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第一章

第一章(6)

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「全然、変わってないですね」 

スタジオの最寄駅近くのイタリアンに落ち着くなり、綾瀬くんが口火を切った。 

「俺?」 

「すぐ謝るとことか、断れないとことか、全部あの頃のまんまだなって」 

指摘されて、今日の言動を振り返る。謝り通しだったのは、半分くらい綾瀬くんのせいだ。いや、元を正せば俺の演技が悪いのか。でも、あのセクハラ発言を許す気はまだ毛頭ない。俺は年甲斐もなくむくれて見せた。 

「綾瀬くんは随分変わったよね。そのメガネも全然似合ってないし」 

綾瀬くんは「ああ、これ」とメガネを外すと、レンズをコンコンと叩いてこちらに翳した。 

「伊達メガネですよ。俺ずっとコンタクトしてるんで」 

「じゃあ何でわざわざ?」 

「業界人っぽく見られたくて。独立して音響監督ってなると、貫禄あった方がいいんですよね。そんなに似合ってないですか?」 

「似合ってないね。業界人ってより、インテリヤクザみたいじゃんか」 

可愛い後輩に業界人になんかなってほしくなかった。そんな身勝手な不満が漏れてしまわないよう、少し冗談ぽく語尾を濁すと綾瀬くんが含み笑いをする。 

「もしかして貝崎さん、さっきのまだ根に持ってます?」 

「あ、当たり前だろ⁉ れっきとしたセクハラだからな、あれ!」 

「で、実際のところはどうなんです? その感じだとマジで童貞なんじゃ……」 

ぶわっと顔に血が集まるのを感じて、誤魔化すために更に大きな声を出してしまう。 

「ふっざけるな‼ 水ぶっ掛けられたいか⁉」 

「図星じゃないですか」 

癇に障るしたり顔を睨みつけると、腹筋の下の方に力を込め、惜しげもなく商売道具を鳴らしてみせる。 

「すみませーん、注文いいですか?」 

「ちょっと、俺まだ悩んでるんですけど」 

正確に言うと図星ではない。付き合っていた女の子は三人くらいいる。でも何となく上手くいかなくて、そういうことを最後までしたことはない。ということは、結局図星ということになるのか。 

平然と笑顔を作り、近寄ってきた店員にアラビアータのセットを注文する。食後の飲み物で、俺はコーヒー、綾瀬くんはミルクティーを頼んだ。土壇場でカルボナーラのセットを注文した綾瀬くんは、店員が去った後も「やっぱりカルボナーラ重かったかな」と唇を尖らせている。 

「半分ずつする?」 

「いや、俺唐辛子無理なんで」 

「アラビアータそんな辛くないよ」 

「俺は唐辛子が無理なんです。アラビアータとは唐辛子が入ったトマトソースのパスタを指すので……」 

「はは、細かいとこは変わってないね。あと、舌がおこちゃまなとこも」 

さっきの仕返しとばかりに嫌味な笑みを浮かべると、パスタの話などなかったかのように綾瀬くんが続けた。 

「貝崎さんは勉強が足りないんですよ」 

「何のことかな?」 

若く見られるとはいえ、俺も今年で三十一になる。三十歳を越えて童貞だと妖精になれると聞くが、粉も羽も出てこなかった。そんなくだらないことを考えるくらいには、俺だって気にしている。六年ぶりに再会した年下男子に何度もいじられて許せるほど、寛大な心は持ち合わせていない。 

「あ、もう一回言っていいんですか?」 

「そしたら問答無用で水掛けるからな」 

置いたままのグラスを握ると、おっと、と両手を上げながら綾瀬くんがいたずらっぽく笑う。くろぐろと綺麗な眉毛が、ぐっと歪んだ。 

なんだ。二人になったら表情豊かじゃん、と油断したのも束の間。整ったパーツが元の位置に収まって、仕事モードの顔に戻る。メガネを掛け直されると、胃のあたりに小さな虫が潜ったみたいな痛みが走った。 

「今日、この後もうちょっと時間あります? べんきょう、しませんか」 

声量を絞った声で訊かれ、いろんな想像が同時に頭の中を駆け抜けた。ピンサロかソープにでも連れて行かれるのか? いや、それかBLの勉強だとしたら、ゲイ向け風俗とかハッテン場とか……。 

「何勘違いしてるんですか? ただの演技指導ですよ。家に他の榊󠄀木先生の漫画も全巻あるので貸しますし」 

俺の訝しげな表情を読み取ったのか、綾瀬くんが得意げな顔でセンター分けの伸びた前髪を耳に掛けた。確か六年前は、前髪も後ろの髪ももっと短かったはずだ。俺が知らない綾瀬くんの六年間。その間に、こんな生意気な髪形と言いぐさを覚えてしまった。 

「それにしたって余計なお世話だ。だいたい養成所も出てないくせに……」 

「いいんですか? 次もリテイク続きでも」 

唯一勝てるものを引き合いに出したはずが、権力を翳されて呆気なく負ける。さすが、有名私大を出ているだけのことはあって、頭の回転が速い。俺は返す言葉も見つけられずに、綾瀬君のインテリ顔を彩る細い黒縁を睨んだ。 

「黙ってるってことは、決まりってことでいいですかね。……あ、安心してください。俺の家近いんで」 

「おい、誰が行くって言ったよ……」 

「お待たせいたしました。アラビアータと、カルボナーラでございます」 

柔らかい物腰で現れた店員は、にこやかに会釈をして立ち去っていく。目の前に置かれたパスタの、油が絡むトマトと葉物のコントラストが鮮やかだ。 

ふと皿から視線を上げると、俺の見間違いだろうか。立ち上るパスタの湯気の向こうで、綾瀬くんが泣きそうな顔をしていた。 

そんなはずない、と強めに瞬きをして見ると、そこには収録中俺をいたぶったのと同じ、無表情の大人が座っている。でも何となく、これは放っておけない、という気がした。 

「……行くよ。俺今、家帰りたくないんだ」 

「中学生ですか」 

「そう、反抗期。あ、ホントにいたわ唐辛子」 

輪切りの唐辛子を端に寄せて、スプーンとフォークでパスタを持ち上げた時、綾瀬くんと昔何かあったのか、と訊いてきた丹羽さんの言葉がよぎった。 

六年前、カラオケ店の厨房。白い陶器のココットが割れる音。手の甲に飛び散ったケチャップ。細切れの光景がサブリミナル効果みたいにフラッシュバックする。 

同時に、人間の本能への恐怖と、背徳的な期待が入り混じるただならぬ感覚が喉元までせり上がってきて、ふっとどこかへ消えた。 

トマトピューレの香りが、海馬を刺激したのかもしれない。 

何だったっけ、今の記憶……。 

思い出しそうで思い出せない不快感に、パスタを丸める手が止まった。 

「旨いですか」 

「……うん、美味しいよ」 

そうか。やっぱり「何か」はあったんだ。俺は自分に都合の悪い記憶をしまって、なかったことにして生きてきた。そして俺は今、もう一度その記憶に蓋をしようとしている。 
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