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RESTART──先輩と後輩──
Kill
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それはもう、クラハの拳は酷い有様だった。それはもう、惨い有様だった。力加減などせずに、何度も繰り返し石を殴り続けた彼の拳は血塗れで、皮膚は破れ肉が抉れている始末であった。
ポタポタ、と。その痛ましく傷ついた拳から滴り落ちる血が、地面に赤い斑点模様を描く。それを見たクラハの精神が────遂に、とうとう限界へと達する。
「……は、ははっ、い、あはは……あはははッ!」
心身共に極限状態に至ったクラハは、笑う。全身を震わせ、激しく痙攣させ。眼球がそのまま零れ落ちそうな程に目を大きく見開かせて、焦点の合わない視線を四方八方へ流しながら。
壊れたように、狂ったように。クラハは大口を開けて、大声を出して、笑い続ける。
「あははッ!あっははッはははっ!はははははッ!」
クラハの笑い声が森に響く。森中に響き渡る。彼のこんな笑い声を耳にして、一体どれだけの人が恐怖に慄かずに済むか。そう危惧せずにはいられない程に、その笑い声は悍ましく、そして恐ろしかった。
クラハは笑う。笑い続ける。肺にある空気を残さず全て出し切る勢いで、延々と。彼は独り、その場でずっと笑っている。
だが、しかし。
パキ──不意に、クラハの笑い声に混じるようにして。乾いた木の枝を踏み折ったような、そんな軽い音がして。瞬間、ピタリとクラハの笑い声が止んだ。
「ッ!?」
音のした方向に、クラハは咄嗟に顔を向ける。その瞬間、彼の表情は固まり────そして恐怖に歪んだ。
「あ、ああ……!」
と、完全に恐怖で染まった呻き声を情けなく漏らしながら。地面に座り込んだまま、クラハは後退る。後退ると同時に、闇雲に地面に手を這わせ、そして彼は掴んだ。
「く、来るな!来るな、来るな……来るなァアッ!!」
恐慌の叫びを撒き散らしながら、クラハは掴んだそれを────先程邪魔だと言わんばかりに放り捨てた剣を振り上げ、その切先を突きつける。
今、クラハの視界にはその姿が映っていた。今し方殴り殺したと思っていたはずの、あの灰色の女性が映っていたのだ。
灰色の女性が迫る。ゆっくりと、クラハに迫る。その顔を歪めさせ、邪悪な笑みを携えながら。女性は彼に迫っていく。
「あぁ……あっ、あ……っ!」
まさにそれは声にならない悲鳴だった。どうしようもない程に情けない、恐怖と怖気に囚われた者の悲鳴だった。そんな悲鳴を今、クラハは絶えずその口から漏らしている。突きつけている剣の切先も、怯えで震えて揺れ動いていた。
「来るなって、言って……言ってる、のに……!」
と、堪らずそう言葉を漏らすクラハだが。しかし。今の有様の彼の言葉を、一体どれだけの人が聞き入れようか。……少なくとも目の前の灰色の女性にはその気はないようで。全く構わずに、ジリジリと着実に距離を縮めている。
来るなというこちらの言葉を一切合切無視して、近づき迫り来る灰色の女性に対し。クラハは未だ漏れ出し続けるみっともない悲鳴を必死になって飲み込んだかと思えば、これが最後通告だとでも言わんばかりに叫ぶ────────その直前。
あは、という。嫌に聞き覚えのある笑い声が、クラハのすぐ耳元でした。
「……………ぇ……?」
振り向いてはいけない。見てはならない。そう、本能が。クラハの中にある、クラハを生かす為の全てが。彼にそう告げると共に、全力で警鐘をかき鳴らしていた。
けれど、それでも。気がつけばクラハは顔を動かしてしまっていた。それは無意識での行動だったのか、今となってはわからない。ただ確実なことは────その笑い声がした方に、クラハは顔を向けていたということ。
