淡き河、流るるままに

糸冬

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(二十一)

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 次郎は内心で焦りを覚えていた。
 既に、鑓を突き入れて手傷を負わせるなり落馬させるなりした宇喜多の騎馬武者は十名を超える。
 しかし、ただの一度も、父の教えどおりの「目を守る者の喉、喉を守る者の目」を貫いた一撃はなかった。
(騎乗しての鑓捌きを鍛錬しなかった訳ではないが、これほどまでに揺れるとは)
 日々の鍛錬で行っていたのは、鞍にまたがることを想定した足を固定した状態での片手突きである。
 実際に馬を走らせ、その鞍上で稽古ができる環境ではなかったのは事実であるが、経験不足は言い訳でしかない。
 銭波は賢い馬であり、次郎のつたない手綱さばきにもよく応えてくれている。
 しかし、ここぞというところで行き脚が鈍ったり、手綱を引いても思ったところで止まれなかったりと、人馬一体には程遠い。
 次郎が繰り出す一撃は、もっぱら敵の武者の肩や面頬、眉庇や吹返などを突いてばかりいる。
 ただ、甲冑で槍の穂先を弾き、手傷を負わなかったとしても、重い衝撃を受けた相手はただではすまない。
 体勢を崩して転ぶか、衝撃で意識がもうろうとなり、戦える状態ではなくなる。
 そこを見逃さず、綿貫や瀬川ら、別所一党以外の陣借衆の手によってたちまち首級をあげられていく。
 次郎は一撃で勝負を決められない不甲斐なさに注意が向くばかりで、首級のことまで意識が向かない。
 加えて、宇喜多の武者の幾人かから名乗りを聞かされたが、集中しているせいかそれとも緊張のせいか、誰の名前も記憶に留め置くことが出来ないでいた。
 まさか、生きるか死ぬかの切所で、相手の名乗りを聞きなおす非礼な真似もできない。そのことが、首級を手柄にしなければならないとの思いを希薄にする。
 次郎がそのような態度であるため、別所一党以外の陣借衆がこぞって次郎の指揮下に加わり、倒した敵武者の兜首を持っていくのを黙認する形になっていた。

 不意に、次郎の背後から声が聞こえた。
「ようやった。そなたはしばし気息を整えよ。これよりは儂が直率いたす」
 振り返った次郎は眼を見開く。
 赤松外記率いる黒母衣衆に守られた源兵衛がすぐ後ろに迫っていた。
「殿っ、承服しがたいことではございましょうが、御身大事にござります。これ以上、前に出るのはお控えくだされ」
 次郎は慌てて源兵衛の馬と轡を並べる。
「気持ちは嬉しいがな、そうも言うておられぬようになった。伯耆守様が直々に、別所家の陣借衆も首級をあげて本陣まで持ってこないようでは、福島家での召し抱えは叶わぬと仰せになったのじゃ」
 源兵衛は、物見に出たらしい正之が二度に渡って源兵衛と話を交わした経緯を説明する。
 よくよくみれば、眉間に縦皺を刻む源兵衛の表情には明らかに焦りの色が伺えた。
「そのようなことが」
「我が身ぐらいは自分で守れる。外記もおるでな。その方こそ働き詰めではないか。そろそろ下がるがよかろう」
 語気も荒くそう言い残して、源兵衛は黒母衣衆とともに前に出る。
(これは、とんだ失態だ。手柄にこだわっておくべきであった)
 味方に指示を下し、敵を追い込んで己の鑓で仕留めることだけに気持ちが向きすぎていた。
 なかなか会心の突きをお見舞いできないもどかしさもあって、なすべきことを見失っていたと気づく。
「若。殿のお許しも得たことですし、一息入れてもよろしかろう頃合いかと存じまする」
 呆然としている次郎の傍らに寄った鉄入斎が促してくる。
 見渡してみれば、次郎の組下の徒武者は、休まず走り回ってきたため、いずれも肩で息をしている有様である。
 銭波の息も荒く、その轡を取って走り回ってきた助七などはへたり込みそうになっている。
「やむを得ぬか」
 しかし、突然の指揮官の交代は、それまで次郎の采配の元で戦ってきた別所一党、並びにそれ以外の陣借衆を戸惑わせた。
 次郎がこの場で「これよりは殿の下知に従え」と命じれば、あるいは混乱を最小限にとどめられたかも知れない。
 しかし、下がれと命ぜられた立場で、差し出がましく源兵衛の家臣に指示を飛ばすことを次郎はためらってしまった。
 綻びそのものはわずかなものであったが、宇喜多勢の幾度目かの攻勢がかちあってしまったのが不運であった。
 うまく敵の突進を防げなかった陣借衆がたちまち浮足立つ。
「このっ」
 赤松外記が、強引に宇喜多勢の騎馬武者に鑓を合わせにいったところ、強引に放った突きを躱される。
 上体の姿勢を崩したところにさらに馬体をぶつけられ、赤松外記は馬から振り落とされた。
 地面にたたきつけられて身動きできないでいる赤松外記の頭上から、宇喜多の騎馬武者が手鑓を振りかざしている姿が次郎の視界に入った。
「いかぬっ」
 次郎が馳せ参じようとした矢先、源兵衛の声が戦場に響いた。
「外記を救えっ!」
 源兵衛の命令に従い、戸惑いを振り切った別所一党の徒武者がわっと宇喜多の騎馬武者に群がっていく。
「よし、押せ、押せ!」
 馬上の源兵衛の声は戦場に良く響いた。その声は敵の耳目も引き付けた。戦況をよく見極めようと、鞍上で背を伸ばす行人包に檜皮色の陣羽織姿の源兵衛は目立っていた。
 銃声。
 馬上の源兵衛が一瞬動きを止め、ぐらりと身体を後方に投げ出すようにして鞍上から転げ落ちる。
「殿ーっ」
 みれば、およそ半町ほど先に、筒先から白煙をあげる鉄砲を構えた宇喜多の兵が数名、徒武者に率いられて茂みの中にいるのが見えた。
 先ほど源兵衛が命を救われた赤松外記が、跳ねるように源兵衛のもとに馳せ参じる。
 その姿を横目に追いながら、次郎はこの戦さではじめて、敵に対する憎しみの感情を激発させた。
「おのれっ、許さぬ!」
 銭波の鞍から飛び降りた次郎は手鑓を腰だめにして、姿勢を低くして宇喜多の鉄砲足軽目掛けて走る。
 鉄砲足軽を率いていたと思しき徒武者が立ちはだかって刀の柄を頭の横まで持ち上げて構える。
 次郎の突きを刀で弾こうとする算段であったのだろう。しかし、駆け寄りざまに繰り出された槍捌きは、徒武者の読みより数段早い。
 刀身を振り下ろすより先に、穂先が徒武者の喉当てもろとも首筋を貫き、そして引き抜かれていた。
 身体を硬直させた徒武者が横倒しに倒れるのに見向きもせず、次郎は宇喜多の鉄砲足軽に襲い掛かる。
 誰の銃弾が源兵衛を倒したのかは判らない。全員を仕留めれば済むことだと次郎の煮えたぎった頭が攻撃をけしかける。
 一度は弾を込めて次郎を撃とうと試みた宇喜多の鉄砲足軽たちも、あまりにも早く指揮官である徒武者を倒され、一様に浮足立った。
 一人が次郎の鑓に眼球を突きつぶされて絶叫をあげると、残った者はたちまち鉄砲を投げ捨てて逃げにかかった。
 次郎はそのうちの一人の首筋を背後から突いて倒した。父・弾正定範の教えを違え、敵の目と喉以外を狙って突いたのはその時が初めてだった。
 全員を倒したかったが、ばらばらに逃げる鉄砲足軽を徒立ちのまま一人で追いかけるのは無理だった。
 徒武者と二人の鉄砲足軽を討ったことで、次郎の頭も急速に冷えていく。
「殿のところに戻らねば」
 うわごとのようにそう呟き、倒れ伏す宇喜多の徒武者と鉄砲足軽に向けて束の間片手拝みをすると、周囲への警戒を怠らずじりじりと後方に下がった。



