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RESTART──先輩と後輩──
残響と羅列、そして(後編)
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『止めてくださいよ、僕を言い訳に使うのは』
そう、それも事実。歴とした、確かな事実。紛れもない、何の間違いもない事実。
「っ、ぁ」
今言っていなくとも。今、それが幻聴であったとしても。
『止めてくださいよ、僕を言い訳に使うのは』
あの日、あの夜、あの時に。クラハがラグナにそう言った。その事実は────その現実は変わらない。
「ぁ、ぁぁ」
たとえ今は言っていないとしても。たとえ今は幻聴だとしても────────それは絶対に、変わらない。
「ぁぁぁぁ……」
それは決して変えようがない事実だ。それは決して覆せはしない現実だ。そのことを今ここで、改めて。ラグナは知った。確と思い知らされ、心の深い奥底にその事実と現実を。これでもかと、徹底的に、容赦なく、無遠慮に。刻み、刻まれた。
──あぁぁぁぁ…………っ!
気づき、直面し、自覚してしまえば。後はもう、落ちるだけ。落ちて落ちて、何処までも落ちていって。そして最後に、陥るだけ。
途方もない罪の意識。止まらず加速する後悔。その二つが生む負の大渦に、ラグナは為す術もなく、抵抗することも許されずに。あっという間に呆気なく、いとも容易く呑み込まれる。
未だに今も苦しみ、ひたすら苦しみ、ただただ苦しみ。苦しみ苦しみ苦しみ続けることしかできないでいるクラハの姿を。その見るに堪えない、悲痛悲惨この上ない姿を。余さず残さず、在りのままに映すラグナの視界が、徐々に。徐々に徐々に少しずつ、暗くなっていく。暗く、そして昏く。
──……嫌、だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ……。
それに比例して。ラグナの精神が苛まれる。ラグナの心意が蝕まれる。その意気を犯され、意志さえも穢される。
──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!
あれ程までに奮い立たせた決意は、今折られた。その胸中に抱いた覚悟は、今奪われた。今や、そこにいるラグナはもう────────無力でちっぽけな一人の少女でしかなくなっていた。
──嫌だ、嫌だ……嫌だっ、嫌だ嫌だ嫌だ、もう嫌だっ!!
周囲全て、己を取り囲むもの全部が。影に覆われ闇に包まれる最中。ラグナはその真紅の瞳を潤ませ、端に大粒の雫を浮かばせながら。
小さな身体を惨めに震わせ、自らを覆わんとする影を拒絶し、自らを包まんとする闇に嫌悪した。
そしてラグナはその末に、その果てに────────
──怖い…………っ。
────────恐怖した。
拒絶が嫌悪を引き起こし、そして嫌悪は恐怖を駆り立てる。
爪先から迸った怖気が背筋を一気に駆け抜け、脳天を突き抜けて。ラグナは身体を怯え縮こませ、硬直に固めていく。
動けとあれ程切実に訴え、あらん限りの力を込めたはずの足は、もう竦んでしまって。たったの一歩を踏み出すどころか、振り上げることすら叶わない。
──怖い、怖い……!
ラグナの中で恐怖が広がる。底なしの恐怖が、際限なく。それに相対したラグナはろくに抗えもせず、ただ女々しく己が両腕で、己が身体を抱き締めることしかできない。
──怖い怖い怖い怖いっ!!
そして広がり続けるその恐怖は、次第にラグナを支配する。
──誰、か……誰でも、いいから……っ。
影が覆い、闇が包み。拒絶と嫌悪と、そして恐怖が渦巻くその最中で。ラグナは、ただ。
──助けて。俺を、助けて……!
