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第一章

第一章(7)

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警戒しながらついていった綾瀬くんの家は、思ったよりも都心にあって、思ったよりも広かった。ドラマでしか見たことのないような、全てモノトーンで統一された家具。部屋の中全てが、男の一人暮らしには不気味なほど清潔に保たれていた。 

「ここに一人で住んでんの?」 

「はい。親の持ち家なんで」 

「すごい。勝ち組だなー」 

皮肉のつもりはなかったのだが、返事がない。 

しかし学生時代綾瀬くんは苦学生で、金が必要なのだと鬼のようにシフトを出していたはずだ。小さな違和感を覚えつつも、他人の事情に首を突っ込む趣味はないので、深く考えないようにした。 

「で、今から副業とか勧誘されたりするのかな」 

いくら昔のバイト仲間とはいえ、急に家に連れてくるなんて、何か裏があるんじゃないかと、さすがの俺でも疑ってしまう。 

「俺がネットワークビジネスとかやるように見えます?」 

そう言われて、ネットワークビジネスをやるような人を想像してみたら、今の綾瀬くんの風貌とそう遠くない気がした。素直に頷いてしまうと、不快そうに眉根を寄せられる。 

「違いますよ。……ちょっとそこで待っててください」 

ソファを指で示されてそこに腰かける。綾瀬くんは、キッチンの横にあるドアから隣の部屋に消えた。リビングにベッドは置いていないし、そこが寝室なのだろう。紙袋を二つ提げて戻ってきた綾瀬くんは、律義に後ろ手でドアを閉めた。 

「これ、榊󠄀木先生の今までの著作です」 

どさっと積み上げられた漫画の束は二十、いや三十冊以上あるだろうか。 

「これ、どうしたの?」 

「どうしたって、買ったんですよ。中野のまんだらけで」 

一番上の表紙に目をやると、ピンク色を背景に、裸で拘束具をはめられた少年が頬を赤らめている。 

「……レジ持ってくの恥ずかしくないの?」 

「貝崎さん、そういうの先生に失礼です」 

「ごめん。でも結構絵がこう、扇情的な感じだからさ」 

だいぶ言葉を選んだ方だと思う。綾瀬くんには「同じ男なら分かるだろ?」というような空気が通用しないことを察したからだ。しかし少しの沈黙の後、綾瀬くんはまた正論で人を刺す時の顔つきをした。 

「貝崎さん、BLは恥ずかしい仕事だって思ってますよね?」 

「……そんなことないけど」 

突然核心を突いたことを言われて、不自然に言い淀んでしまう。 

「じゃあ何でわざわざ裏名義なんか使ってるんですか。成年向け以外のBL作品で裏名義名乗る人ってほとんどいませんよね」 

「俺は、本名もそこまで売れてるわけじゃないし、事務所の方針だろ。それに田舎の両親に知れたら……」 

言葉でごまかしても、バクバクと心臓が鳴るのは抑えられない。本当は裏名義も、地元で教師をしている真面目な両親にバレたくなくて、俺から事務所に頼んだことだ。「月埜理人」に汚れ役を押し付けさせてほしいと。 

「親に知れたらどうなるんですか? 親にバレたくないと思ってる時点で、やっぱり恥ずかしい仕事だって思ってるってことじゃないですか」 

そうかもしれない。でも、そもそも仕事って我慢料なんじゃないのか。少なくとも俺は、全部の仕事に誇りを持つことなんてできない。ちょっと命令できる立場だからって、余計なお世話にもほどがある。音響監督だからって綾瀬くんに気を遣うのも、いい加減嫌気が差してきた。 

「だったら正直に言うけど、どう考えたってそうだろ。周りの目の問題だけじゃない。男のくせにアンアン言ってさ。我に返ると何やってんだろって思うよ」 

「じゃあ、貝崎さんは、何がしたくて声優になろうと思ったんですか?」 

何だよその質問、とイラつきながらも、養成所に入った頃の記憶を辿ってみる。絶対に人気声優になってやろうと、メラメラした野心を隠しもしなかった頃だ。 

「俺は、高校の時見た『メロもん』に人生救われて。主人公役の加持さんの演技に感動して、俺もそんな風に人を感動させられる芝居がしたいって、思って……」 

「今もそう思ってますか。本当はまだ『プロきゅん』声優ってもてはやされてた頃が忘れられないんじゃないですか?」 

「――そんなことない!」 

そう言われてムキになったのは、きっと見当違いの指摘ではなかったからだ。今も時々北斗ドームの客席を夢に見る。でもそんなダサいこと、言えるはずがない。 

「俺なりに、身の丈に合った作品に出て頑張ってるつもりだよ」 

「身の丈に合った作品? 今回のアニメも、そんな風に思って受けたんですか。だとしたら、貝崎さんは随分変わりましたね」 

「偉そうな口聞いて……俺がこの六年間、どれだけ不安で苦しんできたか……。綾瀬くんが、俺の何を知ってるって言うんだよ!」 

言い過ぎた、と思った時には、綾瀬くんの目から光が消えていた。仮にも今の仕事の音響監督を相手に、熱くなりすぎた。 

冷たい咳払いが聞こえて、俺はこれ以上反撃する気力を失った。 

「……とにかく、『メロもん』みたいな大作に出たいなら、一つ一つの仕事と真剣に向き合ってください」 

「だから、やってるよ。断ってないだろ……」 

「分からない人ですね。断ってなくたって、現場に来て、迷いしかない芝居される方が迷惑なんですよ。だったらできないって正直に言ってくださいよ」 

正論すぎて、いよいよ言い返す余地がない。 

バイト先の厨房で、ホットカフェオレすら上手く作れなかった学生が、今や俺の本業に真向から説教を垂れるようになった。 

俺が知らない六年の間に、厳しいことを言えるだけの人間になったということだ。でも今は、それを成長だと喜んでやるだけの余裕なんてない。俺は自分に課せられた宿題を相手に、こんなにも一杯一杯でいる。 

「……できないんじゃない。分かんないんだ。今日だって……。どんな演技したらいいか、どんどん分かんなくなる」 

自分の口から出た弱音に、そうかと気づく。俺はずっと、分からないという靄の中で心を閉ざしていたんだ。壁打ち練習をするみたいに綾瀬くんに体当たりして、今やっと自分が直面している問題の形をうっすらと掴んだ。 

来る予定もなかった場所で、会うとは思わなかった人と二人。黙り込んで、掛け時計がカチッカチと鳴る音だけを耳に入れていた。規則的に流れるそのリズムに乗せるように、ぽつりとこぼす。 

「……俺の喘ぎ声なんて、需要あんのかも、分かんないし」 

すると次の瞬間、秒針の音が止まった。マンションの下を通る車も、エアコンも、全ての音が、綾瀬くんのためだけに消えた。 

「貝崎さんの喘ぎ、俺は聞いてみたいと思いますけど」 
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