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(一)野良田の合戦
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永禄三年(一五六〇年)八月。
「百々隠岐守様、お討死!」
片膝をついた使番が、息を弾ませつつ短く告げる。戦場の喧騒も強い日差しも束の間途絶え、静寂が訪れたかと錯覚させるような空気が流れた。
「相判った」
野太い声が、周囲の者を現実に引き戻した。
その声の主、磯野善兵衛員昌は、馬上で一人、口をへの字に曲げている。
員昌にとって百々隠岐守は、彼が隠岐守を称する前に内蔵助と名乗っていたころからの顔なじみである。
同年代の僚将の死が悲しくない筈がない。
隠岐守の嫡男はまだ元服したばかりの筈。百々の家はこれから立ち行くだろうか。様々な思いが員昌の胸によぎる。
(なぜ、軍評定で定めたとおりに待てなんだ)
胸中で呻き、員昌は確信する。
この戦さ、やはり簡単には行きそうもない。
守護・京極氏の被官の身でありながら、実質的な北近江半国の主として成り上がった浅井備前守亮政は、紛れもなく一代の英傑であった。
しかし、天文十一年(一五四二年)に病没した亮政の跡を継いだ浅井下野守久政の代においては、浅井家は南近江を支配する六角家の勢いに押され、実質的に従属を余儀なくされていた。
不甲斐ない状況に飽き足らぬ家臣たちは、久政を事実上の隠居に追い込み、若き新当主・浅井新九郎賢政を担ぎ出し、巻き返しを計った。
六角方の思惑で、賢政は六角氏の重臣である平井定武の娘との婚姻を強いられていたが、これを離縁して六角に送り返していた。
浅井家におけるこの振る舞いは、六角に対する事実上の宣戦布告であった。
六角家は米稲の収穫が終わる時期を待ちかね、八月中旬に兵を挙げ、浅井領内へと侵攻してきたのだ。軍勢の総数は二万五千と称された。
六角の軍勢を迎え撃つ合戦に際し、戦評定の場は意見が割れ、荒れた。
割れた意見とは、浅井家三代に渡って普請を続けてきた堅固な山城である小谷城に籠城するか、それとも討って出るか、ではない。
賢政も居並ぶ家臣たちも、最初から籠城するつもりなどなく、野戦で雌雄を決するのは望むところであった。
それは、両勢が対峙したのが、宇曽川を挟んでの対峙であったことからも伺える。
宇曽川は長らく浅井と六角で奪い合ってきた境目の城である佐和山城よりさらに南、観音寺城のわずか一里半ほど北東を流れている。
位置関係だけでいえば、浅井領内に六角勢が攻め込んできたというよりも、浅井勢が六角家の居城の喉元に刃を突き付けたかのような状況である。
軍評定における議論は、宇曽川を先に渡るべきか、渡河する六角勢を迎え撃つか、その一点に集約された。
浅井の勢力圏内の中でも、佐和山城の番将である百々隠岐守をはじめとして、犬上郡や坂田郡の南部に所領を有する将は、六角の陣が備えを盤石なものにする前に先手を取って攻め掛かるべき、と主張した。
それに対して、赤尾清綱ら、先々代・浅井亮政以来の老臣たちは、当方が寡勢である以上、六角が渡河してくるところを叩くべきと訴えた。
六角勢二万五千に対し、浅井勢が動員できたのは一万一千ほどにすぎない。
「それでは、六角が宇曽川までを勢力とすることを認めるようなものでござる」
百々隠岐守は声を荒げた。佐和山城の間近まで六角が迫るような事態を、座視できないのは立場上当然であった。
賢政にとっても初陣であり、消極策は取りたくない。
しかし一方で、「六角とて長滞陣は望んでおらず、こちらが待つほどもなく攻めてくるであろうから、それならば渡河中を叩くのが兵理にかなう」との慎重派の意見に賛意を示す者も少なくなかった。
結局、隠岐守らの積極策は退けられる形となった。やはり、兵数の差は如何ともしがたい。
しかし、いざ戦端が開かれ、読み通り六角勢が押し出してくるのを目の当たりにするや、員昌と丁野若狭守と並んで浅井の先鋒を任された百々隠岐守は、充分に敵の先手を引き付けるのを待ちきれず、手勢を率いて飛び出してしまった。
員昌の見る限り、間合いの外れた突撃は六角の先手を突き崩すことができず、却って敵の乗ずるところとなった。
