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ARKADIA──それが人であるということ──

ARKADIA────十六年前(その終)

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 静かな、夜だった。茜に染められていた空は、今や真っ黒に塗り潰されて、無数の星々が散りばめられており、その中心には一片も欠けていない満月が浮かんでいた。

 その薄い月明かりが差し込む中────自宅へと帰ったアルヴァは、入浴も夕食も済ますことなく、無言で沈黙を纏いながら、フィーリアの部屋にいた。

「…………」

 当然ではあるが、フィーリアはもう既に寝ていた。寝台ベッドの中で、小さな寝息を立てながら、静かに。

 まだあどけないその寝顔を、アルヴァは眺める。……一年という月日が経ってしまったからか、あどけなくはあるが何処か大人び始めたようにも思える。

 聞いた話によれば、自分が昏睡していた間は、『輝牙の獅子クリアレオ』の受付嬢であるリズティアがフィーリアの面倒を見ていてくれていたらしい。それを聞きアルヴァは感謝すると同時に────情けないことに、少し彼女に対して嫉妬を抱いてしまった。

 昏睡していたので仕方ないとはいえ、一年という決して短くはない期間をアルヴァは共に過ごしてやれなかった。一年間に及ぶフィーリアの成長を、アルヴァは見てやれなかった。……見れなかった。

 それが堪らなくどうしようもない程に悔しいし、だからこそリズティアが羨ましかった。

 ──……妬ましい羨ましい、か。一体、どの面下げてほざいてんだかな……アタシに、そう思う資格なんてないってのに。

 内心で己に対してそう吐き捨てながら、アルヴァはほんの少し嫌悪感に顔を歪ませる。……そう、自分にはそんな資格も、そんな権利もない。

 あの日、あの時。病院で目を覚ました自分の元に、これ以上にないくらい嬉しそうな表情で駆け寄ってくれたフィーリアを────あろうことか恐怖を抱き拒絶した自分には、欠片程もない。

 ──………私は、とことん救いようがないクソだ。本当に……嫌になる。

 そう、アルヴァは自己嫌悪に陥る。何故なら、今この瞬間だって──自分は恐怖しているのだから。その頬に薄青い流麗な曲線を走らせるフィーリアを、恐ろしいと思ってしまっているのだから。

 その線が、アルヴァに思い出させる。彼女にとってつい先日のことかと思える、あの塔の最深部にて繰り広げられた、あのこの世のものとは到底思えない惨劇を、否が応にも想起させてしまう。

 そんな自分が────本当に嫌だった。心底、嫌になった。

 ──何で、こうなっちまったんだろうね。……私が、何をしたってんだろうね。

 それは疑問の皮を被った、諦めだった。内から湧く無力感を噛み締めながら、アルヴァは手を握り締める────否。正確には手の中にある、ナイフ・・・の柄を。

「………」

 あんな話、嘘だとしか思えない。眉唾な、荒唐無稽に過ぎる出鱈目な作り話としか、信じられない──他の者であれば、きっと皆口を揃えてそう言うのだろう。

 けれど、アルヴァは違った。あの光景を、あの力を見た彼女は、信じる他なかった。

「……何だって、私なんだ」

 眠るフィーリアを起こさぬよう、アルヴァは小声でそう呟く。それと同時に、ナイフの柄を握る手に、さらに力を込める。痛いくらいに、込める。

『不可侵の都』の来訪者は言っていた。フィーリア──否、アルカディアはこの世界オヴィーリスを滅ぼすと。

 であれば、今己がすべきことはただ一つ。そして今それができるのは、アルヴァにおいて誰もいない。

『不可侵の都』の来訪者は言っていた。このまま生かすも────殺してしまうのも自由だと。別に構わないと。

 一人と、世界。その二つを天秤にかけ、そしてその二つのどちらかに傾くのかは、火を見るよりも明らかで。そしてそのことに躊躇いを抱くのは以ての外で。そこに私情を挟み込むことなど、言語道断で。

 そしてそれは、アルヴァ自身が一番理解していた。

 ──安心しな、フィーリア。アンタを、絶対に独りなんかにはしないから。

 そう心の中で呟きながら、ゆっくりと静かに、アルヴァはナイフを振り上げる。

 ──私が、ずっと傍にいるから……!

 思わず乱れ始める息を必死に整え落ち着かせながら、手の震えを抑え、アルヴァはナイフの切先をフィーリアの胸へと定める。

 ──これからも、ずっとずっと一緒だ……フィーリア。

 そして、遂に。アルヴァはナイフを振り下ろす──────



「……ッ、ッ……………ッ!」



 ──────ことは、できなかった。振り上げた手を振り下ろせないでいる自分に、彼女は叱咤する。

 ──やれ!何をしてるアルヴァ=レリウ=クロミア!覚悟を決めたんだろ!?やれよ……やれよ!

