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1巻

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「この婚姻は龍人国からの提案です。金山を諦める代わりに縁を結ぼうという申し出でした。正直、あちらにとってこの国との婚姻は旨味がほとんどないので、なぜこんな提案をしてきたのか理解に苦しみますが、それで戦争を回避できるのであれば国民に負担をかけることなく話を終えられるのです」

 お分かりでしょうか、とレナードは言う。
 つまりこの長々とした話は全てそこに帰結するのだ。国民を、国を守るために政略結婚に応じろと、応じるしかないのだということだ。
 僕が拒否する場合は国民が犠牲になるのだと、言外にそう言い含められている。

「なに。いくら龍人どもの国とはいえ、隣国。今まで国交がなかった方が不思議なくらいだ。この婚姻は向こうから言い出したものなのだから悪い条件ではない。相手は王族に縁のある娘だと聞く」

 ずっと黙っていた父が目を細めてそう言う。
 きっと僕の知らない所で、国同士の利益が絡んでいるのだろう。国を動かす人間が、いかに息子相手だろうと自分にとって不利益になる情報を開示する訳がない。
 父は、結婚するのは自分じゃないからそんなことが言えるのだ。人間以外と結婚するなんて、今までの人生で一度だって考えたことはない。自分にふりかかる不安と恐怖は、きっと他の人には理解してもらえないのだろう。

「安心するがいい。さすがに龍人の姫でも、婿を取って食いはしないだろう」

 すぐにはな。そう言って父は、側近と含み笑いを零した。
 人語を使える獣。二足歩行の龍。そんな龍人と結婚する僕は、父には喜劇の主人公に見えるのだろう。
 大きな龍の口に丸呑みにされる自分を想像して、身体が勝手に大きく震えた。

「引き受けてくれるな、イル」

 否など認めないという態度で念押しされずとも、そもそも僕に拒否権などない。

「……はい、父上」

 これは王命だ。僕はただ諾々だくだくと首を縦に振る。
 龍人の姫がせめて、ヒトに近い容貌であることを祈るのだった。


 父の執務室を出てすぐに、僕は城内の図書室に向かって龍人についての文献を漁った。
 だが膨大な書架の中で、探し回って見つけた本はわずか二冊。
 一冊は子供向けの絵本で、もう一冊は大陸をまわった旅行記の一ページに小さく書いてあるだけだった。
 とにかく龍人についての情報を集めなければ、この漠然とした不安も解消できない。国内では誰も龍人について教えてくれない。いや、誰も知らないのだ。嫌悪されている彼らの外見も能力も、そして文化も、蔓延はびこる噂の正誤すら一つも答え合わせができない。
 そんな正体不明の国に婿入りするというのだから、ため息が漏れるのは仕方がないだろう。
 二冊の本を抱えて自室に持ち帰り、パラパラと絵本のページをめくった。
 龍人国は謎が多い。
 隣国にしては不自然なほど国交がないのは、この国が龍人を軽んじているせいでもあるだろう。
 開いた絵本の中身は、化け物のような姿の龍人が、わがままを言う子供をさらって食べてしまうという寓話だった。

「これが僕の将来かもな」

 龍人の膨らんだ腹の中に子供が収まっている様子が描かれているが、それが未来の自分の姿に見えてしまうのだから重傷だ。
 しかし隣国なのにこんなにも溝があるのは、彼ら――龍人国の方だって悪い。
 彼らは古い歴史がある割に閉鎖的で、あまり他国と積極的に交流をしていないのだ。ニヴァーナ王国との間には険しい山が連なっているし、そこを越えてまでわざわざ我が国と国交を結びたいと思っていないのだろう。お互い様といえばそうかもしれないが、向こうは空を飛べるのだからもう少し歩み寄っても良かったのではないか。
 噂に聞くような蛮族ばんぞくではないと思いたいが、誰も真相を知らないのだから否定も肯定もできない。
 そんな長い歴史の中で交わることのなかった両国なのに、どうして今になって婚姻という形で縁を繋ぎたがるのか理解できない。
 埋蔵量は少ないとはいえ金山もそのまま我が国のもので、強靭な肉体を持つという龍人に攻め入られることも回避できる。おまけにナイナイ王子である僕を、大義名分を押し付け国外追放できるのだ。
 どう見てもニヴァーナ王国に有利な条件すぎて、僕を押し付けられる龍人国側に何か得があるようには思えない。