命令に背いてでも加勢に向かうことも考えたが、ここで下手に兵を動かして敵の勢いに飲まれてしまえば、合戦そのものを失いかねない。
そして、なんとか立て直して退いて欲しいとの員昌の願いも空しく、隠岐守の討死の報せを聞くことになってしまったのだ。
だが。
(このままでは終われぬ)
員昌に、感傷に浸る暇などなかった。
今はまだ、数に勝る六角家を相手取った合戦の真っ最中なのだ。
だから、員昌は悔やみの言葉を口にする間も惜しみ、静かな動揺が広がる己の家臣たちに向けて一喝を入れる。
「戦さはこれからじゃ。敵手は勢い込んで前がかりで渡河してこよう。今度は我らが敵の出鼻をくじいてくれよう」
吼える員昌に、彼が率いる手勢、およそ八百名が気合を入れなおす。
此度の戦さにあたり、員昌は在所である宮沢の地から、ほぼ限界と言える兵数をかきあつめている。負けられない戦いであるのは、賢政一人の話ではない。
待つほどの間もなく、百々勢を撃破した六角の先鋒が宇曽川を推し渡ってくる姿が見えた。
百々勢が突出したために空いた穴ではなく、新たな獲物を求めるかのように、進路を磯野勢の陣に捻じ曲げて前進してくる。
「弓衆は、儂の合図があるまで射るでないぞ」
気色ばむ味方にくぎを刺して、員昌は眉庇の下から眼前に迫る六角勢の動きに目を凝らす。
戦さとは、畢竟、機をつかむことである。
員昌はそう心得ている。
あたかも空の上から眺めるかのように、頭の中に絵図を描き、敵味方の位置を把握して間合いを計り、機を見計らった進退を指図できるかどうか。
これはもう、天賦の才の有無にかかっているとしか言いようがない。
経験を積めば、あるいはその特異な感覚を後天的に身に着けることも可能であるかもしれない。
だが、実地で学ぶなどという余裕が、兵を率いて命を懸けて戦う武将に、そうそう与えられるものではない。
もって生まれた資質に頼るほかはないのだ。
渡河を半ば終えて距離を詰めた六角勢が、磯野勢の弓衆の射程に入る。
しかし、員昌は弓を射かける命令を出さない。
「兄者!」
磯野弾正弼員春が傍らで上ずった声をあげた。
正確には員春は、員昌にとっては父・磯野員宗の弟である磯野員清の子、つまり従弟にあたり、実弟ではない。
しかし物心ついた頃から員昌と共に過ごしてきた員春は、何度員昌が改めさせようとしても「兄者」と呼ぶことをやめず、今では員昌も諦めている。
「焦るな。まだじゃ」
前を見据えたまま、員昌は短く応じる。
鍾馗髭をたくわえ、見かけだけは豪傑然とした員春だが、武者働きよりもむしろ内政に向いた資質を員昌は評価している。
そのあたりは叔父・員清に似ている、と員昌は思っている。
本当のところ、員昌は彼を合戦場に連れてきたくはなかったのだが、浅井家の命運がかかった大戦さとなれば一人でも手勢は多いほうがよい。
それに、副将としての補佐には期待を寄せている。
自らの鎗働きだけが武将の価値を決めるものではない。もっとも、員春にはその道理は理解しがたいものであるようだが。
頭上から降り注ぐ弓矢をかき分けて敵陣に切り込む心づもりだった六角勢の先手衆が、一瞬の逡巡をみせて勢いを鈍らせた。
沈黙を保つ磯野勢の陣を前にして、このまま斬りこんでよいものか、あまりに調子よく間合いを詰めることができたため、疑心にとらわれたのだ。
員昌はその機を逃さなかった。
「射かけよっ!」
員昌の大音声を受け、弓衆が一斉に矢を放った。
低い軌道を描いて射込まれた矢は、わずかなためらいをみせて棒立ちになっていた六角勢の足軽どもを的確に射抜いていた。
勢いが完全に弱まる。
「かかれぇ!」
員昌は右手にもった十文字鑓を馬上から掲げて号令を下す。
父・員宗が遺した十文字鑓には、鍛冶師の諧謔か、なにか深い意味があるのか「無銘」と銘が彫り込まれている。
言わば形見の品であるが、員宗は員昌が元服する前に亡くなっており、由来は員昌にも判らない。
馬腹を蹴って飛び出した員昌を追い、騎馬武者が宇曽川へと踏み込む。手鑓を携えた足軽どもも喚声をあげて続く。
馬蹄が水しぶきを跳ね飛ばす。短い距離から繰り出された力強い突撃に、たちまち六角勢の先手が崩れたつ。
