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ARKADIA──それが人であるということ──
Glutonny to Ghostlady──荒らさせない
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「……あの、先輩」
「ん?なんだ?」
未だ若干の気恥ずかしさに引っ張られながらも、僕は口を開いた。
「その、い、いつまで……このままでいるんですか?」
そう訊ねると、先輩は少し勿体ぶるように数秒の沈黙を挟んで、悪戯めいた声音で答える。
「俺の気が済むまで、だな」
むにゅ、と。同時に僕の顔を柔い谷間にさらに押しつけた。
途端、先ほどよりもずっと強く、ずっと強烈に。こちらの脳髄をとろとろに蕩けさせるような甘い匂いが僕の鼻腔を満たす。
得も言われぬ多幸感──しかし、僅かばかりに残っていた自尊心と羞恥が、すぐさま僕の正気を取り戻した。
──いやこれ以上は駄目だ堪えられないっ!!
すみません放してください先輩──そう、僕は言おうとした。言おうと口を開いた。
リーン──不意に、甲高い呼び鈴の音が廊下に響き渡った。
「……ありゃ?」
呆気に取られた、気の抜けた声を先輩が漏らす。かく言う僕も、声にこそ出さなかったが内心では同じような心境だった。
僕と先輩は先ほどまで廊下にいたはずだ。だが今は違う。肌色で埋まる視界を必死に上に向け、目線を周囲に巡らせば──いつの間にか、僕たちは廊下から別の場所に移動していた。
多過ぎない程度の家具。僅かな隙間さえ残さずびっしりと本が収められた本棚。そして中央近くにある、天蓋付きの巨大な寝台。
それらを見るに、ここが誰かの寝室なのだと、理解するのはそう難しいことではなかった。問題は何故僕たちが──この寝室にいるか、である。
つい先ほど、これと似たような現象に僕と先輩は遭っている。そのことから咄嗟に身構えようとして──しかし、顔の下半分を覆うむにゅんとした感触に、張り詰めさせた警戒の糸が弛んでしまう。
──ま、まずはここから抜け出さないと……!
そう心の中で呟くが、男の本能がこの楽園から抜け出したくないと訴え、上手く身体に力が入らない。それでもなんとか動こうとする──その時だった。
「…………流石に、私の部屋でそう戯れるのは止してほしいのだけれど」
美しく、されど底冷えするほどに冷たい声が、部屋に響いた。その声に、ハッと僕と先輩が視線を向ける。
視線の先にあったのは、一つの椅子。一見変哲のない、だがそれでも細部に渡って細やかな装飾が施されているその椅子に、少女が座っていた。
白い、というよりはもはや青白い、病的とも思える肌。窓から差し込む淡い月明かりに照らされる、燻んだ金色の髪。
こちらが認識したのを確認すると、少女はゆらりと椅子から立ち上がる。身長はさほど高くはないが、それでも先輩よりはある。
身を包む藍色のドレスの裾を小さく揺らしながら、少女が僕と先輩を光のない蒼い瞳で見つめる。
一呼吸置いて、
「だ、誰だお前っ!?」
驚愕の声を上げながら、先輩は自分の胸元に抱き締めていた僕を慌てて突き放した。危うく僕は床に倒れそうになったが、なんとか踏ん張り姿勢を整える。
──せ、先輩……。
流石に人の目があると、先輩もあのような行動は恥ずかしいらしい。まあだからといって、突き放すのもどうかと思うが。
先輩への非難をグッと心に押し留めつつ、僕はすぐさま視線を少女の元に戻す。少女は依然として僕と先輩二人を見つめており、無表情ではあったが、そこに僅かばかりの不快感が入り混じっていることに気づく。
──……まあ、自分の寝室で見知らぬ男女が密着していたら、不快に思うのは当然か……。
「……賊に名乗る名前なんて、持ち合わせていないわ」
眉を顰めつつ、不快感を声に滲ませながら少女が言う。その声音は何処か高圧的で──明らかに、僕と先輩を敵視していた。
「先輩、僕の後ろに」
「……おう」
先輩も、少女の敵意を感じ取ったらしい。ほんの少し怯えたように頷き、僕の背中に隠れるようにして退がる。
──見た目は普通の女の子にしか思えない。……だけど。
少女から視線を逸らさず、いつでも鞘から剣を引き抜けるように僕は身構える。こんな異常な屋敷に独りでいる少女など、普通である訳がない。
──…………ん?女の子?
ふとそこで、僕は思考の片隅に引っかかりを覚える。確か、この屋敷──『幽霊屋敷』の主、ディオス=ゴーヴェッテンには────
「……誰にも、この屋敷は荒らさせない」
────その引っかかりの正体を掴む前に、対峙する少女が先に動いた。そう言うや否や、スッと少女は袖に包まれ隠された腕を振り上げる。そして、ゆっくりと静かに人差し指を真っ直ぐに、僕の背中に隠れるように立つ先輩にへと向けて伸ばした。
「【誘眠蝶】」
少女がそう呟いた瞬間、伸ばされた指先に蒼い粒子が集まり、一匹の美しい蝶にへと変わった。蝶は少し遅れて、少女の指先から優雅に飛び立つ。
ひらひらと宙を浮遊する蝶──が、不意にその姿が、溶けるようにして消え失せた。
それに僕が少し驚いていると、突然背後で先輩が声を上げた。
「うわっ?」
その声に慌てて振り返ってみれば──先輩のすぐ目の前に、あの蒼い蝶が何事もなかったかのように飛んでいた。
──まずいっ!
そう思い咄嗟に腕を振ろうとしたが、遅かった。蒼い蝶が先輩の額にへと、止まる。
その瞬間、先輩はその場で一瞬ふらついたかと思えば──そのまま床にへたり込み、仰向けに倒れてしまった。
「先輩っ!?」
慌てて声をかけながら、身体を揺さぶってみるも反応はない。琥珀色の瞳は固く閉ざされており、耳を澄ませば規則正しい小さな寝息が聞こえる。
──ね、寝てる……?
突然のことに僕が困惑していると、背後から声をかけられた。
「その子は眠らせたの。しばらくは目覚めない」
ゆっくりと、振り返る。そこにいるのは、少女一人。先ほどと全く同じ位置に立っている。
依然として敵意に満ちた眼差しをこちらに送りながら、少女は言う。
「安心して。その子も、あなたを殺したら同じ処に送ってあげる」
その言葉に続くようにして、虚空から滲み出すようにして数本のナイフが浮かび上がる。
「許さない」
その言葉には、溢れんばかりの憎悪が込められていた。そしてハッと、僕は気づいた。思考の引っかかりの正体が。わかってしまった。そうだ、この屋敷の主、ディオス=ゴーヴェッテンには────
「お父様の屋敷を荒らす賊は、絶対に許さない……!」
────一人の、娘がいたのだった。
「ん?なんだ?」
未だ若干の気恥ずかしさに引っ張られながらも、僕は口を開いた。
「その、い、いつまで……このままでいるんですか?」
そう訊ねると、先輩は少し勿体ぶるように数秒の沈黙を挟んで、悪戯めいた声音で答える。
「俺の気が済むまで、だな」
むにゅ、と。同時に僕の顔を柔い谷間にさらに押しつけた。
途端、先ほどよりもずっと強く、ずっと強烈に。こちらの脳髄をとろとろに蕩けさせるような甘い匂いが僕の鼻腔を満たす。
得も言われぬ多幸感──しかし、僅かばかりに残っていた自尊心と羞恥が、すぐさま僕の正気を取り戻した。
──いやこれ以上は駄目だ堪えられないっ!!
すみません放してください先輩──そう、僕は言おうとした。言おうと口を開いた。
リーン──不意に、甲高い呼び鈴の音が廊下に響き渡った。
「……ありゃ?」
呆気に取られた、気の抜けた声を先輩が漏らす。かく言う僕も、声にこそ出さなかったが内心では同じような心境だった。
僕と先輩は先ほどまで廊下にいたはずだ。だが今は違う。肌色で埋まる視界を必死に上に向け、目線を周囲に巡らせば──いつの間にか、僕たちは廊下から別の場所に移動していた。
多過ぎない程度の家具。僅かな隙間さえ残さずびっしりと本が収められた本棚。そして中央近くにある、天蓋付きの巨大な寝台。
それらを見るに、ここが誰かの寝室なのだと、理解するのはそう難しいことではなかった。問題は何故僕たちが──この寝室にいるか、である。
つい先ほど、これと似たような現象に僕と先輩は遭っている。そのことから咄嗟に身構えようとして──しかし、顔の下半分を覆うむにゅんとした感触に、張り詰めさせた警戒の糸が弛んでしまう。
──ま、まずはここから抜け出さないと……!
そう心の中で呟くが、男の本能がこの楽園から抜け出したくないと訴え、上手く身体に力が入らない。それでもなんとか動こうとする──その時だった。
「…………流石に、私の部屋でそう戯れるのは止してほしいのだけれど」
美しく、されど底冷えするほどに冷たい声が、部屋に響いた。その声に、ハッと僕と先輩が視線を向ける。
視線の先にあったのは、一つの椅子。一見変哲のない、だがそれでも細部に渡って細やかな装飾が施されているその椅子に、少女が座っていた。
白い、というよりはもはや青白い、病的とも思える肌。窓から差し込む淡い月明かりに照らされる、燻んだ金色の髪。
こちらが認識したのを確認すると、少女はゆらりと椅子から立ち上がる。身長はさほど高くはないが、それでも先輩よりはある。
身を包む藍色のドレスの裾を小さく揺らしながら、少女が僕と先輩を光のない蒼い瞳で見つめる。
一呼吸置いて、
「だ、誰だお前っ!?」
驚愕の声を上げながら、先輩は自分の胸元に抱き締めていた僕を慌てて突き放した。危うく僕は床に倒れそうになったが、なんとか踏ん張り姿勢を整える。
──せ、先輩……。
流石に人の目があると、先輩もあのような行動は恥ずかしいらしい。まあだからといって、突き放すのもどうかと思うが。
先輩への非難をグッと心に押し留めつつ、僕はすぐさま視線を少女の元に戻す。少女は依然として僕と先輩二人を見つめており、無表情ではあったが、そこに僅かばかりの不快感が入り混じっていることに気づく。
──……まあ、自分の寝室で見知らぬ男女が密着していたら、不快に思うのは当然か……。
「……賊に名乗る名前なんて、持ち合わせていないわ」
眉を顰めつつ、不快感を声に滲ませながら少女が言う。その声音は何処か高圧的で──明らかに、僕と先輩を敵視していた。
「先輩、僕の後ろに」
「……おう」
先輩も、少女の敵意を感じ取ったらしい。ほんの少し怯えたように頷き、僕の背中に隠れるようにして退がる。
──見た目は普通の女の子にしか思えない。……だけど。
少女から視線を逸らさず、いつでも鞘から剣を引き抜けるように僕は身構える。こんな異常な屋敷に独りでいる少女など、普通である訳がない。
──…………ん?女の子?
ふとそこで、僕は思考の片隅に引っかかりを覚える。確か、この屋敷──『幽霊屋敷』の主、ディオス=ゴーヴェッテンには────
「……誰にも、この屋敷は荒らさせない」
────その引っかかりの正体を掴む前に、対峙する少女が先に動いた。そう言うや否や、スッと少女は袖に包まれ隠された腕を振り上げる。そして、ゆっくりと静かに人差し指を真っ直ぐに、僕の背中に隠れるように立つ先輩にへと向けて伸ばした。
「【誘眠蝶】」
少女がそう呟いた瞬間、伸ばされた指先に蒼い粒子が集まり、一匹の美しい蝶にへと変わった。蝶は少し遅れて、少女の指先から優雅に飛び立つ。
ひらひらと宙を浮遊する蝶──が、不意にその姿が、溶けるようにして消え失せた。
それに僕が少し驚いていると、突然背後で先輩が声を上げた。
「うわっ?」
その声に慌てて振り返ってみれば──先輩のすぐ目の前に、あの蒼い蝶が何事もなかったかのように飛んでいた。
──まずいっ!
そう思い咄嗟に腕を振ろうとしたが、遅かった。蒼い蝶が先輩の額にへと、止まる。
その瞬間、先輩はその場で一瞬ふらついたかと思えば──そのまま床にへたり込み、仰向けに倒れてしまった。
「先輩っ!?」
慌てて声をかけながら、身体を揺さぶってみるも反応はない。琥珀色の瞳は固く閉ざされており、耳を澄ませば規則正しい小さな寝息が聞こえる。
──ね、寝てる……?
突然のことに僕が困惑していると、背後から声をかけられた。
「その子は眠らせたの。しばらくは目覚めない」
ゆっくりと、振り返る。そこにいるのは、少女一人。先ほどと全く同じ位置に立っている。
依然として敵意に満ちた眼差しをこちらに送りながら、少女は言う。
「安心して。その子も、あなたを殺したら同じ処に送ってあげる」
その言葉に続くようにして、虚空から滲み出すようにして数本のナイフが浮かび上がる。
「許さない」
その言葉には、溢れんばかりの憎悪が込められていた。そしてハッと、僕は気づいた。思考の引っかかりの正体が。わかってしまった。そうだ、この屋敷の主、ディオス=ゴーヴェッテンには────
「お父様の屋敷を荒らす賊は、絶対に許さない……!」
────一人の、娘がいたのだった。
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