「……自虐的すぎる」

 実の母親や兄くらい見目が良かったら、自信をもって婿入りできたのかもしれない。半分王族の血を引いている以外、何のとりえもないと自覚しているからこそ怖いのだ。それこそ僕は、あっさりと食われても文句が言えない立場なのだ。
 王族として、国の駒として生きることは受け入れていた。だけど未知の生き物と結婚させられるなんて、思ってもみなかった。

「なんで、どうして龍人なんだ」

 一人で小さく文句を零すことくらいは許されるだろう。
 僕は旅行記に書かれた、龍人国のページをそっとめくる。
 挿絵はないそのページには、それでも豊かな彼らの生活が描かれていた。庶民でも生活水準は高く、全ての子供が文字と計算を学べる。食べ物のほとんどを国内で作りその多くを消費するが、どれも大層美味しい。他国に出荷されるそれらは、値段が倍に跳ね上がる程だ、と書いてあった。
 この本を読む限り、ひょっとして噂に聞くように人間を食べることはないのかもしれない。僕は少しだけほっと胸を撫で下ろした。

「はあ……」

 父から与えられた、衝撃的な命令の余波はまだ消えない。
 旅行記によれば、龍人は神である龍がヒトと交わって生まれたとされている。この世界では特別であり異質だ。身体能力が極めて高く、その上寿命は人間の二倍から三倍はあると書いてある。
 龍人の力が強いことは、さすがに僕でも知っていた。だからこそ相手に戦争を仕掛けた時には、誰もが死に行くようなものだと言っていたし、それが不利な戦争を勝利に導いたユリアがもてはやされている理由でもある。

「だけど、せめて結婚するなら人間が良かった」

 鱗に覆われた肌なんて、想像するだけでも寒気がする。そんな相手と結婚する事実を、僕はまだ受け入れられていない。その肌に触れて、笑顔で接することができるだろうか。
 せめてまだ本当に龍そのものだったら良かったのに。昔からヘビもトカゲも嫌いじゃない。そうだ、人間だと思うから違和感があるんだ。ヘビだと思えば、仲良くできるかもしれない。
 前向きに考えようとして、だけど発想の愚かさに気付いて再び脱力した。

「どっちにしろ、人間じゃないじゃないか」

 そうして本を開いては閉じ、それ以上の情報がない紙面をまた開く。それを何度も繰り返し、同じ数だけため息を付いていると、外から扉をノックする音が響いた。
 置き時計を確認すると、夕方に差し掛かった頃合いだった。

「入るぞ」

 こちらからどうぞと声を掛ける間もなく扉を開けたのは、昨日僕を晒し者にした兄だった。学園が終わってそのまま真っすぐこの部屋に来たのだろう。制服姿のままズカズカと室内に入ってくる。

「……兄上」

 その悠然たるたたずまいこそ以前と変わらないが、瞳は以前よりどこか濁っているように感じる。
 特別親しい関係ではなかったが、今までは異母兄弟としてお互い節度ある距離感を保っていたはずだ。それがユリアとの恋に盲目になった途端、僕から見ると身を持ち崩し、挙げ句僕をうとましいという態度を隠さなくなった。
 ユリアとの関係に何度も干渉してくる僕が鬱陶うっとうしくなったにしても、王位継承者である兄があんなおかしな断罪劇を繰り広げたことには、今でも納得できない。
 それだけ、恋とは人を狂わせるのかもしれない。これから政略結婚する僕には無縁だけど、それなら恋なんてしない方が良いとすら思ってしまう。恋とは、聡明な兄がすっかりおかしくなるほどの猛毒なのだから。

「イルも座るがいい」

 まるで自分がこの部屋の主だといわんばかりの兄は、ソファにどっかりと腰を下ろした。僕の部屋にもかかわらず、この空間の支配者は兄である。それから膝の上で手を組み、昨日とは打って変わって優しさに満ちた表情を向けてきた。

