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(三十)逝く者、残る者
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寺での望まぬ滞在が数日続いた後、則頼主従の元に、秀吉からの使者がやってきた。
本来であれば部屋に招きあげて口上を聞くべきところであるが、則頼の退潮を考慮して、大膳が宿坊の外に出て応対する。
どうやら本堂に場所を移したらしく、声はすぐに聞こえなくなった。
その後、随分と時が過ぎてから、ようやく使者との話を終えた大膳が宿坊の則頼の部屋に戻ってくる。
「えらく話し込んでおったようじゃな」
則頼はどうにか身体を起こして問うた。
「申し訳ござりませぬ。世の中の動きから隔離されているような暮らしでありましたからな、目下の情勢を聞き出そうとしており申した」
そう応える大膳は、言葉ほど申し訳なさを感じている様子もない。
「なるほど。して、使者は帰ったのか」
「それが、書状を読んだ殿の返答を聞いて戻るよう申し渡されているらしいそうで」
「左様か。待ってもらうにしても、この宿坊には控えの間などないでのう」
「はっ。それゆえ、寺の本堂で時を過ごしてもらうよう、申し伝えた次第にござる」
神妙な表情をした大膳は使者から受け取った書状を差し出し、言葉を継ぐ。
「殿下に黙って陣を抜けたこと、知られてしもうたようですな。御叱りのお言葉が記されておるのでしょうかな」
「はてさて、そうでないことを願いたいものじゃが」
則頼は拝むようにして書状を受け取り、すぐに目を通す。
「これはまた、なんというか」
しばらく後、書状を読み終えた則頼は小さく息を吐いてから、そう呟いた。
則頼がふと顔を上げると、大膳が身を乗り出すようにして言葉を待っている。
「何が書かれておったか、気になるか」
「それは無論のこと」
大膳は素直に首肯した。
「ならば、構わぬ。そなたも読んでみよ」
片頬に笑みを刻んだ則頼は、ためらいなく大膳に書状を渡した。
恐縮しながら書状を受け取った大膳が読み始めるや、普段のしかめ面が一層ひどくなる。
書状は、体の調子が悪いことを伝えれてくれば、自分の手元には医者もいたのに至らぬことである、と病を隠していた則頼を責める文言から始まっていた。
他にも、茶の湯と夜咄をしてはならぬだの、不養生で死んだら家名は断絶であるだの、厳しい言葉が並んでいる。
「随分と手厳しいことですな」
途中まで読んだところで、大膳は助けを求めるように則頼の顔を伺った。
大膳ならずとも、悲観的にならざるを得ない。
しかし、則頼は薄く笑って続きを促す。
「それは早計というものじゃ。全体をよう読みなおせ」
一見すると単なる叱責であるが、よくよく読めば医者二名を向かわせる故、早く養生して全快させよ、と続けてあった。
「叱責はされておるが、労いの言葉もある。とりあえず、信を失った訳ではなさそうじゃ」
宿坊の部屋の壁に視線をさまよわせ、則頼はため息を漏らした。
たかだか一万石の領主に対する書状としては過分な内容だ、というのが則頼の率直な思いである。
なぜ、関白にまで登りつめた秀吉がこれだけの行為を示してくれるのか、則頼にも本当のところは判らない。
秀吉にとり、「面白き坊主」とはそれほどまでに価値があるものなのか。
「それならばありがたいことですな。時に、先ほどの使者殿は、殿下が軍監の尾藤様の判断のまずさに激怒されており、追放処分になるのではないかと話しておりました」
書状を則頼に返した大膳が、周りを見回す様なそぶりをしてから声を潜めて告げた。
周囲を警戒するのは当然である。
寺の住職は快く宿坊を貸してくれたが、小僧なり寺男なり、誰が聞き耳を立てているか知れたものではないからだ。
