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(三)満願寺
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翌朝。
朝餉を終えた斯忠は、さすがに憂鬱な面持ちで大広間に向かう。
足取りが軽い筈もないが、さすがにいつまでも寝不足の顔はしていない。
広間に集まった人数が、斯忠の姿を見て一斉に平伏する。
その雰囲気から、昨日の今日でありながら、どうやら彼らが既に斯忠の追放を知っているらしいことが伺えた。
(説明する手間が省けて良いやな)
腹の中で毒づきながら、斯忠は上座にどっかと腰を下ろす。
「既に存じよりの者も多いようだが、改めて申し渡す。この度、仔細あって佐竹の御家を離れることと相成った。皆、よく働いてくれたこと、この丹波守斯忠、深く感謝いたす」
斯忠が一息に言い放つ。
大広間は静まり返り、取り立てて反応も見られない。
「ついては、程なく後任の城主が登城いたすであろう。これまでと変わらず、忠勤に励むように。以上だ」
ぶっきらぼうに言って、斯忠はさっさと腰を上げた。
最後に何を言うか、斯忠もあれこれと考えていたのだが、無感動な配下の様子を見て、長々と語る気力も失せていた。
今日限りで他人となる配下が、再び一斉に平伏する。
それがしもお供します、といた類の声が上がることを、心のどこかで期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし、そんな酔狂な真似をする者がいるはずもなかった。
(こいつら、要らぬ波風をたてて追放の憂き目にあった自分を腹の底で笑っているのだろうな。何もしなければ、昨日と変わらぬ今日を迎えられたはずなのに、と。だが、本当にそうかね)
斯忠は内心で強がりの言葉を転がす。
今、上杉家の動向が、そして徳川家康の動きが、世の中を大きく揺るがそうとしている。
この流れに、佐竹家も決して無縁ではいられないのだ。
いつまでも昨日と変わらぬ今日が来るなど、誰にも断言できまい。
(どっちが正しかったのか、いずれ判る)
水戸城からの指示どおりに動く事しか考えていない連中など、供連れにする必要などないのだ、と斯忠はどうにか気持ちを落ち着かせた。
結局、昼前に斯忠が吉田城の大手門から城外の通りに出た時、傍らにいたのは中間の団吉と、大柄の黒駒であることから「大黒」と名付けた愛馬のみだった。
「旦那様、どちらに参りましょうか」
日頃は口から生まれてきたような饒舌ぶりを見せる団吉も、この時ばかりはさすがにしょぼくれて、太い眉を八の字に下げていた。
「とりあえず、北に向かうとするかね」
「直ぐに会津に向かいなさるので? それともひとまず御本家に厄介になりますか」
無論、団吉にも斯忠の追放の経緯は伝えてあるため、彼なりに身の振り方を思案していたのだろう。そんな問いかけをしてくる。
「そこまで慌てるつもりはねぇ。それより先に顔を出しておきたい場所があるのさ」
鞍上の斯忠は、振り返って吉田城の姿を目に焼き付けるようにしばし眺めた後、北に向かう道へと大黒を進ませた。
「名残惜しくはございますが、お別れにございます」
神妙な面持ちで三つ指をついて頭を下げる百合の幻影が、斯忠の脳裏に浮かんで、やがて消えた。
車家代々の居城である車城は、常陸の北部、南陸奥との国境近くにある。
しかし、今の車城は車氏の支配下にはない。
斯忠の父・兵部大輔義秀は天文十三年(一五四四年)から実に四十五年の長きに渡って車城の城主であり続けたが、天正十六年(一五八八年)に佐竹と岩城の争いとなった際に岩城方について兵を挙げ、敗死している。
味方する相手を誤ったと言ってしまえばそれまでだが、所領の位置関係からしても、元々佐竹よりも岩城とのつながりのほうが強い事情もあった。
これまでも常に佐竹の配下であった訳ではなく、時には岩城の元に集い、佐竹と戦ったことも一度や二度ではないある。
常陸の小勢力が誰に味方するかは、筋が通っているほうでも、勝ちそうなほうでもなく、まさに時と事情によるとしか言い難いものがあった。