「なあイル、反省できたか? 今までどれだけユリアを傷つけていたかを、な」

 そう言われて気が付いた。告げられた結婚の衝撃で、兄が現れるまでそのことを忘れていた。
 そもそも今日欠席したのは、反省の意を示すためではない。むしろ自分には非がないとすら思っているし、第一王位継承権を持つ兄の顔を立てたつもりだった。
 あんな風に貴族の生徒たちの前で弟を断罪したのだから、そこに僕が当たり前の顔をして登校しては、兄の沽券に関わるだろうと判断した。次期国王である兄が、弟一人従えられないなどと言われるのは困る。
 それに、あんな風に恥をかかせられて、僕を非難した生徒たちの前に顔を出せるほど僕も厚顔無恥こうがんむちではない。それらの考えに父からの呼び出しが重なって、結局ずっと室内にいるだけだったのだが、目の前の男は自分の命令に従ったのだと思ったようだ。
 兄は慈愛の微笑みを浮かべ、猫なで声を出す。

「だが安心してもいい。ユリアは私に、お前を許してやってくれと頼み込んできたぞ。心まで清らかなユリアはまさに、名実ともに聖女といえるだろう」

 聖女とはなんだろうか。聖女とは断罪する兄に肩を抱かれながら、あんなニヤついた顔をするだろうか。僕の冤罪を知っているのはユリアだけ。その本人が、僕を許してやれと兄に訴えた?
 周囲の男子生徒たちに愛想を振りまく彼女だったが、不思議と僕にはちょっかいをかけてきたことがない。それは全く構わないのだが、それでも高位貴族に執心している様子のユリアの行動からすると、仮にも王子という立場の僕を嫌う理由が分からない。
 そこまで考えて、自嘲した。
 王子といっても、ナイナイ王子に媚びを売っても仕方ないか。
 思わず鼻で笑ってしまいそうになり、慌てて顔を押さえた。チラと覗き見るも、兄には気付かれていないようでホッとする。
 ユリアに心酔できずにいる僕は、彼女にかたきにされている気がする。とはいえそれはお互い様だ。僕も彼女を好ましく思っていない。
 あの聖女さえいなければ兄も変わらなかったし、学園は平穏だったはずだ。聖女が現れなければ龍人国との金山をめぐる話も変わっていただろうし、何より龍人国との結婚話なんて湧かなかったはずなのに――そこまで考えてから、僕は内心首を横に振った。
 湧き上がる恨みはあるものの、ユリアが全ての原因ではない。
 金山の戦争はニヴァーナ王国が、自国の利益のために自ら引き起こしたものだ。その被害が最小限で済み、一応の勝利で終わったのは確かに聖女のおかげ。
 諸悪の根源のような扱いをするのも筋違いのような気がして、慌てて自分のその醜い感情に蓋をする。自分にとって都合の悪いもの全てを、ユリアに押し付けるのは違うだろう。
 だけどざわつくこの心を、どうなだめたらいいのかも分からないでいる。
 以前の兄にならもしくは、相談できたかもしれない。学園に漂う不穏な空気、金山を巡る戦争の実態、龍人との婚姻による和平について、以前の兄なら耳を傾けてくれた可能性もある。
 ラムダ=ニヴァーナは、このニヴァーナ王国の次期国王に相応しい人だった。聡明で頼もしく、母が亡くなってからはこの城内で唯一、普通に話をしてくれる血縁者だった。
 孤立無援の城内で、それがどれだけ嬉しかったか。心強かったか。王である父も、その配偶者である王妃も僕を普段はいないものとして扱っていたし、その冷たい空気の中で過ごすのも当たり前になっていた。親しい訳ではなかったが、それでも目を見て話をしてくれたのが兄だった。
 だからこそ僕は兄を尊敬していたし、彼が将来治めるこの国を、どんな形になろうと側で支えたいと考えていたのだ。もっともそれら全ての情も青写真も、今はもう泡のように消えてしまった。
 敬愛していた兄の姿は、今はもうどこにも見当たらない。
 ユリアに傾倒している兄には、何を言っても通じないだろうという確信めいた諦めがある。
 そんな僕の心情を知らない目の前の男は、以前とよく似た朗らかそうな笑みを浮かべて僕の手を握った。だけどその瞳はやはり、どこか清廉さを欠いている。

