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〈碧泉亭風味〉カップ焼きそばの作り方

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 一口にカップ焼きそばと言っても色々ある。
 代表格はペヤングソース焼きそば、それに対抗するはUFO。ひと頃ほどの勢いはないが一平ちゃん夜店の焼きそばもすっかり定着しているし、近頃はごつ盛りの焼きそばもある。ご当地ということで道民おなじみのやきそば弁当なども外して考える訳には行かない。
 色々ある中で何をチョイスするにせよ、全てに共通するのは「焼き」そばではないことだ。今更なことを言い出すようだが、製作工程はどの商品においても「お湯を注ぎ、所定の時分を迎えたらお湯を切り、ソース等の味付けを施して食す」というのが基本ラインである。焼かない。ま、そもそも論で言えば元々の「焼き」そばという名称自体が錯誤のようなものなので致し方ない。むしろ「炒め麺」というのがポリティカルにコレクトネスを保持した呼称であると言えよう。
 さてこんな所でヒネクレていると「喰わんのなら閉じる」と、どこかから念のようなものが飛来するであろうから、イヤマッタクアイスミマセンと第一段階の商品選定から着手することに執心せねばならぬのである。
 ひとまずの個人的好みで言えば、ソースと辛子マヨネーズとの組み合わせが若干のリードを(恐らく二馬身ほど)見せているので、ソースの味も濃いめで嬉しい明星食品の一平ちゃん夜店の焼きそばを頂くことにしたい。執心と言ったがだいぶアッサリ決まってしまった。いや他の商品の否定的要因も論うことはできるのだが、ここでの主旨には沿わないだろうから割愛とならざるを得ない。済みません。
 手に取ったら何をするかと言うと、外装フィルムの検分である。昭和の人間は生きた年数が長い分、苦い思いを沢山している。外装フィルムを何の躊躇いもなく破り捨て、中から姿を現したのっぺらぼうのような本体に愕然とするなど、苦汁の極みと言えよう。のっぺらぼうである。何にも書いてないのである。「作り方」とか、「召し上がり方」とか、「食事として提供可能な状態に加工する手段」とか一切書いてない──そんなことで地団駄踏んで沸かしたお湯を無駄にするような時代もあったのである。どうしたかというと、ごみの中から外装フィルムを戻奪するのだ。そしてビリビリのそれを矯めつ眇めつ、なんとか作り方を読み取ったりという経験もあるものだから、まずは外装フィルムをよく見るのである。
 ここでの問題は、「内容品としての小袋の数および小袋のさらなる内容品」と、「その小袋の内容品をいつどのように利用するか」である。これでステップを踏み間違えると、薄めソース湯に浸かった油揚げ麺と湯戻し不十分な乾燥キャベツそして水分を含み放題含んで前歯に付着しやすくなった青のり達に口中でブレイクダンスを満喫されるような羽目に陥るのである。
 確認したら、次は外装フィルムを剥がして、本体に同様の手引が記されているかを確かめるのである。近頃の商品は親切なもので、おおよその品の外装と本体の両方にこの指南があるので助かることが多い。だが昭和(中略)無駄になろうとも確認せざるを得ないのだった。
 ああそうだ、お湯を沸かさなければ。ここでまた躓くのだ。むろん、地団駄を踏んでもいい。
 ヤカンはどこだ。最もシンプルに、水分を煮沸させるあの道具。人が思い浮かべるとなぜかご家庭には無いはずの、真鍮色をした達磨にも似た形状の、あの。──と言いつつ我が家の厨房にもそんなモノはないが。
 使い慣れた二・六リットルのステンレス製広口ケトルに水道蛇口より注水を開始する。そこではたと気付くのだが、そう言えば湯の量はどれだけ必要なのだろう。ああしまった、このあたりも近頃の親切なる外装表示には記載があったはず。しかしそうこうしている間にヤカンには充分な水量が補填され、しっとりと重みを湛えてそこにあるのである。