長年、そのような処世に身を任せて生き延びてきた義秀であったが、時代はそのような生き方を許さなくなっていた。
義秀は馬上にて眉間に矢を受けて討たれるという、平将門ばりの最期を遂げたが、元々戦さに強い将ではなかった。
義秀の敗北後、車城は佐竹氏に収公された。
天正十九年(一五九一年)に常陸一国の支配体制を固めた佐竹義宣は、居城を太田城から水戸城へと移すのと並行して、一門衆および家臣の領内の大幅な配置換えを行った。
その際、車氏の本家で生き残った者は、車氏とのつながりが深い佐竹北家の北義憲(斯忠が偏諱を賜った北義斯の子)が南陸奥の赤館城に入るのと相前後して、同じく南陸奥の神谷館に移封されている。
先祖伝来の地から離れることを余儀なくされたのは車氏に限らない以上、常陸国外の僻地に追いやられたと考えるのは早計であろう。
とはいえ、佐竹家中において重きを成しているとも言い難いのも事実だった。
車城から北西に三里余り入った山中に、車氏の菩提寺である天台宗満願寺がある。
八百年近い歴史があるというこの古刹は、車氏の移封に同行することもなく、当地に残っている。
勝手知ったる足取りで本堂に入った斯忠は、方角をあわせて四方の壁に飾られた十二天像のうち、西北を護る「風天」を描いた掛軸の前で腰を下ろした。
幼い頃から、斯忠はこの風天像を好んでいた。
なぜ帝釈天や毘沙門天ではないのか、と生前の義秀には呆れられたものだが、斯忠は聞く耳を持たなかった。
「誰もが崇拝するような神仏よりも、他の者が日頃は目もくれないような神仏のほうが、いざという時に自分の味方をしてくれるってものよ。こっちからも敵からも拝まれてる毘沙門天が、窮地に助けてくれるとは思えねえ」
という理屈である。
他人と同じ振る舞いを良しとしないのが、車斯忠という男である。
色鮮やかな金泥、緑青、群青、朱で絹地の掛軸に描かれた風天の姿は、異形の神も含まれる十二天の中にあっては、頭の形も腕の数も人間と変わらない。甲冑をまとい、片手には旗のついた槍を携えた凛とした佇まいに、斯忠は己の理想をみていた。
その面立ちは斯忠に似ている、と誰かに言われたこともあったが、自分では判らない。阿諛追従の類であったかもしれない。
斯忠は、風天像を前にして心の中で己の決意を告げ、祈りをささげた。
さしもの斯忠も、風天の加護を願わなければ踏み切れないような勝負に出ようと考えていたのだ。
「御父上寄贈の愛染明王像を拝む気はないかの」
斯忠が顔を挙げると、本殿の入口に住職の有借上人が姿を見せており、長く垂らした白い顎髭を揺らして微笑んでいた。
満願寺には、かつて車義秀が戦勝祈願のために奉納した愛染明王像がある。
「そちらは後回しにござる」
斯忠は口の端をゆがめた。
いまは亡父の功徳に思いを馳せる余裕はない。義秀も、不肖の息子である斯忠に、愛染明王像を拝んでもらおうなどとも思うまい。
「まあ、無理強いはせぬよ。ところで、何ぞあったのかな。何もなければ、虎殿がわざわざかようなところまで足を運ぶまい」
「さすがにお見通しですな」
斯忠は、佐竹家を召し放ちになったことと、上杉家に仕官するための書状を用意された経緯を説明した。
「そうか。風天の虎は北に向かうか……」
話を聞き終えた有借上人は、さすがに嘆息して呟いた。
その様子をみた斯忠は、意を決して居住まいを正して身を乗り出す。
「御坊、これが迷惑の掛け納めと思って、頼みを聞いてくれませんかね」
「はて、拙僧が何か力になれることかな」
品行方正とは無縁だった斯忠の少年時代を知るだけに、有借上人の表情にも警戒の色が浮かぶ。
「他でもない。この寺の境内やら庫裡やらを、ちょっとのあいだ貸してもらいたいんで」
「場所を借りてなんといたす」
「人を集めます。わたし一人でのこのこと上杉に仕官したところで、一騎駆けの武者として雑に扱われるのがせいぜいでしょう。であるなら、せいぜい人数をかき集めて、佐竹を代表する一手の将として乗り込んでやります。そうすりゃ、ちょっとは扱いもマシになるでしょう」
斯忠は、これまで考え続けていた自分の思いを口にする。
