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RESTART──先輩と後輩──

崩壊(その二十)

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 些細な理由だった。本当に些細で、他人からすればどうでもいい……かもしれない────





「……クラハ……」





 ────そんな理由だった。










 メルネに今日はもう帰ってもいいと言われ、結局。あの後、ラグナは『大翼の不死鳥フェニシオン』を後にし、諸々で色々な、複雑に混み合った事情故に。居候させてもらっているメルネの自宅へと帰っていた。

「……疲れた」

 帰宅早々にそんな独り言を漏らすラグナ。しかし、無理もない。今日あった出来事の全てをかんがみれば、むしろぼやいて当然と言うべきだろう。

 肉体的にはともかく、精神的に疲弊したラグナは。ただ真っ直ぐに寝室へと向かった。

 寝室に入るなり、やや乱雑に着ている服を脱ぎ、その辺りに適当に放る────だけに留まらず。ラグナは下着すらも脱ぎ去り、服と同じように放った。

 ……まあ、確かに。今の身体にとって、女物の下着類ブラジャーとショーツ────特に前者が如何に有用で、そして必要であるかはラグナとて重々理解し、身に染みて承知している。

 しかし、だからといって。これらがあくまでも女物であるという根底は覆らないし、根本も変わらない。そしてそれはラグナにとって非常に重要なことであり、どうしても譲れない部分だった。

 何故ならば、自分は男なのだから。男で、ラグナ=アルティ=ブレイズなのだから。

『あなたは受付嬢だ』

 たとえ、面と向かってそう言われても。どれだけ、幾らそう言われようとも。

 それでも、ラグナはそう思い続ける────否、思い続ける他に、ない。

 ……とまあ、もっともらしい理由を並べはしたものの。謂わばこれらは建前のようなもので。無論、他の理由だって当然ある。

 女物の下着類を身に付けているのは、精神的に苦痛だ。辛い。色々(主に胸周り)と楽であることは確かだし、快適であることは認める。

 が、だからと言ってラグナはずっと身に付けていたい訳ではない。……寝る時くらいは、脱ぎたい。

 というか寝る時くらい別に脱いだっていいだろう。脱いで、少しでも女物から離れたい。

 それに別に脱いだって、誰も文句は言わないはずだ。……たぶん。

 そうして誰の目にも映ることのない寝室とはいえ、メルネが目の当たりにしたら絶句し、間違いなく叱るであろう、あまりにも躊躇いも迷いもない、ある意味漢らしい脱衣を終えたラグナは。

 一糸纏わぬ裸体のまま、寝台ベッドへ歩み寄り、そのまま倒れ込む────ことはラグナも流石にはしない。

 その前に畳んでおいた寝間着ナイトウェア代わりの、ラグナが着るには少し大柄なシャツ。それをラグナは引っ掴み、羽織る。そうしてようやく、寝台に寝っ転がるのであった。

 ボフンッ──勢い良く倒れ込んだラグナの身体を、文句の一つもなしに受け止めた寝台が、軽く撓んで軋んだ音を立てる。

 ──……。

 特に大した意味もなく、寝台の上で仰向けになったラグナは天井を見つめる。

 そうしていると自然に今日の出来事を振り返る。

『僕はもうあなたの後輩じゃない』

『あなたはもう僕の先輩じゃない』

『僕は冒険者ランカーだ。あなたは受付嬢だ。……いい加減、その事実を理解してください。その現実を受け止めてくださいよ、ラグナさん』

『たかが受付嬢でしかないあなたに、僕が心配される筋合いなんてありません』

『少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない』

 脳裏で次々と浮かんでは、瞬く間に消えていくことを延々と繰り返すその光景と。こうしていつまで経ってもはっきりと鮮明に響き続ける、鼓膜にこびり付いた声。それらがラグナの精神を磨耗させて、蝕んでいく。

