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(二)風車の善七

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 斯忠つなただは、打ちひしがれて己が在番する吉田城に戻った。

 城門をくぐった時には、既に夕闇が迫っていた。

 公には、斯忠の今の立場は吉田城の城主である。
 とはいえ、城の代表としての役割を主君・義宣から仰せつかっているだけの、いわゆる城番に過ぎず、城主としての権限はほとんど与えられていない。

 配下として付けられているのも、佐竹家から吉田城に派遣されている者が大半であり、彼らには、斯忠と命運を共にしなければならない理由はない。
 城主が召し放ちになれば水戸城に戻るだけである。
 昭為から、吉田城の番衆を巻き込むな、とくぎを刺されたからなおさらである。

 従って、斯忠自身の家臣というべき存在は城内にほとんどいない。
 後任に城番の役目を譲れば、後は退去する他はない。

 城の留守居を任せていた配下の一人に出迎えられた斯忠は、前置きも何もなく、翌朝に主だった者を広間に集めるよう命じた。

「あんまり早くに来るんじゃねぇぞ。朝飯はきちんと喰ってからだ」
 あっけにとられる配下にそう念を押した斯忠は、さっさと寝所に入ってしまう。

「実家に帰らせていただきます」
 寝所にて斯忠からの話を聞き終えた妻・百合はそう言って笑み崩れた。

 相応に年を重ねてきたが、いつまでも稚気を忘れない彼女の性分を、斯忠は好んでいた。

 とはいえ、さすがに今回ばかりは笑えない。
「泣かれても困るが、随分とつれねぇじゃねぇか」

 嘆息する一方で、こんなやりとりは随分と久しぶりだなと心が温まる思いがして、やがてその理由に気づく。

 寝所で我に返った斯忠は自分以外誰もいない室内を見回し、その寒々しい空気に暗澹たる気持ちになる。

 百合は数年前に既にこの世を去っている。

 加えて言えば、長男・親左衛門は長らく車氏の本家の元にあり、次男・善九郎は義宣の近習として上方に同行している。
 どちらもその立場は証人、いわゆる人質である。

 城内に斯忠の親族は一人もいない。
 召し放ちの沙汰がよほど堪えていたのだろう。

「こりゃあ、いけねぇ。そろそろお迎えが近いかね」
 百合の姿と声の幻を振り払うように、斯忠はしかめ面で頭を振った。

 このままさっさとふて寝でもしてしまいたいところだが、明日には城から立ち退かねばならない。

 持ち出す荷物など、自分で担げる範囲しかないが、寝るのは今後の身の振り方ぐらいは決めてからにしたほうが良いだろう、斯忠はそう思いなおした。

 考えなしの猪武者にみえて、あれこれと気を回すのが車斯忠という男である。

 無論、義宣から預けられた書状がある以上、会津に赴いて上杉家に仕官するのがいちばん確実ではある。

 しかし、自分を召し放ちにした相手の思惑にそのまま乗る、というのも斯忠の性分としては気にいらない。

 だからといって既に五十路になった身では、いまさら帰農したり、牢人して上杉家以外の仕官先を求めるのもやはり気乗りしない。

「善七に言って、団子屋の修行でもするか」
 などと、力の入らないつぶやきを漏らしてみる。

 すると、その言葉に反応したかのように、廊下に誰かの気配があることに気づく。いや、わざと勘付かせている。

「いいぞ。入んな」
「失礼いたします」
 音も立てずに襖を開け、するりと室内に入り込んできたのは、斯忠の異母弟にあたる、車善七郎だった。

 善七郎は番匠か鳶職のような装束を身に着けている。いちおうは士分ではあるが、武士らしい恰好をすることはほとんどない。

 善七郎の母親は、斯忠らの父・義秀が伊賀から雇い入れた女忍びだ。
 義秀の手が付き、妊婦となった母が役目を果たせなくなり、郷里である三河国渥美の在所に戻り、産み落としたのが善七郎である。

 三河を領する徳川家康の元には、服部半蔵を頭とする伊賀忍者が多数働いていた。
 任務の都度、伊賀の里から忍者が派遣されるのでは効率が悪いため、領内の拠点として隠し里がいくつもつくられており、渥美の地にもそのような場所があったらしい。

 海路を除けば他国者が入り込む機会の少ない半島の地は、隠し里の立地としては妥当であろう。

 渥美の隠し里にて、伊賀忍びとしての一通りの手ほどきを受けた善七郎であるが、あくまでも個人的な教授であり、元より伊賀の忍びになれる身ではなかった。

 母が病を得て亡くなった後、善七郎はしばらくの間は博徒とも盗賊ともつかぬ荒んだ生活をしていたが、いつまでもこうしてはおれぬ、と一念発起。
 亡き母から、実の父と聞かされていた義秀をひと目みるべく常陸までやってきた。

