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ARKADIA──それが人であるということ──
ARKADIA────残景追想(その終──後編)
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『輝牙の獅子』で惨劇と片付けるには生温い、血に満ち塗れ溢れた混沌が繰り広げられる中、飛び出したフィーリアは独り、マジリカを駆けていた。
ろくに前も見ず。出鱈目に。体力が保つ限り、フィーリアは地面を懸命に蹴って、走る。ただ我武者羅に。体裁などお構いなしに。
……否。今のフィーリアに己の体裁について考える余裕などなかった。今彼女の頭の中は真っ白で、グチャグチャで。今こうしているように他の何かをすることで気を紛らせないと、すぐにでもどうにかなってしまいそうだった。
何故そうなったか──無論、それは先程のこと。日常に突如として割り込んだ、あの異物にある。
フィーリアは知られたくなかった。一瞬でも気を抜けば、張り詰めた緊張の糸を緩めてしまえば、その格好の隙を突いて漏れてしまうから。漏れ出した自分の知らない何かが、薄青い魔石という形を取って酷い現実を見せつけてくるから。
一週間程前のあの日、ストレスによる疲れからアルヴァの病室で一夜を明かしてしまったあの日。……自分がもう、知らない自分に変わりつつあると突きつけられたあの日からだ。
一体何がどうなって、こんなことになってしまったのか。フィーリアはわからない。わかる訳も、ない。
だって────何も、全く知らないのだから。
この瞳も、肌に走る線も、あの魔石のことも。フィーリアは何もかも知らない。全部知らない。知る由もない。今の自分のことなど、知らない。
自分が、知らない自分に変わっていく。置き換えられていく。徐々に、そして加速的に。
そう、それはまるで──────
『この、化け物めぇえッッッ!!!』
「ッ!」
違う。違う、違う、違う違う違う違う違う違う。
──違わないよ。
自分はそんなのじゃない。自分は歴とした。
──いい加減、認めようよ。
自分だって、他の皆と同じ。
──同じじゃないよ。だって、自分は。
人間/化け物だ。
「ちがうッ!わたしは!……わたし、は」
頭が、痛い。怖気が全身を巡って、止まらない。吐くものなどないのに、吐き気が込み上げてくる。
辛い。苦しい。グチャグチャの感情が心を埋め尽くして、もう堪えられない。
ずっと我慢していた。ずっと押し留めていた。ずっと、抑え込んでいた。
けれど、もうそれはできない。見られた。知られた。
もう────終わりだ。
「……ここ、って」
脇目も振らずに走り続けたフィーリアが辿り着いたのは、マジリカ旧市街地。そう、『創造主神の聖遺物』たる、薄青い魔石に覆われた塔の元であった。
「ぐ、ぅ……ぁっ……!」
呆然と立ち尽くすフィーリアだったが、不意に胸を思い切り締めつけられるような激痛と苦しみに襲われ、堪らず手で押さえその場にしゃがみ込んでしまう。
「い、ゃ……だめぇ……っ!」
身体の奥底から、得体の知れない何かが溢れ、外へ出ようとする。それをフィーリアは必死に抑えようとするが、あまりにもか弱く、儚い抵抗だった。
「でちゃ、う……いや、なのに……ぐ、ぅぅぅ!」
フィーリアの顔に走る薄青い曲流の線が、微弱に輝きを瞬かせる。瞬間、彼女の周囲に粒子のようなものが舞い、そして。
「ぁ、ぁぁ……あああああああああああッ!!!」
バキバキバキッ──フィーリアの身体から青い閃光が弾け、迸り、突き立つ。空を穿ち雲を散らせたかと思えば、この場所に酷く歪な魔石のオブジェを作り上げた。
「ぁぁあぁああああ!ぃやああああああッ!!!」
なおもフィーリアの身体から閃光が放たれる。放たれた閃光は好き勝手に周辺を駆け巡り、そしてそれら全てが薄青い魔石となる。彼女が絶叫する度に閃光は溢れ出し、魔石となり手当たり次第に周囲を覆う。
そうして閃光の放出は止まることを知らず秒刻みに勢いと激しさを増しながら続いたが、それもようやっと収まりを見せ始める。閃光はその輝きを徐々に落とし、挙動も落ち着き始めたのだ。
「うぐ、うぁあ……は、ぁ……ッ」
地面に蹲ったまま、両腕で身体を抱き締めながら、フィーリアが苦悶に呻く。閃光自体は大人しくなっていったが、それでも彼女の様子が元に戻らない。
そんな状態が数秒続いた、その瞬間であった。再びフィーリアの身体から発せられる閃光の輝きが急激に高まり、膨れ上がったと思えば。
「い、ぅあ……がぁ、があ゛あ゛あ゛あ゛
あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッッ!!!!」
蹲っていたフィーリアが身体を仰け反らせ、喉を潰さんばかりに叫ぶとほぼ同時に、閃光が炸裂し、そして爆発した。
「……ぁ、ぁぁぁ……」
魔石に囲まれ、ペタンと座り込んだまま、フィーリアは言葉にならない声を静かに漏らす。
──……でちゃ、った。
虚とした瞳で周囲を見渡せば、魔石しか視界に入らない。まるでここだけが、異世界と化したような風景だった。
「ぜんぶ、わたしが……?」
己を取り巻く現実が、そうだと如実に伝える。否応なしに訴えてくる。この異界極まる風景を創り上げたのが、自分であると突きつけてくる。
こんな所業────人間にできるはずがない。できるとしたら、それは。
化け物だ。
「……ちがう。ちがうちがうちがうッ!わたしがやったんじゃない!こんなのやってない!こんなの、わたしに!……にんげんに、こんな、こと……」
頭を振って、フィーリアは必死に否定する。否定し、拒絶する。
だがそうする度に視界ははっきりと確かに。今し方己が生み出した魔石を映し出す。その魔石に、今の自分の姿が映り込む。
そこに映り込んでいたのは────何処までも鮮やかな虹と透明な無の灰の瞳をした、肌に薄青の輝きを灯す刺青が如き曲流の線を走らせ、そしてその額に二本の歪ながらに刺々しく伸びた角を生やす、真正の異形たる少女であった。
「…………わたし、じゃない」
瞳を見開かせ、そう呟きながら震える手を顔にやるフィーリア。するとそれと全く同じ動きをしてみせる、魔石の中の異形。
「わたしじゃない。こんなの、わたしなんかじゃないッ!」
バキン──堪らずフィーリアが叫んだ瞬間、彼女の目を奪っていた魔石が跡形もなく粉々に爆ぜ砕け散る。
「わたしはッ!」
依然、フィーリアは叫ぶ。彼女の叫びが響き渡ると、それに呼応でもするかのように次々と魔石が砕けていく。砕けて、その破片と欠片が魔力の残滓である粒子となって、宙に舞っては霧散し溶けて消え失せる。そこに薄青い煌めきを一瞬だけ残して。
「わたし、は……わたしは、ばけものなんか、じゃ」
そう呟くフィーリアの声は、どうしようもない程に昏い、深い絶望に塗り潰されている。彼女自身、必死に否定し続けた。拒み続けた。現実から目を、背き続けていた。
