95 / 440
RESTART──先輩と後輩──
鏡が映すのは
しおりを挟む
ジャアアァァァ──そんな音と共に、細やかな無数の穴から熱くもなければそう温くもない、そんな中間辺りを維持した温水が流れ出す。
「ふう……」
温かな水が身体を、肌を濡らす。温水が自分を伝い、浴室のタイルをしっとりと叩く度に。全身に浮いていた汗が流し落とされていくのを、呆然としながらも実感する。
そのなんとも言えない心地良さに、自然と。小さく薄く開かれた唇の隙間から、ラグナは安堵のため息を吐いていた。
ラグナがそうしてシャワーを浴びていたのは、実際には僅か数分のことだ。しかしラグナ当人からすれば、それは何時間のことのように思えた。まるで今過ぎ去っていく時間をのっぺりと、薄く長く引き伸ばしているような。そんな漠然とした錯覚が、ラグナの中にはあった。
閉じていた瞳を、ゆっくりと。静かに、ラグナは開かせる。直後、紅玉が如きラグナの瞳が捉えたものは────一枚の鏡であった。
そう珍しくもない、至って普通の浴室鏡だ。然程巨大という訳ではないが、メルネの頭の天辺から足の爪先までを映すには十分に事足りて。必然、彼女よりも一回り背の小さいラグナの全身も、映すのは容易である。
その鏡に映る自分の姿────そこにいるのは、一人の少女。見るからにか弱そうな、赤い髪をした少女。
「…………」
シャワーヘッドから流れ続ける温水が浴室のタイルを叩く最中、気がつけばラグナはその鏡に視線を奪われていた。鏡に映り込んだ、少女の姿に囚われていた。
見惚れていた訳ではない。ただ、期待していた。勝手に、独りでに。もし本当にそうなれば、もはや怪奇的現象の類になるが、しかしそれでも自分の意識とは無関係に。この鏡に映り込んだ少女が動いてくれれば、と。ラグナは希望にも似た、そんな淡く仄かな期待を抱いていた。
それは何故か。どうしてか。その理由はただ一つ────認めたくないから。目の前の鏡に映る少女が、自分ではないと認めたくないからだった。
何を今さら、と。きっと誰もが思うことだろう。そんなラグナを、きっと誰もが未練がましく往生際が悪いと思うことだろう。他の誰でもない、ラグナ当人がそう思っているのだから。
だが、それでも構わなかった。こんなろくでもない、どうしようもない、始末のつけようもなく救いようもない現実が。頭から尻尾まで、最初から最後まで。何から何まで嘘になって、そして全部が全部元通りになってくれるのなら。それをラグナは全身全霊喜んで受け入れるつもりだった。
……けれど、そんなラグナの思いは裏切られる。いくら見つめていようと、どれだけ見つめようと。鏡の少女は微動だにせず。ただじっと、ラグナを見つめ返すだけ。ラグナと全く同じ表情で、全く同じ眼差しで。
「…………まあ、そりゃそうだよな」
やがて先に痺れを切らしたのはラグナの方だった。否、この表現は正しくはない。そもそもこの浴室には最初から、ラグナただ一人しかいないのだから。どうあっても、どう転んでも。痺れを切らすのはラグナ一人で、先も後もないのだから。
投げやりにそう吐き捨てて、ラグナは肩に手をやる。鏡の少女もまた、肩に手をやった。寸分と違わない、全く同じ動きだった。
そんな当然のことに対しても、ラグナはやるせない、何処にもぶつけられない鬱屈とした憤りを感じるが。しかしそれも、直後諦観に呑まれる。
──ああ、そうだ。そうだよ。
華奢な肩から、か細い腕に。心の中で呟きながら、ラグナは手を這わせ。ギュッ、と抱く。鏡の少女も、また同じように。
いつしか、気がつけば。ラグナは鏡が苦手になっていた。自ら遠去け、できるだけ視界に入れないようになっていた。それは何故か────明白である。鏡は誰よりも、何よりも正直で。嘘偽りなく、有りの儘の全てを其処に映し出す。映し出して、一切の遠慮もなく、一片の容赦もなくこちらに見せつけてくる。
女の顔。長い髪。細い肩と腕。膨らんだ胸。脆そうな腰。丸い尻。決定的な違いを示す、股間。
そう、鏡は映すのだ。鏡は見せるのだ。そんな今の自分を。どこからどう見ても、誰がどう見ても。もはやただの少女でしかない、今の自分を────────
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』
────────ラグナ=アルティ=ブレイズではない、今の自分の姿を。変えようのない、この現実を。鏡は見せつけてくる。それに堪えられず、気がつけばラグナは顔を伏せていた。
温水が髪を濡らし、顔に伝う。目からも温水が流れるのをラグナは感じたが、それは勘違いでシャワーヘッドから流れる温水だと決めつける。
そうしてしばらく、ラグナはシャワーを浴び続けた。目からも流れる温水が、止まるまで。
「ふう……」
温かな水が身体を、肌を濡らす。温水が自分を伝い、浴室のタイルをしっとりと叩く度に。全身に浮いていた汗が流し落とされていくのを、呆然としながらも実感する。
そのなんとも言えない心地良さに、自然と。小さく薄く開かれた唇の隙間から、ラグナは安堵のため息を吐いていた。
