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RESTART──先輩と後輩──

本当に恐ろしいのは。本当に怖いことは

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 謂うなれば、それはまるで水の中を漂っている感覚だった。フワフワと浮遊しているようで、しかし確実に沈んで、ゆっくりと落ち続けているかのような、そんな感覚が全身を浸し、覆い、包んでいた。

 無意識に思考を働かせようとするが、上手くいかない。思考が頭の中で霧散し、それが靄となって。頭の中に広がり、埋めてしまう。

 何も考えられない状況の最中、しかし依然として身体は沈んで、落ちていく。底の底へ向かって、沈み続けて、落ち続けていく。

 呆然とする意識の中で、ぼんやりと思う。もしこのままでいたら、自分はどうなってしまうのだろう。底の底に辿り着いたその時、果たして自分には何が待っているのだろう。

 そうして、やがて、自分は──────────










「……ここ、は……?」

 気がつくと、自分は立っていた。両の足で、真っ直ぐに。しかし一体どこに立っているのかはまだわからない。何故ならば、それをちゃんと把握する為の視界が、酷い具合に滲んで何もかもが認識できないからだ。

 だがそれもどうやら最初の間だけらしい。滲んでいた視界が徐々に鮮明となって、どれがそれで、あれがそうであると段々判別できるようになってきている。視界が使い物になるまでの間、とりあえず自分が一体何であるかを思い起こすことにした。

 まず、自分の名前────数秒遅れて、思い出し。それを口に出して呟く。

「ラグナ……そうだ、俺はラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズだ」

 そう呟くと同時に、視界が少しまともになる。目の前を見てみれば、そこにあったのは何かの店で。その窓硝子ガラスには、人の形をした何かが映り込んでいた。恐らくそれが自分の姿なのだろうと、自然に思い込む。

 次に自分が何者であるか────これはすぐにわかった。

「俺は『大翼の不死鳥フェニシオン』の《SS》冒険者ランカーで、『炎鬼神』って呼ばれてる」

 そう呟くと、途端に頭の中に浮かび上がる一つの人物像があった。燃え盛る炎をそのまま流し込んだかのような、紅蓮の赤髪と同じ色をした瞳。野生みと自信に満ち溢れた、好戦的な笑みをその顔に浮かべている男────それは間違いなく、自分の姿。ラグナ=アルティ=ブレイズの容姿であった。

「……待てよ。まだ、何か……まだ何かあった気がする。いやある。俺にはまだ、大事な……大事で大切な何かがある、はずで……」

 その疑問に突き当たった瞬間、視界が急速に鮮明になっていく。そう、あと一つ。自分は何か大事なことを忘れてしまっている。大事で、大切な何かを。その何かは、絶対に忘れてはいけないことだったということだけは覚えており、それがより一層こちらを焦らせる。

「何だ?一体、そりゃ何だった……?」

 しかし、それが何であるかを思い出す前に────滲んでいた視界が、完全に元に戻り。直後、視界に映り込んだものを目の当たりにしたラグナは、堪らず絶句した。

「…………は……?」

 自分の容姿が一体どういったものであるかは、先程思い出している。……しかし、店の窓硝子に今映り込んでいるのは。その思い出した容姿とは似ても似つかない────一人の姿

 もはや性別すら異なっており、強いて共通点を挙げるならば髪と瞳だけ。それ以外は全部が全部、まるで違う。

「だ、誰だよ?こいつ……誰なんだよ、こいつはッ!?」

 困惑し、混乱しながら叫ぶラグナ。そんなラグナと同じく、全く同時に。窓硝子に映り込む赤髪の少女も叫ぶ。その表情を困惑と混乱の色を滲ませて。そのことにこの上なく驚愕し、激しい動揺にラグナは襲われたが────直後、気づいた。

「声、高っ?俺の声、変わって……ッ!?」

 確か、いや絶対。先程までは自分の声音は低い、歴とした男のものだったはず。……だがしかし、今ではまるでその低さが嘘だったかのように甲高く、誰がどう聞いても自分の今の声は少女のものにしか聞こえないことだろう。

 到底信じられそうにない面持ちで、ラグナは己の喉に手をやる。窓硝子の少女も同様に。そんな彼女の姿を見せつけられたラグナは、窓硝子の少女に向かって堪らず叫んでしまう。