「謹慎を解こう。明日からは学園に来ることを許してやる」

 なんと上からの譲歩だろうか。いくらこの国の第一王子であり生徒会長の兄であろうと、いち生徒に懲罰を与える権限はそもそもない。生徒会の運営は生徒の自治に任せられているといっても、生徒が生徒を裁くような真似などできる訳がないのだ。
 文武両道で人当たりも良く、人の上に立つに相応しいカリスマ性を持つ我が国の第一王子、ラムダ=ニヴァーナ。そんな兄への評価が再び揺らぐ。
 いや。ユリアと一緒にいるようになってからそれはずっと揺らぎ続け、もはや信頼などないに等しい。

「兄上、別に僕は――」

 ユリアに恋心を抱いてもいないし、兄に嫉妬した訳でもない。
 いさめる言葉は届かなくても、せめてその誤解だけでも解きたい。その一心で口を開いた。
 だが兄は僕の片手を握ったまま、反対の手を持ち上げることで僕の言葉を遮った。

「良い、良い。昨日は俺も言い過ぎた」

 その言葉に僕は思わず目を見開いた。まさか兄からそんな言葉が聞けるとは思ってもいなかった。すっかり変わってしまった兄は、格下の僕に謝罪なんてしないと思っていたのに。
 思いがけない言葉に驚きながらも、もしかしたらという期待が湧き始めた僕の手を、兄は強く握り直し笑みを深める。

「男の嫉妬は恐ろしいと聞くからな。報われない恋に狂うのも致し方あるまい。許そう」
「な……っ」

 結局なんの誤解も解けていなかった。
 あんまりな言われ様に思わず立ち上がり、握られた手を振りほどく。しかし兄は気にした様子なく鷹揚おうような態度で僕を見つめ、その長い脚を組み代えた。

「失恋の傷を埋める相手も、できたことだしな」
「――っ」

 弧を描く兄の瞳の奥には、明らかな嘲笑の色が混じっていた。
 僕が龍人との結婚を言い渡されたことを、既に知っていたのだ。

「おっと、婚約者ができたというのにそんな顔をするもんじゃない。もっと幸せそうな顔をしなさい。たとえ相手が……クク、龍人の美姫であってもな」

 兄は顎に手を当てて、実に楽しそうに嗤った。
 顔をにたつかせるこの男は、僕の置かれた境遇を全て分かっていたのだ。いや、むしろ知っているからこそ、ユリアのいる学園への出席を許可しているのだ。
 弟の結婚相手が龍人であることを、兄は喜んでいる。いや、楽しんでいるのだ。
 そこまで僕はこの人に嫌われていたのだろうか。異母兄弟とはいえ、優しく接してくれる兄だと思っていた。信頼していた。だからこそ、辛い。
 こんな風に人をあざけることができる人だったのか? そんなにも僕が嫌いだったのか?
 少なくない兄との些細な交流の日々が、全てもろく崩れ去っていくような思いだ。
 奥歯が痛んで、無意識に強く噛みしめていたことに気が付く。

「なあに、お前の献身のおかげで我が国は安定するのだ。そもそもお前の王位継承権は最下位であるし、むしろたま輿こしに乗れるのではないか? ん?」
「……そう、ですね」

 ここで僕がどう反発しようとも、兄にとっては些末事さまつごとでしかない。結局自分の思い描いた話にしか興味がないのだ。自分の恋人に懸想けそうした挙げ句、彼女を陥れようとした哀れな弟という立ち位置は、きっともう僕が何を言っても変わらないのだろう。
 もう、僕の知る優しい兄はどこにもいないのだ。
 僕が従順に頷くと兄は随分気を良くしたらしく、口がさらに軽くなる。