……だが、それももう限界だった。今日この瞬間────フィーリアの心は、無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。
どうすればいいのかわからず、その場に座り込むフィーリア。そんな彼女の元に、来訪者が一人、現れる。
「ハァッハハハッ!嗚呼、見つけた!見つけたぞ!」
そのあまりにも喧しい声のする方に、フィーリアはゆっくりと顔を向ける。するとそこには──冒険者の男がいた。『輝牙の獅子』に突如として押し入り、そして自分を殺そうとしたあの男が立っていた。
「やっぱりそうだったそうだったんだな!?その顔!姿!正しく化け物!お前は正真正銘の化け物だ!イヒ、イヒヒャハハッ!これで俺は英雄だぁああああああッ!」
その全身を赤黒く染めて、それと同様に赤黒く染まった剣を振り回しながら、何がそんなにも嬉しいのか楽しいのかわからない歓声を上げて。完全に正気を失った者の表情を顔に浮かべながら、男はその場を駆ける。
「化け物ぉおおお!お前を殺して、俺が英雄になるんだぁ!英雄になっていいのは俺だけなのさぁあああッ!だから、この俺に殺されてろこの化け物がぁああああああッッッ!!!」
尋常ではない速度で男はフィーリアとの距離を詰める。あと数秒もあれば、剣が届く間合いに辿り着けるだろう。
そんな中、フィーリアといえば────
「……」
────その男のことを、眺めていた。
──このひとのせいだ。
不意にフィーリアの頭の中を、その言葉が埋め尽くす。途端、彼女の心に昏い感情が滲む。
──このひとのせいで、しられた。みられた。このひとのせいだ。こんなひとが、こんなにんげんがいたから、わたしは。
昏い感情は、あっという間に黒い感情へと変容する。一気に淀み、濁り、濃く、ドス黒く穢れ変色していく。
──ゆるさない。
感情が────燃え滾る憤怒と煮え立つ憎悪が、フィーリアに訴えかける。自分がこんな目に遭っているのは今迫っている人間のせいだと。自分をこんな醜い化け物にしたのは────人間だと。
──ゆるさない、ゆるさない、ゆるさないゆるさないゆるさない。
人間が許せない。人間が赦せない。憎くて憎くて憎くて、どうにかなってしまいそう──否、もう既になっている。恨めしくて堪らない人間なんかのせいで、どうにかなってしまった。自分は────壊れてしまった。
フィーリアがそう思う度に、彼女の虹の瞳は爛々と妖しく輝き。それに反して灰の瞳からは光が消えて。彼女の身体に走る薄青い線からも燐光が漏れ出す。
消えればいい。失われればいい。人間なんて、この世界から影も跡形もなく、残滓すら残さず消失してしまえばいい。
──……ううん、ちがう。
滅ぼす。滅ぼしてやる。この手で、必ず。ただの一人も残さず、この世界ごと。
──わたしがほろぼさなきゃ。
滅ぼさなければ。滅ぼさなくては。だって、それこそが創られた理由なのだから。
そう、自分はその為に創り出された。あの方に────一にして全なる祖に。
滅びを齎す存在。この世界を悠遠なる理想で抱き、包み、そして滅ぼす存在。
──わたしが。
人類の絶対敵。無慈悲な終焉にして、慈悲の試練。第四の厄災たる我がその名こそ──────
── 『理遠悠神』アルカディア。
「ヒャハハハハァッ!英雄だぁあッ!やったあああああああああああああッッッッ!!!!」
叫びながら、剣を振り下ろす男。その血に汚れた刃がフィーリアの首を刎ね飛ばす寸前、彼女はぶっきらぼうにその小さな手を振るう。
ビシャッ──瞬間、フィーリアの顔を生暖かい液体が濡らした。
「……え……?」
その感触にハッと我に返ったフィーリア。正気に戻った直後、彼女の瞳に映ったのは。
「あ、べぇがげっ?」
身体の至るところから血に濡れた魔石を生やす、男の姿だった。
「ぎぇ、ぼぼ、ごぼぼっ」
男の口から血が噴き出たかと思えば、すぐさま魔石が生え出てくる。刹那、男の血走った目がグルンと裏返り。
「ぼ」
そんな一文字の一言だけを残して、男の身体は急激に歪ながらに膨らんで、弾け飛んだ。肉を引き千切る生々しい音と骨を砕く音が重なり、実に冒涜的な音楽を奏でながら、血で真っ赤に染まった魔石と元は人間であったその残骸が周囲に飛び散り、そしてフィーリアに向かって降り注ぐ。
さながら、それは人間一人を使った血と肉のシャワー。血がフィーリアの服を、身体を、髪を、顔を濡らす。それに続いて、ベチャベチャと骨の破片入り混じった薄桃色の肉片が彼女の全身へ叩きつけられていく。
「……ぁ、ぁ」
フィーリアの鼻腔が鉄臭い血の匂いで充満し、それ以外の匂いがわからなくなる。
フィーリアの視界が地面に散らばった人間の内臓と内臓だったであろう肉塊で埋め尽くされ、それ以外の景色が映らなくなる。
「ぁぁ、ぁぁぁ」
──なに、したの?わたしが、した、の?
ブルブルと震える両手で、フィーリアは顔に触れる。手のひらに伝わるドロドロと粘つく感触に、堪らず全身が怖気立つ。悪寒に苛まれる。
──ちがう。ちがうちがうちがうッ!わたしはこんなことしてない!こんなこと、したかったんじゃ……!
頭の中で目の前に広がる現実を必死に、懸命に否定するフィーリア。
──わたしは、ひとをころしたかったんじゃない!!
「…………あ」
その時、フィーリアは見た。そこに転がっていた、丸い物体を。その物体は────眼球だった。
地面から、眼球がこちらのことを見上げている。顔などないのに、その視線が怨念に塗れているようだと、フィーリアは他人事のように感じられて。
そしてその視線を受けて────彼女は唐突に理解した。
──わたしは、ひとをころしたんだ。
「いや……いやぁ……」
その視線から逃れようと、でもその場から上手く立ち上がることもできず。涙を流しながら周囲を見回す。
周囲は薄青い魔石だらけで。それら全てに映り込んでいる。今の自分が。顔と髪と全身が、血と人肉塗れの、角を生やした異形の姿が。
どこを見ても。どこを見ようとも。映っている。見せつけてくる。今の自分を。恐ろしく悍ましい異形の姿を。
逃げ場などもはやどこにもない。現実から逃れることは許されない────その事実を思い知らされた瞬間、とうとうフィーリアの精神は限界に達した。
「もういやぁああああああああああああああっ!」
フィーリアの絶叫に応えるかのように、この場周囲一帯の薄青い魔石の全てに亀裂が走り、そして同時に砕けた。薄青い粒子が大気を埋め尽くし、そして宙へと舞い上がる。
その中心に座り込むフィーリアであるが、亀裂は彼女の額の角にも走り、静かに砕け散る。その破片も落下する途中で薄青い粒子となって、宙に溶けて消えていく。
そうしてフィーリアはそのまま、その場に倒れた。
瞼を開けば、真っ先に視界に飛び込んだのは天井だった。見覚えのない、白い天井であった。
──……ここ、どこ……?