そしてクラハは見る。視界に映す。見て、映して────直後、彼の思考の全てが停止した。
いた。そこら中に、どこにでも。見渡す限り、見回す限り。
今ここに、何十人もの灰色の女性がいた。
笑っている。一人残らず、全員が全員。笑っている、笑っている。彼女たち全身が、クラハのことを嘲笑っている。嘲笑いながら、彼に迫っている。
そんな現実とは思えない、およそ現実からはかけ離れた光景を前に。悪夢よりも悪夢めいたその光景を目の前にして。もはやクラハが何かを考えることなどできるはずなどなくて。今彼にできることといえば、すぐ目と鼻の先にいる灰色の女性の瞳に映り込んだ、絶望と諦観に呑み込まれている己を眺めることくらいしかなく。
そして遂に────彼の中で決定的な何かが切れた。
瞬間、クラハの表情から感情が消え失せる。恐怖も怖気も、絶望も。人間が当然のように持ち合わせているありとあらゆる感情が、その瞬間にクラハから消え失せたのだ。
そうしてそこから始まったのは────虐殺。情け容赦なし、躊躇も遠慮もない、まさに無慈悲の虐殺と鏖殺だった。
クラハは憤激した訳でもない。クラハは恐慌した訳でもない。恐らくきっと、今の彼は何か思うこともなければ、何も感じていなかったのだろう。その無表情は、それを如実に示すものだった。
とりあえずとでも言うように、クラハは目の前の灰色の女性の首を掴むと。そのまま少しも躊躇わずにへし折った。
ゴキッと重く鈍い音を立て、灰色の女性の首があらぬ方向へ曲がり。クラハは顔色を微かに変えることなく、今し方己がその手で以て縊り殺したその女性の身体を地面へ放り捨てる。
それでクラハが止まることなどなく。彼はゆっくりと地面から立ち上がり、ゆらりと身体を揺らし────突如、動いた。
目にも留まらぬ疾さで動いたクラハは、もう既に剣を振り上げていて。やはり一切の躊躇も遠慮も、そして情けも容赦もせずに。彼はその剣で以て周囲の灰色の女性を斬殺する。それも依然無表情のままに、手当たり次第に、無差別に女性たちを殺し続ける。
鮮血が噴く。血風が吹く。血飛沫が飛んで、そしてその全てをクラハは浴びる。剣が血で濡れ、服が血に染まる。
それでも、クラハは止まらなかった。彼は斬った。斬って、斬って、斬って。
斬って斬って斬って斬って斬って────────そして殺した。
ふとクラハが自分で気づく頃には、彼の周囲に灰色の女性たちはおらず。ついさっきまで人の形を成していた存在が、今や物言わぬただの肉塊と化して。まるで打ち捨てられた塵芥のように、クラハの足元で無数に転がっているだけだった。
それらをクラハは無表情で見下ろし、それから視線を上げる────灰色の女性がそこには立っていた。
その灰色の女性は、先程クラハに近づいていた女性だ。その時浮かべていた、あの嘲笑うかのような笑みはそのままに。いつの間にか歩くのを止めて、その場に立ち止まっていた。
その姿を捉えるや否や、クラハは地面を蹴った。一秒とかからず加速し切り、疾走する彼とその女性の距離が急激に縮まっていく。
そしてクラハは、灰色の女性を剣の間合いに捉え。何を考えているのか、未だそこに立ったままで動こうとしない彼女の細い首筋に狙いを定め。
振り上げた剣の刃を叩き込む────────直前。
「クラハッ!!」
その声が、クラハの鼓膜を。彼の全身を叩いた。それと同時に、振り下ろされた剣が。首筋に刃が触れる寸前で止まる。
「……そ、んな」
呆然とした様子で、クラハが声を漏らす。今、彼の目の前に立っているのは灰色の女性──などではない。
「何、で。どう、して……」
辛うじて寸止めさせることができた剣を、危なっかしく小刻みに揺らしながら。信じられないように、クラハが恐る恐る呟く。