「左様か。思えば先年の緒戦では仙石殿が功に逸ったために追放。尾藤殿は攻めるべきところで二の足を踏み、戦の後に追放か。いずれも厳しいものじゃな」
そう応じながら、秀吉からの書状の内容に大膳が神経をとがらせていた理由も則頼には判った。
懈怠を理由に則頼にも追放か、それに準じた処分が下されるのではないかと恐れていたのだ。
「関白殿下は尾張や美濃の頃を知る古強者に殊のほか厳しい、と使者殿は申しておりました。やはり、付き合いが長いと慣れや甘えが出て、働きも鈍くなるとお考えなのでしょうか」
「さて、どうかな」
むしろ、秀吉の若い頃を知る者を煩わしく思っている可能性もあるかも知れない。
わが身に置き換えれば、身の程をわきまえなければならないという結論になる。
しかし、これまでのやりとりを思い返す限り、こちらが分相応にと考えていても秀吉のほうが則頼を放っておかないのが実状だ。
(それで逆鱗に触れるなどと言われても困るわ)
則頼は手元の書状に目を落としながら、ぼんやりとそんなことを思った。
「して、使者殿への返答はいかがなされますか」
「ここで遠慮しても致し方あるまい。ご厚意に甘えて、医者をお送りいただきたいと伝えよ」
「御意」
大膳は急いで腰を上げて本堂へと向かっていった。
この日を境に、則頼の容体は快方に向かう。
秀吉が派遣してきた医師の手を煩わせることもなく本復し、無事に大坂の有馬屋敷に帰還できたのは、七月の半ば頃になってからだった。
天正十五年(一五八七年)九月。
秀吉が関白にふさわしい居所として、九州征伐に先だつ天正十四年(一五八六年)二月から建設に取り掛からせていた聚楽第が、およそ一年半かけて完成した。
則頼は聚楽第の外郭のすぐ外側、千本中通と立売通が交差する西外門の脇、北側に細川家の屋敷がある場所に屋敷を拝領して居を移すことになった。
この年の十月一日、北野天満宮境内における大茶会が催された。
大茶会は聚楽第の造営とあわせ、前田玄以らによって準備が整えられていた。
開催に先だっては、洛中のみならず奈良や堺などに高札を立て、七か条からなる事前の沙汰書が掲げられたことで知られる。
曰く、「秀吉が所持する茶道具を公開する」
「茶の湯に執心している者であれば、身分の上下、人種を問わず、茶道具一つを持参すること。その際、茶のない者は代用品である焦しでも構わない」
「日本全国、数寄心がけのある者は唐国からでも参加できるよう、開催期間を十日間とする」
などとあり、なかでも則頼の目を引いたのは、「こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を行ってはならない」との条文であった。
ここまで言われては、則頼としては参加しない訳には行かない。
もっとも、言われなくても参加するつもりではあったが。
当日、開催に先立って秀吉が千利休と津田宗及を伴って神前にて茶会成就を祈願し、大茶会がはじまった。
神社の拝殿中央には、秀吉自慢の黄金の茶室が組み立てられ、まばゆいばかりの光を放っている。
その左右には秀吉が所蔵する名物茶器がずらりと並べられて飾られた。
茶会においては秀吉自身に加え、千利休、津田宗及、今井宗久の四名が茶頭役を務める。そのために四つの四畳半の茶席が設えられていた。
もちろん、それぞれの茶室で用いられるのも、すべて秀吉が所有している名物である。
松原に並んだ茶席の囲いは少なくとも八百席は下らないとされた。
近衛前久・龍山父子をはじめとする公家衆や、大名家やのみならず、茶の心得のある小身の武士も多くが参加し、その数は一千名を超える規模となった。
午前中は茶頭として茶を振る舞っていた秀吉自身も、午後からは茶席を離れて境内の茶室を巡り歩いていた。