六角勢は勢い込んで前進していただけに、急速に崩れた先手の動きを、後続はすぐには把握しきれない。混乱が広がる。
その動きを見て取ったのか、浅井方の先手である丁野勢も前進して一撃を加え、深追いせず素早く退く。
員昌も、丁野勢の援護を受ける形で自陣のある川岸まで戻る。
浮足立って後退した六角勢は、浅井勢にあしらわれたことを怒るかのように、体制を立て直す間も惜しんで再度押し寄せる。
しかしその後も、磯野勢は丁野勢と連携して手堅く敵を押しとどめる。
両勢の指揮下には、主を討たれた百々勢が仇討ちとばかりに加わって必死の武者働きを見せている。
二度、三度と渡河が押し返された六角勢は、後方から押し出す兵が渋滞し、次第に陣形が前掛かりになっていく。
そこに、川上から渡河した浅井勢の別動隊が、南側の高台の林を目隠しに大きく迂回し、六角勢の本陣を衝いた。
六角勢は脇備えを前線に兵を進めてしまっており、知らぬ間に側面が手薄になっていた。
冷静に状況を判断すれば、浅井の新手である別動隊が小勢であることはすぐに見て取れた筈である。
しかし、奇襲を受けて動揺した六角義賢は、早々に本陣を後方に下げる判断を下してしまった。
数を頼みにひと揉みで崩せると高をくくっていた分、思いがけない浅井勢の粘り腰に怯んだ形になった。
「この機を逃すなっ! 総がかりじゃ!」
本陣の賢政が勝負どころとみて獅子吼した。
初陣でありながら。賢政の戦況を見極める目は、六角義賢を上回っていた。
「御大将が前に出られるぞ! 押せや、押せぇ!」
員昌も負けじと叫びあげ、十文字鑓「無銘」の黒塗りの柄を握る手にも力がこもる。
のちに「野良田の戦い」と呼ばれるこの合戦の勝利により、浅井家は北近江の支配者としての地位を確かなものとする。
そして、既に事実上の隠居に追い込まれていた浅井久政に代わり、浅井賢政こそ浅井家の当主である、と内外に強く印象付けることとなった。
員昌にとっても、まずは会心の戦さと言ってよかった。
なお、討ち死にした佐和山城主・百々隠岐守の後は、かつての父と同じく「内蔵助」を名乗っていた嫡男が継いだ。その際、隠岐守の受領名を引き継ぎ、佐和山城を守ることも認められている。
「百々隠岐守様、お討死!」
片膝をついた使番が、息を弾ませつつ短く告げる。戦場の喧騒も強い日差しも束の間途絶え、静寂が訪れたかと錯覚させるような空気が流れた。
「相判った」
野太い声が、周囲の者を現実に引き戻した。
その声の主、磯野善兵衛員昌は、馬上で一人、口をへの字に曲げている。
員昌にとって百々隠岐守は、彼が隠岐守を称する前に内蔵助と名乗っていたころからの顔なじみである。
同年代の僚将の死が悲しくない筈がない。
隠岐守の嫡男はまだ元服したばかりの筈。百々の家はこれから立ち行くだろうか。様々な思いが員昌の胸によぎる。
(なぜ、軍評定で定めたとおりに待てなんだ)
胸中で呻き、員昌は確信する。
この戦さ、やはり簡単には行きそうもない。
守護・京極氏の被官の身でありながら、実質的な北近江半国の主として成り上がった浅井備前守亮政は、紛れもなく一代の英傑であった。
しかし、天文十一年(一五四二年)に病没した亮政の跡を継いだ浅井下野守久政の代においては、浅井家は南近江を支配する六角家の勢いに押され、実質的に従属を余儀なくされていた。
不甲斐ない状況に飽き足らぬ家臣たちは、久政を事実上の隠居に追い込み、若き新当主・浅井新九郎賢政を担ぎ出し、巻き返しを計った。
六角方の思惑で、賢政は六角氏の重臣である平井定武の娘との婚姻を強いられていたが、これを離縁して六角に送り返していた。
浅井家におけるこの振る舞いは、六角に対する事実上の宣戦布告であった。
六角家は米稲の収穫が終わる時期を待ちかね、八月中旬に兵を挙げ、浅井領内へと侵攻してきたのだ。軍勢の総数は二万五千と称された。
六角の軍勢を迎え撃つ合戦に際し、戦評定の場は意見が割れ、荒れた。
割れた意見とは、浅井家三代に渡って普請を続けてきた堅固な山城である小谷城に籠城するか、それとも討って出るか、ではない。
賢政も居並ぶ家臣たちも、最初から籠城するつもりなどなく、野戦で雌雄を決するのは望むところであった。