ラグナがそうしてシャワーを浴びていたのは、実際には僅か数分のことだ。しかしラグナ当人からすれば、それは何時間のことのように思えた。まるで今過ぎ去っていく時間をのっぺりと、薄く長く引き伸ばしているような。そんな漠然とした錯覚が、ラグナの中にはあった。
閉じていた瞳を、ゆっくりと。静かに、ラグナは開かせる。直後、紅玉が如きラグナの瞳が捉えたものは────一枚の鏡であった。
そう珍しくもない、至って普通の浴室鏡だ。然程巨大という訳ではないが、メルネの頭の天辺から足の爪先までを映すには十分に事足りて。必然、彼女よりも一回り背の小さいラグナの全身も、映すのは容易である。
その鏡に映る自分の姿────そこにいるのは、一人の少女。見るからにか弱そうな、赤い髪をした少女。
「…………」
シャワーヘッドから流れ続ける温水が浴室のタイルを叩く最中、気がつけばラグナはその鏡に視線を奪われていた。鏡に映り込んだ、少女の姿に囚われていた。
見惚れていた訳ではない。ただ、期待していた。勝手に、独りでに。もし本当にそうなれば、もはや怪奇的現象の類になるが、しかしそれでも自分の意識とは無関係に。この鏡に映り込んだ少女が動いてくれれば、と。ラグナは希望にも似た、そんな淡く仄かな期待を抱いていた。
それは何故か。どうしてか。その理由はただ一つ────認めたくないから。目の前の鏡に映る少女が、自分ではないと認めたくないからだった。
何を今さら、と。きっと誰もが思うことだろう。そんなラグナを、きっと誰もが未練がましく往生際が悪いと思うことだろう。他の誰でもない、ラグナ当人がそう思っているのだから。
だが、それでも構わなかった。こんなろくでもない、どうしようもない、始末のつけようもなく救いようもない現実が。頭から尻尾まで、最初から最後まで。何から何まで嘘になって、そして全部が全部元通りになってくれるのなら。それをラグナは全身全霊喜んで受け入れるつもりだった。
……けれど、そんなラグナの思いは裏切られる。いくら見つめていようと、どれだけ見つめようと。鏡の少女は微動だにせず。ただじっと、ラグナを見つめ返すだけ。ラグナと全く同じ表情で、全く同じ眼差しで。
「…………まあ、そりゃそうだよな」
やがて先に痺れを切らしたのはラグナの方だった。否、この表現は正しくはない。そもそもこの浴室には最初から、ラグナただ一人しかいないのだから。どうあっても、どう転んでも。痺れを切らすのはラグナ一人で、先も後もないのだから。
投げやりにそう吐き捨てて、ラグナは肩に手をやる。鏡の少女もまた、肩に手をやった。寸分と違わない、全く同じ動きだった。
そんな当然のことに対しても、ラグナはやるせない、何処にもぶつけられない鬱屈とした憤りを感じるが。しかしそれも、直後諦観に呑まれる。
──ああ、そうだ。そうだよ。
華奢な肩から、か細い腕に。心の中で呟きながら、ラグナは手を這わせ。ギュッ、と抱く。鏡の少女も、また同じように。
いつしか、気がつけば。ラグナは鏡が苦手になっていた。自ら遠去け、できるだけ視界に入れないようになっていた。それは何故か────明白である。鏡は誰よりも、何よりも正直で。嘘偽りなく、有りの儘の全てを其処に映し出す。映し出して、一切の遠慮もなく、一片の容赦もなくこちらに見せつけてくる。
女の顔。長い髪。細い肩と腕。膨らんだ胸。脆そうな腰。丸い尻。決定的な違いを示す、股間。
そう、鏡は映すのだ。鏡は見せるのだ。そんな今の自分を。どこからどう見ても、誰がどう見ても。もはやただの少女でしかない、今の自分を────────
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』
────────ラグナ=アルティ=ブレイズではない、今の自分の姿を。変えようのない、この現実を。鏡は見せつけてくる。それに堪えられず、気がつけばラグナは顔を伏せていた。
温水が髪を濡らし、顔に伝う。目からも温水が流れるのをラグナは感じたが、それは勘違いでシャワーヘッドから流れる温水だと決めつける。
そうしてしばらく、ラグナはシャワーを浴び続けた。目からも流れる温水が、止まるまで。
0
お気に入りに追加
83
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました
ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら……
という、とんでもないお話を書きました。
ぜひ読んでください。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
幼なじみ三人が勇者に魅了されちゃって寝盗られるんだけど数年後勇者が死んで正気に戻った幼なじみ達がめちゃくちゃ後悔する話
妄想屋さん
ファンタジー
『元彼?冗談でしょ?僕はもうあんなのもうどうでもいいよ!』
『ええ、アタシはあなたに愛して欲しい。あんなゴミもう知らないわ!』
『ええ!そうですとも!だから早く私にも――』
大切な三人の仲間を勇者に〈魅了〉で奪い取られて絶望した主人公と、〈魅了〉から解放されて今までの自分たちの行いに絶望するヒロイン達の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる