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第一章

第一章(3)

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 スタジオに到着したら、ブースに入る前にミキサー室の入り口で、スタッフに挨拶をするのが声優のしきたりだ。 

「ベリーデプロダクションの月埜理人です。本日はよろしくお願いいたします」 

「よろしくお願いしまーす」 

 雑多な挨拶に紛れる一つの無気力な声に、なぜか聞き覚えがある気がした。ミキサーも音響監督も初対面の人のはずだったけど、と目線を上げてスタッフの横顔を盗み見た瞬間、思わず素っ頓狂な声が出た。 

「綾瀬くん⁉ 綾瀬司だよね!」 

 一番奥に座った男が、メガネのツルに手を掛けながらこちらに居直る。間違いない。あの頃はメガネなんてかけてなかったけど、ツンと澄ました表情が同じだ。彼は眉一つ動かさず、平坦な語調のままで言った。 

「……貝崎さん? 裏名義なんか名乗ってるから気づきませんでしたよ」 

「えー、懐かしいな! 五年ぶりとか?」 

「六年ぶりです。貝崎さんがバイト辞めてから会ってないんで」 

 後ろに控えていた黒川さんが「なになに? 二人知り合い?」と興味を示す。 

「俺、下積み時代にずっとカラオケ屋でバイトしてたんですけど、その時の後輩で」 

「へーそうなの。よかったじゃない久しぶりに会えて」 

「はい。にしても綾瀬くん、立派な大学通ってたから、てっきり商社マンにでもなったと思ってたけど、この業界にいたなんて……」 

 少し踵を浮かせて綾瀬くんの表情を窺うと、こちらに横顔を向けたまま、ガラスの向こうのアフレコブースを眺めている。あまり愛想がないところは変わっていないようだ。 

「彼、今日の音響監督だよね。若いのにすごいねえ」 

 六年前、俺は二十五歳で綾瀬司は確か大学三年生だった。単純計算で今彼は二十七歳。基本的におじさんが多い音響監督の中では、確かにかなり若い方だろう。 

 音響監督、通称音監は、いわば音声関係の司令塔で最高責任者だ。 

 綾瀬くんにそんな大役が務まるのかお手並み拝見、と思惑する一方、昔の知り合いに演技とはいえ喘ぎや媚びた声を聞かれてしまう気まずさはかなり堪える 

 こんなところで知り合いに会うなんて、ホントに今日はツイてない。 

 だけど、まさか主演の俺が逃げるわけにもいかず、重い足取りでブースに入り、壁際に並ぶ椅子に腰かけると、制作サイドの関係者がざわめき始めた。 

「先生、お久しぶりです」 

「どうも、お世話になってます」 

 ミキサー室に小柄な若い男性と、ジャケットを羽織った女性が入ってくる。俺と丹羽さんを含む声優陣も続いて挨拶をする。 

「はじめまして、漫画家の榊󠄀木夏樹です。今日はよろしくお願いします」 

 男の方が口を開き、そちらが編集者だと思っていた俺は面食らった。こんな虫も殺さぬ顔をした人が、あの過激なシーンに溢れる作品を描いているとは恐れ入る。ファンだという丹羽さんと言葉を交わして嬉しそうな榊󠄀木先生は、スタッフ達に持参したどら焼きを配り始めた。 

 今回の作品は、十五分の深夜アニメ。基本は地上波で見られるが、過激なシーンが入った完全版を有料で配信するという、実験的な試みだ。 

 そのためか制作側も気合を入れているらしく、役者もスタッフも大所帯だ。決して広くはないスタジオに、大勢の話し声が渋滞している。 

 声優は、収録が始まるまでブースやロビー、喫煙所など思い思いの場所にいることが多い。 

 俺が演じる病弱な美少年・一条カオルは、大きな屋敷に住んでいるという設定のため、そこのメイドや執事役で来た新人達は、遠慮がちに台本をチェックしたり、ブースの扉を開け閉めする係に徹したりしている。 

 丹羽さんが演じるのは、カオルの初恋の人であり、親の仇である真白浩一郎。この作品の見所は、真白がカオルを誘拐して監禁し、調教するエロシーンにあるらしい。が、俺には正直、世の女性達がこれにハマるわけがさっぱり分からない。ここまで来て、かなたのカノジョにこの作品の魅力くらい聞いてくればよかったと少しだけ後悔した。 

「皆さんよろしいでしょうか。始めたいと思います」 

 綾瀬くんの声でバラけていた演者が集まり、簡単に挨拶を済ませたところで「白バラのキスはいつも真夜中」通称「バラキス」のアフレコが始まった。 

 アフレコでは、シーンを細切れにしてテストと本番が繰り返される。一回目に試しで演技をするテストで音響監督が違うと感じた演技はまとめて修正されるが、本番で間違えた場合はその場で止められる。 

 だから本番に入ると、ブースの空気はがらりと変わる。その冷たい水槽の中にいるような緊張感が、俺は嫌いじゃない。 
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