 まあいい。火力をもって加熱しさえすれば、それは水から湯に化ける。そいつをスチロールだかポリウレタンだかの容器に注ぎ込んでしまえば、おおよその片は付いたようなものだ。言うなればコッチノモンである。なお容器の材質は外装表示に(略)。
 蓋をキッチンシンクに落として洗い直すなどという煩事も経由したが、ともあれ無事に煮沸の状況には移行した。よしよし、文明の勝利とはこういう所でも表れるものなのだ。
 やがてヤカンの中の水は、その底の方から表面に昇り、その分子を一七〇〇倍の体積に膨らませて狭隘な口から立ち上ってくる。ああ、この瞬間なら解る、この水の星が何故七割も水面で覆われているのか。
 しかし今は星の成り立ちとかいう下手に遠大なテーマより、もっと卑近で高尚な文明の産物である混沌を優先に考えなければならぬ。あの整然と波打つ油揚げ麺の塊に、一七〇〇分の一のまま残存した摂氏九九度を襲い掛からせるのだ。熱湯だぜ。玉露を淹れる温度でないぜ。
 迂闊に注ぎ込むと、もうもうと立ち上る湯気に逆襲されることになる。ここはちょっと慎重に行きたい。何事にも作戦は大事であると、三国志で孫策あたりも言っていた。知らんけど。
 大は小を兼ねる。いわゆる内側の線に掛かるように熱湯を注げばよいというのは、それこそ昭和の昔から変わることなく連綿と続いている伝統だ。この発想はノーベル賞ものだ。幸いなるかな二・六リットルのヤカンにはそれに充分な量が収容されていた。湯気に視界を邪魔されつつそのラインまで注ぎきると、いよいよカウントダウンの始まりとなるのだ。
 素早く蓋を閉じ、開けた角からはみ出すようになっている耳を容器のへりに折り込んで止める。蓋が開いて熱が逃げるのを防ぐ為だ。そうしたら次いでタイマーを作動させる。
 三分と、公式には謳われているし、世の中もその認識でまかり通っている。だがここで、カウントダウンからのタイムラグを考慮しておきたい。時間と質量の相関性には敏感でありたいと、アインシュタインも相対性理論を通して論じている、はずだ。きっと。
 入力する値は「二分四十五秒」。十五秒を削ることで、注ぎ終わりから湯切り開始までの時間を限りなく三分に近づけようという作戦である。一つ一つの行動に意味を持たせるというのはガリア戦記でカエサルが、……まあいい。
 さてそこから与えられる時間というのは、長いようで短く、短いようで長い。公式の三分を秒に換算すれば、それ即ち百八十秒。十五を減じて考えても百六十五秒という、数えるには多い数値となって眼前に立ちはだかる。それを実際に数えてくれているのはタイマー氏であるのだが(ここに於いてタイマー「氏」のジェンダーは抜いて考えられたい)、我々の間に流れる時間は厳に等しい。かと言って三分弱、油断をしていると呆っという間に流れ去ってしまうのである。何を以てこの時間を消費するに充てるか、諸氏は如何に答えを出されるであろう。想像を巡らせるのもまた一興というものだ。
 だがここは思索でむざむざと分刻を送ってしまうのは、折角削った十五秒に対して申し訳ないというもの。ここは有効に活用しなければと考える。進められるステップは、だがそう多くはない。箸の支度をしておくか、食卓を整えるか、または後でのどが渇くであろうと先手を打って飲み物を用意するか…。どれを採っても、また全てを済ませても、実のところ百秒にも及ばないことが殆どだ。強いて言えば箸の支度だが、割り箸を用いる場合にのみ細心の注意が必要だ。可能な限り真っ直ぐに割るように、また品質にも依るがササクレが目立っていればそれを出来るだけ除去したいものである。それにより、極々近い未来にあるべき実際に食する際の手許の取り回しが楽になるというものだ。
 ところが、である。ここで注意を怠ると、万端整えていざ臨む焼きそばの製作過程に瑕疵が起こることになりかねない。熱というのは、水の分子を一七〇〇倍に膨れ上がらせるというのは先程も述べた。その熱がまた別の悪戯をやらかす危険性に、もっと目を向けておくべきだったのである。
 耳をしっかりと折って閉じておいた蓋が、開いている!