 つう、と。噛み締める唇の端に、血が伝う。フルフルと、次第にナイフの柄を握る手が震え始めてしまう。

 ──感情に流されるな!今ここで殺さなきゃ、世界が滅ぶんだぞ?つまらない私情なんか、さっさと捨てろ!捨てちまえ!

 必死に、必死に自分に言い聞かせる。自分を説得する。このナイフの切先を、この人の形を模しただけの厄災に突き立てろと、自分に訴えかける。

 ──やるんだ、アルヴァ=レリウ=クロミア……今、お前がやるんだ!!!

「!」

 ガッと目を見開いて、アルヴァは今一度ナイフを振り上げ、振り上げ──────





「……できる訳、ないだろ」





 ──────力なくそう呟いて、フィーリアに突き立てることなく、腕を振り下ろした。

「無理だ。やっぱり、無理なんだ。私には、できない。私はフィーリアを……この子を、殺せない……」

 茫然自失にそう呟き俯きながら、アルヴァはナイフの柄を握り締めたまま、踵を返す。

「殺したく、ない……!」

 そしてこの部屋に来た時と同じように、足音を立てないよう部屋から去ろうとした────その時であった。





「おかあさん」





 そう、背中越しに声をかけられた。ビクッと肩を跳ねさせ、アルヴァは咄嗟に振り返る。

「フィ、フィーリア、アンタ起きて……!」

 先程まで寝ていたはずのフィーリアは、上半身だけを起こして、顔をこちらの方に向けていた。堪らず狼狽えるアルヴァを、虹色と灰色の瞳が静かに見つめる。

「……」

 フィーリアは無言だった。対してアルヴァは声にならない声を漏らし、普段からは想像もできない程に慌てていた。

「ち、違う。違うんだよフィーリア、これは、私は……!」

 言いながら、フィーリアの視界に入らないよう手に持つナイフをアルヴァは隠す──その直前、気づいた。

 ──……え?

 ない。握っていたはずのナイフが、ない。そのことに初めて気づくと同時に────アルヴァは思わず目を見開かせた。

 何故なら、先程まで自分がこの手に握り締めていたはずのナイフが、フィーリアの小さな手に渡っていたのだから。アルヴァから顔を逸らして、フィーリアは月光に照らされ鈍く輝くナイフの刃を、ジッと静かに、無表情に眺める。

 ──この子、まさか【転移】を……!?

 本来であればフィーリアの年齢で使えるはずがない魔法を前にして、アルヴァは堪らず驚愕し、硬直して固まり、喉奥から引き攣ったような呻き声を漏らす。彼女がそんな状況の最中──不意に、黙っていたフィーリアがその口を開いた。

「おかあさんも、こわいんだね。わたしのこと」

 フィーリアのその声は、酷く悲しげであった。酷く、淋しげであった。

「みんなもいっしょ。みんな、こわがってる。あたしのこと、こわいっておもってる。でも、あたしなにもしてないよ。なのになんで?このおめめがこわいの?このせんがこわいの?」

 ナイフの刃を見つめたまま、ボロボロとフィーリアが一気にそう言葉を吐き出す。それは、初めて聞く彼女の本音だった。

 違う。私は怖がってなんかいないよ──そう、アルヴァは即座に声をかけるべきだったのだろう。そうすべきだったのだろう────だが、その意思に反して、身体は全く動いてくれない。記憶が、それを邪魔する。

 ──違う……違う……!

 それでも、勝手に再生される記憶を押し退けて、アルヴァは動こうとした。フィーリアの元に、駆け寄ろうとした。

 だが、その前に、寝台の上のフィーリアが、先に動いた。

「……わたし、もう……やだよ」

 震える声でそう口にした瞬間、フィーリアは一切の躊躇なく、ナイフの切先を首元に突きつけて、そしてそのまま────────










「ごめん!フィーリア、本当にごめんな……!馬鹿で、気づけなくて……!」

 ────────柔いフィーリアの首を貫く直前、駆け寄ったアルヴァがそれを止めた。ナイフの刃を、彼女の手が掴んで止めたのだ。

 部屋に、懺悔と後悔の慟哭が響き渡る。アルヴァの瞳から涙が流れ、手からは真っ赤な血が溢れ出る。

アタシは怖がらないよ、もう二度と、絶対に……だから、だからもう一度だけ、こんなどうしようもない親に、もう一度だけ機会チャンスを頂戴……!」

 泣きながら、そう言ってアルヴァはフィーリアの身体を抱き締める。力強く、精一杯に。

 対して、フィーリアは何も言わなかった。何も言わずに、ただアルヴァに抱き締められるがままになっている。

 アルヴァとフィーリア。その二人のことを、月明かりが薄く、ただ照らしていた。



















 わかっています。これが間違いであることは、こんなこと間違っていることは、わかっています。

 ですが、それでも。どうか許してください。一緒にいたいのです。傍に、いたいのです。

 だからどうか、こんな自分を赦してください。せめて、一緒にいさせてください。傍に、いさせてください。





 いつか訪れる、その日まで。
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