上手く働かない頭の中でそう呟いて、とりあえず上半身を起こす。どうやら自分は寝台に寝かされていたらしく、周りを見ても天井と同様に全く知らない部屋の中だった。
辛うじてわかるのは、この部屋が病室らしいこと。つまり、ここは病院なのだろう。寝起きの頭も徐々に冴え、そう考えを巡らしている時だった。
ガチャ──不意に、この病室の扉が開かれた。
話を聞けば、自分は旧市街にある『創造主神の聖遺物』の塔の広場で倒れていたところを発見され、この病院へと運び込まれたらしい。
その日は一切目を覚ます気配がなく、一旦安静の元様子を見るということで落ち着いたのだが、その翌日──つまりは今日、フィーリアの意識は覚醒したのだ。
軽く検査を行ったところ、一部を除けば特に異常は見られず、その後フィーリアは数々の質問を浴びせられた。……浴びせられた、のだが。
「……えっ、と。すみ、ません……わかりません。……なに、も」
その言葉通り、塔の広場で何故自分が倒れていたのか、フィーリアは何もわからないでいた。……そう、あの時と──アルヴァと共に倒れていた時と同じように、彼女は『あの』日の記憶を失ってしまっていたのだ。
有益な情報の類いは手に入らないと知り、そして目を瞑れば異常もないことから、フィーリアはすぐに退院という流れになり、午後になる頃には彼女はマジリカの街道を歩いていた。今目指している目的地は、『輝牙の獅子』である。
「……?」
期間はまだ短いとはいえ、住んでいる街。特に迷うこともなく進むフィーリアであったが──この日は、何かが違っていた。
視線を、浴びる。視線を集めている。この街に住まう老若男女全員が、自分を見ている。それも普通にではなく────奇異、嫌悪、恐怖という負の感情を込めた、負の視線で。
フィーリアも、別にこういったことが初めてという訳ではない。彼女自身、己が異質な風貌をしていることは重々承知している為、少なからずこういった悪目立ちしてしまうのも仕方のないことと、もう割り切っている。
だが今日は、それがあからさまだ。露骨過ぎるのだ。今までは控えめだったのが、今日は誰も彼もが噯にも隠さず、ありありとフィーリアに無体な眼差しを不躾に浴びせている。
そう、まるで────この世の存在ではない、異物を見るかのように。
「……」
そんな視線の只中に晒されて、堪らずフィーリアは己の腕を抱いて、無意識にもその足を早める。
逃げるようにその場を後にするフィーリアを、マジリカの住人たちは眺めながら、決して彼女には聞こえない声量でヒソヒソと、何か囁き合うのだった。
「ふざけるな!ふざけるなっ!ふざけるなァ!」
苦しく、辛い思いをしながらも目的地である『輝牙の獅子』の前に辿り着いたフィーリアであったが、直後彼女は異様の光景を目の前にしていた。
「お前たちは冒険者のくせに、どうして……どうして私の娘を守ってくれなかったんだ!どうして見す見す死なせたりしたんだ!あの子は、あの子はまだ四歳だったんだぞ!?」
「……申し訳、ありません」
「謝罪なんかいらないんだ!娘を、エミーを返せ!返せぇえッ!」
『輝牙の獅子』の門前で、一人の男が泣き叫び、泣き崩れていた。慟哭するその男の前には苦々しい表情を浮かべる、この冒険者組合の受付嬢であるリズティア=パラリリスが立っており、その場に異様の光景を作り出していた。
一体何事か──フィーリアが困惑する最中、地面に泣き崩れたまま、男が続ける。
「どうしてだ。どうしてエミーだったんだ……何故、私の娘が死ななければ、殺されればならなかったんだ。この世界に、神などいないということなのか……!」
困惑したまま、フィーリアは前に進む。すると彼女の存在に気づいたリズティアが、思わずといった様子で驚きの声を上げた。
「フィーリアちゃん!?」
瞬間、男が凄い勢いでフィーリアの方に振り返る。彼もまた彼女の姿を視界に捉え、その表情を見る間に憤怒へ染め上げる。そして、徐に地面から立ち上がったかと思うと、そのままフィーリアに飛びかかった。
「お前のせいだ!お前なんかがいたから、エミーは殺されたんだッ!」
「ひっ!?」
必死の形相でそう叫びながら、男はフィーリアに掴みかからんとして──寸前、中で様子を伺っていたのか、不意に冒険者の一人が門から飛び出し、男の両手がフィーリアの両肩を掴む直前、飛び出した冒険者が男を羽交締めにしそれを阻止してみせた。
「あんた正気か!落ち着け!」
「うるさい黙れ!私を離せ!殺してやるんだ!この──化け物をぉおっ!」
死に物狂いで暴れ、なんとか抜け出そうとする男が、無遠慮に唾を飛ばしながら、呆気に取られているフィーリアに向かって叫び続ける。
「知っている、知っているんだぞこの化け物め!お前があの塔をあんな風にしたのも、何人もの人間を殺したことも全部知っている!子供の姿をしていても、私は騙されない!騙されないからな!エミーを、娘を奪った醜い化け物が!恨んでやる!一生恨み続けてや「止めて!!!」
あまりにも心ない男の言葉に堪え兼ねたリズティアがそう声を荒げる。が、それは些か遅かった。
「っ……!」
男の言葉をまともに受けてしまったフィーリアは、瞳を濡らして数歩その場から退がったかと思えば、踵を返しそのまま一目散に駆け出してしまう。
「あっ!?待ってフィーリアちゃん!貴女は悪く……ない、の……」
言いながら、リズティアは手を伸ばす。だが今度もその手は決して届くことはなく、またしても彼女は遠ざかる背中を、無力にも見つめることしか、叶わなかった。
フィーリアはただひたすらに駆けていた。もはや、彼女の心に余裕などありはしなかった。
フィーリアの頭の中で、一つの単語が巡る。
『化け物が!』
──ばけもの……?わたしが……?
心の中で呟いて、ブンブンと頭を横に振ってフィーリアはそれを否定する。自分は化け物などではないと主張する。
……だが。そうする度にあの男の顔が浮かんでくる。こちらを化け物と罵った声が頭の中を反芻する。
──わ、わたしはばけもの、なんかじゃ。
改めて心の中でフィーリアがそう呟いた、その時だった。
ガッ──不意に、何かがフィーリアの足を引っ掛けた。
「ふあっ?──きゃうっ!」
無我夢中でとにかく駆けていた為、踏ん張ることなどとてもできずにフィーリアは転んでしまう。不幸中の幸いか、顔から地面に倒れることはなく、けれど手のひらや膝を擦り剥いてしまった。
ジンジンと痺れるような痛みにフィーリアが顔を顰めさせる中、地面に倒れ込んだままの彼女に対して声が降る。
「やい!みつけたぞばけもの!」
その声は、まだ高く、幼い少年のものであった。その声音に似合わぬ唐突な罵倒にフィーリアが慌てて顔を上げてみれば──自分を囲むようにして、数人の同い年くらいであろう子供たちが立ってこちらのことを見下ろしていた。
フィーリアが驚き固まる最中、子供たちが口々に寄って集って眼下の彼女に心ない言葉をぶつけていく。
「このばけもの!」
「とうさんやかあさんがいってた!」
「ばけものばけものー!」
子供たちの言葉が、フィーリアの心を揺らして、傷つける。だが彼女からすればそれは覚えのない、謂れのない言葉で、言葉のはずで──だから、弱々しく震える声で子供たちに言い返す。
「わ、わたしはばけものじゃ……!」
だが、虚しいことにフィーリアの言葉が届くことはない。
「うるせえ!ばけものめ、おれたちがおまえをやっつけてやる!」
フィーリアに対してそう言った、恐らくこの集団を纏めているのだろう筆頭格の少年は徐にズボンのポケットに手を突っ込み、そこから小さな石を取り出す。そしてあろうことか──何の躊躇もなく、迷わずにフィーリアに向かって投げつけた。
「いたっ……!」
少年の投げた石は、フィーリアの身体に当たり、彼女に鈍痛を味わせる。とはいえ所詮少年の力。そう大した威力はなかったが、それでも
まだ幼いフィーリアにとっては堪え兼ねないものである。
忽ちフィーリアの瞳が潤み、滲む────しかし、それで終わりではなかった。
「よーし、みんなでこいつをはやくやっつけよう!」
「そうだそうだ!」
「やっつけるんだ!」
「このまちをぼくたちがまもるんだ!」
そう言うや否や、他の子供たちも各々に石を取り出し、そしてそれを掲げる。
石を──暴力を振るう。それが決して正しい行為ではない、間違っている────とは子供たちは考えない。考えようと思いもしない。
何故ならば今自分たちは正義の味方であると思っているからだ。今自分たちは悪い化け物を退治する、英雄なのだと思っているからなのだ。そんな自分のこの行動が間違いだと、思う訳がない。