 ──あー……駄目だ。本当に、駄目だな奴だ。

 これ以上こうしていたら、どうにか────。恐らく、きっと。

 いっそのことどうにかなってしまえば、どうにかなれれば、それで楽になれる。そのはずだとはラグナも考えているし、そう思っている。しかし、ラグナはそれを選ばない。否、

 正気の限界、更にその先へ。崖っ縁から飛び降りることを、ラグナの理性は許さない。許してはくれない。それはもう、精々する程散々わかっていた。

 だからこうして、執拗に。しつこくねちっこく、自分は苛まれて甚振られて苦しんでいるのだから。

 こうして、狂気に走ることもできず、無理矢理に正気の只中に立たされ続けているのだから。

 苦しい、辛い、堪えられない────故にラグナは、ごろんと寝返りを打った。

「頭回んねぇ……もう、寝る」

 枕に頭を沈ませ、弱った声音でそう呟き、ラグナはゆっくりと目を閉じる。こうして起きていても、良いことなど何一つなく、碌でもないだけだ。

 どんなに最低な状況下でも、どれだけ最悪な心境下であっても。良くも悪くも人間の身体というものは欲求に忠実である。特に食欲や性欲、そして睡眠欲に対しては。

 それはラグナも決して例外ではない。次第に睡魔が迫り、そしてラグナに覆い被さる。

 そうして少しの間を置いて、ラグナは静かな寝息を立て始めるのであった。




















「僕は行きます」

 暗澹とした、真っ暗闇の最中で。不意に、そんな声が聞こえてきた。それはよく耳にし、聞き馴染んだ────他の誰でもない、クラハの声だった。

 ──……クラハ……?

 判然としない不鮮明な意識の只中で、ラグナは胡乱げに呟く。そんなラグナに構わず、クラハの声が続ける。

「この街に戻るつもりはありません。……そしてあなたの元にも」

 ──はあ……?……はあ!?

 その言葉はラグナを困惑させ、動揺へ突き落とすには充分過ぎて。そしてラグナの口をこじ開けさせるのには、あまりにも事足りていた。

 ──クラハお前何言って……!

 ラグナ自身、それは口に出していた。が、

 遅れてそのことに気づいたラグナは、更に混乱する。

 ──な、何で口開かなっ……!

 そんなラグナのことなど放って、置き去りにするように、クラハの声が尚もこう続ける。

「僕にはもうその資格がない。……その資格を、自らの手で捨ててしまったから」

 クラハがそう口にした瞬間、一寸先すらも見通せぬこの暗闇が。跡形もなく消し飛ばされるようにして、そうして晴れ渡って。

 最後にラグナが目にしたのは──────────残酷な程に優しい笑顔を浮かべる、クラハの姿だった。




















「……………」

 気がつけば、そこは元通りの寝室であった。が、先程と打って変わって部屋全体が薄暗く、今がもう陽が落ちた夜なのだと、如実にラグナに伝える。

 シャツが濡れている。濡れて、肌に張り付いている。大量に滲み出た寝汗の所為だ。気色の悪い感覚────けれど、それにラグナが不快感を示すことはない。否、その余裕がない。

 数秒経って、呆然とラグナが呟く。

「……クラハ……」

 それから寝台から弾かれるように降りて、周囲に散らした衣服を拾い上げ、慌てて着替えたラグナが寝室を飛び出すのに、そう時間はかからなかった。

 メルネの自宅を後にし、ラグナはオールティアの街道を駆ける。息を切らし、汗を流し。時折何度も転びそうになりながらも、未だ活気良く行き交う人々に危うく衝突しそうになりつつも。それでも、ラグナは走ることを止めようとしない。

 遮二無二に我武者羅に、ただひたすらに。走って、走り続けて。そうやって、ラグナは街道を駆け抜けた。

 ──クラハ……ッ!