そう、今ここにいるのは。クラハの目の前に立っていたのは────────
「ロックス、さん……?」
────────冒険者組合『大翼の不死鳥』の《S》冒険者、ロックス=ガンヴィルその人であった。
ポタポタ、と。その痛ましく傷ついた拳から滴り落ちる血が、地面に赤い斑点模様を描く。それを見たクラハの精神が────遂に、とうとう限界へと達する。
「……は、ははっ、い、あはは……あはははッ!」
心身共に極限状態に至ったクラハは、笑う。全身を震わせ、激しく痙攣させ。眼球がそのまま零れ落ちそうな程に目を大きく見開かせて、焦点の合わない視線を四方八方へ流しながら。
壊れたように、狂ったように。クラハは大口を開けて、大声を出して、笑い続ける。
「あははッ!あっははッはははっ!はははははッ!」
クラハの笑い声が森に響く。森中に響き渡る。彼のこんな笑い声を耳にして、一体どれだけの人が恐怖に慄かずに済むか。そう危惧せずにはいられない程に、その笑い声は悍ましく、そして恐ろしかった。
クラハは笑う。笑い続ける。肺にある空気を残さず全て出し切る勢いで、延々と。彼は独り、その場でずっと笑っている。
だが、しかし。
パキ──不意に、クラハの笑い声に混じるようにして。乾いた木の枝を踏み折ったような、そんな軽い音がして。瞬間、ピタリとクラハの笑い声が止んだ。
「ッ!?」
音のした方向に、クラハは咄嗟に顔を向ける。その瞬間、彼の表情は固まり────そして恐怖に歪んだ。
「あ、ああ……!」
と、完全に恐怖で染まった呻き声を情けなく漏らしながら。地面に座り込んだまま、クラハは後退る。後退ると同時に、闇雲に地面に手を這わせ、そして彼は掴んだ。
「く、来るな!来るな、来るな……来るなァアッ!!」
恐慌の叫びを撒き散らしながら、クラハは掴んだそれを────先程邪魔だと言わんばかりに放り捨てた剣を振り上げ、その切先を突きつける。
今、クラハの視界にはその姿が映っていた。今し方殴り殺したと思っていたはずの、あの灰色の女性が映っていたのだ。
灰色の女性が迫る。ゆっくりと、クラハに迫る。その顔を歪めさせ、邪悪な笑みを携えながら。女性は彼に迫っていく。
「あぁ……あっ、あ……っ!」
まさにそれは声にならない悲鳴だった。どうしようもない程に情けない、恐怖と怖気に囚われた者の悲鳴だった。そんな悲鳴を今、クラハは絶えずその口から漏らしている。突きつけている剣の切先も、怯えで震えて揺れ動いていた。
「来るなって、言って……言ってる、のに……!」
と、堪らずそう言葉を漏らすクラハだが。しかし。今の有様の彼の言葉を、一体どれだけの人が聞き入れようか。……少なくとも目の前の灰色の女性にはその気はないようで。全く構わずに、ジリジリと着実に距離を縮めている。
来るなというこちらの言葉を一切合切無視して、近づき迫り来る灰色の女性に対し。クラハは未だ漏れ出し続けるみっともない悲鳴を必死になって飲み込んだかと思えば、これが最後通告だとでも言わんばかりに叫ぶ────────その直前。
あは、という。嫌に聞き覚えのある笑い声が、クラハのすぐ耳元でした。
「……………ぇ……?」
振り向いてはいけない。見てはならない。そう、本能が。クラハの中にある、クラハを生かす為の全てが。彼にそう告げると共に、全力で警鐘をかき鳴らしていた。
けれど、それでも。気がつけばクラハは顔を動かしてしまっていた。それは無意識での行動だったのか、今となってはわからない。ただ確実なことは────その笑い声がした方に、クラハは顔を向けていたということ。
そしてクラハは見る。視界に映す。見て、映して────直後、彼の思考の全てが停止した。
いた。そこら中に、どこにでも。見渡す限り、見回す限り。
今ここに、何十人もの灰色の女性がいた。
笑っている。一人残らず、全員が全員。笑っている、笑っている。彼女たち全身が、クラハのことを嘲笑っている。嘲笑いながら、彼に迫っている。
そんな現実とは思えない、およそ現実からはかけ離れた光景を前に。悪夢よりも悪夢めいたその光景を目の前にして。もはやクラハが何かを考えることなどできるはずなどなくて。今彼にできることといえば、すぐ目と鼻の先にいる灰色の女性の瞳に映り込んだ、絶望と諦観に呑み込まれている己を眺めることくらいしかなく。
そして遂に────彼の中で決定的な何かが切れた。
瞬間、クラハの表情から感情が消え失せる。恐怖も怖気も、絶望も。人間が当然のように持ち合わせているありとあらゆる感情が、その瞬間にクラハから消え失せたのだ。
そうしてそこから始まったのは────虐殺。情け容赦なし、躊躇も遠慮もない、まさに無慈悲の虐殺と鏖殺だった。
クラハは憤激した訳でもない。クラハは恐慌した訳でもない。恐らくきっと、今の彼は何か思うこともなければ、何も感じていなかったのだろう。その無表情は、それを如実に示すものだった。
とりあえずとでも言うように、クラハは目の前の灰色の女性の首を掴むと。そのまま少しも躊躇わずにへし折った。
ゴキッと重く鈍い音を立て、灰色の女性の首があらぬ方向へ曲がり。クラハは顔色を微かに変えることなく、今し方己がその手で以て縊り殺したその女性の身体を地面へ放り捨てる。
それでクラハが止まることなどなく。彼はゆっくりと地面から立ち上がり、ゆらりと身体を揺らし────突如、動いた。
目にも留まらぬ疾さで動いたクラハは、もう既に剣を振り上げていて。やはり一切の躊躇も遠慮も、そして情けも容赦もせずに。彼はその剣で以て周囲の灰色の女性を斬殺する。それも依然無表情のままに、手当たり次第に、無差別に女性たちを殺し続ける。
鮮血が噴く。血風が吹く。血飛沫が飛んで、そしてその全てをクラハは浴びる。剣が血で濡れ、服が血に染まる。
それでも、クラハは止まらなかった。彼は斬った。斬って、斬って、斬って。
斬って斬って斬って斬って斬って────────そして殺した。
ふとクラハが自分で気づく頃には、彼の周囲に灰色の女性たちはおらず。ついさっきまで人の形を成していた存在が、今や物言わぬただの肉塊と化して。まるで打ち捨てられた塵芥のように、クラハの足元で無数に転がっているだけだった。
それらをクラハは無表情で見下ろし、それから視線を上げる────灰色の女性がそこには立っていた。
その灰色の女性は、先程クラハに近づいていた女性だ。その時浮かべていた、あの嘲笑うかのような笑みはそのままに。いつの間にか歩くのを止めて、その場に立ち止まっていた。
その姿を捉えるや否や、クラハは地面を蹴った。一秒とかからず加速し切り、疾走する彼とその女性の距離が急激に縮まっていく。
そしてクラハは、灰色の女性を剣の間合いに捉え。何を考えているのか、未だそこに立ったままで動こうとしない彼女の細い首筋に狙いを定め。
振り上げた剣の刃を叩き込む────────直前。
「クラハッ!!」
その声が、クラハの鼓膜を。彼の全身を叩いた。それと同時に、振り下ろされた剣が。首筋に刃が触れる寸前で止まる。
「……そ、んな」
呆然とした様子で、クラハが声を漏らす。今、彼の目の前に立っているのは灰色の女性──などではない。
「何、で。どう、して……」
辛うじて寸止めさせることができた剣を、危なっかしく小刻みに揺らしながら。信じられないように、クラハが恐る恐る呟く。
そう、今ここにいるのは。クラハの目の前に立っていたのは────────
「ロックス、さん……?」
────────冒険者組合『大翼の不死鳥』の《S》冒険者、ロックス=ガンヴィルその人であった。
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