それは、両勢が対峙したのが、宇曽川を挟んでの対峙であったことからも伺える。
宇曽川は長らく浅井と六角で奪い合ってきた境目の城である佐和山城よりさらに南、観音寺城のわずか一里半ほど北東を流れている。
位置関係だけでいえば、浅井領内に六角勢が攻め込んできたというよりも、浅井勢が六角家の居城の喉元に刃を突き付けたかのような状況である。
軍評定における議論は、宇曽川を先に渡るべきか、渡河する六角勢を迎え撃つか、その一点に集約された。
浅井の勢力圏内の中でも、佐和山城の番将である百々隠岐守をはじめとして、犬上郡や坂田郡の南部に所領を有する将は、六角の陣が備えを盤石なものにする前に先手を取って攻め掛かるべき、と主張した。
それに対して、赤尾清綱ら、先々代・浅井亮政以来の老臣たちは、当方が寡勢である以上、六角が渡河してくるところを叩くべきと訴えた。
六角勢二万五千に対し、浅井勢が動員できたのは一万一千ほどにすぎない。
「それでは、六角が宇曽川までを勢力とすることを認めるようなものでござる」
百々隠岐守は声を荒げた。佐和山城の間近まで六角が迫るような事態を、座視できないのは立場上当然であった。
賢政にとっても初陣であり、消極策は取りたくない。
しかし一方で、「六角とて長滞陣は望んでおらず、こちらが待つほどもなく攻めてくるであろうから、それならば渡河中を叩くのが兵理にかなう」との慎重派の意見に賛意を示す者も少なくなかった。
結局、隠岐守らの積極策は退けられる形となった。やはり、兵数の差は如何ともしがたい。
しかし、いざ戦端が開かれ、読み通り六角勢が押し出してくるのを目の当たりにするや、員昌と丁野若狭守と並んで浅井の先鋒を任された百々隠岐守は、充分に敵の先手を引き付けるのを待ちきれず、手勢を率いて飛び出してしまった。
員昌の見る限り、間合いの外れた突撃は六角の先手を突き崩すことができず、却って敵の乗ずるところとなった。
命令に背いてでも加勢に向かうことも考えたが、ここで下手に兵を動かして敵の勢いに飲まれてしまえば、合戦そのものを失いかねない。
そして、なんとか立て直して退いて欲しいとの員昌の願いも空しく、隠岐守の討死の報せを聞くことになってしまったのだ。
だが。
(このままでは終われぬ)
員昌に、感傷に浸る暇などなかった。
今はまだ、数に勝る六角家を相手取った合戦の真っ最中なのだ。
だから、員昌は悔やみの言葉を口にする間も惜しみ、静かな動揺が広がる己の家臣たちに向けて一喝を入れる。
「戦さはこれからじゃ。敵手は勢い込んで前がかりで渡河してこよう。今度は我らが敵の出鼻をくじいてくれよう」
吼える員昌に、彼が率いる手勢、およそ八百名が気合を入れなおす。
此度の戦さにあたり、員昌は在所である宮沢の地から、ほぼ限界と言える兵数をかきあつめている。負けられない戦いであるのは、賢政一人の話ではない。
待つほどの間もなく、百々勢を撃破した六角の先鋒が宇曽川を推し渡ってくる姿が見えた。
百々勢が突出したために空いた穴ではなく、新たな獲物を求めるかのように、進路を磯野勢の陣に捻じ曲げて前進してくる。
「弓衆は、儂の合図があるまで射るでないぞ」
気色ばむ味方にくぎを刺して、員昌は眉庇の下から眼前に迫る六角勢の動きに目を凝らす。
戦さとは、畢竟、機をつかむことである。
員昌はそう心得ている。
あたかも空の上から眺めるかのように、頭の中に絵図を描き、敵味方の位置を把握して間合いを計り、機を見計らった進退を指図できるかどうか。
これはもう、天賦の才の有無にかかっているとしか言いようがない。
経験を積めば、あるいはその特異な感覚を後天的に身に着けることも可能であるかもしれない。
だが、実地で学ぶなどという余裕が、兵を率いて命を懸けて戦う武将に、そうそう与えられるものではない。
もって生まれた資質に頼るほかはないのだ。
渡河を半ば終えて距離を詰めた六角勢が、磯野勢の弓衆の射程に入る。
しかし、員昌は弓を射かける命令を出さない。
「兄者!」
磯野弾正弼員春が傍らで上ずった声をあげた。
正確には員春は、員昌にとっては父・磯野員宗の弟である磯野員清の子、つまり従弟にあたり、実弟ではない。