「そういえばお前は昔、城の外れでヘビを拾って育てていたじゃないか。良かったな、これも何かの縁だろう。ククク、ヘビが繋いだ縁かもな」

 何が縁だ、それなら兄上が結婚したらいい。
 そう叫びたい気持ちを、膝の上で拳を握りしめてやり過ごした。今この人に言い返しても自分がみじめになるだけだ。
 だけど確かに昔、十歳にもならない頃、城内で手のひらに乗るくらいのヘビを拾ったことがある。真っ白で美しく、だけど弱っているのか大人しい子だった。人懐っこいそのヘビをしばらくこっそり離宮の自室で飼っていたけど、兄に見せた後で周囲に見つかりとがめられてしまい、気が付けばヘビはどこかに消えてしまっていた。
 ひょっとしたら。
 僕は今更ながら、ふいにあることを思い出した。
 あの時の騒ぎもひょっとして、兄のせいだったのだろうか。
 笑顔で接してくれていた兄の笑顔が、どこか強ばっていたことを思い出す。僕がヘビと一緒に木登りをしていた時に、兄が下りてこいと珍しく声を荒げていた。楽しそうにしていたのが気に入らなかったのかもしれないし、ヘビが苦手だったのかもしれない。兄は高い場所が苦手だというのは、もう少し後になって知ったことだ。
 そういえばそれ以前にも似たようなことがあった。迷い込んできた子猫を保護したら、いつの間にか兄のペットになっていたり、もらった美しい鳥を兄に強請ねだられて差し出したこともあった。
 どうして僕は今までそれを忘れていたんだろう。
 兄は決して、優しいだけの人ではなかった。
 それだけ今まで僕は、無意識に兄に心酔していたのかもしれない。構ってもらえることが嬉しくて、声を掛けられて心を弾ませていた。
 第一王子として育つ兄の、周囲の期待はきっと重い。僕にはそれを理解することはできないが、もしかしたらその憂さを僕で晴らしていたのだろうか。
 つまり兄の本質は昔から一貫して変わっていないのかもしれない――そんな悪い方にばかり考えてしまい、僕は思考を止めた。今はもう、兄のなにを理解しようと手遅れだ。
 理想の兄の姿が崩れゆく中で、あざけるように目を細めて僕を見つめる男が目の前にいた。
 男は下卑た笑みを浮かべたまま、動作だけは優雅に首を傾げる。

「これでナイナイ王子脱却だな? 婚約おめでとう、弟よ」
「ありがとう、ございます」

 僕は零れそうになるため息を噛み殺して、淡々と応えるしかなかった。




   第二章


 兄によって再び通学を許された学園だが、それはもうかなわなかった。
 結婚を通達されたその翌日から、その準備に追われるようになったせいだ。王族の結婚、特に他国との政略結婚であれば、本来ならその準備には年単位を要する。
 ところが今回の結婚は龍人国の要望により、平民でも考えられないほどの早さで執り行われることとなった。なんと二週間後には先方が我が国にやって来て、こちらで結婚式を挙げるという。僕が告げられた時点で既に国同士で婚姻が了承されていたのだろうが、それでも異例のスピードだ。
 そのため仕立屋が来て新しい服の採寸をしたり、社交に関わるマナーの再教育と、この国の看板を背負って婿入りするためニヴァーナ王国史の総復習が行われた。
 今までは王位継承権も低く、母の生きていた頃は離宮でのびのびと育てられたせいもあって、こんなものかと放置されていたのだろう。フォークの上げ下げから歩く姿勢まで、宛てがわれたマナー講師とやらが事細かに注意してきて辟易へきえきした。
 龍人国側から申し出されたこの結婚は、向こうの風習が優先されるようだった。僕と花嫁は一ヶ月ほどニヴァーナ王国で過ごし、その後は龍人国へ行く。
 恐らく二度と帰って来られないのでしょうね、と言ったのはある程度の事情を知らされているマナー講師だった。龍人との結婚はまだ城内でも極秘扱いで、内情を知っているのはごくわずかだ。
 であるにもかかわらず、この結婚を知っている者は、なぜか僕の前でも相手を悪し様に言う。わざわざ他国での挙式を希望するくらいなのだから、よっぽど龍人国内で嫁のもらい手がなかった娘かもしれない。そう口にする者もいたし、化け物が城内に侵入するなどおぞましいと震える者もいた。ただ全員こう言うのだ。「結婚するのが自分でなくて良かった」と。
 気持ちは分かるが、向こうだって他国の人間との結婚で不安もあるだろう。その上いくら政略結婚とはいえ、見た目も能力もパッとしない僕を婿に取らなければいけないのだから、それはそれで申し訳ない気持ちになる。
 少なくとも我が国では、きっと誰にも祝福されない結婚式になるだろう。
 どんな女性かは分からないが、一生に一度の晴れ舞台でそれはあまりにも酷ではないか。
 僕のつまらない外見はもう変えることができないけれど、それならばせめて優雅に立ち振る舞えるようにした方がいいだろう。少しでも見栄え良く、未来の妻の隣に立ちたい。
 結婚が言い渡されてから一週間でようやく、僕はそんな風に思えるようになってきた。
 政略結婚の事実が変わらないのであれば、少しでもまだ見ぬ妻に歩み寄りたい。いかに龍人といっても女性は女性、夫である僕が口さがないこの国の人たちから守らなければいけないだろう。