「や、止めろ!さっきから俺と同じことすんじゃねえッ!」

 けれど、窓硝子の少女はそれすらも真似る始末で。そのことにこれ以上にない、とてもではないが抑えられない怒りが込み上げ。その激情をラグナは取り繕うことなく、包み隠さず、一切誤魔化さず、ありのまま。全部を少女に対してぶつけようとした────寸前。

 ──……あ。

 。ラグナは、思い出してしまった。

「……あ、ぁぁ……」

 込み上げた怒りが、まるで嘘だったかのように窄み、萎んでいく。代わりにラグナの心を────絶望が満たし、埋め尽くしていく。

 弱々しく震える声を絞り出しながら、ラグナは崩れ落ちるようにしてその場に座り込んでしまう。瞳を涙で潤ませ、顔面を蒼白とさせながら、頭を抱え込んでしまう。

「ぁぁぁぁぁ……っ!」

 今の今まで、確固たる像として頭の中に浮かび上がっていた、ラグナ=アルティ=ブレイズの姿が。世界最強と謳われる、《SS》冒険者ランカーの『炎鬼神』と呼ばれるその姿が。途端に瓦解を始め、一気に崩壊していく。そしてそれは、もはやラグナにはどうしたって止められない。

 やがて全てが崩れ去り、壊れて消えると。ラグナの頭の中は空っぽになって。堪え難い喪失感とそれが引き起こす虚無感に苛まれ、蝕まれながら。ゆっくりと、ラグナは顔を上げた。

 そして、目の前の窓硝子に映る────光を失った、何処までも昏い瞳をした赤髪の少女じぶんが。感情など微塵も感じられない、ゾッとする無表情で。何の抑揚もない声で言う。

「これが今のお前だ、ラグナ=アルティ=ブレイズ。否、今のお前など、もはやラグナ=アルティ=ブレイズですらない。ラグナ=アルティ=ブレイズの偽物でも贋作でもない。ラグナ=アルティ=ブレイズの残骸でも残滓でもない。そう、まさに今のお前は────────










 気がつくと、ラグナは暗闇の中に座り込んでいた。

「……はあ……っ?」

 目の前にあった店も、窓硝子ガラスも、そこに映り込んでいた赤髪の少女────否、自分の姿も消え失せていて。上下左右、どこを見渡しても。少しの先だって見通すことのできない、闇が何処までも続いて、ただただ広がっていた。

 突然こんな真っ暗な闇の中に独り放り込まれてしまったラグナは、堪らず戸惑いの声を漏らす。

「な、何だよ……ここどこだよ。さっきから一体何が起こってんだよ!?一体何なんだってんだよッ!!」

 訳がわからない、理解ができない出来事の連続を前に。精神が限界に達しかけ、どうしようもなくなったラグナは喚き、そう叫び散らした。

 しかし、ラグナの声はただ虚しくその場に響き渡るだけで。誰からの返事もなかった。

「……本当に、何だってんだよ」

 そう悔しげに呟いて、ラグナは先程のことを思い返す。そう、先程の────窓硝子の前で、打ち拉がれていた自分の姿を。を思い出してしまい、絶望の渦中へ突き落とされた自分のことを。



『……あ、ぁぁ……』

『ぁぁぁぁぁ……っ!』



「……ふざ、けんな」

 唇を噛み、そう憎そうに吐き捨てるラグナは。先程のあまりにも情けなく、惨めな醜態を晒してしまっていた自分に対し。凄まじいまでの羞恥心を抱き、急激に顔が熱くなってくるのを自覚しながらも、その場から立ち上がって。

「ふっざけんなッ!偽物だとか残滓だとか好き勝手言いやがって!俺は俺だってえのッ!誰に何て言われよーがなッ!!」

 まるで燃えているかの如く、その顔を真っ赤に染めながらも。負けずめげずに、気丈になってラグナは言葉を叫び、言葉を吐き捨てる。

「俺はラグナ=アルティ=ブレイズで、俺がラグナ=アルティ=ブレイズなんだ!《SS》冒険者で、『炎鬼神』で、そんで……そんで俺は、あいつの……っ!」

 だが、その時だった。



 ズズズッ──突如として、ラグナの足元が。ゆっくりと、徐々に沈み始めた。



「ッ!?」

 驚愕しながらも咄嗟に、反射的に沈む足をラグナは振り上げようとして。しかし、何故だか全く力が入らず、そのことにラグナは狼狽えてしまう。

 ──ちょ、なっ?……力が、入んな……っ!