当然である。もはやフィーリアは同じ人間だとは思われていない。だから子供たちは何の躊躇いも迷いもなく、彼女に対して暴力を振るえる。振るってしまえる。
「い、いや……やめて……!」
涙を浮かべ、そう必死に懇願されても。子供たちは止めようとは思わない。微塵も、思いはしない。子供というのは────時に大人よりも残酷なのだ。
幼く、まだ純真無垢な心に加減はなく。故に大人以上の純粋な残酷さを以て、子供たちは今まさに決行する。この街を、自分たちの両親を救う為に。化け物を倒さんと、その手に持った石を全員で一斉に投げつける────その時だった。
「この馬鹿ガキ共ッ!何やっとるんだ!」
不意に鋭い叱咤の声がこの場を貫く。それに堪らず子供たち全員はビクリと身体を跳ねさせ、それぞれに悲鳴を上げ石を捨てて、まるで蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。
「あ……」
思いもしなかった助けに、フィーリアは呆然としながらも顔を上げる。彼女の目の前には三十代前後の男が立っており、こちらを見下ろしていた。
「あ、あの……ありがとう、ございます」
地面から立ち上がり、男に礼を伝えるフィーリア。彼女の感謝に対して、男は────
「……とっと失せやがれ。ここにいたら迷惑なんだよ、化け物め」
────そう、まるで汚物でも見るかのような眼差しをフィーリアに向けながら、忌々しそうに吐き捨て、踵を返しさっさとこの場を去っていった。
男からそんな反応を返されたフィーリアは、ただ呆然としながら、しばらくそこに立っているしかないでいた。
それから、フィーリアは風の便りで聞いた。『あの』日──自分が病院に運び込まれた日に、あったことを。
『輝牙の獅子』に突如として押し掛けたあの男が、マジリカの住民にフィーリアが人外の化け物であると吹聴していたこと。そして自分が冒険者組合を飛び出した後、男が発狂して周囲にいた冒険者たちを手当たり次第に斬殺し、終いには親の使いで組合に訪ねてきた一人の少女の首を、刎ねたこと。
さらに男はそれだけに飽き足らず、街道を歩く住民たちもその手にかけ、旧市街に消えたこと。
そして数時間後、『創造主神の聖遺物』の塔広場にて、一面血の海と元は人間だったのだろう残骸に埋もれるようにして、気を失っている自分が発見されたこと。
それら全ての話を聞いたフィーリアは、『輝牙の獅子』へ訪れた。訪れ、所属する冒険者たちに今まで世話になった感謝と礼を伝えると、組合を後にした。
その日を最後に、フィーリアが『輝牙の獅子』へ来ることは二度となかった。
いつの日からか、フィーリアはマジリカの住民たちから迫害を受けるようになってしまっていた。街を歩けば子供たちに虐められ、大人たちはそれを遠目から眺めては見て見ぬ振りをする。する上で、皆彼女を人殺しの化け物と呼び、決して子供扱いも、人間としてすら扱わなかった。
そんな生活が数ヶ月も続き────いつしか、フィーリアは病院へ入り浸るようになってしまったが、それも長くは続かなかった。
ある日、フィーリアは聞いてしまったのだ──病院に勤める複数人の看護婦たちの、自分への陰口を。
やれあんな化け物がいたら病院の評判が下がるだの、やれその姿が視界に映るこっちの気分のことも考えてほしいだの。
それらの陰口はフィーリアの心を深く抉ったが、中でも彼女を一番酷く惨たらしく傷つけたのは。
娘が人殺しの化け物だなんて、アルヴァ様が可哀想────その一言であった。
その日を境に、フィーリアは毎朝早くからアルヴァの病室に訪れては、挨拶や花瓶の水の交換という風に見舞いを最低限なものに済まして、病院に滞在する時間すらも極力減らすようになった。
そうしてフィーリアの姿を普段から見かける人々も少なくなり────気がつけば、いなくなっていた。
フィーリアは孤独だった。朝も昼も夜も、ずっと孤独と付き合い、孤独に付き纏われていた。
自分以外に誰もいない家は静かで、掃除など終わらせてしまえば本当に酷く静かで。そんな中フィーリアはリビングにて独り、膝を抱えて座り込む。
早朝に病院へ行き、未だ寝台の上で眠ったままのアルヴァに会い、おはようと声をかける。そして花瓶の水を入れ替え、花が傷んでいれば新しいものと取り替える。それが終わればまたねと声をかけて、即座に病院から去る。
それからできる限り人気を避けて街道を進み、自宅に戻る。自宅に戻ったらまず掃除を一通り済ませ、リビングにて膝を抱えて一日中座り込む。そうして気がつけば、夜が明けている。
今やそれがフィーリアの毎日。彼女の日常。そこに喜楽が湧くこともなく、また哀怒を噴かせることもなく。ただただ、虚しさに諦観を抱え込む日々の繰り返し。
食欲すらも次第に薄れ、酷い時には一週間も何も全く口にしないこともあった。だがそれでも、不気味極まりないことにフィーリアの身体が痩せこけることはなく、異常が発生しないのが異常であるという始末だった。
そんなことが延々と続けば、誰であろうと発狂するだろう。それが正常な人間であればなおのこと────だが、それがいくら続けられようが、フィーリアが気を狂わせることはなかった。……否、狂おうにも彼女は狂うことができなかった。許されなかったのだ。
現在、アルヴァの帰還を信じ待ち続けているのは、恐らくフィーリアだけである。そんな彼女すらおかしくなれば、アルヴァを待つ存在は誰一人としていなくなってしまう。病院に眠る彼女が、真の意味で独りぼっちとなってしまう。
そうなることを、フィーリアはどうしても阻止したかった。孤独が何よりも辛いのは、彼女が誰よりも理解していたから。だからそれをアルヴァに──母に味わせる訳にはいかなかったのだ。
……また、別の理由もある。それは────
──おかあさん……。
────もう一度、もう一度また言葉を交わしたかった。おはようの声が聞きたかった。その手で頭を撫でて、そして抱き締めてほしかった。母の愛が、欲しかった。
それが叶うのならば、叶えることができるのならば。フィーリアは今この現実を堪えられる。乗り越えてみせる。たとえこの身を引き裂く孤独があろうと、己の存在を誰からも否定されようとも。
アルヴァがまた瞳を開いてくれるのであれば。たったそれだけのことで自分は報われる。救われる。この残酷に尽きる現実とも向き合える────そう、フィーリアは縋った。縋って、願った。
そうして、一年という月日が過ぎ去った。
「……おかあ、さん?」
それは日常通りの朝のことだった。日常通り、病院に訪れた。病室の扉を開けて────フィーリアの視界にその光景が飛び込んだ。
自分の目を疑った。信じられなかった。だが、それ以上に胸の内を忘れていた感情が────喜びと嬉しさが一気に満たした。
アルヴァが、起きていた。一年もの間眠り続けていた母が、上半身だけではあるが寝台から起こしていたのだ。
こちらの方に顔を向け、アルヴァは呆然としている。恐らく自分が置かれている状況に理解が追いついていないのだろう。けれどフィーリアには関係なかった。とてもではないが、抑えられなかった。
「おきたのおかあさん!?よかった!」
早朝の病院だということも忘れて、感極まった声を上げながら、フィーリアはその場から駆け出す。一秒でも早く、アルヴァの元に辿り着く為に。
おはようの声が聞きたい。その手で頭を撫でて、そして抱き締めてほしい。母の愛が欲しい────もうそれだけで、フィーリアの中は一杯だった。
いよいよそれが叶う。今まさに、この瞬間。そう思うだけで、幸福感で満たされる。包まれる。
呆然としていたアルヴァも、その表情を和らげ両腕をそっと振り上げる。それを見たフィーリアは、またも叫んだ。
「おかあさん!」
フィーリアもまた腕を上げて、アルヴァの胸に飛び込もうとする。
そして──────
パン──伸ばした手を、払い除けられた。
「………え……?」
最初、フィーリアは一体何をされたのか理解できなかった。したく、なかった。
払われた手が少し痺れたように熱くて。その感覚に戸惑いながら、フィーリアはアルヴァの顔を見やる。和らいでいたと思っていたその表情は────引き攣っていた。
──……あ。
同じ。自分を見る他の人と、同じ表情。同じ目。全部、同じ。
例外なく其処に込められているのは、恐怖。自分たちとは違う異物に対して向ける、恐怖と忌避。
それに気づいた──気がついてしまった瞬間。
──……ああ、そっか。
フィーリアの中で、ずっと心の支えとしていたモノが、音を立てて崩れ落ちた。