 それだけで、頭の中を埋め尽くしながら。そして遂にラグナは目的地に辿り着く────『大翼の不死鳥フェニシオン』の前に。

 無茶苦茶に息を乱したまま、ラグナは門を押し開き。そのまま倒れ込むようにして中に入る。

 何事もなく、日常いつも通りの喧騒を謳歌している『大翼の不死鳥』の冒険者ランカー達。その中の一人が、不意に開かれた門を見やった。

「ん?何だぁラグナ。そんな息荒らして、どうしたんだ?」

「わ、りぃ……また、後で……」

「お、おお。何があったのかは知らんが、無理すんなよ」

 その冒険者の気遣った言葉を背に、ラグナはフラフラと危なげな足取りで、受付台カウンターの前にまで歩く。

「え……?ラ、ラグナちゃ……さん?」

 今受付台に立っていたのは、シシリーであった。彼女は目を丸くしながら、今にも力尽きて倒れてしまいそうなラグナに対して、疑問と心配が入り混じった声音で訊ねる。

「一体どうしたんですか?確か今日はもう帰ったはずじゃ……?」

「シ、シリー……っ」

 しかし、両手を膝に置き、肩を大きく上下させ、息絶え絶えに。シシリーの問いかけに答えることなく、ラグナは逆に訊ね返した。

「クラハ……クラハはもう、戻って、来てんのか……?」

「えっ?は、はい。ウインドア様ならつい先程戻って来られてましたよ?」

 それをシシリーから聞いた瞬間、堪らずラグナは苦しげな顔を安堵に綻ばせてしまう。それからすぐさま、彼女に次の質問をぶつける。

「じゃあ今どこにいんだ!?」

「い、今はGMギルドマスターの執務室にいるはずです」

「わかったっ!あんがとっ!」

 シシリーにそう礼を言うや否や、ラグナはその場からまた駆け出し、受付台を後にする。

「ちょ、ちょっと待ってくださいラグナさん!」

 そんなラグナをシシリーは呼び止めようとしたが、叶わずラグナは執務室へと向かってしまう。それを見届けてから、彼女は困ったように呟いた。

「どうしよう……執務室には今、ウインドアさんの他にもメルネさんやロックスさん、それにGMの皆さんが集まって、何やら大事なお話をしてる真っ最中らしいんだけど……大丈夫なのかなぁ」










 とっくのとうに息は切れているし、胸も痛い。それに足だってジンジンと痺れて、今すぐにでも素っ転んでしまいそうだ。

 けれど、それでもラグナは進むことを止めない。足を止めることなく前へと進み続ける。今はただ、執務室を目指して。

『お前がそう思ってるんなら、俺は……それで……』

 ──良くない……!

『……じゃあもう勝手にしろ。この馬鹿』

 ──そんな訳ない……っ!

 己の発言を省みて、ラグナは後悔する。自分はなんて愚かで、そして馬鹿だったのだろうと己を蔑む。

 。失うことの恐怖を、ラグナは

 だからこそ自分はクラハを────この手で唯一守れた存在モノを、他のどんなものよりも、ことよりも。この身も心も朽ちて消え果てるその時まで、守り抜いて、守り通そうと誓ったというのに。

 ……だのに、あろうことか。感情で、一時の気の迷いなどで、捨てようとした。手放そうとしてしまった。それはもうどうしたって変えようのない、もはや覆しようのない事実となってしまった。

 ──ごめんクラハ……ごめん……っ。

 そう心の中で何度も謝りながら、ラグナは廊下を走る。この際メルネやグィンに怒られようが何をされようが構わない。

 ──冒険者だとか受付嬢だとか、先輩とか。そんなの、もう関係ねえ。……もうどうだっていい!

 見苦しい未練がないとは言わない。けれど、それを差し引いても、ラグナはそう思っていた。

 そうして、ようやく。遂に、ラグナは辿り着いた。クラハがいるであろう、グィンの執務室。その扉の前へと。

「はっ、ぜえっ……は……ぁ!」

 扉の前に着くや否や、ラグナは両手を膝に置き、激しく肩を上下させる。足も勝手に小刻みに震えており、ほんの少しでも気を抜けば、その瞬間に膝から崩れ落ちるに違いない。

 無論、そうなって当然だった。そうなって当たり前の全力疾走を、途中で休むことなくラグナはここまで続けたのだ。それも体力が著しく落ち、運動が不得手になったその身体で。寧ろ道中で限界を迎え力尽き、倒れなかったことを賞賛すべきだろう。