 そうこうしている間にも、ラグナの身体はどんどん闇へと沈み続けている。今ではもう、両の足首が完全に闇の中に埋まってしまっていた。

「ク、クソッ!クソ、クソ……!」

 それでもまだラグナは諦めず、口汚い言葉を吐きながらも、どうにか脱出しようと懸命になって抵抗を続ける。……だがそれが実を結ぶことはなく、無情にもラグナの身体は沈み続けていく。

「ヤ、ヤバ……ッ」

 そうして気がつけば、ラグナの身体はもう腰まで完全に闇に飲み込まれていて。その窮地にまで追い込まれ、追い詰められ。ふとラグナは考えた。

 ──俺、どうなっちまうんだ……?

 このまま、闇の中に沈み続けたら。足の爪先から頭の天辺まで、完全に闇の中に飲み込まれたら、最後────果たして、自分はどうなってしまうのだろうか。安直にも、ラグナが頭の中に思い浮かべたのは。



 死、という一文字。瞬間、ラグナの顔から血の気が失せ、一気に青褪めた。



「ヤバい、ヤバいヤバいヤバいッ!」

 と、無意識の内にそう連呼しながら。躍起になってラグナは闇から抜け出そうとするが────気づいてしまう。もう、闇に飲み込まれた下半身の感覚が全くないことに。

「っ……!!」

 もはや自分一人ではどうしようもできない状況に陥ったことをラグナは悟り。直後、虚空に向かって腕を、手を伸ばし。口を開かせ、恐怖と焦燥で引き攣り掠れる声を喉奥から絞り出す────直前。





『誰かぁぁぁぁあああああっっっ!!!』





 あの時の、何もできずただ誰かに助けを求めるしかなかった、非力で無力な自分の姿をラグナは思い出した。

 ──……今の俺は、一人じゃ何にもできないのかよ……ッ。

 悔しさと情けなさに顔を歪ませながら、それでも。ラグナは声を出そうとして────その瞬間、堪らずラグナは瞳を見開かせた。

「なっ……んで……!?」

 そして信じられない面持ちで、震える声音で続ける。

「何で、どうしてこんなとこにいんだよ……!?」

 ……そう、ラグナの言う通り。一体、いつからそこにいたのか。それとも、突然そこに現れたのか。今もこうして沈んでいくラグナの目の前に、一人の青年が立っていたのだ。

 青年────クラハ=ウインドアは特に何をする訳でもなく。ただラグナの目の前に立ち、ラグナのことを黙って見下ろしていた。それも、およそ感情など微塵も、一切も感じ取れない無表情で。

 だが今のラグナにそれを気にする余裕などあるはずもなく。今もこうして闇に沈み、飲み込まれようとしているラグナは躊躇うことなく、目の前のクラハへと向かって必死に手を伸ばす。

「クラハ!俺のこと引っ張り上げてくれ!俺、このままじゃ……!」

 ラグナの身体は、もう半分以上が闇に飲み込まれていた。あと数分もしない内に、ラグナは完全に闇に飲み込まれてしまうだろう。そしてそれは、クラハとてわかっていたはずだ。

 ……けれど、助けを求めるラグナを前にしながら。クラハは────────。依然として無言のまま、彼は沈み飲み込まれていくラグナのことを、見下ろすだけだった。

「クラハ?なあ、クラハッ?どうしてお前、俺のこと助けてくれないんだよ!?何で黙って見てるだけなんだよッ!?」

 と、予想だにもしていなかった、クラハのこの態度に。流石のラグナもそうやって非難の言葉を彼にぶつける。すると、ようやっと。

「……い」

 今の今まで、黙り続けていたクラハが。閉ざしていたその口を小さく薄く開かせ、何かを呟いた。しかしそれをラグナは聞き取れず、すぐさま彼に聞き返す。

「クラハ、お前今何て言ったっ?」

 聞き返したラグナに、今度は。はっきりと、クラハはこう言う。





「消えてしまえばいい」





 ──…………え?は……?