有借上人は禿頭をつるりと撫でて、斯忠が放った言葉の意味をしばし考え込む。
斯忠にとっては長く感じる沈黙の間があった。
やがて顔をあげた有借上人はにこりと微笑んだ。
「なるほど。して、どれほどの人数を集めるつもりじゃ」
「一千とは言わず、せめて五百は集めたいと存じます」
「五百の兵を引き連れておれば、一万石も夢ではない、か。虎殿の考えそうなことだ」
有借上人が含み笑いをみせる。
「さすがは御坊。まさに、仰せのとおりで」
反論の余地はない。斯忠は四角い顔をくしゃりとしかめて頷いた。
通常、石高当たり動員できる兵の標準は、四人役と呼ばれるとおり百石あたり四人とされる。
厳しい軍役となる五人役の場合、一万石で五百人を揃えられる勘定になる。
「……よかろう。虎殿の無理の頼みおさめとなれば、致し方あるまい」
「ありがとうございます」
ため息まじりの、それでいてどこか楽しげな有借上人を前に、斯忠は大きく頭を下げた。
「そういう話であれば、引き合わせたい者が一人おる。寺の仕事をして貰うておったが、やはり武者働きのほうが性分にあっておるように見受けられる御仁じゃ。しばし待っておれ」
そう言い残してその場を離れた有借上人は、間を置かず一人の寺男ふうの恰好をした男を連れて戻ってきた。
丸顔で、年の頃は四十前後といったところか。寺男とは言いつつ、縮れ毛を茶筅髷に結上げ、鼻の下に蓄えた立派なひげが目を惹く。
所作は武士らしくは見えたが、どこかだらしなくみえた。
「あっ、てめえ。源公じゃねぇか!」
特徴ある縮れ毛はそう簡単に忘れられるものではない。顔を合わすのは久方ぶりであったが、斯忠は相手が誰か、すぐに判った。
自称・江州牢人、嶋左源次。兵法を極めるための廻国修行と称して各地を旅しており、数年に一度、ふらりと斯忠の元に姿をみせる。
かつて、満願寺の門前に行き倒れ同然に倒れていた左源次を、斯忠が介抱したのがそもそもの縁である。
立場上、常陸から離れらられない斯忠と異なり、牢人者の左源次は諸国を旅することができる。満願寺は左源次が各地に持つ根城の一つであるらしい。
左源次が持ち込む他国の話は、斯忠にはそれなりに耳新しいこともあり、これまで身分の立場を越え、「源公」「虎の兄貴」と呼び合う付き合いが続いていた。
もっとも、斯忠には左源次が自負するほど兵法に長けているとはとても思えないのだが。
「いまは、もっぱら嶋左源と名乗っておりまするぞ」
左源次がにたりと笑う。
「近江所縁の嶋左なんとかと言えば、石田治部少輔の懐刀のことじゃねぇか。お前なんぞ、今までどおり源公でじゅうぶんだよ」
悪態をついた斯忠が、ぽかりと左源次の頭をはたく。
「あ痛っ。ひでぇな、虎の兄貴」
大袈裟に痛がる風を装いながらも、左源次の顔から笑みは消えない。斯忠も本気で殴ったわけではない。
実のところ、石田三成の右腕として名高い嶋左近は大和の出身。あるいは遠い同族である可能性もあるが、近江の左源次の一族とは直接の繋がりはない。
左源次の嶋一族は、元々は北近江にて有力な国人衆であった今井家の重臣の家系である。
相次ぐ当主の死により今井家が没落した後、浅井長政に仕える猛将・磯野員昌の家臣となり、今は石田三成の居城となっている佐和山城下にて働いていたという。
元亀元年(一五七〇年)、織田信長・徳川家康軍と、浅井長政・朝倉義景軍が繰り広げた姉川の戦いと呼ばれる大合戦において、磯野員昌は十一段崩しと呼ばれる猛烈な突撃を敢行して後世に名を残した。
その突撃の途中、傷ついた乗馬を捨てた員昌に、左源次の一族の一人である嶋秀淳が、替え馬として自らの馬を差し出して窮地を救う殊勲の働きをしたという。
しかし、けっきょくは姉川の合戦に敗れて佐和山城に籠城した磯野員昌は、浅井長政の後詰を得られず信長に降伏する。
員昌の家臣団は離散し、嶋一族は員昌に引き続き仕える者と、幼少の今井家の世継の元に残る者に別れた。左源次は員昌に付き従った嶋秀淳と行動を共にした。
その後、員昌は近江国高島郡の郡司に抜擢されたものの、織田家の中では頭角を現すことが出来ぬまま、天正六年(一五七八年)には信長の勘気を受けたとして、突如逐電してしまう。