「ち、違っ……違うんだフィーリア。これは、さっきのは違く、て……」
もう、届くことはなかった。もう届くことなどなくなってしまった。
結局、同じだったということ。何もかも、全てが同じ。同じく等しく────自分を拒絶する。否定する。
部屋は明るいはずなのに、真っ暗で何も見えない。さっきまで鮮明に聴こえていたはずの音も、今や酷く濁って響く。
「……おいしゃさん、よんでくるね」
一秒だって、ここにいたくなかった。その一心でそう言って、フィーリアは踵を返して歩き出し──走り出す。
途中自分を呼び止めようとする気配を感じたが、それは勝手で残酷な錯覚だと、決め込んだ。
喜ぶって、何だっけ。
怒るって、何だっけ。
哀しいって、何だっけ。
楽しいって、何だっけ。
忘れてしまった。そんな感情、全部忘れてしまった。
だって必要のないものだから。自分には、いらないものだから。
もうどうでもいい。何かもが、どうでもいい。
誰からも嫌われて。
誰からも避けられて。
拒絶されて。
虐られて。
そして、否定された自分。
自分って、一体何なのだろう。何の為に、いるのだろう。此処に在るのだろう。
誰もわからない。誰も教えてくれない。
でも、もうそれでもいい。もう、どうでもいい。
気がつけば、何も感じなくなった。喜ぶことも怒ることも哀しむことも楽しむことも、なくなった。
何もかも、なくなった。だからだろう。
月浮かぶ深い夜、その手に握られた銀色に冷たく輝くナイフが振り下ろされそうになっても。
その刃先を己の胸に突き刺そうとしても。
その刃が握り締められ鮮血が流れ落ちる様を見せつけられても。
激しい自己嫌悪と後悔に塗れた懺悔の言葉を与えられても。
力の限り、強く抱き締められても。
もう、何も感じない。
あれ、フィーリアって────一体何だっけ。
ろくに前も見ず。出鱈目に。体力が保つ限り、フィーリアは地面を懸命に蹴って、走る。ただ我武者羅に。体裁などお構いなしに。
……否。今のフィーリアに己の体裁について考える余裕などなかった。今彼女の頭の中は真っ白で、グチャグチャで。今こうしているように他の何かをすることで気を紛らせないと、すぐにでもどうにかなってしまいそうだった。
何故そうなったか──無論、それは先程のこと。日常に突如として割り込んだ、あの異物にある。
フィーリアは知られたくなかった。一瞬でも気を抜けば、張り詰めた緊張の糸を緩めてしまえば、その格好の隙を突いて漏れてしまうから。漏れ出した自分の知らない何かが、薄青い魔石という形を取って酷い現実を見せつけてくるから。
一週間程前のあの日、ストレスによる疲れからアルヴァの病室で一夜を明かしてしまったあの日。……自分がもう、知らない自分に変わりつつあると突きつけられたあの日からだ。
一体何がどうなって、こんなことになってしまったのか。フィーリアはわからない。わかる訳も、ない。
だって────何も、全く知らないのだから。
この瞳も、肌に走る線も、あの魔石のことも。フィーリアは何もかも知らない。全部知らない。知る由もない。今の自分のことなど、知らない。
自分が、知らない自分に変わっていく。置き換えられていく。徐々に、そして加速的に。
そう、それはまるで──────
『この、化け物めぇえッッッ!!!』
「ッ!」
違う。違う、違う、違う違う違う違う違う違う。
──違わないよ。
自分はそんなのじゃない。自分は歴とした。
──いい加減、認めようよ。
自分だって、他の皆と同じ。
──同じじゃないよ。だって、自分は。
人間/化け物だ。
「ちがうッ!わたしは!……わたし、は」
頭が、痛い。怖気が全身を巡って、止まらない。吐くものなどないのに、吐き気が込み上げてくる。
辛い。苦しい。グチャグチャの感情が心を埋め尽くして、もう堪えられない。
ずっと我慢していた。ずっと押し留めていた。ずっと、抑え込んでいた。
けれど、もうそれはできない。見られた。知られた。
もう────終わりだ。
「……ここ、って」
脇目も振らずに走り続けたフィーリアが辿り着いたのは、マジリカ旧市街地。そう、『創造主神の聖遺物』たる、薄青い魔石に覆われた塔の元であった。
「ぐ、ぅ……ぁっ……!」
呆然と立ち尽くすフィーリアだったが、不意に胸を思い切り締めつけられるような激痛と苦しみに襲われ、堪らず手で押さえその場にしゃがみ込んでしまう。
「い、ゃ……だめぇ……っ!」
身体の奥底から、得体の知れない何かが溢れ、外へ出ようとする。それをフィーリアは必死に抑えようとするが、あまりにもか弱く、儚い抵抗だった。
「でちゃ、う……いや、なのに……ぐ、ぅぅぅ!」
フィーリアの顔に走る薄青い曲流の線が、微弱に輝きを瞬かせる。瞬間、彼女の周囲に粒子のようなものが舞い、そして。
「ぁ、ぁぁ……あああああああああああッ!!!」
バキバキバキッ──フィーリアの身体から青い閃光が弾け、迸り、突き立つ。空を穿ち雲を散らせたかと思えば、この場所に酷く歪な魔石のオブジェを作り上げた。
「ぁぁあぁああああ!ぃやああああああッ!!!」
なおもフィーリアの身体から閃光が放たれる。放たれた閃光は好き勝手に周辺を駆け巡り、そしてそれら全てが薄青い魔石となる。彼女が絶叫する度に閃光は溢れ出し、魔石となり手当たり次第に周囲を覆う。
そうして閃光の放出は止まることを知らず秒刻みに勢いと激しさを増しながら続いたが、それもようやっと収まりを見せ始める。閃光はその輝きを徐々に落とし、挙動も落ち着き始めたのだ。
「うぐ、うぁあ……は、ぁ……ッ」
地面に蹲ったまま、両腕で身体を抱き締めながら、フィーリアが苦悶に呻く。閃光自体は大人しくなっていったが、それでも彼女の様子が元に戻らない。
そんな状態が数秒続いた、その瞬間であった。再びフィーリアの身体から発せられる閃光の輝きが急激に高まり、膨れ上がったと思えば。
「い、ぅあ……がぁ、があ゛あ゛あ゛あ゛
あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッッ!!!!」
蹲っていたフィーリアが身体を仰け反らせ、喉を潰さんばかりに叫ぶとほぼ同時に、閃光が炸裂し、そして爆発した。
「……ぁ、ぁぁぁ……」
魔石に囲まれ、ペタンと座り込んだまま、フィーリアは言葉にならない声を静かに漏らす。
──……でちゃ、った。
虚とした瞳で周囲を見渡せば、魔石しか視界に入らない。まるでここだけが、異世界と化したような風景だった。
「ぜんぶ、わたしが……?」
己を取り巻く現実が、そうだと如実に伝える。否応なしに訴えてくる。この異界極まる風景を創り上げたのが、自分であると突きつけてくる。
こんな所業────人間にできるはずがない。できるとしたら、それは。
化け物だ。
「……ちがう。ちがうちがうちがうッ!わたしがやったんじゃない!こんなのやってない!こんなの、わたしに!……にんげんに、こんな、こと……」
頭を振って、フィーリアは必死に否定する。否定し、拒絶する。
だがそうする度に視界ははっきりと確かに。今し方己が生み出した魔石を映し出す。その魔石に、今の自分の姿が映り込む。
そこに映り込んでいたのは────何処までも鮮やかな虹と透明な無の灰の瞳をした、肌に薄青の輝きを灯す刺青が如き曲流の線を走らせ、そしてその額に二本の歪ながらに刺々しく伸びた角を生やす、真正の異形たる少女であった。
「…………わたし、じゃない」
瞳を見開かせ、そう呟きながら震える手を顔にやるフィーリア。するとそれと全く同じ動きをしてみせる、魔石の中の異形。
「わたしじゃない。こんなの、わたしなんかじゃないッ!」
バキン──堪らずフィーリアが叫んだ瞬間、彼女の目を奪っていた魔石が跡形もなく粉々に爆ぜ砕け散る。
「わたしはッ!」
依然、フィーリアは叫ぶ。彼女の叫びが響き渡ると、それに呼応でもするかのように次々と魔石が砕けていく。砕けて、その破片と欠片が魔力の残滓である粒子となって、宙に舞っては霧散し溶けて消え失せる。そこに薄青い煌めきを一瞬だけ残して。
「わたし、は……わたしは、ばけものなんか、じゃ」
そう呟くフィーリアの声は、どうしようもない程に昏い、深い絶望に塗り潰されている。彼女自身、必死に否定し続けた。拒み続けた。現実から目を、背き続けていた。
……だが、それももう限界だった。今日この瞬間────フィーリアの心は、無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。