「殿は若き頃より茶の湯に親しまれておりましたが、此度は茶頭とやらにはお成りにならぬのでございますか」
則頼の供をして所在なげにしていた吉田大膳が、例によってむっつりとした顔で問うた。
茶の湯にほとんど興味を示さない大膳なりに、己の主が晴れ舞台に立てないことを悔しがっているのである。
今ここにいる則頼は、八百以上ある茶席のうち、たった一つの亭主に過ぎない。
「判っておらぬのう。当代随一の茶数寄が打ち揃っておるのじゃ。儂などに声は掛からぬわ」
ため息をついて、則頼は首を横に振る。
「そのようなものでございますか」
「そういうものじゃ。儂とて、茶人として殿下にお仕えしておるつもりはない」
本音を言えば、この大茶会の趣向にしても、則頼にも思うところはある。
しかし、秀吉が選んだ茶頭役の顔触れをみれば、ここで出しゃばるような真似が出来るはずもない。
「まあ、十日間も続くのじゃ。そのうち、なにかお声掛かりがあるやも知れぬ」
なお納得していない様子の大膳に向け、則頼は自分でもさほど信じていない慰めを口にしてその場をおさめた。
しかし、則頼の読みに反し、十日間を予定されていた筈の茶会は、わずか一日限りで終了してしまった。
二日目以降は開かれることはなく、茶器は早々に片づけられ、茶席も早々に取り壊されてしまった。
単に天下人の気まぐれによるものとも、九州肥後で一揆が起きたとの報せが届き、九州平定を喧伝して茶会を開いた面目が失われて機嫌を損ねたとも、その理由を巡っては、様々な憶測が噂されることになった。
秀吉の天下にわずかな陰りが生じた瞬間はこの時ではなかったか、と後に則頼は振り返ることになる。
天正十六年(一五八八年)。
この年、則頼の正室・振がこの世を去った。
則氏亡き後、長松寺で読経に明け暮れる尼同然の暮らしを送っていた彼女の死は、則頼にとっては悲しさの一方、ようやく息子の元に行けたであろうことに、どこか安堵する気持ちがあった。
則頼は久しぶりに淡河城に戻り、自ら喪主として葬儀を取り仕切った。
振の亡骸は長松寺に葬られ、梅窓院と諡号された。
有馬家の菩提寺として建立した天正寺ではなく、尼となった則氏の未亡人がいる長松寺への埋葬は、当人の希望であった。
(思えば、あれも別所の実家を失い、気の毒な女ではあった)
晩年は必ずしも円満とは言えなかったにしろ、その原因は主に則頼にある。
則頼は一度たりとも皐姫への思慕の念を振に漏らしたことなどないが、なんらかの形で勘付かれていたのではないかと思われてならない。
それが、最後まで心を通じ合わせきれなかった遠因ではないかと則頼は思うのだが、今となっては真実を確かめようもない。
もっとしてやれることはなかったか、と則頼は自らを省みて悔やむばかりである。
さらに追い討ちをかけるように、聚楽第の有馬屋敷に戻った則頼の元に悲しい報せが続く。
葛屋の福助が、先代・豊助の死を報じたのだ。
取り紛れて、豊助と会う機会を作れないままだった事が悔やまれた。
「豊助とは、若き頃から長い付き合いであった。本当に世話になった」
書院に福助を迎えて対座した則頼は、豊助の面影を脳裏に思い起こしながら嘆息する。
思い返せば、清州の会合で豊助と顔を合わせた際、随分と痩せたことに驚いたものだが、あれから既に六年が経っている。
良く生きたと誉めねばならないのかもしれない、と則頼は思った。
「とは申せ、やはり惜しい。あと少しばかり生きておれば、関白殿下の手で天下が一統される日もみられたものを」
豊助から受けた恩を、己の立身という形で返せなかったことが、何よりも則頼には無念だった。
「いえ。我が父は、有馬様が天下を制する大器である太閤殿下にお仕えし、我等に天下を見せていただいたことに感謝しておりました。満足して逝ったものと思うております」
生真面目な性分を隠せない福助は、商人らしからぬ訥々とした口ぶりで応じた。