 その事実は驚愕をもってこのキッチンに、このキッチンを構成するすべての存在に遍く衝撃をもたらした。
 なるほど物質というものは、およその場合熱を与えられるとその凝固力を緩ませる。明星一平ちゃんの場合、蓋は紙製だ。ペヤングのような化学合成物質の蓋ではないので、よりダイレクトに熱の影響を受けやすい。そう、折った耳は熱により緩んで、結果として蓋が開いたのである。
 …いつからだ。
 厳密なスケジューリングは乱された。そのリカバリを行うとなると、湯切りのタイミングも若干の順延にて行わなければならなくなる。
 いやそれよりも、今ここで即座にやらねばならぬ事がある。蓋を元の閉じ具合に戻すことだ。為すがままに熱が逃げる状況を放置するなど、この非常時にあってはならない。
 まあ一般論で言えば、このような事態に陥ったところで味や食感に大して差は出ないと言えるだろう。だが──ややメタに言ってしまえば──ここまで大仰に只の三分とその前後を書き綴っている身からしても、これを放置するというのは言わばアイデンティティの崩壊にも繋がる重大事項なのである。
 さて解決策であるが、幾つか挙げることができる。セロテープ、重石、ラップ、輪ゴム、画鋲、ホッチキス…クリップなどで止めるのも手だろう。しかしどれもその後で取り外すのに手が掛かる。この段階において最も重要なことは、如何にスムーズに湯切りフェーズへと移行できるか、その一点である。全ての行動をそこに集中させねば、理想の目的地へは辿り着けないのだ。
 結局のところ、購入時に共に袋に放り込まれた割り箸を、容器の対角線上に配備することで蓋を押さえるに至った。この時点でタイマーの残は五十秒。せめて発見時の残時分を確認しておくべきだったのは痛恨のミスと言えよう。これにより、ロスタイムのカウントが若干変動してくるのである。おおよそ、作業工程からの推測によって割り出されるそれは──、五秒乃至七秒と言ったところか。
 よろしい、中央値を採って六秒のロスタイムと定めたい。即ちそれは、タイマーの設定を最初から「二分五十一秒」としたこととする、という裁定である。やんぬるかな、利用のタイマーにはカウントダウン機能のみでその後のロスタイムカウントアップ機能は装備されていない。ここはその六秒を手動で数えるとしようではないか。脆弱な存在たる人間の、盤石たる時間に対する大いなる挑戦である。かと言って正確性などは備えていないのだから、コンマ何秒というところまでは取り沙汰せずにおきたい。せいぜいタイマーの最終カウント十秒程に合わせて、その延長六秒の計数を自前で行うというあたりで大丈夫だろう。
 それをもって、三分が経過したものとする。
 ……最高裁判決平成十二年三月二十日小法廷第二十五号、とか付けるとぐっと信憑性を増すではないか。三権の長に保障されたかのような、この安全安心の感覚。湯切り開始のタイミングは、大いなる法により定められたものである──実に心地が良い。
 思わず口の端も上がるが、開くのは全ての製作過程を終えての後、このカップ焼きそばを食する際までとっておきたい。
 さあ、いよいよ勝負の時が近づいてきた。タイマーがそのカウントを終えるのだ。さながらここはNASAかJAXAのコントロールルーム。二十秒を切ればもうカウントダウンに釘付けだ。そのリズムを、短時間で心に、体に刻む。ロスタイムを自分という時計に移してカウントする為だ。ロケットの打ち上げなら、ミスは許されない。大いなる夢のために、過酷な訓練と綿密なスケジュールを経てそこにたどり着いた宇宙飛行士や各スタッフの艱難辛苦を思わなければならない。十五秒、十四秒、十三秒。凝視する眼鏡のレンズすらもどかしい。十秒切った、九、八、七。よし掴んだ、このリズムだ。
 四、三、二、一、O.K.ロスタイム、カウントアップ、ゴー──

 小法廷もJAXAも、あったものではなかった。
 せっかくのカウントアップも、六秒ぽっち、瑣末なものだった。
 このあとは、是非とも後進の諸君に同じ轍を踏むことのないよう、戒めとして書き記しておく。愚かな一人の人間の手記だ。
 想像に難くないことと思われるが、そう、湯切りに失敗したのだ。いや、ここで勘違いしないで頂きたい。決して「だばぁ」したわけではないのだ。そこは信じて欲しい。何しろ明星一平ちゃんである。湯切り口はしっかりと糊で止まった、浮いてしまった蓋の対角線だ。