 すっかり上気し切って赤く染まった頬に一筋の汗を伝わせながら、ラグナは顔を上げて執務室の扉を見やる。

 この扉の先にクラハがいる────今更ながらそのことを再認識したラグナは、表情を強張らせてしまう。

 ──……どうしよう。

 荒い呼吸を何度も繰り返している所為で、頭は上手く回りそうにない。……だというのに、今はいらない記憶────言葉が蘇ってくる。



『僕はもうあなたの後輩じゃない』

『あなたはもう僕の先輩じゃない』

『少なくとも、僕は望んでもいなければ求めてもいない』



 拒絶の言葉。否定の言葉。思い出したくもないそれらが、よりにもよってこの土壇場で。次々と、ラグナの頭の中で響き渡る。それも嫌になる程鮮明に、生々しく。

「……ッ」

 そしてそれがラグナにまた、新たな恐怖を抱かせた。

 恐い。途轍とてつもなく恐い。堪らなく恐い。どうしようもないくらいに、どうにもならないくらいに。恐くて、仕方がない。

 もしこの扉を開け、いざクラハに会ったとして。またしてもあのような拒絶と否定を振りかけられるのではなかろうか。いや、今度はもっと酷いかもしれない────そんな悪夢めいた碌でもない考えだけが、やたら機敏にラグナの頭の中を好き勝手に駆け回る。

 ──…………やっぱ、会わない方が……いいのか……?

 そしてそれがラグナを本末転倒な結論へ導こうとしてしまう。が、それを断ち切るかのようにラグナは頭を振るう。

 ──違うだろ!じゃあ俺は何でここまで来たんだよッ!?

 思わず弱気になってしまった自分を叱咤し、ラグナは半ば無理矢理に奮い立たせ、執務室の扉を力強い眼差しで確かに見据える。

「……」

 気がつけば、あれ程滅茶苦茶に乱れていた息も。万全ではないものの少しずつ整われ、規則正しいものに落ち着いていた。そしてそれはラグナの頭の中も同じことであった。

 未だ良くない考えはまだ蔓延っている。だがしかし、それが一体どうしたというのだ。

 失うことの恐怖に比べれば、こんなもの大したことはない。ずっと、まだずっとずっとマシだ。嫌われる方が、拒まれる方がラグナにとってはまだマシなのだ。

 何故ならば──────────ただそれだけで、未だクラハは自分のことを。今の・・自分のことを、ラグナ=アルティ=ブレイズとして見てくれているのだから。

 確かに自分は拒絶された。否定された。だが、それでもクラハはラグナをラグナとして扱ってくれていた。こんな何の取り柄もないただの女である今の自分を、クラハはまだラグナ=アルティ=ブレイズとして扱い、見てくれていた。

 ならば、もうそれでいい。それ以上の贅沢など、求めはしない。どれだけ軽んじられても蔑まれても、それでも。

 他の誰でもないクラハが、自分を自分ラグナと認めてくれるなら────それだけでもう、よかった。

 ──ああそうだ。クラハ、俺はお前に……俺って思ってくれるなら、俺はそれで……。

 そうして、ラグナは目を閉じ。一つ、深呼吸をする。それからゆっくりと閉ざしたを開き、意を決して、執務室の扉のノブへ手を伸ばし。

 そして──────────




















 もし、ラグナが執務室に辿り着くのが少しでも遅れていたら。或いは、そもそも来なければ。そうなることは、なかっただろう。

 ラグナは忘れていた。失うことの恐怖を。だが、それだけではない。まだもう一つ、忘れていることがあった。そしてそれをその時になるまで、遂に思い出すことはなかった。

 そう、これもまた身を以て知ったこと。思い知らされたこと。

 運命は──────────





「そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?」





 ────────ただひたすらに何処までも残酷で、容赦がない。
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