左源次はその際に牢人し、修行の旅に出たという。
顔を合わせる度に聞かされた左源次の身の上話を、斯忠は思い返していた。
何度となく、「磯野員昌様は丹波守を称しておりましてな。そして虎の兄貴も、おなじ丹波守。勝手ながら、縁を感じておりやす」などと聞かされれば、嫌でも覚えるというものだ。
「そろそろ参上すべきと思案していたところ、虎の兄貴から出向いて来られるとは、これこそは宿縁に違いありませんな。聞けば、虎の兄貴も心ならずも牢人したとか。この左源次、御供いたしやす」
左源次は媚びるような表情を浮かべる。
「嶋殿は、こうみえて算勘の術を心得ておる。これから人を集める役に立つのではないかな」
それまで二人の話に黙って耳を傾けていた有借上人が、傍らから口を挟んだ。
実のところ、寺男として実質的な破門宣告のように斯忠には聞こえたのだが、あえて異を唱えるつもりもない。
「まあ、とにかく御坊様の頼みとあっちゃ断れねぇ。だがよ、ともかく嶋左源たあ人を喰った名乗りだ。お前なんぞこれからも源公でじゅうぶんだ」
「厳しいなぁ、虎の兄貴」
「だいたいお前、なんでそんなに馴れ馴れしいんだ」
主従となることを誓ったその場で言い争いをはじめる二人に、有借上人が美苦笑を浮かべて一言呟く。
「これで、あと四百九十九人じゃな」
朝餉を終えた斯忠は、さすがに憂鬱な面持ちで大広間に向かう。
足取りが軽い筈もないが、さすがにいつまでも寝不足の顔はしていない。
広間に集まった人数が、斯忠の姿を見て一斉に平伏する。
その雰囲気から、昨日の今日でありながら、どうやら彼らが既に斯忠の追放を知っているらしいことが伺えた。
(説明する手間が省けて良いやな)
腹の中で毒づきながら、斯忠は上座にどっかと腰を下ろす。
「既に存じよりの者も多いようだが、改めて申し渡す。この度、仔細あって佐竹の御家を離れることと相成った。皆、よく働いてくれたこと、この丹波守斯忠、深く感謝いたす」
斯忠が一息に言い放つ。
大広間は静まり返り、取り立てて反応も見られない。
「ついては、程なく後任の城主が登城いたすであろう。これまでと変わらず、忠勤に励むように。以上だ」
ぶっきらぼうに言って、斯忠はさっさと腰を上げた。
最後に何を言うか、斯忠もあれこれと考えていたのだが、無感動な配下の様子を見て、長々と語る気力も失せていた。
今日限りで他人となる配下が、再び一斉に平伏する。
それがしもお供します、といた類の声が上がることを、心のどこかで期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし、そんな酔狂な真似をする者がいるはずもなかった。
(こいつら、要らぬ波風をたてて追放の憂き目にあった自分を腹の底で笑っているのだろうな。何もしなければ、昨日と変わらぬ今日を迎えられたはずなのに、と。だが、本当にそうかね)
斯忠は内心で強がりの言葉を転がす。
今、上杉家の動向が、そして徳川家康の動きが、世の中を大きく揺るがそうとしている。
この流れに、佐竹家も決して無縁ではいられないのだ。
いつまでも昨日と変わらぬ今日が来るなど、誰にも断言できまい。
(どっちが正しかったのか、いずれ判る)
水戸城からの指示どおりに動く事しか考えていない連中など、供連れにする必要などないのだ、と斯忠はどうにか気持ちを落ち着かせた。
結局、昼前に斯忠が吉田城の大手門から城外の通りに出た時、傍らにいたのは中間の団吉と、大柄の黒駒であることから「大黒」と名付けた愛馬のみだった。
「旦那様、どちらに参りましょうか」
日頃は口から生まれてきたような饒舌ぶりを見せる団吉も、この時ばかりはさすがにしょぼくれて、太い眉を八の字に下げていた。
「とりあえず、北に向かうとするかね」
「直ぐに会津に向かいなさるので? それともひとまず御本家に厄介になりますか」
無論、団吉にも斯忠の追放の経緯は伝えてあるため、彼なりに身の振り方を思案していたのだろう。そんな問いかけをしてくる。
「そこまで慌てるつもりはねぇ。それより先に顔を出しておきたい場所があるのさ」