 白状しよう。この自分、完璧な流れを描きすぎた。各進行状況の前後に、もっと「揺らぎ」の時間を取るべきだった。それによる焦りや、状況把握の不足がこの悲劇とも喜劇とも言えない、遣る方ない憔悴を喚ぶことになってしまったのだと反省する。
 一言で言えば、熱湯が熱いということを失念していた。一七〇〇倍に膨れ上がる物質は上昇気流に乗るのだということを、分かっていたはずなのに解っていなかった。
 もちろん知っている。それは既に九九度などではない。しかし表層からはまだまだ一七〇〇倍が立ち上ってくるのだ。ではそれらは如何にして、この製作過程を妨げたのか。
 湯気というものは、水分であり、沸点である所の摂氏百度を上回れば一七〇〇倍、下回れば一七〇〇分の一と、膨縮激しい物質であるのはご承知の通り。ではその一七〇〇倍の壁を超える時にどのようなことを引き起こすか。一例を挙げておこう。
 透過性のある物質に、曇りを与えるのである。
 平たく申せば、眼鏡が、曇った。
 更に述べれば、目にも入った。
 キッチンシンクに落下させた、湯。そこから立ち上る、湯気。もうもうと、という表現さながらに、こちらの顔面を襲い掛かったのである。
 次の瞬間、そこにいたのは焼きそばに心を浮かせる現代日本の人間ではなかった。哀れ、苦心の末に祖先の築き上げた理想郷へ舞い戻るも「禁断の呪文」を唱えられてその網膜を焼き切られてしまった、あの特務の青二才氏の再来であった。ついでに言えば容器にも熱が回り、湯切り不十分なままそれはキッチンシンクに置き去りになった。
 後は、ご想像にそぐわないであろう。推定湯戻し時分、およそ五分と四十秒。完全なるオーバータイム、ともすれば倍の時間をかけて湯戻ししてしまったことになる。
 どういうことが起こったか、念の為に説明しておこう。
 眼鏡と眼とが正常に視覚を捕らえるまでに、つまりは二分四十秒ほどかかってしまった。その間に油揚げ麺はどんどん水分を吸収してゆく。理想の食感、ソースの絡み具合、そうしたものを全てせせら笑うように。
 漸く現場に戻り、這々の体で原状回復を試みたが、もはや後の祭りというやつで。湯切り口から流れ出たブリリアントストリームは、計算とは明らかに異なる、少ない水量でしかなかった。温度も低い。その証拠に今度は眼鏡も曇らない。
「食べられればいい」という御仁もあろう。だが、この明星一平ちゃんを選んだ理由の一つが「味の濃さ」であることをお忘れ頂きたくないのだ。水分を規定以上に含んだ油揚げ麺は、その後の味付けに大いに瑕疵を生じる。即ち、薄味にならざるを得ない。これは大変な失地であり、もはや挽回も不可能なのである。
 だからといって、ここで食すること自体は辞めなかった。共に頑張ってきたヤカン、割り箸、役割を待ち続けたソース、ふりかけ、そして辛子マヨネーズ。彼らのことを思えばこそ、ここで立ち止まるなどという選択肢はなく、譬え伸し掛かってきても最優先、絶対に排除せねばならぬ分岐点なのである。
 失意を奮い立たせ、改めて製作過程を辿る。ああ、もはやゴールすらままならなくなったであろうマラソンランナーが、それでも最終地点のテープを目指して、片足を引き摺ろうとも走り続けるかのような。それでもまだ、食べる事ができるという希望はあるので、ちょっと大袈裟に言いすぎたきらいはあると自覚しつつ。しかしその先にある結末は、決してスタートで思い描いたものなどではなかった、それについては共通であろう。
 ソース、済まない。君の最も輝かしい筈だった役目を、充分に果たしてもらう事ができなかった。
 ふりかけ、申し訳ない。ソースの味付けあってこそのアクセントなのに、それがぼやけてしまう結果を引き起こしてしまった。
 辛子マヨネーズ、ありがとう。君がいなければ最後の希望にも彩りを見出すことができなかった。出来れば万全のコンディションでそのポテンシャルを発揮してもらいたかった。
 酷暑のストックホルム・オリンピックで行方不明という公式記録のまま帰国、五十四年八ヶ月の後にIOCの計らいによりゴールを果たした金栗四三氏には到底及ばないが、所定の倍近くの時間をかけて完成した、伸びてふやけた「焼きそば」。この味を、この些細ではあるが犯した誤謬を、決して再び起こすまいと胸に誓って。
 いただきます。
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