自らに救いの手が差し伸べられるのを、切に求めた。
そもそも、資格がどうこうの話ではなかったのだ。どうにかするだとか、どうしてやれるだとか────それ以前の問題だったのだ。
たとえ資格があっても。たとえ、ラグナに誰かを助ける資格が今あったとしても。
今のラグナでは誰も助けられない。到底、絶対の絶対に。
何故ならば、その当人たるラグナこそ。他の誰よりも強く、他の誰かに。今、切に助けを求めてしまっているのだから。今、切に救いを欲しているのだから。
──助けて。助けて、助けて助けて助けて……。
故に資格がどうこうの話ではなく。故にそれ以前の問題だった。
一歩も踏み出せず、全く動けずに。ただ恐怖に怯え、惨めに弱々しく震えながら。顔を俯かせたまま、その場に立ち尽くすことしかできないでいるラグナ。
「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
そんな時、不意に。その声がラグナのすぐ耳元でした。
「ひっ……」
瞬間、肩を跳ねさせ、僅かに薄く開いた唇の隙間から引き攣った悲鳴を小さく漏らすと。ラグナは咄嗟に俯かせていたその顔を、声がした方へ向ける。
だが、そこにあったのは影よりも濃く闇より深いだけの、漆黒の虚空。当然、先程の声の主の姿など、どこにも見当たらない。
だのに────
「止めてくださいよ。僕を言い訳に使うのは」
────またしても、その声がラグナの耳元で聞こえてくる。ラグナの耳朶を打ち、ラグナの鼓膜を震わせる。
「なん、で、どう、して……?なんでどうしてっ!?」
戸惑い、困惑するしかないでいるラグナを置き去りに。依然としてその声が────クラハの言葉がラグナのことを取り囲むようにして、響き続ける。
「つまり……僕の所為で、僕が原因で酷い目に遭ったと、先輩は言いたいんですか……?」
「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた」
「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか」
「遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって」
響き続けて、止まらない。クラハの声が、クラハの言葉は。何度も何度も、ずっと。ラグナのすぐ耳元で、止まらず繰り返されて。
「や、止めろ……っ!」
遠慮容赦なく、止め処なく。ラグナを痛めつけ、嬲る。
叩き、打ち、突き、圧し、潰し、締め、折り、斬り、刻み、刺し、抉り、剥ぎ、削ぎ、穿ち、貫き────────ありとあらゆる、無数の形の痛みで以て。ラグナを追い込んで、追い詰める。
「止め、ろ……っ!」
追い込み、追い詰め。追い込みに追い込んで、追い詰めに追い詰める。
「止めろ、止めろっ……止、め……もう、止め……て……!」
追い込み追い込み追い込み追い込み追い込み。追い詰め追い詰め追い詰め追い詰め追い詰め。ラグナが限界を迎えたとしても、責苦を与えるその手を緩めることなどせず。
「止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて…………っい、ぁ……!!」
ラグナがいくらそう懇願しても、一切緩めず────
「ぁ、あっ……ぅ、ぁぁ、ぁぁぁああっうあああッ!うぅああああああ…………ッ!!!」
────そうしてとうとう、遂に。その末に堪えられなくなったラグナは悲痛な叫び声を上げると、手で耳を塞ぎ。その場にへたり込んでしまった。
「聞きたくねえ聞きたくねえ聞きたくねえ!もう聞きたくねえんだよおっ!!だから、だからぁ……っ」
と、恥も外聞もかなぐり捨てた泣き言を。ラグナは情けなく惨めに喚き散らしながら、耳を塞ぐ手に力をより、さらに込める。
そうすることでその声から。こうすることでその言葉から。逃れられる、たった一つの方法と信じ。一生懸命、必死になって縋りながら。
……だが、それでも。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
その声は聞こえた。その言葉が届いた。先程と寸分も違わず、何もかも違わず、全く同じように。
「……は……?」
それは、唯一の信頼を寄せていたなけなしの希望が。無情にも、無惨にも粉々に。木っ端微塵と打ち砕かれた瞬間。影も形も残さず破壊された、決定的瞬間。
恐怖に彩られた絶望の表情を浮かべて、刹那。ラグナは気がついた────────その声がこちらの耳朶など打っていないことに。その言葉がこちらの鼓膜を震わせていた訳ではなかったことに。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
その声は。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
その言葉は。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
今までの、その全ては。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』
最初から全て、ラグナの頭の中から聞こえていた。
「ぅ、ぁ……ぁ、ぁ……」
耳を塞いでも無駄であると。耳を塞いだとしても逃げられないと。そのことを無理矢理に教えられ、否応になく理解させられたラグナは。意味を成さない掠れ声を力なく漏らしながら、ゆっくりと。耳を塞いでいたその手を剥がし、そのまま上の方へやる。
煌めく紅玉が如きその双眸は今や、零れ落ちそうな程に見開いていて。そこから溢れた透き通った涙が流れ、透明な雫となって、輝きの尾を引きながら滴る。
そのラグナの様は誰もが胸を痛めるだろうくらいに悲しく、哀しく────そして綺麗で美しい。
『止めてくださいよ。僕を言い訳に使うのは』
絶望し、ただひたすらに絶望し、もはや絶望する他ないラグナの頭の中で。
『遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって』
その声が響く。
『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた』
その言葉が並ぶ。
『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか』
声が響き。響き、響き。
『遠回しに僕の所為だと』
言葉が並び。並び、並び。
『僕を言い訳に』
響き。響き。響き。響き。響き。
『何も、違わない』
並び。並び。並び。並び。並び。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない』
響き響き響き響き響き────────そして。
『今のあなたなんかが』
並び並び並び並び並び────────そして。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』
残響し、羅列し。
『つまり……僕の所為で、僕が原因で酷い目に遭ったと、先輩は言いたいんですか……?』『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか』『止めてくださいよ。僕を言い訳に使うのは』『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです』『だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ』『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』『僕の所為で』『止めてくださいよ』『今の先輩が僕の為に』『ほら、遠回しに僕の所為だと』『何が違うんですか』『僕が原因で酷い目に遭ったと』『僕を言い訳に』『今のあなたなんかが』『僕の知っている』『そうじゃないですか』『言い訳に』『僕の所為だ』『僕の為に』『お前が原因で』『あなたなんかが』『先輩は僕を使って』『今の先輩が』『先輩は僕の為に』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』
そして、埋め尽くした。
「………………」
気がつけば、聞こえなくなっていた。気がつけば、消えていた。
つい先程まで頭の中で響いて、響いて、ただひたすらに残響し続けていたその声も。
今さっきまで頭の中で並んで、並んで、ただひたすらに羅列し続けていたその言葉も。
頭の中全て、隅々にまで至り、僅か微かな余地すら一切に残さず。埋めて埋めて埋めて埋め尽くしていた声も言葉も、その何もかもが。まるで跡形もなく、ラグナから失せていた。
ラグナは解放された。こちらの身も心も、その全てを例外なく平等に。散々と苛み虐げ痛め嬲っていた声と言葉から、ようやっと解放された。とうとう、遂に解放された。
あれ程までに切願し懇願した、自由と安楽。それを今この瞬間、ラグナは手に入れることができた────が。
「…………」
依然へたり込んだままのラグナの身体が少しばかり、左右に揺れ動き。それから前のめりになったかと思えば、そのまま力なく、静かに。ラグナは倒れた。
遅かった。もう、遅過ぎた。もはや手遅れだったのだ。
残響し続けた声はラグナを疲弊させた。羅列し続けた言葉はラグナを消耗させた。
その二つが、ラグナを憔悴させ切った。
煌めく紅玉が如き真紅の双眸も、今や失意の底へ沈み。果てしなき絶望に呑まれて。何処までも昏く濁り、穢れた硝子玉と化し。
活力と意志に満ち溢れていたその表情も、今では消失の虚無に上塗られ、塗り潰されていた。
倒れてしまったラグナは起き上がる気配を全く見せず、微動だにしないまま。時間だけが過ぎていく。
過ぎ去るその時間と共に、ラグナの瞼が徐々に閉じられていく。まるで、眠るかのように。
そしてラグナの瞼が完全に閉じられた、その瞬間。
ズズズ──倒れたままのラグナの身体が、沈み始めた。
「……」
それはまるで沼へ沈んでいくような感覚。だが今、ラグナが沈んでいっているのは、闇。一筋の光すら届かない、果てしなき終わりの闇。
もしこのまま、その闇に沈んだとして。深い深い、この闇に沈み込んでしまったとして。
その時、自分はどうなるのだろうか。その後、自分はどんな末路を辿ることになるのだろうか────という、きっと誰も彼もが抱くであろう、そんな簡単で単純で当然な疑問。
そんな疑問ですら、ラグナは抱けない。ラグナは何も考えられない。
今、ラグナの頭にあるのは真っ白な。色のない、空虚な空白だけ。
故に踠こうとも、足掻こうともせず。一切の、ほんの些細な抵抗を試みようともしないままに。
抗わないラグナは為す術もなく、闇へ沈んでいく。深闇へ、ただ引き摺り込まれていく。
そうしてあと十数秒と過ぎない内にその身が闇に飲み込まれる、その時。
何を思った訳でもなく、無意識に。ラグナは閉じた瞼を薄らと開ける。
ろくに見えもしない、どろりと淀む狭い視界の最中に。
「………………ぁ」
その姿だけは、綺麗に。はっきりと確かに、ラグナは映した。
そう、それも事実。歴とした、確かな事実。紛れもない、何の間違いもない事実。
「っ、ぁ」
今言っていなくとも。今、それが幻聴であったとしても。
『止めてくださいよ、僕を言い訳に使うのは』
あの日、あの夜、あの時に。クラハがラグナにそう言った。その事実は────その現実は変わらない。
「ぁ、ぁぁ」
たとえ今は言っていないとしても。たとえ今は幻聴だとしても────────それは絶対に、変わらない。
「ぁぁぁぁ……」
それは決して変えようがない事実だ。それは決して覆せはしない現実だ。そのことを今ここで、改めて。ラグナは知った。確と思い知らされ、心の深い奥底にその事実と現実を。これでもかと、徹底的に、容赦なく、無遠慮に。刻み、刻まれた。
──あぁぁぁぁ…………っ!
