淡き河、流るるままに

糸冬

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 九月十四日。
 播磨国淡河城の北にある天正寺は、茶数寄として知られる有馬法印が建立に携わったこともあり、茶室が設えられていた。
 その茶室には、淡河長範と葛屋の主人である福助、二人の姿があった。
「九月一日を期して江戸を進発した徳川内府率いる軍勢およそ三万二千が、十一日には清須城へと到着した模様にござります」
 亭主の席に座る福助が、何気ない口ぶりで重大事を告げた。
 風流などとは縁遠い長範には、茶の湯の心得などさほど無い。
 ただし、主客の座に腰を据えた長範は、籠城の支度を整えた淡河城の外にでて福助と密談をするのに、茶の湯が格好の口実であることは認めざるを得なかった。
「葛屋の連雀は、美濃の出来事を三日後には播磨まで伝えられるのか」
 長範自身は、京より東に足を運んだことはなく、地理にはまったく不案内である。簡単な絵図を前に腕を組んで考え込む。
 既に、別所一党が長宗我部盛親の陣を抜けて徳川勢の元に走り、福島正則に陣借りを認められた一連の動きについて、長範は福助から教えられている。
「一度きりの急使ならば二日で届けることも不可能ではございませぬ。が、日々の報せとなれば、やはり三日は要しますな」
 福助が何事でもないと言わぬばかりの口ぶりで内実を明かす。
「いや、遅いと言っておる訳ではない。むしろ見事だと誉めておる。商家の諜報の網とは、かように素早く伝達できるものかと感服しておる」
「恐れ入りまする」
「それにしても、やはり息子と孫娘のことは気にかかろうな」
 思わず長範は、福助に向けて気遣いの言葉を口にした。
 葛屋は、世継たる幸助を、徳川家康に同陣している有馬法印のために送り出している。
 加えて孫娘の於寿までもが別所一党、正確には淡河民部の働きを助けるべく、遠く戦地に赴いている。
 福助は親族への情愛を隠すことなく、微苦笑を浮かべた。
「それはもう。とは申せ、特に孫娘については、羨ましくもありますな」
「羨ましい?」
 意外な言葉に、長範は片眉をあげた。
「亡き先代、豊助も申しておりましたが、我等の調者働きを通じて、これと見込んだ御方を世に送り出すのが、葛屋の人間にとって何よりの喜びにござります」
 播磨の一介の国衆に過ぎなかった有馬法印は、三木合戦において他の国衆のほとんどが別所長治に従って織田に叛旗を翻した後も、一貫して羽柴秀吉の味方でありつづけた。
 さしたる武功はなかったが、その後、豊臣の名を与えられた秀吉の御伽衆となり、秀吉の死後も徳川家康の元で時に幇間、すなわち太鼓持ちと陰口を叩かれながらも側近として天下国家に関わり続けている。
 もちろん、有馬法印自身の才覚あっての立ち回りではある。
 だが、有馬法印が常にただしく情勢を見極められるのは、葛屋が入手した情報を陰ながら提供を受けていることにも少なからず助けられている。
 葛屋福助の言葉にはその自負が伺えた。
「有馬法印は既に天下に関わる存在となった。新たにひとかどの人物を世に送り出したいと」
「少なくとも、於寿は淡河民部様を英傑になる御方と見込んでおるのでしょう」
 親子の間でどこまで話が通じているのかは長範にはうかがい知れないものがある。少なくとも、福助の口ぶりからは確信めいたものが感じられた。
「近々、美濃のいずれかにて、徳川内府と上方勢の間で大戦さとなるのであろうな。いや、もしかしたら既に戦さになっておるのやも知れぬ」
 そう呟いた長範は顔をあげ、西の方角に視線を向けた。
 もちろん、茶室の壁しか目には入らない。しかし、遥か先では十万を超える軍勢が、今にも激突しているのかも知れない。
 長範は、なんとも言葉にしがたい不思議な感覚にとらわれた。
「武士と生まれた以上、そのような大戦さ、一度は見てみたかったものじゃな」
 長範は、一つ息を吐いてから、そう呟いた。
 実のところ、主君である有馬法印の身の上は、さほど案じてはいない。
 何も長範が薄情だからではなく、厳重に守られているであろう家康の本陣と行動を共にしている筈であり、よほどのことがなければ危険が及ぶとは考えにくいからだ。
 やはり気にかかるのは別所一党、中でも淡河民部である。
「別所様、ならびに淡河様には是非とも手柄を立てて、福島様に召し抱えていただきたいものですな」
 福助がしみじみとした口ぶりで応じる。
 それが本心から肩入れしているからなのか、商人として実利を求めての言葉なのか、長範には判じかねた。
 あるいは福助自身にも判っていないのかもしれない。



 清須城にて二日掛けて隊伍を整えつつ戦況を見極めた家康は、十三日には岐阜城へと本陣を進めた。
 家康はその晩のうちに赤坂陣に一足先に軍勢の一部を送り出すと、十四日の夜明け前に岐阜城を発った。
 そして、赤坂南方の岡山の頂上に昼頃に着陣を果たした家康は、さっそく諸将を集めて軍議を開いている。
 もちろん、大名が顔を連ねるその場に、別所一党が末席に占めることなど許されない。
後から軍議の結果を聞かされるのを待つのみである。
「これから先、どうなるのかのう」
「大垣城を攻めることになるのではないでしょうか」
 次郎らは大局的な視点をもって戦場を眺めている訳ではない。
 ただ目の前にいる敵と戦うか、戦わないかしか見えていない。

