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RESTART──先輩と後輩──

辛苦に満ち溢れた生き地獄から

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 そうして、ラグナとメルネの二人は。早朝の割と貴重な十数分の時間を、寝台ベッドの上で。互いの手を握り締め合い、互いの身体を密着させながら抱き締め合いながら、些細にも贅沢に浪費し。

 それから何を言うでもなく、声を抑えながら漏らし続けていた嗚咽も止んだラグナが。ややぎこちなくメルネから離れ、この間ずっと握り締めていた彼女の手も若干名残惜しそうにしながらも、自ら離しようやっと解放させた。

「もう、大丈夫?」

 ラグナに人生の十数分を捧げたメルネが、優しげに訊ねる。彼女の問いかけに対して、ラグナはその顔を俯かせ、小さく首を縦に振り。そしてほんの僅かな沈黙を挟んでから、俯かせていた顔を上げた。

わりぃ。朝からこんなことさせて。朝から、こんな……こんなの、見せちまって……」

 と、未だ微かに涙が浮かぶ真紅の瞳と泣き腫らしたその顔で。この上ない自己嫌悪とこれ以上にない罪悪感に満ち溢れながら、その口から転び出たラグナの言葉に対して。メルネは優しく微笑みかけた。

「言ったでしょ?私は別に構わないって」

「……本当、か?」

 メルネの言葉に、ラグナは不安で揺れて弱々しく震える声で。果たしてそれは嘘偽りなどのない、本心から来る本音なのかと。涙に濡れているその瞳で、上目遣いになって訊ね返す。無論、ラグナ当人は無意識の内でそれをやっている。

 今し方号泣していたのだと一発で見抜かれる程までに泣き腫らし、赤く染まったその顔。打ちのめされ、打ち拉がれ、すっかり弱りに弱ったその表情。寄り縋るかの如く、こちらのことを不安げに見つめてくる儚げなその瞳。

 それら全ての要素を一切無駄なく、完璧に。組み合わせ、文句のつけようがない程見事なまでに合致させている、今のラグナの様を見て。これでも元は歴とした男であると、一体誰が思うというのだろうか。

 ……末恐ろしいのは、恐らくこれら全てを当のラグナはあくまでも無意識、無自覚の領域でやってのけてしまっているということ────それを踏まえた上で、メルネは。



 ──ぅん……っ!?



 不覚ながら息を詰まらせ、思いっきり動揺してしまっていた。ラグナは歴とした男で、その声音も表情も仕草も全て無意識かつ無自覚のもので、そこにラグナの意識や思考が介在した、打算ありきのものではないときちんと理解しているのに。別に他意なんてこれっぽっちもないとわかっているというのに。

 ──落ち着きなさい。落ち着きなさいメルネ。ええわかっているわ、わかっていますとも。ラグナが別につもりでやってる訳じゃないなんてこと。わかって、理解しているのよ……っ!

 だからこんな馬鹿みたいに、一々いちいちみっともなく動揺したり、情けなく狼狽している場合ではないと。メルネは己に言い聞かせ、己をどうにか律する。

 ──と、とにかく返事しなきゃ……!

 時間にして、それは刹那にも満たず。律儀にこちらの返事を待つラグナに、メルネはあくまでも平静を装いながら口を開き、言った。

「本当よ。当たり前じゃない。どうして私が今、ここでラグナに嘘を吐く必要があるのよ。もう」

 実に当たり障りのない、妥当だが安直とも言えるメルネの返事に。ラグナは彼女から目を逸らしつつ、気恥ずかしそうに。消え入りそうな声で言う。

「な、ならまあ、いいんだけど、さ……」

 その姿、なんといじらしいことか。あまりにもいじらしいラグナの姿に、またしてもメルネは心を掻き乱され、惑わされてしまう。混乱しかける思考の中で、彼女はなんとか平常心を保とうとする。

 ──ていうか、私にそのはないはずなんだけど……?ラグナ、恐ろしい子……!