鞍上の斯忠は、振り返って吉田城の姿を目に焼き付けるようにしばし眺めた後、北に向かう道へと大黒を進ませた。
「名残惜しくはございますが、お別れにございます」
神妙な面持ちで三つ指をついて頭を下げる百合の幻影が、斯忠の脳裏に浮かんで、やがて消えた。
車家代々の居城である車城は、常陸の北部、南陸奥との国境近くにある。
しかし、今の車城は車氏の支配下にはない。
斯忠の父・兵部大輔義秀は天文十三年(一五四四年)から実に四十五年の長きに渡って車城の城主であり続けたが、天正十六年(一五八八年)に佐竹と岩城の争いとなった際に岩城方について兵を挙げ、敗死している。
味方する相手を誤ったと言ってしまえばそれまでだが、所領の位置関係からしても、元々佐竹よりも岩城とのつながりのほうが強い事情もあった。
これまでも常に佐竹の配下であった訳ではなく、時には岩城の元に集い、佐竹と戦ったことも一度や二度ではないある。
常陸の小勢力が誰に味方するかは、筋が通っているほうでも、勝ちそうなほうでもなく、まさに時と事情によるとしか言い難いものがあった。
長年、そのような処世に身を任せて生き延びてきた義秀であったが、時代はそのような生き方を許さなくなっていた。
義秀は馬上にて眉間に矢を受けて討たれるという、平将門ばりの最期を遂げたが、元々戦さに強い将ではなかった。
義秀の敗北後、車城は佐竹氏に収公された。
天正十九年(一五九一年)に常陸一国の支配体制を固めた佐竹義宣は、居城を太田城から水戸城へと移すのと並行して、一門衆および家臣の領内の大幅な配置換えを行った。
その際、車氏の本家で生き残った者は、車氏とのつながりが深い佐竹北家の北義憲(斯忠が偏諱を賜った北義斯の子)が南陸奥の赤館城に入るのと相前後して、同じく南陸奥の神谷館に移封されている。
先祖伝来の地から離れることを余儀なくされたのは車氏に限らない以上、常陸国外の僻地に追いやられたと考えるのは早計であろう。
とはいえ、佐竹家中において重きを成しているとも言い難いのも事実だった。
車城から北西に三里余り入った山中に、車氏の菩提寺である天台宗満願寺がある。
八百年近い歴史があるというこの古刹は、車氏の移封に同行することもなく、当地に残っている。
勝手知ったる足取りで本堂に入った斯忠は、方角をあわせて四方の壁に飾られた十二天像のうち、西北を護る「風天」を描いた掛軸の前で腰を下ろした。
幼い頃から、斯忠はこの風天像を好んでいた。
なぜ帝釈天や毘沙門天ではないのか、と生前の義秀には呆れられたものだが、斯忠は聞く耳を持たなかった。
「誰もが崇拝するような神仏よりも、他の者が日頃は目もくれないような神仏のほうが、いざという時に自分の味方をしてくれるってものよ。こっちからも敵からも拝まれてる毘沙門天が、窮地に助けてくれるとは思えねえ」
という理屈である。
他人と同じ振る舞いを良しとしないのが、車斯忠という男である。
色鮮やかな金泥、緑青、群青、朱で絹地の掛軸に描かれた風天の姿は、異形の神も含まれる十二天の中にあっては、頭の形も腕の数も人間と変わらない。甲冑をまとい、片手には旗のついた槍を携えた凛とした佇まいに、斯忠は己の理想をみていた。
その面立ちは斯忠に似ている、と誰かに言われたこともあったが、自分では判らない。阿諛追従の類であったかもしれない。
斯忠は、風天像を前にして心の中で己の決意を告げ、祈りをささげた。
さしもの斯忠も、風天の加護を願わなければ踏み切れないような勝負に出ようと考えていたのだ。
「御父上寄贈の愛染明王像を拝む気はないかの」
斯忠が顔を挙げると、本殿の入口に住職の有借上人が姿を見せており、長く垂らした白い顎髭を揺らして微笑んでいた。
満願寺には、かつて車義秀が戦勝祈願のために奉納した愛染明王像がある。
「そちらは後回しにござる」
斯忠は口の端をゆがめた。
いまは亡父の功徳に思いを馳せる余裕はない。義秀も、不肖の息子である斯忠に、愛染明王像を拝んでもらおうなどとも思うまい。
「まあ、無理強いはせぬよ。ところで、何ぞあったのかな。何もなければ、虎殿がわざわざかようなところまで足を運ぶまい」