「そうであるならばなによりじゃ。葛屋には助けてもらわねばならぬことはまだまだ多い。これからもよろしく頼むぞ」
則頼の言葉に、福助は深々と頭を下げた。
本来であれば部屋に招きあげて口上を聞くべきところであるが、則頼の退潮を考慮して、大膳が宿坊の外に出て応対する。
どうやら本堂に場所を移したらしく、声はすぐに聞こえなくなった。
その後、随分と時が過ぎてから、ようやく使者との話を終えた大膳が宿坊の則頼の部屋に戻ってくる。
「えらく話し込んでおったようじゃな」
則頼はどうにか身体を起こして問うた。
「申し訳ござりませぬ。世の中の動きから隔離されているような暮らしでありましたからな、目下の情勢を聞き出そうとしており申した」
そう応える大膳は、言葉ほど申し訳なさを感じている様子もない。
「なるほど。して、使者は帰ったのか」
「それが、書状を読んだ殿の返答を聞いて戻るよう申し渡されているらしいそうで」
「左様か。待ってもらうにしても、この宿坊には控えの間などないでのう」
「はっ。それゆえ、寺の本堂で時を過ごしてもらうよう、申し伝えた次第にござる」
神妙な表情をした大膳は使者から受け取った書状を差し出し、言葉を継ぐ。
「殿下に黙って陣を抜けたこと、知られてしもうたようですな。御叱りのお言葉が記されておるのでしょうかな」
「はてさて、そうでないことを願いたいものじゃが」
則頼は拝むようにして書状を受け取り、すぐに目を通す。
「これはまた、なんというか」
しばらく後、書状を読み終えた則頼は小さく息を吐いてから、そう呟いた。
則頼がふと顔を上げると、大膳が身を乗り出すようにして言葉を待っている。
「何が書かれておったか、気になるか」
「それは無論のこと」
大膳は素直に首肯した。
「ならば、構わぬ。そなたも読んでみよ」
片頬に笑みを刻んだ則頼は、ためらいなく大膳に書状を渡した。
恐縮しながら書状を受け取った大膳が読み始めるや、普段のしかめ面が一層ひどくなる。
書状は、体の調子が悪いことを伝えれてくれば、自分の手元には医者もいたのに至らぬことである、と病を隠していた則頼を責める文言から始まっていた。
他にも、茶の湯と夜咄をしてはならぬだの、不養生で死んだら家名は断絶であるだの、厳しい言葉が並んでいる。
「随分と手厳しいことですな」
途中まで読んだところで、大膳は助けを求めるように則頼の顔を伺った。
大膳ならずとも、悲観的にならざるを得ない。
しかし、則頼は薄く笑って続きを促す。
「それは早計というものじゃ。全体をよう読みなおせ」
一見すると単なる叱責であるが、よくよく読めば医者二名を向かわせる故、早く養生して全快させよ、と続けてあった。
「叱責はされておるが、労いの言葉もある。とりあえず、信を失った訳ではなさそうじゃ」
宿坊の部屋の壁に視線をさまよわせ、則頼はため息を漏らした。
たかだか一万石の領主に対する書状としては過分な内容だ、というのが則頼の率直な思いである。
なぜ、関白にまで登りつめた秀吉がこれだけの行為を示してくれるのか、則頼にも本当のところは判らない。
秀吉にとり、「面白き坊主」とはそれほどまでに価値があるものなのか。
「それならばありがたいことですな。時に、先ほどの使者殿は、殿下が軍監の尾藤様の判断のまずさに激怒されており、追放処分になるのではないかと話しておりました」
書状を則頼に返した大膳が、周りを見回す様なそぶりをしてから声を潜めて告げた。
周囲を警戒するのは当然である。
寺の住職は快く宿坊を貸してくれたが、小僧なり寺男なり、誰が聞き耳を立てているか知れたものではないからだ。
「左様か。思えば先年の緒戦では仙石殿が功に逸ったために追放。尾藤殿は攻めるべきところで二の足を踏み、戦の後に追放か。いずれも厳しいものじゃな」