 源兵衛の元には別所一党の武者数名が取り囲むように集まっていた。
 胸元には赤松外記が取りすがって号泣していた。既に源兵衛は虫の息となっていた。
「民部か。お主は強いのう。その点、儂はからきしじゃな」
 源兵衛が小さな声を絞り出すたびに、口から血の泡がこぼれた。
 南蛮胴の甲冑には目だった傷一つない。
 手綱を持つ左手の腋の下から、あたかも甲冑を躱すようにして入った銃弾が、心の臓に達していた。
 不運としか言いようがなかった。
 源兵衛が、震える手を次郎に向けて伸ばす。
「殿っ」
 手鑓を横に置き、片膝をついた次郎が源兵衛の手を取る。
「最期に、頼みがある」
 弱々しい力で次郎の手を握りながら、源兵衛はささやくような声を漏らす。
「なんなりと仰せられませ」
 もはや、口先の励ましなど無意味だとお互いに判っている。
 戦場の喧騒でかき消されそうな声を聞き逃すまいと、次郎は頭形兜をかぶったままの頭を傾け、耳を源兵衛の口元に近づけた。
「皆を、讃岐に、連れて帰ってやって欲しい」
 幸いというべきか、源兵衛の言葉はしっかりと次郎の耳に届いた。
「承知仕って候」
 避けられぬ死を目前にした主の頼みである。
 それ以外の返答はなかった。
 源兵衛は口の端をひくつかせた。
 笑って見せたつもりなのかもしれない。
 そして、握りしめた手の力が抜けて、源兵衛は静かに息を引き取った。
「殿っ」
 次郎の喉の奥から、これまでに発したことのない唸りが漏れた。
 しかし、いくら悲しかろうと、ここで地に伏せて嘆いている暇は、今はなかった。
 なにより、最前に交わしたばかりの約束がある。
 命を賭しても果たさなければならない源兵衛の頼みだ。
 次郎は、源兵衛の亡骸を、取りすがる赤松外記にあずけて立ち上がった。
「戦さはまだ終わっておらぬ。殿を、剣戟の及ばぬところまでお下げせよ」
 源兵衛の小者に向け、次郎は指示を出す。
「はっ」
 本来であれば次郎が命令できる筋合いではなかったが、動転して何をしてよいか判らぬ状態であった小者にとっては、むしろ救いの声であった。
 数名がかりで源兵衛の亡骸を引きずるようにして東へと下がっていく。
「助七。銭を後方に下げてくれ」
「殿、殿はいかがなされますので」
 面食らった調子で、所在なげにたたずむ銭波の轡を握る助七が効き返す。
「銭も助七も悪い訳ではないぞ。ただ、修練不足ゆえに馬にまたがっておっては思うように鑓が扱えぬ。これよりは、己らしく、地に足を着けて戦うまでよ」
 それ以上有無を言わせず、助七に銭波を曳かせて下がらせる。
 その様子を一瞥し、周囲を見渡してから次郎は息を胸いっぱいに吸い込み、口を開く。
「別所党よ、聞けい! これより、我が殿の遺命により、この淡河民部が皆を差配する! 我が声を殿の声と思うて一心に従うべし!」
 次郎の大音声が戦場に響く。
 一拍おいて、戸惑い気味ながら「おう」との声が周囲からあがった。
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