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ARKADIA──それが人であるということ──

ARKADIA────そういう目で見ても

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 ゆっくり、と。頬を優しく撫でる風の感触に、僕の意識が唐突に覚醒する。いつの間にか閉じていた瞼を開く途中、不意に鼻腔を何か、仄かに甘い匂いが擽った。

 ──……ここ……は?

 顔を上げ、完全に瞼を開く。若干ぼやけていた視界はすぐに鮮明となり────瞬間、飛び込んで来たのは一面に広がる、真白の花畑だった。

 風が吹いて、僕の横を過ぎ去っていく。足元の花々が揺れ、花弁が宙を舞う。その様は、僕の目には非常に幻想的に映った。

 ──こんな花、見たことない……。

 足元の花を一輪手に取って、僕はそれを眺める。特に変わったところはないが、少なくとも僕は知らない種類の花だ。

 ──そもそも、ここは一体何処なんだ?確か僕は、先輩と……。

 そこで初めて、僕は気がついた。いつの間にか、僕の傍から先輩の姿が消えていることに。気がついて、慌てて周囲を見渡して────見つけた。

 ──先輩!

 向こうの方に、人影があった。紅蓮に燃ゆる、赤い髪──間違いない。あの人は先輩だ。僕はそう思って、急いで駆け寄る──その直前で、止まった。

 ──え……?

 よく見れば、違った。確かに先輩と同じ髪色だが──それでも、違う。

 その人は、純白の修道服を身に纏っていた。どうやら一点物らしく、他では目にしたことがないような、独自の意匠が見て取れる。

 僕の覚えている限りでは、先輩はあんな修道服は持っていないし、たとえ持っていたとしても着ようとは絶対にしないだろう。

 そして──先輩と見紛うその女性の隣には、一人の男が立っていた。

 ──誰だ?

 一体その男が何者なのかと僕が疑問に思っていると、不意に先輩のものと酷似する赤髪の女性が、隣に立つその男に顔を向ける。その顔を見た僕は──思わず、見入ってしまった。

 似ていたのは、赤髪だけではない。顔もまた、先輩と非常に似通っている。しかし先輩とは違って、こちらの女性はいくらか大人びた顔立ちをしており、可愛いというよりは綺麗という言葉が似合っていた。

 二人は会話をしているようなのだが、距離のせいかその内容も、その声もこちらには届かない。けれどその会話を楽しんでいることは、柔らかで魅力的な微笑みを絶やさずにいる赤髪の女性の様子から、容易に感じ取れる。

 不意に、再び風が吹いた。真白の花と共に、女性の赤髪も揺れる。慌てて髪を手で押さえながら────女性は、僕の方に視線を向けた。

















「……ん、んん……?」

 唐突に、僕の意識が覚醒する。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。……何か、とても重要な、夢を見ていた気がする。

 無意識に瞼を薄く開く────直前。むにゅ、と。何か凄まじく柔らかい、すべすべふわふわな、筆舌に尽くし難く素晴らしい感触が僕の下顎全体に伝わった。

 ──え?あ?なんだこれ?

 一瞬にして驚きと困惑で満たされる僕の脳内。思わず、ずっとそうしていたい気持ちを抑えて、確認の為に顔を上げる────直前。

「んひゃっ」

 …………という、何とも言えない感じの、実に珍妙な悲鳴が僕の頭上で響いた。その悲鳴に釣られて、顔ではなく視線だけを上げると──僕の頭上に、少し驚いた表情を浮かべている、先輩の顔があった。

「……」

 お互いに口を開けないでいる中、僕の瞳と先輩の琥珀色の瞳が合う。そして数秒遅れて、先輩が先に口を開いた。

「よ、よお。やっと目ぇ覚めたんだ、な。クラハ」

 その先輩の声には、若干の羞恥が込められている。恐らく、先ほどの悲鳴を僕に聞かれたからだろう。僕はまだ寝起きで冴えない思考でそう考えながら、取り敢えず返事しようと──ふと、自分がどういう状況に置かれているのかが、とても、非常に気になった。

 まず、何故こんなにも先輩の顔が近いのだろう。そして、未だ僕の顎下を包むこの素敵な感触は何なのだろう。

 次々と浮かぶ疑問。僕は特に何を思うでもなく、視線を下げる。瞬間、見えたのは肌色一色であった。

 ──…………。

 実を言えば、この感触には覚えがある。ただ、それはないだろうと、僕はそう思っていた。……いや、現実から目を背けていた。

 しかし、この光景を目の当たりにして、それを認めざるを得なくなってしまった。

 ──そうか。僕は今……。

「ク、クラハ?黙ってないで何か言えよ」

 先輩の言葉を浴びながら、心の中で呟いた。

 ──先輩の胸に顔を埋めているのか。

 驚くほど冷静に呟いてから、一瞬にして全身から冷や汗が噴き出し、脳内が真っ白になった。

「す、すみませんッせせ、せんぱっ、すみまッ」

 上手く呂律の回らない舌を無理矢理動かして、とにかく今すぐにでも離れようと、逆らいそうになる本心を捻じ伏せて、僕は顔を上げようとする。だが、それはできなかった。何故なら────ギュッと、先輩の手が僕の後頭部を押さえたからだ。

「むぐっ?!」

 顎下だけでなく、僕の口元さえも先輩の谷間へ沈む。瞬間、鼻腔が強烈に甘い匂いで満たされる。

 堪らず鈍る思考の中、少し恥ずかしそうに、しかし優しく穏やかに──心なしか嬉しそうに、先輩が言う。

「は、離れんな。……別にいいから。こんままで」

 ──えッ!?なんでッ!?

 思いも寄らない先輩からの言葉に、僕の困惑は極まる。当たり前だ、今日一日ずっと不機嫌だった先輩が、いつの間にかこんなにも優しくなっているのだから。

 ……そうだ。今日、僕は先輩を怒らせてしまった。それはもう、類を見ないほどに。そしてその原因も……まあ、説明するのは気が憚れる、最低なもので。

 だからこそ、今この状況に対して僕は困惑せずにいられなかった。

「……なあ、クラハ」

 不意に、先輩がまたその口を開く。優しげに、語りかけるように僕に言う。

「その、なんだ。俺も今日はあんな態度取っちまって、ごめんな」

 ……それは、予想だにしていなかった、先輩の謝罪の言葉だった。僕がまたしても驚き、固まっている中、先輩が続ける。

「……この際だから言うけど、よ。えっとな、うん……べ、別にいいんだぞ?別に今の・・俺のこと、そういう・・・・目で、見ても。俺は気にしねえ、から……」

 ──…………え?

 その先輩の言葉は、到底聞き捨てられないものであった。その先輩の言葉が意味することを、僕はとてもじゃないが追求せずにはいられなかった。

 若干惜しいと思う気持ちを無視し、僕は先輩の谷間から顔を上げる────直前だった。



 ガサ──不意に、背後で何かが草木を掻き分ける音がした。



「む。慣れ親しんだ気配がすると思えば、ようやく見つけたぞウインドア、ラグナ嬢。二人共今す……ぐ……」

 …………凄まじく聞き覚えのある声が、徐々に固まる。それは僕と先輩も同じで、数秒この場が沈黙で満たされたかと思うと、また不意にそれは破り捨てられる。

「…………すまない。邪魔をした」

 そんな居た堪れそうにした、気不味そうな──サクラさんの声によって。
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