そう応じながら、秀吉からの書状の内容に大膳が神経をとがらせていた理由も則頼には判った。
懈怠を理由に則頼にも追放か、それに準じた処分が下されるのではないかと恐れていたのだ。
「関白殿下は尾張や美濃の頃を知る古強者に殊のほか厳しい、と使者殿は申しておりました。やはり、付き合いが長いと慣れや甘えが出て、働きも鈍くなるとお考えなのでしょうか」
「さて、どうかな」
むしろ、秀吉の若い頃を知る者を煩わしく思っている可能性もあるかも知れない。
わが身に置き換えれば、身の程をわきまえなければならないという結論になる。
しかし、これまでのやりとりを思い返す限り、こちらが分相応にと考えていても秀吉のほうが則頼を放っておかないのが実状だ。
(それで逆鱗に触れるなどと言われても困るわ)
則頼は手元の書状に目を落としながら、ぼんやりとそんなことを思った。
「して、使者殿への返答はいかがなされますか」
「ここで遠慮しても致し方あるまい。ご厚意に甘えて、医者をお送りいただきたいと伝えよ」
「御意」
大膳は急いで腰を上げて本堂へと向かっていった。
この日を境に、則頼の容体は快方に向かう。
秀吉が派遣してきた医師の手を煩わせることもなく本復し、無事に大坂の有馬屋敷に帰還できたのは、七月の半ば頃になってからだった。
天正十五年(一五八七年)九月。
秀吉が関白にふさわしい居所として、九州征伐に先だつ天正十四年(一五八六年)二月から建設に取り掛からせていた聚楽第が、およそ一年半かけて完成した。
則頼は聚楽第の外郭のすぐ外側、千本中通と立売通が交差する西外門の脇、北側に細川家の屋敷がある場所に屋敷を拝領して居を移すことになった。
この年の十月一日、北野天満宮境内における大茶会が催された。
大茶会は聚楽第の造営とあわせ、前田玄以らによって準備が整えられていた。
開催に先だっては、洛中のみならず奈良や堺などに高札を立て、七か条からなる事前の沙汰書が掲げられたことで知られる。
曰く、「秀吉が所持する茶道具を公開する」
「茶の湯に執心している者であれば、身分の上下、人種を問わず、茶道具一つを持参すること。その際、茶のない者は代用品である焦しでも構わない」
「日本全国、数寄心がけのある者は唐国からでも参加できるよう、開催期間を十日間とする」
などとあり、なかでも則頼の目を引いたのは、「こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を行ってはならない」との条文であった。
ここまで言われては、則頼としては参加しない訳には行かない。
もっとも、言われなくても参加するつもりではあったが。
当日、開催に先立って秀吉が千利休と津田宗及を伴って神前にて茶会成就を祈願し、大茶会がはじまった。
神社の拝殿中央には、秀吉自慢の黄金の茶室が組み立てられ、まばゆいばかりの光を放っている。
その左右には秀吉が所蔵する名物茶器がずらりと並べられて飾られた。
茶会においては秀吉自身に加え、千利休、津田宗及、今井宗久の四名が茶頭役を務める。そのために四つの四畳半の茶席が設えられていた。
もちろん、それぞれの茶室で用いられるのも、すべて秀吉が所有している名物である。
松原に並んだ茶席の囲いは少なくとも八百席は下らないとされた。
近衛前久・龍山父子をはじめとする公家衆や、大名家やのみならず、茶の心得のある小身の武士も多くが参加し、その数は一千名を超える規模となった。
午前中は茶頭として茶を振る舞っていた秀吉自身も、午後からは茶席を離れて境内の茶室を巡り歩いていた。
「殿は若き頃より茶の湯に親しまれておりましたが、此度は茶頭とやらにはお成りにならぬのでございますか」
則頼の供をして所在なげにしていた吉田大膳が、例によってむっつりとした顔で問うた。