「イル王子、眉間に皺が寄っていますよ。王子たるもの優雅にお過ごしあそばせ。貴方はこの国の顔として、龍人国に婿入りするのですからね」

 そう注意してくるのは、ふくよかな体型のマナー講師だ。二週間後にはこちらに姫が到着することが決まっているため、僕の仕上がりにマナー講師も焦っているのだろう。言葉の端々に棘がある。

「第一王子であれば十の頃にはこれくらい身に付けてらっしゃったのに……やはり踊り子風情ふぜいが母親では、こんなものなのかしらね」

 訂正しよう。端々どころではなく、表立って失礼な人だ。
 僕の出自がさげすまれていることは理解している。面と向かって言い放つ人間は少ないものの、陰口は子供の頃から言われ慣れていた。
 だけどさすがに望みもしない婚姻を、心の準備が整う前に押し付けられた僕に対して、少しは同情してくれても良いのではないだろうか。
 それも人間ですらない、龍人との結婚を国のためにするというのに。

「ま、どうせヘビみたいな怪物が相手ですものね。多少おかしくても気が付かないかもしれませんわ。そもそもあちらの国に食器すらなかったらどうしましょう。ねえ王子」
「……そう、ですね」

 自分の無礼さを棚に上げ、コロコロと笑うマナー講師だったが、それでもその後も指導は続く。
 疲れた顔をする針子たちに連日囲まれ、足が痛くなろうと何時間もダンスを踊り続けた。我が国の歴史を再度教え込まれて、いかに他国に比べて優れているかを学者に力説される。
 だけど誰一人、龍人国のマナーや歴史、文化について触れようとはしない。僕が向こうへと行くのだから、あちらに合わせるべきだと思うのだが、本当に情報がないのだろう。

「化け物」
「怪物」
「人間じゃない」
「どうせ野蛮人」

 周囲の人間から漏れ出る本音は、仮にも婚姻を結ぶ相手国へ向ける言葉とは思えなかった。
 いや、僕自身もそう思っていないと言えば嘘になる。
 だけど周囲から言われれば言われるほど、それは果たして真実なのかという気持ちになっていた。
 蛮族ばんぞくが国をそこまで大きく、そして破綻なく維持できるだろうか。
 怪物だからという理由だけで、龍人国は他の国々から恐れられているだろうか。
 独自に発達させた文化があるという彼らは、本当に僕たち人間よりも劣っているのだろうか。
 そんな疑問を抱いているのは、僕だけのようだった。
 あくまで龍人はヒトより劣り、国土こそ小さいもののニヴァーナ王国の立場は上で立派だと、そう妄信している。その立派な国ではもう何年も、農民は飢餓にひんしているのに見ないふりだ。
 僕は下賤の国に婿入りするみじめな人身御供ひとみごくうで、何も持たないナイナイ王子。最期に国のために役立つなら名誉なことでしょうと、そんな周囲の空気を痛いほど感じた。
 だけど誰も知らない龍人国は、本当はどんな国なのか。
 夜、一人になる度に書庫から引っ張り出した本をめくった。
 旅行記に書かれた龍人国の様子からは、野蛮な獣だという印象は全く受けない。むしろ豊かで恵まれた国のようにすら思えた。ほんのわずかなその手記は、もう読まなくてもそらんじられる。
 まもなく暮らす、僕の知らない隣の国は。