どうすればいいのかわからず、その場に座り込むフィーリア。そんな彼女の元に、来訪者が一人、現れる。
「ハァッハハハッ!嗚呼、見つけた!見つけたぞ!」
そのあまりにも喧しい声のする方に、フィーリアはゆっくりと顔を向ける。するとそこには──冒険者の男がいた。『輝牙の獅子』に突如として押し入り、そして自分を殺そうとしたあの男が立っていた。
「やっぱりそうだったそうだったんだな!?その顔!姿!正しく化け物!お前は正真正銘の化け物だ!イヒ、イヒヒャハハッ!これで俺は英雄だぁああああああッ!」
その全身を赤黒く染めて、それと同様に赤黒く染まった剣を振り回しながら、何がそんなにも嬉しいのか楽しいのかわからない歓声を上げて。完全に正気を失った者の表情を顔に浮かべながら、男はその場を駆ける。
「化け物ぉおおお!お前を殺して、俺が英雄になるんだぁ!英雄になっていいのは俺だけなのさぁあああッ!だから、この俺に殺されてろこの化け物がぁああああああッッッ!!!」
尋常ではない速度で男はフィーリアとの距離を詰める。あと数秒もあれば、剣が届く間合いに辿り着けるだろう。
そんな中、フィーリアといえば────
「……」
────その男のことを、眺めていた。
──このひとのせいだ。
不意にフィーリアの頭の中を、その言葉が埋め尽くす。途端、彼女の心に昏い感情が滲む。
──このひとのせいで、しられた。みられた。このひとのせいだ。こんなひとが、こんなにんげんがいたから、わたしは。
昏い感情は、あっという間に黒い感情へと変容する。一気に淀み、濁り、濃く、ドス黒く穢れ変色していく。
──ゆるさない。
感情が────燃え滾る憤怒と煮え立つ憎悪が、フィーリアに訴えかける。自分がこんな目に遭っているのは今迫っている人間のせいだと。自分をこんな醜い化け物にしたのは────人間だと。
──ゆるさない、ゆるさない、ゆるさないゆるさないゆるさない。
人間が許せない。人間が赦せない。憎くて憎くて憎くて、どうにかなってしまいそう──否、もう既になっている。恨めしくて堪らない人間なんかのせいで、どうにかなってしまった。自分は────壊れてしまった。
フィーリアがそう思う度に、彼女の虹の瞳は爛々と妖しく輝き。それに反して灰の瞳からは光が消えて。彼女の身体に走る薄青い線からも燐光が漏れ出す。
消えればいい。失われればいい。人間なんて、この世界から影も跡形もなく、残滓すら残さず消失してしまえばいい。
──……ううん、ちがう。
滅ぼす。滅ぼしてやる。この手で、必ず。ただの一人も残さず、この世界ごと。
──わたしがほろぼさなきゃ。
滅ぼさなければ。滅ぼさなくては。だって、それこそが創られた理由なのだから。
そう、自分はその為に創り出された。あの方に────一にして全なる祖に。
滅びを齎す存在。この世界を悠遠なる理想で抱き、包み、そして滅ぼす存在。
──わたしが。
人類の絶対敵。無慈悲な終焉にして、慈悲の試練。第四の厄災たる我がその名こそ──────
── 『理遠悠神』アルカディア。
「ヒャハハハハァッ!英雄だぁあッ!やったあああああああああああああッッッッ!!!!」
叫びながら、剣を振り下ろす男。その血に汚れた刃がフィーリアの首を刎ね飛ばす寸前、彼女はぶっきらぼうにその小さな手を振るう。
ビシャッ──瞬間、フィーリアの顔を生暖かい液体が濡らした。
「……え……?」
その感触にハッと我に返ったフィーリア。正気に戻った直後、彼女の瞳に映ったのは。
「あ、べぇがげっ?」
身体の至るところから血に濡れた魔石を生やす、男の姿だった。
「ぎぇ、ぼぼ、ごぼぼっ」
男の口から血が噴き出たかと思えば、すぐさま魔石が生え出てくる。刹那、男の血走った目がグルンと裏返り。
「ぼ」
そんな一文字の一言だけを残して、男の身体は急激に歪ながらに膨らんで、弾け飛んだ。肉を引き千切る生々しい音と骨を砕く音が重なり、実に冒涜的な音楽を奏でながら、血で真っ赤に染まった魔石と元は人間であったその残骸が周囲に飛び散り、そしてフィーリアに向かって降り注ぐ。
さながら、それは人間一人を使った血と肉のシャワー。血がフィーリアの服を、身体を、髪を、顔を濡らす。それに続いて、ベチャベチャと骨の破片入り混じった薄桃色の肉片が彼女の全身へ叩きつけられていく。
「……ぁ、ぁ」
フィーリアの鼻腔が鉄臭い血の匂いで充満し、それ以外の匂いがわからなくなる。
フィーリアの視界が地面に散らばった人間の内臓と内臓だったであろう肉塊で埋め尽くされ、それ以外の景色が映らなくなる。
「ぁぁ、ぁぁぁ」
──なに、したの?わたしが、した、の?
ブルブルと震える両手で、フィーリアは顔に触れる。手のひらに伝わるドロドロと粘つく感触に、堪らず全身が怖気立つ。悪寒に苛まれる。
──ちがう。ちがうちがうちがうッ!わたしはこんなことしてない!こんなこと、したかったんじゃ……!
頭の中で目の前に広がる現実を必死に、懸命に否定するフィーリア。
──わたしは、ひとをころしたかったんじゃない!!
「…………あ」
その時、フィーリアは見た。そこに転がっていた、丸い物体を。その物体は────眼球だった。
地面から、眼球がこちらのことを見上げている。顔などないのに、その視線が怨念に塗れているようだと、フィーリアは他人事のように感じられて。
そしてその視線を受けて────彼女は唐突に理解した。
──わたしは、ひとをころしたんだ。
「いや……いやぁ……」
その視線から逃れようと、でもその場から上手く立ち上がることもできず。涙を流しながら周囲を見回す。
周囲は薄青い魔石だらけで。それら全てに映り込んでいる。今の自分が。顔と髪と全身が、血と人肉塗れの、角を生やした異形の姿が。
どこを見ても。どこを見ようとも。映っている。見せつけてくる。今の自分を。恐ろしく悍ましい異形の姿を。
逃げ場などもはやどこにもない。現実から逃れることは許されない────その事実を思い知らされた瞬間、とうとうフィーリアの精神は限界に達した。
「もういやぁああああああああああああああっ!」
フィーリアの絶叫に応えるかのように、この場周囲一帯の薄青い魔石の全てに亀裂が走り、そして同時に砕けた。薄青い粒子が大気を埋め尽くし、そして宙へと舞い上がる。
その中心に座り込むフィーリアであるが、亀裂は彼女の額の角にも走り、静かに砕け散る。その破片も落下する途中で薄青い粒子となって、宙に溶けて消えていく。
そうしてフィーリアはそのまま、その場に倒れた。
瞼を開けば、真っ先に視界に飛び込んだのは天井だった。見覚えのない、白い天井であった。
──……ここ、どこ……?
上手く働かない頭の中でそう呟いて、とりあえず上半身を起こす。どうやら自分は寝台に寝かされていたらしく、周りを見ても天井と同様に全く知らない部屋の中だった。
辛うじてわかるのは、この部屋が病室らしいこと。つまり、ここは病院なのだろう。寝起きの頭も徐々に冴え、そう考えを巡らしている時だった。
ガチャ──不意に、この病室の扉が開かれた。
話を聞けば、自分は旧市街にある『創造主神の聖遺物』の塔の広場で倒れていたところを発見され、この病院へと運び込まれたらしい。
その日は一切目を覚ます気配がなく、一旦安静の元様子を見るということで落ち着いたのだが、その翌日──つまりは今日、フィーリアの意識は覚醒したのだ。
軽く検査を行ったところ、一部を除けば特に異常は見られず、その後フィーリアは数々の質問を浴びせられた。……浴びせられた、のだが。
「……えっ、と。すみ、ません……わかりません。……なに、も」
その言葉通り、塔の広場で何故自分が倒れていたのか、フィーリアは何もわからないでいた。……そう、あの時と──アルヴァと共に倒れていた時と同じように、彼女は『あの』日の記憶を失ってしまっていたのだ。
有益な情報の類いは手に入らないと知り、そして目を瞑れば異常もないことから、フィーリアはすぐに退院という流れになり、午後になる頃には彼女はマジリカの街道を歩いていた。今目指している目的地は、『輝牙の獅子』である。
「……?」
期間はまだ短いとはいえ、住んでいる街。特に迷うこともなく進むフィーリアであったが──この日は、何かが違っていた。
視線を、浴びる。視線を集めている。この街に住まう老若男女全員が、自分を見ている。それも普通にではなく────奇異、嫌悪、恐怖という負の感情を込めた、負の視線で。
フィーリアも、別にこういったことが初めてという訳ではない。彼女自身、己が異質な風貌をしていることは重々承知している為、少なからずこういった悪目立ちしてしまうのも仕方のないことと、もう割り切っている。