 異性は当然のこと、同性ですら誘惑し、蠱惑し。まるで蜜が溢れ滴り落ちる妖艶な花の如く、巧みに己が一番の懐へと招き入れんとするラグナの天然の魔性の前に。堪らず、メルネは恐れ慄いてしまう。

 が、しかし。彼女とて、ただ歳を重ね、人生経験を積んだ訳ではない。元《S》冒険者ランカーにしてその頂点の六人、『六険』は伊達ではないのだ。

 浅く息を吸い、浅く息を吐き出し。その一瞬の内に平静さを取り戻したメルネは。優しく穏やかに、ラグナに言い聞かせる。

「ラグナ。私とかはまだ良いとして、そういう顔とか態度とか、全く知らない男に……いえ、あなたの場合女にも。とにかく、赤の他人なんかに見せちゃ駄目よ。絶対よ?」

 だがしかし、当人たるラグナに。自分が他者を誘っていると認知してもいなければ、当然自覚もしている訳もなく。故に、親切心に溢れたメルネの忠告も、ラグナにとっては何のことだかさっぱりで。

「は……?え、いやそういうって、どういう……?」

 だから、ラグナが困惑の言葉をメルネに返すのは必然のことだった。首を傾げるラグナに、彼女は親身になって続ける。

「その弱った表情とか、泣いちゃっているところとか。……そうね、それこそついさっきみたいに」

「……あー……」

 そこまで言えば、流石のラグナにも伝わったらしく。そう呆然と声を漏らしたかと思うと────直後、まるで着火したように。ボンッ、という擬音が思わず聴こえてきそうな勢いで、ラグナの顔が真っ赤っ赤に染め上げられた。すぐさま、間髪入れずにラグナは叫ぶ。

「は、はあぁぁぁッ!?んなっ、んなの当たりめーだろうがっ!?あんなの、お前かマリィくらいにしか見せねえっていうか見せられねえっての!ほ、他の奴になんか絶対、特にクラ……」

 けれど、その羞恥の只中に立たされたラグナの叫びは途中で詰まり、止まって。同時に、メルネもハッとした表情を浮かばせ、群青の瞳を見開かせた。

「…………見せられる訳、ねえよ。あのザマも、今の様も」

 そう呟いて、赤らむその顔を。悲哀に暮れさせながら、物憂げに真紅の瞳を伏せさせ。ラグナは色素のやや薄いその唇を噛み締め、寝台ベッドのシーツを握り締め、皺を作り歪めた。

 そんなラグナに対して、メルネができたことといえば。

「……ええ、そうね。その通り……その通り、ね」

 という、言葉をかけることだった。それからまた十数秒、部屋の中は静寂が漂って。そんな最中、先にその口を開かせたのは、メルネであった。

「ラグナ。もう朝食の準備はできてるから、着替えて顔を洗って……」

 言いながら、メルネは寝台の上のラグナを。臍辺りから頭の天辺まで眺める。

「……顔を、洗って……」

 つい先程まで、ラグナは激しくうなされていた訳で。尋常ではない魘され方をしたラグナは、大量の汗を流した訳で。そして抱き締め確認したその通り、今ラグナの身を包み込んでいる寝間着パジャマは流れ出たその汗を、存分に、これでもかと吸い込んでいる。

 その結果、生地が薄くお世辞にも速乾性があるとは思えない寝間着が、びっしょりと湿って濡れるのは。火を見るより明らかな如く、至極当然の帰結であり。

 そして汗で湿り濡れたその寝間着が、ラグナの肌に張り付くことも必然と言えて。それが一体どういうことになるかというと。

 その低めな背丈の割には、たわわと豊かに育っている胸。こちらが思わず妬いてしまうくらいに細く、軽く触れただけで折れて砕けそうな程に華奢な、括れた腰。むっちりと妙に肉付きの良い太腿に、完璧にほぼ近い曲線美を描いた、理想的な丸みを帯びる臀部。

 十代半ば──精神年齢の方はともかく──の、未だ成長の余地を残す発展途上のものとは到底思えない肉体を。凄まじいその将来性を感じさせる、ラグナの肢体の輪郭線ラインを。寝間着が張り付き密着することによって、これでもかと激しく強調してしまうのだ。

 しかも生地が薄い為、寝間着は若干透けてもいて。あろうことか、本来その下に隠され秘められていなければならない下着が、おまけのように見えてしまっている始末であった。

 ──……あら、あら。

 先程自分で確かめた通り、ラグナが放つ魔性は同性ですら魅了してしまえる。そして今ラグナが晒すその痴態が、それをより一層強めており。たとえ同性愛の気がないメルネだろうと、堪らずゴクリと生唾を飲み込まずにはいられなかった。

