうがない。何もしないよりは行動あるのみだ。

「誰も……誰もいねえ……」

 当然のように返ってくる声もなく、とにかく勘で進んでいく。陽が沈んでいき、辺りが暗くなってきたころ、ようやく少し開けた場所に出た。

「やった、やっと休める……」

 休みなく歩き続けたせいでもう足は限界だった。お気に入りのスニーカーも制服のズボンも汚れきっている。木の根に座りこんで改めて空を見上げた。落ち着いたせいなのか腹がぐうと音を立てた。こんなときでも腹は減るものだ。残念ながら食べられそうなものと言えば鞄の中に入っていた飴ぐらいだ。包みを外して飴を頬張る。水すらもない状況でこれからどうしたら良いものか分からない。足は疲弊しきっているがこのまま歩いて水場か、行けたら人里まで降りたい。

「せめてサバイバルの本とか読んでおけば……いやこんな状況めったにないか」

 せめて生き残りたいとは思う。齢十八で、こんなよくわからない場所で死にたくはない。太陽が沈むとわずかに寒くなってきて体が震えるが火さえも起こせない。制服のジャケットを脱ぎ、地面へと敷いて横になった。硬いが鞄の上に頭を乗せる。仰向けになって空を見上げると、満天の星空がそこに広がっている。日本に生まれて一度もこんなに星空が広がっているのを見たことがない。月と思しき金色の星の真横に、月よりもわずかに小さなまったく同じ星がある。

「月がふたつ……」

 ここは異世界なのだと、伊織の知る地球ではないのだとはっきりとここで知ることになった。途端に息苦しくなって、涙がこみ上げてくる。ここで一体どうしたらいいのか、伊織には分からなかった。



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