だが今日は、それがあからさまだ。露骨過ぎるのだ。今までは控えめだったのが、今日は誰も彼もが噯にも隠さず、ありありとフィーリアに無体な眼差しを不躾に浴びせている。
そう、まるで────この世の存在ではない、異物を見るかのように。
「……」
そんな視線の只中に晒されて、堪らずフィーリアは己の腕を抱いて、無意識にもその足を早める。
逃げるようにその場を後にするフィーリアを、マジリカの住人たちは眺めながら、決して彼女には聞こえない声量でヒソヒソと、何か囁き合うのだった。
「ふざけるな!ふざけるなっ!ふざけるなァ!」
苦しく、辛い思いをしながらも目的地である『輝牙の獅子』の前に辿り着いたフィーリアであったが、直後彼女は異様の光景を目の前にしていた。
「お前たちは冒険者のくせに、どうして……どうして私の娘を守ってくれなかったんだ!どうして見す見す死なせたりしたんだ!あの子は、あの子はまだ四歳だったんだぞ!?」
「……申し訳、ありません」
「謝罪なんかいらないんだ!娘を、エミーを返せ!返せぇえッ!」
『輝牙の獅子』の門前で、一人の男が泣き叫び、泣き崩れていた。慟哭するその男の前には苦々しい表情を浮かべる、この冒険者組合の受付嬢であるリズティア=パラリリスが立っており、その場に異様の光景を作り出していた。
一体何事か──フィーリアが困惑する最中、地面に泣き崩れたまま、男が続ける。
「どうしてだ。どうしてエミーだったんだ……何故、私の娘が死ななければ、殺されればならなかったんだ。この世界に、神などいないということなのか……!」
困惑したまま、フィーリアは前に進む。すると彼女の存在に気づいたリズティアが、思わずといった様子で驚きの声を上げた。
「フィーリアちゃん!?」
瞬間、男が凄い勢いでフィーリアの方に振り返る。彼もまた彼女の姿を視界に捉え、その表情を見る間に憤怒へ染め上げる。そして、徐に地面から立ち上がったかと思うと、そのままフィーリアに飛びかかった。
「お前のせいだ!お前なんかがいたから、エミーは殺されたんだッ!」
「ひっ!?」
必死の形相でそう叫びながら、男はフィーリアに掴みかからんとして──寸前、中で様子を伺っていたのか、不意に冒険者の一人が門から飛び出し、男の両手がフィーリアの両肩を掴む直前、飛び出した冒険者が男を羽交締めにしそれを阻止してみせた。
「あんた正気か!落ち着け!」
「うるさい黙れ!私を離せ!殺してやるんだ!この──化け物をぉおっ!」
死に物狂いで暴れ、なんとか抜け出そうとする男が、無遠慮に唾を飛ばしながら、呆気に取られているフィーリアに向かって叫び続ける。
「知っている、知っているんだぞこの化け物め!お前があの塔をあんな風にしたのも、何人もの人間を殺したことも全部知っている!子供の姿をしていても、私は騙されない!騙されないからな!エミーを、娘を奪った醜い化け物が!恨んでやる!一生恨み続けてや「止めて!!!」
あまりにも心ない男の言葉に堪え兼ねたリズティアがそう声を荒げる。が、それは些か遅かった。
「っ……!」
男の言葉をまともに受けてしまったフィーリアは、瞳を濡らして数歩その場から退がったかと思えば、踵を返しそのまま一目散に駆け出してしまう。
「あっ!?待ってフィーリアちゃん!貴女は悪く……ない、の……」
言いながら、リズティアは手を伸ばす。だが今度もその手は決して届くことはなく、またしても彼女は遠ざかる背中を、無力にも見つめることしか、叶わなかった。
フィーリアはただひたすらに駆けていた。もはや、彼女の心に余裕などありはしなかった。
フィーリアの頭の中で、一つの単語が巡る。
『化け物が!』
──ばけもの……?わたしが……?
心の中で呟いて、ブンブンと頭を横に振ってフィーリアはそれを否定する。自分は化け物などではないと主張する。
……だが。そうする度にあの男の顔が浮かんでくる。こちらを化け物と罵った声が頭の中を反芻する。
──わ、わたしはばけもの、なんかじゃ。
改めて心の中でフィーリアがそう呟いた、その時だった。
ガッ──不意に、何かがフィーリアの足を引っ掛けた。
「ふあっ?──きゃうっ!」
無我夢中でとにかく駆けていた為、踏ん張ることなどとてもできずにフィーリアは転んでしまう。不幸中の幸いか、顔から地面に倒れることはなく、けれど手のひらや膝を擦り剥いてしまった。
ジンジンと痺れるような痛みにフィーリアが顔を顰めさせる中、地面に倒れ込んだままの彼女に対して声が降る。
「やい!みつけたぞばけもの!」
その声は、まだ高く、幼い少年のものであった。その声音に似合わぬ唐突な罵倒にフィーリアが慌てて顔を上げてみれば──自分を囲むようにして、数人の同い年くらいであろう子供たちが立ってこちらのことを見下ろしていた。
フィーリアが驚き固まる最中、子供たちが口々に寄って集って眼下の彼女に心ない言葉をぶつけていく。
「このばけもの!」
「とうさんやかあさんがいってた!」
「ばけものばけものー!」
子供たちの言葉が、フィーリアの心を揺らして、傷つける。だが彼女からすればそれは覚えのない、謂れのない言葉で、言葉のはずで──だから、弱々しく震える声で子供たちに言い返す。
「わ、わたしはばけものじゃ……!」
だが、虚しいことにフィーリアの言葉が届くことはない。
「うるせえ!ばけものめ、おれたちがおまえをやっつけてやる!」
フィーリアに対してそう言った、恐らくこの集団を纏めているのだろう筆頭格の少年は徐にズボンのポケットに手を突っ込み、そこから小さな石を取り出す。そしてあろうことか──何の躊躇もなく、迷わずにフィーリアに向かって投げつけた。
「いたっ……!」
少年の投げた石は、フィーリアの身体に当たり、彼女に鈍痛を味わせる。とはいえ所詮少年の力。そう大した威力はなかったが、それでも
まだ幼いフィーリアにとっては堪え兼ねないものである。
忽ちフィーリアの瞳が潤み、滲む────しかし、それで終わりではなかった。
「よーし、みんなでこいつをはやくやっつけよう!」
「そうだそうだ!」
「やっつけるんだ!」
「このまちをぼくたちがまもるんだ!」
そう言うや否や、他の子供たちも各々に石を取り出し、そしてそれを掲げる。
石を──暴力を振るう。それが決して正しい行為ではない、間違っている────とは子供たちは考えない。考えようと思いもしない。
何故ならば今自分たちは正義の味方であると思っているからだ。今自分たちは悪い化け物を退治する、英雄なのだと思っているからなのだ。そんな自分のこの行動が間違いだと、思う訳がない。
当然である。もはやフィーリアは同じ人間だとは思われていない。だから子供たちは何の躊躇いも迷いもなく、彼女に対して暴力を振るえる。振るってしまえる。
「い、いや……やめて……!」
涙を浮かべ、そう必死に懇願されても。子供たちは止めようとは思わない。微塵も、思いはしない。子供というのは────時に大人よりも残酷なのだ。
幼く、まだ純真無垢な心に加減はなく。故に大人以上の純粋な残酷さを以て、子供たちは今まさに決行する。この街を、自分たちの両親を救う為に。化け物を倒さんと、その手に持った石を全員で一斉に投げつける────その時だった。
「この馬鹿ガキ共ッ!何やっとるんだ!」
不意に鋭い叱咤の声がこの場を貫く。それに堪らず子供たち全員はビクリと身体を跳ねさせ、それぞれに悲鳴を上げ石を捨てて、まるで蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。
「あ……」
思いもしなかった助けに、フィーリアは呆然としながらも顔を上げる。彼女の目の前には三十代前後の男が立っており、こちらを見下ろしていた。
「あ、あの……ありがとう、ございます」
地面から立ち上がり、男に礼を伝えるフィーリア。彼女の感謝に対して、男は────
「……とっと失せやがれ。ここにいたら迷惑なんだよ、化け物め」
────そう、まるで汚物でも見るかのような眼差しをフィーリアに向けながら、忌々しそうに吐き捨て、踵を返しさっさとこの場を去っていった。
男からそんな反応を返されたフィーリアは、ただ呆然としながら、しばらくそこに立っているしかないでいた。
それから、フィーリアは風の便りで聞いた。『あの』日──自分が病院に運び込まれた日に、あったことを。
『輝牙の獅子』に突如として押し掛けたあの男が、マジリカの住民にフィーリアが人外の化け物であると吹聴していたこと。そして自分が冒険者組合を飛び出した後、男が発狂して周囲にいた冒険者たちを手当たり次第に斬殺し、終いには親の使いで組合に訪ねてきた一人の少女の首を、刎ねたこと。
