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忘れたい ~セリュー殿下の話②~

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 神子は名前をアラタと言った。ガクセイで普通の学生だとか。偶然にも同い年であるが、アラタは随分幼い印象を受けた。十五で成人を迎え労働に従事する我が国と違い、二十二歳までは自由な学生なのだとアラタは笑っていた。
 国と民を背負っている僕とは生き方が違うのだろうが、突然この世界に召喚されたにも関わらず願いを聞き入れ、気さくに僕と接してくれるアラタに、僕はどんどん惹かれていく自覚はあった。
 アラタを召喚し、B国へと向かうまでの猶予は二週間。この間に兵糧や騎士の用意がすすめられていった。人が人を愛するまでの期間としては、短くはない。
 だけどアラタを再び世界に戻すまで。僕とアラタが二人で過ごせる期間としては何と少ない事か。この想いを伝える事は無い。だけど僕に向けられる微笑みに、どれだけ心が満たされるのか。偶然触れるその指先が、どれだけ僕の心を高鳴らせるのか。アラタはきっと知らないのだろう。
「眠れる森のなんとかじゃん! なになに、城は荊で覆われてんの?」
「いや、国が結界に覆われている」
「やべー。結界! ファンタジーじゃん! 何なに、俺が王女様にキスしたらいいの?」
 ほんとうに……この男は。
 新たは城の中でも侍女を口説き始めるし、令嬢相手に貴族の真似事だと手の甲にキスをしようとする。我が国にはそんな作法はない上に、未婚の令嬢の肌に触れるなど言語道断なのだが。
 アラタは、ニホンはそういう文化圏なのだと笑っているが本当にそうなのだろうか。ただの女好きではないだろうかと疑ってしまうが、それを許される不思議な人柄を持っているのもまた事実だ。
「なんだそれは。キスで目覚めるわけがないだろう。アラタの神力で結界を破り、城へと向かう。そして眠っているとされる王子へ力を注ぐ事で、恐らく彼の神力が高まり国は眠りから覚める――と思う」
「思う。まてまて、確信がないのかよセリュー。ウケるんだけど」
 こればかりは未知数過ぎて、アラタへ反論の言葉もない。これまで眠り続けるB国を、我が国もただ放っておいたわけではない。
 いつか来るかもしれない他国への脅威に対抗するために、B国を目覚めさせる為にはどうするか、お抱えの魔法使いと神殿が年単位で導いた結果だ。
 つまり、このアラタの神力に賭けるしかなかった。
 さすがに気まずくて俯くが、アラタの手が僕の背中をバシンと叩いた。
「いいって! 魔王を倒せって言われたら勘弁だけど、王子様にキスするだけなんだろ? 楽勝楽勝!」
「だからキスはしない」
「はは! キスもしないなら楽勝すぎ~。泥船に乗ったつもりで期待して~」
「泥船は沈むが!?」
 カラカラと笑うアラタは、僕の持つ罪悪感さえ吹き飛ばす。それもまた、この男の魅力なのだ。もう明日はB国へと出発が決まっている。それはつまり、アラタとの別れも近づいている。
「んあ? どうしたのセリュー。暗い顔してたらイケメン台無しだぜ?」
 胸が締め付けられる。女好きだしいつだって軽い。だけど、心が、魂がアラタを求めている。
 僕の金髪が好きなのだと、彼は笑っていた。アラタだって同じだろうと返しても、染めているらしい彼は僕の頭をぐしゃぐしゃにしながら笑うだけだった。
 歳も同じ。身長も殆ど変わらなかった。少し子供じみた彼は、いつだって自由で、いつだって笑顔で。
 そして彼の国の王子を目覚めさせた瞬間、まるで幻のようにその姿が消えて行った。

※※※

 アラタを失って一か月、そして彼の国が眠りから目覚めて同じ時が過ぎた。
 元の世界に、あるべき場所へ戻ったのだと分かっているのに、最後の別れの言葉すら交わせなかった事を今でも悔やむ。
 眠る王子に神力を注ぎ、黒檀のようなその睫毛が揺れたと思った瞬間、光と共にアラタの姿は消えて行った。神力を失った神子は元の世界に戻るだろうと、神官や魔法使いたちが言っていたけれど、あまりに急な別れだった。
「好きだと、言えば良かった」
 王宮のバルコニーに吹く夜風は少し冷たい。城下に見える小さな灯を見つめながら、僕は手に持った杯を煽った。
「アラタ……」
 ほんの僅かな期間を過ごしただけのあの男の名前を呟いた。だけどあの軽妙な声で、それに返事をしてくれる者はもういない。
 彼への愛情と、そして後悔だけがこの胸の中に残っている。
「セリュー殿、夜風はそろそろ冷たいのでは?」
 やけに耳に残る低音が、そう僕に声をかけた。いつのまに傍にきたのだろう、気付かなかった。癖のない長髪を風になびかせながら、彼は僕の隣に腰を下ろした。
「グリーズス殿」
 今日の主役がパーティを抜け出していいのだろうか、そう問いたかったがそれは僕にとっても藪蛇になりかねないので口をつぐんだ。
 今夜は眠りから冷めた彼の国を祝う祝賀会が、我が国で開催されていた。そして何故僕までも主役になっているのかといえば、アラタが消えたせいだ。
 彼が消えた瞬間、僕以外の記憶からアラタは無かったものとされ、大概的には僕がグリーズスの国を救った事になっている。神の力が作用しているのか、僕は何もしていないと言うのに救世主扱いだ。なんて可笑しなことだろう。
 押し黙る僕にグリーズスは何を思うのか。だけど今は、誰かと会話をしたい気持ちにはならなかった。だからここへ避難してきたと言うのに、まさか誰かに――グリーズスに会うとは思ってもいなかった。
「眠りから救い出してくれた事に感謝する」
「いえ……」
 十割好意で行った事ではない。それは彼らだって分かっているだろうに、こうして律儀に感謝を伝えてくれるのだから悪い人ではないのだ。だけど今、僕は誰かと話をしたくなかった。
「あの彼は――異世界の神子はもう戻られたようだな」
 僕は目を驚き、見開いて彼を凝視した。
 今、何と言った? グリーズスにはあるのか、アラタの記憶が。
「何故かあの少年の記憶は誰にも残っていないようだが、恐らく神のお力だろう。俺を眠りから起こした時、褪せた金髪の少年が傍に居たことを覚えているう」
「褪せた……はは、そう、そうなんですよ、アラタの髪の毛は脱色してて……元は貴方のような黒髪と言っていました」
「ふむ、中々興味深い。わざわざ黒髪を?」
 黒髪は神に愛された者の象徴だ。だから歴代の神子たちは、グリーズスのように黒髪を伸ばしていたし、それを染める者など居なかった。
「平凡な僕の金髪を羨んで……よく触っていて……、っ」
 ほとりと、手の甲に熱い雫が落ちた。ぽたぽたと零れるそれが自分の涙だと気付くのは、目の前の男の指に目元をぬぐわれたせいだ。
 アラタ、アラタ、……アラタ。
 どうして居なくなったんだろう。どうして僕は気持ちを伝えなかったのだろう。少しでもこの想いを伝えて、彼の心に僕を残しておきたかった。
「……え」
 頬に、目元に、その涙を吸い取るように柔らかい唇が押し当てられる。こんな事をされる関係ではないはずだと、そう思うのに、僕はそれを嫌と思わなかった。ゆっくりと身体が長椅子へ倒される。
 サラサラとしたグリーズスの黒髪が、夜のとばりのように僕を覆い隠した。
「忘れてしまえ」
 そう降り注ぐ低音に、全てをなかった事にしてしまいたい。
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