 その後、軍議を終えて帰陣した福島正則は、組頭ら配下の家臣を集めて結果を告げる。
 これも次郎らが出席して直に聞くことはできず、陣借衆を預かる可児才蔵が代表する形となる。
 程なくして戻ってきた可児才蔵は、竹内久右衛門ら主だった家臣のほか、預かっている陣借衆を集める。
 今度は、源兵衛のみならず次郎も御供として参集を許された。
「大垣城は攻めぬそうじゃ」
 己の配下の物頭と陣借衆の主だった者を前に、才蔵はそう切り出した。
「大垣城の周囲には押さえを残したうえで本隊は中山道を西に進む。不破の関を抜いて近江に至り、石田治部の佐和山城を攻め下した後に、京を制し、さらには大坂へと向かうそうじゃ」
 どこからからかうような口ぶりで才蔵は告げる。
 異論の声などあがる筈もない。才蔵に文句を付けたところで何かが変わる訳もなく、陣借衆としては是も非もなく、来るべき戦さに備えるだけである。
「まことの話であろうか。主だった敵を放り出して大坂まで向かうとは、軍略に叶うておるのじゃろうか」
 自分達の陣所に戻った後、源兵衛が首をひねった。
「あるいは、大垣城から敵を誘い出す策なのでは。徳川内府様が敵に背を見せた隙を、石田治部も見逃しはしますまい」
 次郎が思いつくままに応じる。なにか確証があってのことではなく、漠然とそうなるのではないかと考えただけだ。
 だが、源兵衛は喜色を浮かべて膝を叩いた。
「なるほど。よう見た。内府様は城攻めより野戦さを得手とするとも聞く。大垣攻めに時を要したくないとなれば話は判るのう」
 さすがは淡河弾正の忘れ形見よ、などとやたらに源兵衛が褒めるので、次郎は照れながら謙遜する以外になかった。



 なお、次郎のあずかり知らぬところで、十四日のうちにもう一つ大きな動きが起きていた。
 石田三成の股肱の臣である嶋左近や蒲生頼郷、そして宇喜多秀家の重臣である明石全登らの手勢が杭瀬川を渡り、徳川勢の陣所近くに迫り、火を放ったのだ。
 家康着陣を知って動揺する上方勢の諸将を鎮める思惑を秘めた急襲であった。結果として、佐和山を衝くと大言壮語した家康の出鼻を挫く形となる。
 徳川方からは中村一栄が陣を出て迎撃にあたったが、戦さ上手の嶋勢の勢いを抑えきれない。
 一栄の家臣で武勇の士として知られた野一色頼母が討死するなど、中村勢は手痛い損害を被って敗走する。
 中村勢の危機を知り、有馬則頼の次男で遠江の横須賀にて別家を立てている有馬豊氏が加勢したが、旗色の悪さを覆すには至らない。
 思いがけずはじまった小競り合いを岡山の本陣から見下ろしていた家康は、やがて戦況に利あらずとみてとり、兵を退かせるよう己の配下に命じた。
 そのため、後に杭瀬川の戦いとよばれる前哨戦は、上方勢が勝利することになった。

 その夜、徳川勢が不破の関を抜けて近江へと向かう動きを掴んだ大垣城の石田三成が動いた。
 徳川勢の進路に先回りすべく関ヶ原へと向かう三成勢の後ろに、島津義弘勢、小西行長勢、そして宇喜多秀家勢が続く。
 その動きを察知した家康もまた、出陣を命じる。
 福島勢はその先陣を切り、上方勢の軍勢を追いかける形となった。
 刻限は丑の上刻(午前二時)ごろ。夜更けの出陣命令に、陣中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。
 実際には物慣れた者はうろたえてなどいないのだが、なにしろ人数が多いため、粗忽者はどこの陣にも紛れている。それは陣借者を多く抱えた可児才蔵の陣であっても例外ではなかった。
「いよいよだな」
 にわかにあわただしくなった空気の中にあって、源兵衛は眠たげな表情も取り乱した様子もみせず、泰然と笑みを見せて家臣たちにうなずきかける。
(さすがは我が殿)
 長宗我部勢に加わって城攻めに参加した戦さの経験が活きているのだと思えば、これまでの旅程も無駄ではなかった。内心、誇らしく思う次郎である。

 行軍のさなか、次郎らのあずかり知らぬところで、思いがけない事態が出来していた。
「前方に人馬の姿、これあり。荷駄勢と思われまする」
 露払いとして先行していた物見が駆け戻って馬上の福島正則に報告する。
「我等より前を行く御味方はおらぬ筈。しかも荷駄となれば、敵の後尾に触れたか」
 顔つきを険しくした正則の呟きに、周囲がざわめく。
「仕掛けますか」
 傍らで轡を並べる福島正之が尋ねる。本人がやる気というより、義父ならば喜び勇んで襲い掛かるものと思い、追従めいて口を添えたつもりだった。
 が、案に相違して正則は渋い表情を見せる。
「そう急くな」
 福島勢も行軍のため、長蛇の列を組んでおり、即座に戦端を開ける状態にはなかった。前もって夜討ちの準備もしておらず、陣形を整えないままの状態で攻め掛かったところで、下手をすれば同士討ちになる。
 そういった意味を込めて、正則は正之の言葉を退けた。
 正之は不満気な表情になったが、夜の暗がりの中にあって、正則に気づかれることはなかった。
 けっきょく、互いに交戦の意志を示さなかったため、福島勢の前方を行く荷駄はやがて闇の中に消えていった。

 彼らが宇喜多秀家勢の荷駄であったことが判明するのは後日のことである。
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