しかし物心ついた頃から員昌と共に過ごしてきた員春は、何度員昌が改めさせようとしても「兄者」と呼ぶことをやめず、今では員昌も諦めている。
「焦るな。まだじゃ」
前を見据えたまま、員昌は短く応じる。
鍾馗髭をたくわえ、見かけだけは豪傑然とした員春だが、武者働きよりもむしろ内政に向いた資質を員昌は評価している。
そのあたりは叔父・員清に似ている、と員昌は思っている。
本当のところ、員昌は彼を合戦場に連れてきたくはなかったのだが、浅井家の命運がかかった大戦さとなれば一人でも手勢は多いほうがよい。
それに、副将としての補佐には期待を寄せている。
自らの鎗働きだけが武将の価値を決めるものではない。もっとも、員春にはその道理は理解しがたいものであるようだが。
頭上から降り注ぐ弓矢をかき分けて敵陣に切り込む心づもりだった六角勢の先手衆が、一瞬の逡巡をみせて勢いを鈍らせた。
沈黙を保つ磯野勢の陣を前にして、このまま斬りこんでよいものか、あまりに調子よく間合いを詰めることができたため、疑心にとらわれたのだ。
員昌はその機を逃さなかった。
「射かけよっ!」
員昌の大音声を受け、弓衆が一斉に矢を放った。
低い軌道を描いて射込まれた矢は、わずかなためらいをみせて棒立ちになっていた六角勢の足軽どもを的確に射抜いていた。
勢いが完全に弱まる。
「かかれぇ!」
員昌は右手にもった十文字鑓を馬上から掲げて号令を下す。
父・員宗が遺した十文字鑓には、鍛冶師の諧謔か、なにか深い意味があるのか「無銘」と銘が彫り込まれている。
言わば形見の品であるが、員宗は員昌が元服する前に亡くなっており、由来は員昌にも判らない。
馬腹を蹴って飛び出した員昌を追い、騎馬武者が宇曽川へと踏み込む。手鑓を携えた足軽どもも喚声をあげて続く。
馬蹄が水しぶきを跳ね飛ばす。短い距離から繰り出された力強い突撃に、たちまち六角勢の先手が崩れたつ。
六角勢は勢い込んで前進していただけに、急速に崩れた先手の動きを、後続はすぐには把握しきれない。混乱が広がる。
その動きを見て取ったのか、浅井方の先手である丁野勢も前進して一撃を加え、深追いせず素早く退く。
員昌も、丁野勢の援護を受ける形で自陣のある川岸まで戻る。
浮足立って後退した六角勢は、浅井勢にあしらわれたことを怒るかのように、体制を立て直す間も惜しんで再度押し寄せる。
しかしその後も、磯野勢は丁野勢と連携して手堅く敵を押しとどめる。
両勢の指揮下には、主を討たれた百々勢が仇討ちとばかりに加わって必死の武者働きを見せている。
二度、三度と渡河が押し返された六角勢は、後方から押し出す兵が渋滞し、次第に陣形が前掛かりになっていく。
そこに、川上から渡河した浅井勢の別動隊が、南側の高台の林を目隠しに大きく迂回し、六角勢の本陣を衝いた。
六角勢は脇備えを前線に兵を進めてしまっており、知らぬ間に側面が手薄になっていた。
冷静に状況を判断すれば、浅井の新手である別動隊が小勢であることはすぐに見て取れた筈である。
しかし、奇襲を受けて動揺した六角義賢は、早々に本陣を後方に下げる判断を下してしまった。
数を頼みにひと揉みで崩せると高をくくっていた分、思いがけない浅井勢の粘り腰に怯んだ形になった。
「この機を逃すなっ! 総がかりじゃ!」
本陣の賢政が勝負どころとみて獅子吼した。
初陣でありながら。賢政の戦況を見極める目は、六角義賢を上回っていた。
「御大将が前に出られるぞ! 押せや、押せぇ!」
員昌も負けじと叫びあげ、十文字鑓「無銘」の黒塗りの柄を握る手にも力がこもる。
のちに「野良田の戦い」と呼ばれるこの合戦の勝利により、浅井家は北近江の支配者としての地位を確かなものとする。
そして、既に事実上の隠居に追い込まれていた浅井久政に代わり、浅井賢政こそ浅井家の当主である、と内外に強く印象付けることとなった。
員昌にとっても、まずは会心の戦さと言ってよかった。
なお、討ち死にした佐和山城主・百々隠岐守の後は、かつての父と同じく「内蔵助」を名乗っていた嫡男が継いだ。その際、隠岐守の受領名を引き継ぎ、佐和山城を守ることも認められている。
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