 当然のことながら、義秀は彼を息子として認めようとせずに門前払いを喰わせた。

 それを見かねた斯忠は、善七郎は我が舎弟であるならば自分が面倒を見る、と啖呵を切って義秀の反対も無視して手元に迎え入れた。

 形だけではあるが養子縁組の体裁を取ったため、善七郎は斯忠の弟にして息子ということになった。

 もっとも善七郎は、ありきたりな二本差しの武士に収まるつもりはなかった。

 習い覚えた忍びの技は、盗賊稼業を経て独自に洗練されており、彼の技に惚れ込んだ手下も幾人か引き連れていた。

 今では、自らの組織を「風車」と称する、いっぱしの諜報集団として斯忠を陰から支える存在になっている。

 その腕前は、彼が士分の恰好をしていないにも関わらず、城主の寝所に忍んで来られることからも明らかだ。

 吉田城付の斯忠の配下は、度々出入りする善七郎の存在そのものすら察知していない。

 もっとも、明日で追放となる城主の警備に、斯忠の配下がどれほど熱心に取り組んでいるかといえば、甚だ心もとないところではあるが。

「殿の進退につき、既に城下にも噂が広がり始めており、まずはお伝えしようと参上した次第」
 善七郎は、あくまでも斯忠を「殿」と呼び、一介の忍びの長としての立場を崩さない。

「噂ってえのは、怖いもんだね」
 斯忠は肩をすくめてみせる一方で、和田昭為が家臣を使って故意に触れ回らせている可能性を考えずにはいられなかった。

 反徳川の論陣を張る急先鋒だった斯忠が問答無用で失脚して追放されたとなれば、当然ながら常陸における「上杉に味方して徳川を討つ」との声は小さくならざるを得ない。

 というよりも、家中の方針を声高に議論することさえ憚られるようになるだろう。

 その効果を狙っての追放であるのだから、むしろ噂を広めさせないほうがおかしいとも言える。

 善七郎は斯忠の考えに同意するように、無言で首肯する。
 口達者な斯忠と違い、善七郎必要な時以外は口を開かない。

 性分だけみればまるで似ていないのだが、善七郎の金壷眼とエラの張った顎の形だけは、斯忠に自分の弟だと信じさせる程度には似ている。

 丁寧に変装すれば、斯忠の影武者として十分に務まるだろう。

 だが今は、影武者としてではなく、忍びとしての風車衆の力を最大限に活かすべき時だった。

「お前さんが声をかけて、風車の中から牢人者風の男は何人集められる?」
 斯忠の問いは脈絡がないようにも思われたが、善七郎は問い質すことなくしばし考え込む。

「とにかく人を集めよとのご命令であれば、百でも二百でも。ただし、間者としての働きができて、かつ牢人者として通る者となれば、せいぜい三十程度になるかと」

 子供や老人、女が斯忠の求める人数として数えることは無理があった。

「ふむ……。それじゃあ、その三十人に声をかけてくれ。それ以外の者にも、常陸の中で仕掛けをやるから、手筈を整えたい。出来るか」

 斯忠は、「まだ本決まりじゃねえが、風車の力を使えば、なんとかなるような気がしてきたんでな」と前置きした上で、おぼろげな構想を善七郎に語って聞かせる。

「承知しました。ご命令があれば、すぐに動けるように伝えましょう」
 善七郎は表情を変えずに頷いた。

「頼む。あと、風車の全員を連れて行くわけにはいかねぇが、お香は会津入りさせるから、そのつもりでな」
 斯忠の言葉を受けて、善七郎がはじめて困惑した様子をみせる。

「連れて行きますか」

 お香は、善七郎と同郷の幼馴染でもある女忍びである。
 斯忠の元に善七郎が姿をみせてから遅れることおよそ五年、渥美の隠し里を出たお香は、押しかけ女房さながらに善七郎の元で風車衆の一員に収まっている。

 今では善七郎とは祝言こそ挙げていないが、夫婦同然の間柄となっている。

「当たりめぇだろ。上杉の殿さまに叩き出されでもしねぇ限り、会津で暮らしていくことになるんだからよ」
「それは、そうですが」

 善七郎が居心地が悪そうに腰をゆするのは、妻・百合を亡くした斯忠は独り身で会津に向かうからだろう。

 自分達だけが夫婦づれでは斯忠に申し訳ない、と考えるのが善七郎という男だった。

「ただの情けじゃねえぞ。お香がいれば、忍び働きにも幅が出るってもんだ」
 斯忠はそう付け加える。

 実際、伊賀忍びの正規の修行を積んだお香は、風車の中でも上位の使い手であった。

 善七郎は恐縮しながらも、最後は「では、そのように致します」と言い残して、音もなく部屋から姿を消した。

 一人残された斯忠は、大きくため息をついた。やるべきことが決まったとはいえ、眠れぬ夜になることは判っていた。
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