 クラハの一言は、ラグナの思考を停止させるには十分で。十分過ぎる程のもので。堪らず絶句してしまうラグナに、クラハは続ける。

「あなたなんて、消えてしまえばいい。自分一人では何もできやしない、非力で無力なあなたには、何の価値だってありはしない。無価値なのだから、もう消えてしまえばいいんだ」

 少しも無表情を変化させることもなく、何処までもただ淡々と。そう言い終えるや否や、クラハは踵を返し、ラグナに背を向け。そのまま、ゆっくりと歩き出す。こうしている間にも、身体を飲み込まれていくラグナのことを、放って。

「……ま、待てよ。待てよクラハ。お前どうしてそんなこと言うんだよ。じょ、冗談にも程があんぞ、なあ?……そうだろ?冗談なんだろ?だ、だってお前が、クラハが俺にそんなこと、言う訳、ねえ……!」

 絶句していたラグナであったが、こちらの助けを無視し、歩き出したクラハの背中を前に正気に戻り、慌てて言葉を紡ぐ。

 信じ難かった。信じられなかった。信じたくなかった。あれがクラハの言葉だと、ラグナは絶対に思いたくなかった。

 自分の聞き間違いだと、そう思い込みたい一心で。

「後輩のお前が、先輩の俺に本気でそんなこと言う訳ねえッ!!」

 真紅の瞳を涙で滲ませ、潤ませながら。そう、ラグナは切実に叫んだ。……そして、そのラグナの叫びはこの場から去ろうとしていたクラハの歩みを────止めてみせた。

「っ!クラハ……!」

 クラハが足を止め、その場に留まったことに対して。ラグナはこれ以上にない程の安堵を抱き、涙が薄らと浮かぶ瞳を希望に輝かせながら、その名を呟き。そしてすぐさま言葉を続ける────

「違う」

 ────前に、先にそう。その背中をこちらに向けたまま、クラハが呟いた。

 ──え……?

 あまりにも突然で、唐突なそのクラハの呟きに。ラグナは僅かばかりに困惑し。そんなラグナに、淡々と。何の抑揚もなく、何の感情も込めず。依然として背中を向けたままに、クラハがこう続ける。

「違う。あなたは……違う」

 その言葉を耳にした瞬間、ラグナの心を不安が脅かす。身の毛もよだつ悪寒が背筋を一気に駆け抜け、ラグナの動悸を激しくさせて。それが、ラグナにとある直感を働かせる。

 ──や、止めろ……クラハ、をお前に言われたら、俺は……俺はもう……!

 ラグナは願う。まるで命乞いかの如く、クラハに対して。どうかその先を言わないでほしいと。クラハに言ってほしくない、と。切に、そう思う。

 だがしかし、そのラグナの願いは、ラグナの思いは────





「あなたはもう僕の先輩なんかじゃない。あなたはもう、ラグナ=アルティ=ブレイズなんかじゃない。ただの無力で非力な、何の存在価値だって持ち合わせていない一人の少女だ」





 ────残酷過ぎる程残酷に、無惨にも裏切られ。微塵に砕かれ、壊された。

「…………ク、ラハ……」

 呟いたラグナの声音は、これ以上になく、どうしようもない絶望に染まって、満ちて、溢れていて。一瞬にして光を失った、昏いその瞳からは涙が流れ落ちる。

 そんなラグナのことを、クラハは対して気にも留めず。またしてもその場から歩き出す。遠去かるその背中を、ラグナはただ見つめることしかできなかった。

 失意の最中、ラグナは伸ばしていたその手をゆっくりと振り下ろし。振り下ろされたラグナの腕は、闇に飲み込まれる。……これでもう、ラグナは首から下の全てが闇の中に沈んでしまった。

 けれど、それをラグナは悲観することなく。もはやなすがままに、闇に沈んでいく。闇に、飲み込まれていく。

 ──……俺、死ぬのかな。

 遂に首までも闇に飲まれたその時、呆然自失になりながら、ラグナは心の中でそう呟く。あと数秒もしないで訪れるであろう、己が結末────死について。

 ラグナとて、死ぬのは恐ろしい。死んでしまうことは、怖い。そんな恐怖がもう間もなく自分へ訪れる────────しかし。

 ──…………あ。

 その時、ラグナは何を思うでもなく、今一度視線を前にやった。そこに、クラハの姿はもはやなく。それを認識した瞬間、ラグナは思い出した。

 確かに死は恐ろしい。死は怖い。だが、ラグナには死以上に恐ろしくて、そして怖いことがあったのだ。

 そう、それは────────

「嫌、だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…………クラハァァァァァァ……っ!」

 ────────クラハに、見放されること。彼に拒絶され、否定され、捨てられること。それを今になってようやく思い出したラグナは取り乱し、錯乱しかけたが。その前に、頭を闇に飲まれ。





 そして────────誰もいなくなった。
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