 しかし、そこはメルネ=クリスタ。元第三期『六険』の《S》冒険者ランカーにして、今はこのファース大陸を代表する冒険者組合ギルド、『大翼の不死鳥フェニシオン』受付嬢でありその纏め役たるメルネ=クリスタである。

 危うくその平常心を失いかけた彼女だったが、どうにかこうにか正気を保とうと。そこで一旦、彼女は深呼吸をした。

 瞬間────この部屋の空気と共に、ツンと酸っぱい汗の匂いと、まるで砂糖菓子のものにも似た仄かに甘い匂い。その二つが複雑に入り混じった、何処か艶かしくいやらしい、淫らな芳香がメルネの鼻腔に満ちて、浸透し。彼女はクラリと蹌踉めきかけた。

 ──き、気を強く保ちなさいメルネ=クリスタ……ッ!

 ラグナに翻弄されっぱなしのメルネはそう必死に自分に言い聞かせ、己を奮い立たせ。そして、平静を装いながらラグナに提案する。

「シャ、シャワーを浴びた方が良いわ、ラグナ。それと下着も両方新しいのに替えるべきね」

「え?あ……俺、こんなに汗掻いてたのかよ。どうりでさっきから変に肌寒くて、ベタベタして気持ち悪いと思った……そうだな。シャワー、浴びてくる」

「ええ。下着、替えるの忘れないで頂戴ね。それとその寝間着と今使ってる下着は洗濯籠に入れておいてね。絶対よ?」

「おう」

 メルネの言葉に頷きながら、ラグナは寝台からゆっくりと降りて。着替えと彼女に言われた通り、新しい下着を携え。ラグナはこの部屋から去った。

 背後で扉が閉められ、少し遅れて階段を下りる足音が十分に遠去かるのを確認してから。メルネはその場で、深いため息を吐いた。

「……私の、馬鹿」

 と、自虐の一言を呟いた後。メルネはつい先程までラグナがいた寝台に歩み寄り、シーツに手をそっと這わせる。

 彼女の想像通り、ラグナの寝間着程ではないがシーツも湿っていた。

「…………」



『あ゛あ゛あ゛あ゛……っ!ぁぁぁあああああっ!』

『う、あ、ぁぁぁ……っ』

『止めろ、止めてくれ……止め、て……う、ぅぅ』



「……本当に、私は大馬鹿よ……っ」

 その光景を脳裏に駆け抜けさせながら、シーツを握り締めて、メルネはそう吐き捨てる。今、彼女は途方もない罪悪感と後悔に苛まれていた。

 自分は無力だった。果てしなく無力で、何もできなかった。ラグナの為にできることなど一つもなくて、メルネはそれが堪らない程に苦しく、堪らない程に辛かった。

 ……けれど、メルネは知っていた。ラグナが自分以上の苦しみに喘いでいることを。自分以上の辛さに泣いていることを。自分以上の辛苦を、その小さな身体で必死に抱え込んでいることを。

 何度も幾度も、メルネは想像した。己が持つ最大限の想像力を限界まで働かせ、想像し続けた。一体、どれだけラグナは苦しい思いをしたのだろう。一体、どれだけラグナは辛い思いをしたのだろう、と。

 だかしかし、あくまでもそれはメルネの想像の域を出ないものだと自覚しており。そしてラグナが抱え込むそれらは、およそ人の想像など遥かに絶するものであると、彼女は嘆きながら理解していた。

 ──……憎い。どこまでも無力な自分が、ただひたすらに憎くて、憎らしくて……心底、嫌になる。

 やはり、ラグナの辛苦を真に理解できるのは、他の誰でもない当人のラグナだけなのだろう。諦観の念を抱きながら、メルネはそう結論を出す。

 ……否、それは間違いだ。ラグナの苦しみを。ラグナの辛さを。理解できる存在モノは他に、いる。





『嫌だ、やだ……置いてくな、捨てんなぁ……クラハ、クラハぁぁぁ……っ!』





 たったの一人だけ。辛苦に満ち溢れた生き地獄の最中から、ラグナを救い出せるのはその一人だけなのだ。

 その顔を頭の中に思い浮かべながら、メルネは静かに呟く。

「クラハ……貴方、早くどうにかしないと。このままだと、手遅れになるわよ……?」
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