気づき、直面し、自覚してしまえば。後はもう、落ちるだけ。落ちて落ちて、何処までも落ちていって。そして最後に、陥るだけ。
途方もない罪の意識。止まらず加速する後悔。その二つが生む負の大渦に、ラグナは為す術もなく、抵抗することも許されずに。あっという間に呆気なく、いとも容易く呑み込まれる。
未だに今も苦しみ、ひたすら苦しみ、ただただ苦しみ。苦しみ苦しみ苦しみ続けることしかできないでいるクラハの姿を。その見るに堪えない、悲痛悲惨この上ない姿を。余さず残さず、在りのままに映すラグナの視界が、徐々に。徐々に徐々に少しずつ、暗くなっていく。暗く、そして昏く。
──……嫌、だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ……。
それに比例して。ラグナの精神が苛まれる。ラグナの心意が蝕まれる。その意気を犯され、意志さえも穢される。
──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!
あれ程までに奮い立たせた決意は、今折られた。その胸中に抱いた覚悟は、今奪われた。今や、そこにいるラグナはもう────────無力でちっぽけな一人の少女でしかなくなっていた。
──嫌だ、嫌だ……嫌だっ、嫌だ嫌だ嫌だ、もう嫌だっ!!
周囲全て、己を取り囲むもの全部が。影に覆われ闇に包まれる最中。ラグナはその真紅の瞳を潤ませ、端に大粒の雫を浮かばせながら。
小さな身体を惨めに震わせ、自らを覆わんとする影を拒絶し、自らを包まんとする闇に嫌悪した。
そしてラグナはその末に、その果てに────────
──怖い…………っ。
────────恐怖した。
拒絶が嫌悪を引き起こし、そして嫌悪は恐怖を駆り立てる。
爪先から迸った怖気が背筋を一気に駆け抜け、脳天を突き抜けて。ラグナは身体を怯え縮こませ、硬直に固めていく。
動けとあれ程切実に訴え、あらん限りの力を込めたはずの足は、もう竦んでしまって。たったの一歩を踏み出すどころか、振り上げることすら叶わない。
──怖い、怖い……!
ラグナの中で恐怖が広がる。底なしの恐怖が、際限なく。それに相対したラグナはろくに抗えもせず、ただ女々しく己が両腕で、己が身体を抱き締めることしかできない。
──怖い怖い怖い怖いっ!!
そして広がり続けるその恐怖は、次第にラグナを支配する。
──誰、か……誰でも、いいから……っ。
影が覆い、闇が包み。拒絶と嫌悪と、そして恐怖が渦巻くその最中で。ラグナは、ただ。
──助けて。俺を、助けて……!
自らに救いの手が差し伸べられるのを、切に求めた。
そもそも、資格がどうこうの話ではなかったのだ。どうにかするだとか、どうしてやれるだとか────それ以前の問題だったのだ。
たとえ資格があっても。たとえ、ラグナに誰かを助ける資格が今あったとしても。
今のラグナでは誰も助けられない。到底、絶対の絶対に。
何故ならば、その当人たるラグナこそ。他の誰よりも強く、他の誰かに。今、切に助けを求めてしまっているのだから。今、切に救いを欲しているのだから。
──助けて。助けて、助けて助けて助けて……。
故に資格がどうこうの話ではなく。故にそれ以前の問題だった。
一歩も踏み出せず、全く動けずに。ただ恐怖に怯え、惨めに弱々しく震えながら。顔を俯かせたまま、その場に立ち尽くすことしかできないでいるラグナ。
「今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
そんな時、不意に。その声がラグナのすぐ耳元でした。
「ひっ……」
瞬間、肩を跳ねさせ、僅かに薄く開いた唇の隙間から引き攣った悲鳴を小さく漏らすと。ラグナは咄嗟に俯かせていたその顔を、声がした方へ向ける。
だが、そこにあったのは影よりも濃く闇より深いだけの、漆黒の虚空。当然、先程の声の主の姿など、どこにも見当たらない。
だのに────
「止めてくださいよ。僕を言い訳に使うのは」
────またしても、その声がラグナの耳元で聞こえてくる。ラグナの耳朶を打ち、ラグナの鼓膜を震わせる。
「なん、で、どう、して……?なんでどうしてっ!?」
戸惑い、困惑するしかないでいるラグナを置き去りに。依然としてその声が────クラハの言葉がラグナのことを取り囲むようにして、響き続ける。
「つまり……僕の所為で、僕が原因で酷い目に遭ったと、先輩は言いたいんですか……?」
「だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた」
「何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか」
「遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって」
響き続けて、止まらない。クラハの声が、クラハの言葉は。何度も何度も、ずっと。ラグナのすぐ耳元で、止まらず繰り返されて。
「や、止めろ……っ!」
遠慮容赦なく、止め処なく。ラグナを痛めつけ、嬲る。
叩き、打ち、突き、圧し、潰し、締め、折り、斬り、刻み、刺し、抉り、剥ぎ、削ぎ、穿ち、貫き────────ありとあらゆる、無数の形の痛みで以て。ラグナを追い込んで、追い詰める。
「止め、ろ……っ!」
追い込み、追い詰め。追い込みに追い込んで、追い詰めに追い詰める。
「止めろ、止めろっ……止、め……もう、止め……て……!」
追い込み追い込み追い込み追い込み追い込み。追い詰め追い詰め追い詰め追い詰め追い詰め。ラグナが限界を迎えたとしても、責苦を与えるその手を緩めることなどせず。
「止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて…………っい、ぁ……!!」
ラグナがいくらそう懇願しても、一切緩めず────
「ぁ、あっ……ぅ、ぁぁ、ぁぁぁああっうあああッ!うぅああああああ…………ッ!!!」
────そうしてとうとう、遂に。その末に堪えられなくなったラグナは悲痛な叫び声を上げると、手で耳を塞ぎ。その場にへたり込んでしまった。
「聞きたくねえ聞きたくねえ聞きたくねえ!もう聞きたくねえんだよおっ!!だから、だからぁ……っ」
と、恥も外聞もかなぐり捨てた泣き言を。ラグナは情けなく惨めに喚き散らしながら、耳を塞ぐ手に力をより、さらに込める。
そうすることでその声から。こうすることでその言葉から。逃れられる、たった一つの方法と信じ。一生懸命、必死になって縋りながら。
……だが、それでも。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
その声は聞こえた。その言葉が届いた。先程と寸分も違わず、何もかも違わず、全く同じように。
「……は……?」
それは、唯一の信頼を寄せていたなけなしの希望が。無情にも、無惨にも粉々に。木っ端微塵と打ち砕かれた瞬間。影も形も残さず破壊された、決定的瞬間。
恐怖に彩られた絶望の表情を浮かべて、刹那。ラグナは気がついた────────その声がこちらの耳朶など打っていないことに。その言葉がこちらの鼓膜を震わせていた訳ではなかったことに。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
その声は。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
その言葉は。
「僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが」
今までの、その全ては。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』
最初から全て、ラグナの頭の中から聞こえていた。
「ぅ、ぁ……ぁ、ぁ……」
耳を塞いでも無駄であると。耳を塞いだとしても逃げられないと。そのことを無理矢理に教えられ、否応になく理解させられたラグナは。意味を成さない掠れ声を力なく漏らしながら、ゆっくりと。耳を塞いでいたその手を剥がし、そのまま上の方へやる。
煌めく紅玉が如きその双眸は今や、零れ落ちそうな程に見開いていて。そこから溢れた透き通った涙が流れ、透明な雫となって、輝きの尾を引きながら滴る。
そのラグナの様は誰もが胸を痛めるだろうくらいに悲しく、哀しく────そして綺麗で美しい。
『止めてくださいよ。僕を言い訳に使うのは』
絶望し、ただひたすらに絶望し、もはや絶望する他ないラグナの頭の中で。
『遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって』
その声が響く。
『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた』
その言葉が並ぶ。
『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか』
声が響き。響き、響き。
『遠回しに僕の所為だと』
言葉が並び。並び、並び。
『僕を言い訳に』
響き。響き。響き。響き。響き。
『何も、違わない』
並び。並び。並び。並び。並び。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない』
響き響き響き響き響き────────そして。
『今のあなたなんかが』
並び並び並び並び並び────────そして。
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』
残響し、羅列し。
『つまり……僕の所為で、僕が原因で酷い目に遭ったと、先輩は言いたいんですか……?』『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか』『止めてくださいよ。僕を言い訳に使うのは』『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです』『だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ』『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』『僕の所為で』『止めてくださいよ』『今の先輩が僕の為に』『ほら、遠回しに僕の所為だと』『何が違うんですか』『僕が原因で酷い目に遭ったと』『僕を言い訳に』『今のあなたなんかが』『僕の知っている』『そうじゃないですか』『言い訳に』『僕の所為だ』『僕の為に』『お前が原因で』『あなたなんかが』『先輩は僕を使って』『今の先輩が』『先輩は僕の為に』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『ラグナ先輩じゃない』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』『違う』
そして、埋め尽くした。
「………………」
気がつけば、聞こえなくなっていた。気がつけば、消えていた。
つい先程まで頭の中で響いて、響いて、ただひたすらに残響し続けていたその声も。
今さっきまで頭の中で並んで、並んで、ただひたすらに羅列し続けていたその言葉も。
頭の中全て、隅々にまで至り、僅か微かな余地すら一切に残さず。埋めて埋めて埋めて埋め尽くしていた声も言葉も、その何もかもが。まるで跡形もなく、ラグナから失せていた。
ラグナは解放された。こちらの身も心も、その全てを例外なく平等に。散々と苛み虐げ痛め嬲っていた声と言葉から、ようやっと解放された。とうとう、遂に解放された。
あれ程までに切願し懇願した、自由と安楽。それを今この瞬間、ラグナは手に入れることができた────が。
「…………」
依然へたり込んだままのラグナの身体が少しばかり、左右に揺れ動き。それから前のめりになったかと思えば、そのまま力なく、静かに。ラグナは倒れた。
遅かった。もう、遅過ぎた。もはや手遅れだったのだ。
残響し続けた声はラグナを疲弊させた。羅列し続けた言葉はラグナを消耗させた。
その二つが、ラグナを憔悴させ切った。
煌めく紅玉が如き真紅の双眸も、今や失意の底へ沈み。果てしなき絶望に呑まれて。何処までも昏く濁り、穢れた硝子玉と化し。
活力と意志に満ち溢れていたその表情も、今では消失の虚無に上塗られ、塗り潰されていた。
倒れてしまったラグナは起き上がる気配を全く見せず、微動だにしないまま。時間だけが過ぎていく。
過ぎ去るその時間と共に、ラグナの瞼が徐々に閉じられていく。まるで、眠るかのように。
そしてラグナの瞼が完全に閉じられた、その瞬間。
ズズズ──倒れたままのラグナの身体が、沈み始めた。
「……」
それはまるで沼へ沈んでいくような感覚。だが今、ラグナが沈んでいっているのは、闇。一筋の光すら届かない、果てしなき終わりの闇。
もしこのまま、その闇に沈んだとして。深い深い、この闇に沈み込んでしまったとして。
その時、自分はどうなるのだろうか。その後、自分はどんな末路を辿ることになるのだろうか────という、きっと誰も彼もが抱くであろう、そんな簡単で単純で当然な疑問。
そんな疑問ですら、ラグナは抱けない。ラグナは何も考えられない。
今、ラグナの頭にあるのは真っ白な。色のない、空虚な空白だけ。
故に踠こうとも、足掻こうともせず。一切の、ほんの些細な抵抗を試みようともしないままに。
抗わないラグナは為す術もなく、闇へ沈んでいく。深闇へ、ただ引き摺り込まれていく。
そうしてあと十数秒と過ぎない内にその身が闇に飲み込まれる、その時。
何を思った訳でもなく、無意識に。ラグナは閉じた瞼を薄らと開ける。
ろくに見えもしない、どろりと淀む狭い視界の最中に。
「………………ぁ」
その姿だけは、綺麗に。はっきりと確かに、ラグナは映した。
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『ええ!そうですとも!だから早く私にも――』
大切な三人の仲間を勇者に〈魅了〉で奪い取られて絶望した主人公と、〈魅了〉から解放されて今までの自分たちの行いに絶望するヒロイン達の話。
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