「本当はどんな人たちが住む所なんだろうな」

 この結婚が決まってからずっと考えていた。
 たとえお互い望まない結婚であっても、少しでも歩み寄れるのではないかと。縁あって夫婦になるのなら理解し合えるのではないかと。
 何度も読み返したページに繰り返し触れる。
 艶のあるインクを指でなぞっても、そこからは文字の情報以外何も伝わらない。
 不安はある。恐れもある。だけど最近はそこに、わずかに期待や楽しみも交じってきた。

「尊敬できる女性だったらいいな」

 王族の結婚に愛が芽生える可能性は低い。それでもせめてお互いを大切に想い合えたなら。
 そう思ってしまう僕は、やはり無意識に結婚に夢を見ていたのだろうかと自嘲する。
 踊り子であった平民の母は、王である父を愛していた。
 だけど父にとって母は一時の愛人であり、その想いは長続きしなかったのだろう。身籠もった母を離宮に閉じ込め、ほとんど訪問することもなく僕共々放置していた。
 僕の前ではできるだけ明るく振る舞っていた母だったが、ふとした瞬間にその表情に暗い影を落とし、それは月日が重なるごとに顕著になっていた。
 狭い離宮では時々、夜中に母のすすり泣きが聞こえたものだった。母は父をずっと愛していて、だからこそ苦しんでいた。結局最期も愛する父に看取られることなく、寂しく息絶えてしまった。
 あの母の悲しみが愛だというのなら、僕は愛なんていらない。
 そう考えればむしろ、龍人国との政略結婚で良かったのかもしれない。
 愛などない方が、良い関係を築けるのかもしれないのだ。
 そうしてめまぐるしい日々を過ごしているうちに、あっという間に約束の二週間後がやってきた。


   ◇◇◇


 ついに、僕の花嫁がやってくる日となった。
 今日こんにちに至るまで、この国で龍人と結婚した者はいない。少なくとも国が把握している婚姻はゼロだ。前例が一切ないため、今回の婚姻に関わる向こうの要望は全て承諾したと聞いている。
 第一に、結婚後一ヶ月はこの城に二人で滞在すること。
 第二に、可能であれば離れを用意すること。
 僕が聞かされているのはこの二つだけだったが、それでもどちらも承諾できる程度の要望だった、というのもあるだろう。
 要は婿の実家の様子を見たいのかもしれない。我が国にも、少しは興味を持ってくれるだろうか。
 一ヶ月の滞在中は、僕が小さい頃に住んでいた離宮を用意してある。大急ぎで修繕し、必要以上に美しく豪奢ごうしゃに整えられたそこは、これだけの用意ができる国だという見栄も感じられた。その費用をどこから捻出したのかと思うと暗くなってしまうが、必要な見栄だと思うことにした。
 僕としても突然異国での生活が始まるよりは、少しでも慣れた自国で結婚生活を始められるのならそれに越したことはないしありがたい。とはいえ肝心の新妻は人間ではなく龍人だ。いかに離宮に籠もろうと、箝口令かんこうれいを敷かれようと、口さがない貴族に何を言われてしまうか分からない。
 妻である女性を、夫である僕だけは守ろう。
 僕はこの二週間で、そう決意していた。当初に比べて、心は随分穏やかだ。 
 深く息を吸い、そして吐く。今日のために作られた柔らかなジャケットの襟を整えて、クラヴァットが曲がっていないか確認する。
 明るい午前の日差しを浴びた鏡の中の僕は、いつもと同じ表情をしていた。

「大丈夫。落ち着いていこう」

 僕は自室の扉を開け、廊下へと出た。部屋の前に立っていた騎士が無言で僕の後ろをついてくる。
 今までは僕にこんな護衛はいなかった。結婚が決まった途端に配置された彼はきっと、僕が逃げ出さないか見張っているのだろう。
 万が一僕が逃げてしまったら、龍人国との和平が決裂してしまう。王である父にとって、間違いなくそれは避けたい事態なのだろう。いくらなんでも無責任に逃げるつもりなんてないのだが。

「イル王子、お早めにお願いします」
「分かってる」

 護衛騎士がそう声をかけてくる。向かっている先は、この城で一番大きな貴賓室だ。


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