さらに男はそれだけに飽き足らず、街道を歩く住民たちもその手にかけ、旧市街に消えたこと。
そして数時間後、『創造主神の聖遺物』の塔広場にて、一面血の海と元は人間だったのだろう残骸に埋もれるようにして、気を失っている自分が発見されたこと。
それら全ての話を聞いたフィーリアは、『輝牙の獅子』へ訪れた。訪れ、所属する冒険者たちに今まで世話になった感謝と礼を伝えると、組合を後にした。
その日を最後に、フィーリアが『輝牙の獅子』へ来ることは二度となかった。
いつの日からか、フィーリアはマジリカの住民たちから迫害を受けるようになってしまっていた。街を歩けば子供たちに虐められ、大人たちはそれを遠目から眺めては見て見ぬ振りをする。する上で、皆彼女を人殺しの化け物と呼び、決して子供扱いも、人間としてすら扱わなかった。
そんな生活が数ヶ月も続き────いつしか、フィーリアは病院へ入り浸るようになってしまったが、それも長くは続かなかった。
ある日、フィーリアは聞いてしまったのだ──病院に勤める複数人の看護婦たちの、自分への陰口を。
やれあんな化け物がいたら病院の評判が下がるだの、やれその姿が視界に映るこっちの気分のことも考えてほしいだの。
それらの陰口はフィーリアの心を深く抉ったが、中でも彼女を一番酷く惨たらしく傷つけたのは。
娘が人殺しの化け物だなんて、アルヴァ様が可哀想────その一言であった。
その日を境に、フィーリアは毎朝早くからアルヴァの病室に訪れては、挨拶や花瓶の水の交換という風に見舞いを最低限なものに済まして、病院に滞在する時間すらも極力減らすようになった。
そうしてフィーリアの姿を普段から見かける人々も少なくなり────気がつけば、いなくなっていた。
フィーリアは孤独だった。朝も昼も夜も、ずっと孤独と付き合い、孤独に付き纏われていた。
自分以外に誰もいない家は静かで、掃除など終わらせてしまえば本当に酷く静かで。そんな中フィーリアはリビングにて独り、膝を抱えて座り込む。
早朝に病院へ行き、未だ寝台の上で眠ったままのアルヴァに会い、おはようと声をかける。そして花瓶の水を入れ替え、花が傷んでいれば新しいものと取り替える。それが終わればまたねと声をかけて、即座に病院から去る。
それからできる限り人気を避けて街道を進み、自宅に戻る。自宅に戻ったらまず掃除を一通り済ませ、リビングにて膝を抱えて一日中座り込む。そうして気がつけば、夜が明けている。
今やそれがフィーリアの毎日。彼女の日常。そこに喜楽が湧くこともなく、また哀怒を噴かせることもなく。ただただ、虚しさに諦観を抱え込む日々の繰り返し。
食欲すらも次第に薄れ、酷い時には一週間も何も全く口にしないこともあった。だがそれでも、不気味極まりないことにフィーリアの身体が痩せこけることはなく、異常が発生しないのが異常であるという始末だった。
そんなことが延々と続けば、誰であろうと発狂するだろう。それが正常な人間であればなおのこと────だが、それがいくら続けられようが、フィーリアが気を狂わせることはなかった。……否、狂おうにも彼女は狂うことができなかった。許されなかったのだ。
現在、アルヴァの帰還を信じ待ち続けているのは、恐らくフィーリアだけである。そんな彼女すらおかしくなれば、アルヴァを待つ存在は誰一人としていなくなってしまう。病院に眠る彼女が、真の意味で独りぼっちとなってしまう。
そうなることを、フィーリアはどうしても阻止したかった。孤独が何よりも辛いのは、彼女が誰よりも理解していたから。だからそれをアルヴァに──母に味わせる訳にはいかなかったのだ。
……また、別の理由もある。それは────
──おかあさん……。
────もう一度、もう一度また言葉を交わしたかった。おはようの声が聞きたかった。その手で頭を撫でて、そして抱き締めてほしかった。母の愛が、欲しかった。
それが叶うのならば、叶えることができるのならば。フィーリアは今この現実を堪えられる。乗り越えてみせる。たとえこの身を引き裂く孤独があろうと、己の存在を誰からも否定されようとも。
アルヴァがまた瞳を開いてくれるのであれば。たったそれだけのことで自分は報われる。救われる。この残酷に尽きる現実とも向き合える────そう、フィーリアは縋った。縋って、願った。
そうして、一年という月日が過ぎ去った。
「……おかあ、さん?」
それは日常通りの朝のことだった。日常通り、病院に訪れた。病室の扉を開けて────フィーリアの視界にその光景が飛び込んだ。
自分の目を疑った。信じられなかった。だが、それ以上に胸の内を忘れていた感情が────喜びと嬉しさが一気に満たした。
アルヴァが、起きていた。一年もの間眠り続けていた母が、上半身だけではあるが寝台から起こしていたのだ。
こちらの方に顔を向け、アルヴァは呆然としている。恐らく自分が置かれている状況に理解が追いついていないのだろう。けれどフィーリアには関係なかった。とてもではないが、抑えられなかった。
「おきたのおかあさん!?よかった!」
早朝の病院だということも忘れて、感極まった声を上げながら、フィーリアはその場から駆け出す。一秒でも早く、アルヴァの元に辿り着く為に。
おはようの声が聞きたい。その手で頭を撫でて、そして抱き締めてほしい。母の愛が欲しい────もうそれだけで、フィーリアの中は一杯だった。
いよいよそれが叶う。今まさに、この瞬間。そう思うだけで、幸福感で満たされる。包まれる。
呆然としていたアルヴァも、その表情を和らげ両腕をそっと振り上げる。それを見たフィーリアは、またも叫んだ。
「おかあさん!」
フィーリアもまた腕を上げて、アルヴァの胸に飛び込もうとする。
そして──────
パン──伸ばした手を、払い除けられた。
「………え……?」
最初、フィーリアは一体何をされたのか理解できなかった。したく、なかった。
払われた手が少し痺れたように熱くて。その感覚に戸惑いながら、フィーリアはアルヴァの顔を見やる。和らいでいたと思っていたその表情は────引き攣っていた。
──……あ。
同じ。自分を見る他の人と、同じ表情。同じ目。全部、同じ。
例外なく其処に込められているのは、恐怖。自分たちとは違う異物に対して向ける、恐怖と忌避。
それに気づいた──気がついてしまった瞬間。
──……ああ、そっか。
フィーリアの中で、ずっと心の支えとしていたモノが、音を立てて崩れ落ちた。
「ち、違っ……違うんだフィーリア。これは、さっきのは違く、て……」
もう、届くことはなかった。もう届くことなどなくなってしまった。
結局、同じだったということ。何もかも、全てが同じ。同じく等しく────自分を拒絶する。否定する。
部屋は明るいはずなのに、真っ暗で何も見えない。さっきまで鮮明に聴こえていたはずの音も、今や酷く濁って響く。
「……おいしゃさん、よんでくるね」
一秒だって、ここにいたくなかった。その一心でそう言って、フィーリアは踵を返して歩き出し──走り出す。
途中自分を呼び止めようとする気配を感じたが、それは勝手で残酷な錯覚だと、決め込んだ。
喜ぶって、何だっけ。
怒るって、何だっけ。
哀しいって、何だっけ。
楽しいって、何だっけ。
忘れてしまった。そんな感情、全部忘れてしまった。
だって必要のないものだから。自分には、いらないものだから。
もうどうでもいい。何かもが、どうでもいい。
誰からも嫌われて。
誰からも避けられて。
拒絶されて。
虐られて。
そして、否定された自分。
自分って、一体何なのだろう。何の為に、いるのだろう。此処に在るのだろう。
誰もわからない。誰も教えてくれない。
でも、もうそれでもいい。もう、どうでもいい。
気がつけば、何も感じなくなった。喜ぶことも怒ることも哀しむことも楽しむことも、なくなった。
何もかも、なくなった。だからだろう。
月浮かぶ深い夜、その手に握られた銀色に冷たく輝くナイフが振り下ろされそうになっても。
その刃先を己の胸に突き刺そうとしても。
その刃が握り締められ鮮血が流れ落ちる様を見せつけられても。
激しい自己嫌悪と後悔に塗れた懺悔の言葉を与えられても。
力の限り、強く抱き締められても。
もう、何も感じない。
あれ、フィーリアって────一体何だっけ。
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