「さすがにお見通しですな」
斯忠は、佐竹家を召し放ちになったことと、上杉家に仕官するための書状を用意された経緯を説明した。
「そうか。風天の虎は北に向かうか……」
話を聞き終えた有借上人は、さすがに嘆息して呟いた。
その様子をみた斯忠は、意を決して居住まいを正して身を乗り出す。
「御坊、これが迷惑の掛け納めと思って、頼みを聞いてくれませんかね」
「はて、拙僧が何か力になれることかな」
品行方正とは無縁だった斯忠の少年時代を知るだけに、有借上人の表情にも警戒の色が浮かぶ。
「他でもない。この寺の境内やら庫裡やらを、ちょっとのあいだ貸してもらいたいんで」
「場所を借りてなんといたす」
「人を集めます。わたし一人でのこのこと上杉に仕官したところで、一騎駆けの武者として雑に扱われるのがせいぜいでしょう。であるなら、せいぜい人数をかき集めて、佐竹を代表する一手の将として乗り込んでやります。そうすりゃ、ちょっとは扱いもマシになるでしょう」
斯忠は、これまで考え続けていた自分の思いを口にする。
有借上人は禿頭をつるりと撫でて、斯忠が放った言葉の意味をしばし考え込む。
斯忠にとっては長く感じる沈黙の間があった。
やがて顔をあげた有借上人はにこりと微笑んだ。
「なるほど。して、どれほどの人数を集めるつもりじゃ」
「一千とは言わず、せめて五百は集めたいと存じます」
「五百の兵を引き連れておれば、一万石も夢ではない、か。虎殿の考えそうなことだ」
有借上人が含み笑いをみせる。
「さすがは御坊。まさに、仰せのとおりで」
反論の余地はない。斯忠は四角い顔をくしゃりとしかめて頷いた。
通常、石高当たり動員できる兵の標準は、四人役と呼ばれるとおり百石あたり四人とされる。
厳しい軍役となる五人役の場合、一万石で五百人を揃えられる勘定になる。
「……よかろう。虎殿の無理の頼みおさめとなれば、致し方あるまい」
「ありがとうございます」
ため息まじりの、それでいてどこか楽しげな有借上人を前に、斯忠は大きく頭を下げた。
「そういう話であれば、引き合わせたい者が一人おる。寺の仕事をして貰うておったが、やはり武者働きのほうが性分にあっておるように見受けられる御仁じゃ。しばし待っておれ」
そう言い残してその場を離れた有借上人は、間を置かず一人の寺男ふうの恰好をした男を連れて戻ってきた。
丸顔で、年の頃は四十前後といったところか。寺男とは言いつつ、縮れ毛を茶筅髷に結上げ、鼻の下に蓄えた立派なひげが目を惹く。
所作は武士らしくは見えたが、どこかだらしなくみえた。
「あっ、てめえ。源公じゃねぇか!」
特徴ある縮れ毛はそう簡単に忘れられるものではない。顔を合わすのは久方ぶりであったが、斯忠は相手が誰か、すぐに判った。
自称・江州牢人、嶋左源次。兵法を極めるための廻国修行と称して各地を旅しており、数年に一度、ふらりと斯忠の元に姿をみせる。
かつて、満願寺の門前に行き倒れ同然に倒れていた左源次を、斯忠が介抱したのがそもそもの縁である。
立場上、常陸から離れらられない斯忠と異なり、牢人者の左源次は諸国を旅することができる。満願寺は左源次が各地に持つ根城の一つであるらしい。
左源次が持ち込む他国の話は、斯忠にはそれなりに耳新しいこともあり、これまで身分の立場を越え、「源公」「虎の兄貴」と呼び合う付き合いが続いていた。
もっとも、斯忠には左源次が自負するほど兵法に長けているとはとても思えないのだが。
「いまは、もっぱら嶋左源と名乗っておりまするぞ」
左源次がにたりと笑う。
「近江所縁の嶋左なんとかと言えば、石田治部少輔の懐刀のことじゃねぇか。お前なんぞ、今までどおり源公でじゅうぶんだよ」
悪態をついた斯忠が、ぽかりと左源次の頭をはたく。
「あ痛っ。ひでぇな、虎の兄貴」
大袈裟に痛がる風を装いながらも、左源次の顔から笑みは消えない。斯忠も本気で殴ったわけではない。
実のところ、石田三成の右腕として名高い嶋左近は大和の出身。あるいは遠い同族である可能性もあるが、近江の左源次の一族とは直接の繋がりはない。
左源次の嶋一族は、元々は北近江にて有力な国人衆であった今井家の重臣の家系である。