茶の湯にほとんど興味を示さない大膳なりに、己の主が晴れ舞台に立てないことを悔しがっているのである。
今ここにいる則頼は、八百以上ある茶席のうち、たった一つの亭主に過ぎない。
「判っておらぬのう。当代随一の茶数寄が打ち揃っておるのじゃ。儂などに声は掛からぬわ」
ため息をついて、則頼は首を横に振る。
「そのようなものでございますか」
「そういうものじゃ。儂とて、茶人として殿下にお仕えしておるつもりはない」
本音を言えば、この大茶会の趣向にしても、則頼にも思うところはある。
しかし、秀吉が選んだ茶頭役の顔触れをみれば、ここで出しゃばるような真似が出来るはずもない。
「まあ、十日間も続くのじゃ。そのうち、なにかお声掛かりがあるやも知れぬ」
なお納得していない様子の大膳に向け、則頼は自分でもさほど信じていない慰めを口にしてその場をおさめた。
しかし、則頼の読みに反し、十日間を予定されていた筈の茶会は、わずか一日限りで終了してしまった。
二日目以降は開かれることはなく、茶器は早々に片づけられ、茶席も早々に取り壊されてしまった。
単に天下人の気まぐれによるものとも、九州肥後で一揆が起きたとの報せが届き、九州平定を喧伝して茶会を開いた面目が失われて機嫌を損ねたとも、その理由を巡っては、様々な憶測が噂されることになった。
秀吉の天下にわずかな陰りが生じた瞬間はこの時ではなかったか、と後に則頼は振り返ることになる。
天正十六年(一五八八年)。
この年、則頼の正室・振がこの世を去った。
則氏亡き後、長松寺で読経に明け暮れる尼同然の暮らしを送っていた彼女の死は、則頼にとっては悲しさの一方、ようやく息子の元に行けたであろうことに、どこか安堵する気持ちがあった。
則頼は久しぶりに淡河城に戻り、自ら喪主として葬儀を取り仕切った。
振の亡骸は長松寺に葬られ、梅窓院と諡号された。
有馬家の菩提寺として建立した天正寺ではなく、尼となった則氏の未亡人がいる長松寺への埋葬は、当人の希望であった。
(思えば、あれも別所の実家を失い、気の毒な女ではあった)
晩年は必ずしも円満とは言えなかったにしろ、その原因は主に則頼にある。
則頼は一度たりとも皐姫への思慕の念を振に漏らしたことなどないが、なんらかの形で勘付かれていたのではないかと思われてならない。
それが、最後まで心を通じ合わせきれなかった遠因ではないかと則頼は思うのだが、今となっては真実を確かめようもない。
もっとしてやれることはなかったか、と則頼は自らを省みて悔やむばかりである。
さらに追い討ちをかけるように、聚楽第の有馬屋敷に戻った則頼の元に悲しい報せが続く。
葛屋の福助が、先代・豊助の死を報じたのだ。
取り紛れて、豊助と会う機会を作れないままだった事が悔やまれた。
「豊助とは、若き頃から長い付き合いであった。本当に世話になった」
書院に福助を迎えて対座した則頼は、豊助の面影を脳裏に思い起こしながら嘆息する。
思い返せば、清州の会合で豊助と顔を合わせた際、随分と痩せたことに驚いたものだが、あれから既に六年が経っている。
良く生きたと誉めねばならないのかもしれない、と則頼は思った。
「とは申せ、やはり惜しい。あと少しばかり生きておれば、関白殿下の手で天下が一統される日もみられたものを」
豊助から受けた恩を、己の立身という形で返せなかったことが、何よりも則頼には無念だった。
「いえ。我が父は、有馬様が天下を制する大器である太閤殿下にお仕えし、我等に天下を見せていただいたことに感謝しておりました。満足して逝ったものと思うております」
生真面目な性分を隠せない福助は、商人らしからぬ訥々とした口ぶりで応じた。
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