相次ぐ当主の死により今井家が没落した後、浅井長政に仕える猛将・磯野員昌の家臣となり、今は石田三成の居城となっている佐和山城下にて働いていたという。
元亀元年(一五七〇年)、織田信長・徳川家康軍と、浅井長政・朝倉義景軍が繰り広げた姉川の戦いと呼ばれる大合戦において、磯野員昌は十一段崩しと呼ばれる猛烈な突撃を敢行して後世に名を残した。
その突撃の途中、傷ついた乗馬を捨てた員昌に、左源次の一族の一人である嶋秀淳が、替え馬として自らの馬を差し出して窮地を救う殊勲の働きをしたという。
しかし、けっきょくは姉川の合戦に敗れて佐和山城に籠城した磯野員昌は、浅井長政の後詰を得られず信長に降伏する。
員昌の家臣団は離散し、嶋一族は員昌に引き続き仕える者と、幼少の今井家の世継の元に残る者に別れた。左源次は員昌に付き従った嶋秀淳と行動を共にした。
その後、員昌は近江国高島郡の郡司に抜擢されたものの、織田家の中では頭角を現すことが出来ぬまま、天正六年(一五七八年)には信長の勘気を受けたとして、突如逐電してしまう。
左源次はその際に牢人し、修行の旅に出たという。
顔を合わせる度に聞かされた左源次の身の上話を、斯忠は思い返していた。
何度となく、「磯野員昌様は丹波守を称しておりましてな。そして虎の兄貴も、おなじ丹波守。勝手ながら、縁を感じておりやす」などと聞かされれば、嫌でも覚えるというものだ。
「そろそろ参上すべきと思案していたところ、虎の兄貴から出向いて来られるとは、これこそは宿縁に違いありませんな。聞けば、虎の兄貴も心ならずも牢人したとか。この左源次、御供いたしやす」
左源次は媚びるような表情を浮かべる。
「嶋殿は、こうみえて算勘の術を心得ておる。これから人を集める役に立つのではないかな」
それまで二人の話に黙って耳を傾けていた有借上人が、傍らから口を挟んだ。
実のところ、寺男として実質的な破門宣告のように斯忠には聞こえたのだが、あえて異を唱えるつもりもない。
「まあ、とにかく御坊様の頼みとあっちゃ断れねぇ。だがよ、ともかく嶋左源たあ人を喰った名乗りだ。お前なんぞこれからも源公でじゅうぶんだ」
「厳しいなぁ、虎の兄貴」
「だいたいお前、なんでそんなに馴れ馴れしいんだ」
主従となることを誓ったその場で言い争いをはじめる二人に、有借上人が美苦笑を浮かべて一言呟く。
「これで、あと四百九十九人じゃな」
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天狗の囁き
井上 滋瑛
歴史・時代
幼少の頃より自分にしか聞こえない天狗の声が聞こえた吉川広家。姿見えぬ声に対して、時に従い、時に相談し、時に言い争い、天狗評議と揶揄されながら、偉大な武将であった父吉川元春や叔父の小早川隆景、兄元長の背を追ってきた。時は経ち、慶長五年九月の関ヶ原。主家の当主毛利輝元は甘言に乗り、西軍総大将に担がれてしまう。東軍との勝敗に関わらず、危急存亡の秋を察知した広家は、友である黒田長政を介して東軍総大将徳川家康に内通する。天狗の声に耳を傾けながら、主家の存亡をかけ、不義内通の誹りを恐れず、主家の命運を一身に背負う。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
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永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
豊家軽業夜話
黒坂 わかな
歴史・時代
猿楽小屋や市で賑わう京の寺院にて、軽業師の竹早は日の本一の技を見せる。そこに、参詣に訪れていた豊臣秀吉の側室・松の丸殿が通りがかり、竹早は伏見城へ行くことに。やがて竹早は秀頼と出会い…。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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