淡き河、流るるままに

糸冬

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(二)

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 東星寺の裏手の空地で、空気を切り裂く音が響いている。
 次郎が日課としている鑓の鍛錬の音である。
 的として地面に立てられた藁束は既に、芯棒もろとも原型をとどめぬほどにずたずたに突き崩されている。
 高木氏の軍役の求めを断ってから、数日が経っている。
 生駒親正の命を受けてにわかにかき集められた兵はおよそ一千。すでに親正の家臣に率いられて讃岐を上方勢として参陣すべく出立している。
 次郎の周りで何か具体的な変化があった訳ではなく、見た目の上では今までと変わらぬ日常が続いている。とりあえず、此度の戦さが終わるまではこのままだろう。
 しかし、いつまでも戦さが終われば何らかの沙汰が待っているだろうとの思いが、次郎の心を乱す。
(これではいかぬ。鍛錬の際は鍛錬に集中せねばならぬ。父上の教えを思い出せ)
 次郎は気息を整え、わずかに耳に残る父・淡河弾正定範の声を脳裏に呼び起こす。
「敵の目か喉、どちらか空いている側を狙って突け」
 それは、父から教わった、ほとんど唯一といって良い言葉だった。
 別所家が一度は随身していた織田家から離反して叛旗を翻した際、次郎は母と共に淡河城から別所家の居城である三木城に人質として送られていた。
 後に淡河城を攻められた際、淡河弾正は一度は織田勢を撃退したものの、守り切れぬと見て、己の城を焼いて三木城に徹兵してきた。そこで再会した次郎に向けて遺したのが、この教えだ。
「目と喉、どちらも守っているような相手はどうすれば良いのですか」
 幼い次郎は、そのように尋ねた記憶がある。
 対する定範はにこりともせず、「人間、二つの場所は同時に守れぬ。仮にどちらもかばっているような者には、相手を討つことは出来ぬゆえ、相手にするまでもない」と応じたのだ。
 以来、次郎は父の教えを出来るだけ守り、日々の鍛錬に打ち込んでいる。
 一日あたり、突きの回数は特に定めていない。寺男としての課業がある以上、鍛錬にばかり時を掛けていられる訳ではない。己が納得できる突きを放てれば終了である。
 しかしながら現実問題として、心底満足できる突きなど、ただの一度も繰り出せた試しはない。従って、腕が疲れ、精度が落ちるだけ落ちるまで繰り返すことになる。
 果たして、理想とする鑓裁きを身に着けることが出来る日が来るのか。
 あらためて一つ大きく息を吐き、次郎は再び藁束に向かって鑓を繰り出し始めた。

「若っ」
 次郎の背後から、野太い声が聞こえた。
 振り返ると、黒光りする禿頭を持つ遊行僧姿の男が、手にした薪木をふわりと次郎のほうに向かって投げあげた。
 身体を反転させた次郎は、落ちてくる薪木を目掛けて、槍の穂先を一瞬突き出す。
 カツーンと乾いた音が響き、空中の薪木は一瞬動きを止めたように見えた。
 しかしながら、その次の瞬間には何事もなかったかのように薪木は草むらに落ちた。
「相変わらずの神速の突き技。はや、父上を超えられましたな」
 遊行僧姿の男が、薪木を拾い上げてにこりと笑う。彼が手にした薪木の真ん中に、鑓のひと突きによって穴が穿たれていた。
「またそれか、鉄入斎。以前、父上なら薪が宙にある間に三回は突きを入れていたと申しておったではないか。まだまだその域には及ばぬよ」
 残心の構えを解いた次郎は苦笑して首を振る。
「なんの。弾正様の三回突きは、小指の先ほどの穴を穿つのみでしたからな。ここまで深く突き入れてなお、引き抜くことが出来るのは次郎様ならではの技にござる」
 遊行僧姿の男、宇野鉄入斎は悪びれる様子もなく言い放った。
 己の鑓の力量がどれほどなのか、次郎は知らない。
 人を相手に打ち合う経験は、爺こと宇野鉄入斎を相手にしたとき以外になかった。
 鉄入斎は元の名を宇野兵庫貞国といい、れっきとした武士である。かつての西播磨の雄・宇野氏の縁者であるという。
 父の右腕として働き、三木合戦において淡河城を攻められた際、牝馬を敵陣に放つ奇策で淡河弾正の名を世に知らしめた折には、織田勢を追撃した江見又四郎、椙原大膳頼長、高田範季と並ぶ淡河四天王の一人と呼ばれた、と自ら称している。
 ただし、次郎が爺と慕う鉄入斎であるが、付きっ切りで次郎の面倒を見ている訳ではない。
 日頃は諸国を巡っているらしく、たまに寄り付いては土産をくれたり世情を教えてくれたりするほか、稽古の相手を勤めてくれる。
 鑓捌きのみならず、太刀打ち、弓矢、乗馬から切腹の作法まで。武家がましい諸々を、亡き父に代わって教えてくれたのが、この鉄入斎だ。
「拙者は、御先代弾正様から、次郎様の行く末を見守るよう命ぜられておりますからな」
 というのが口癖だ。
 美作国英田郡の江見城の城主の次男として産まれた定範が、養子として淡河家に迎えられるにあたって、淡河家の使者を勤めたというから、既に相当な高齢である筈だ。
 流石に老いは隠せないのだが、身のこなしは次郎にも引けを取らない。
(というよりも、老人の鉄入斎を圧倒できないのでは、自分の腕前など大したことないのでは)
 と、常々次郎は思っている。
 次郎が幼少の頃は稽古においては、鉄入斎に全く歯が立たなかった。しかし、このところはまず不覚を取ることはなくなった。
 だが、己が強くなった実感はない。
(鉄入斎も、流石に老いたのであろう。でなければわたしの気を良くさせようと、手を抜いているに違いない)
 当の鉄入斎は、稽古のたびに「一段と強くなられた!」「この鑓裁き、最早父上を超えたやも知れませぬぞ!」などと景気の良い誉め言葉を連発するのだが、次郎は当然ながらまともに受け取ってはいない。
「それより、なにか報せがあるのではないか」
「おお、それがしとしたことが。若の妙技に目を奪われて本題を忘れるところでござった。此度は、客人をお連れしてござる」
「客とは」
「亡き別所長治公の忘れ形見、別所源兵衛長行様にござる」
「長治公の忘れ形見とな。して、いずれに落ち伸びた御方であろうか」
 次郎は首をひねりつつ、やや意地悪な問いかけをする。
 別所長治の遺児を称する者の存在については、今までも鉄入斎から数度に渡って聞いている。
 しかも、聞くたびに在所の異なる別人であった。
 近くは播磨国印南郡の福泊村、播磨国神東郡の田尻村、土佐国の赤岡浦、遠くは因幡国の鳥取城下、果ては伊賀上野や水戸にまで別所の遺児が逃れているというのだ。
 話も一様に、三木城落城前に別所長治の手がついた侍女が、落城後に落ち伸びた先で生み落とした子だという。
 もし、それらの話がすべて事実だとしたら、どれほど長治公は好色だったのかと次郎としては思わずにはいられない。
 あの閉塞した三木城の中にあっては、恐怖を紛らわせるためにも、血筋を残すためにもやむを得ないことであったのかも知れないが。
 しかし、逆に鉄入斎のほうが訝しむ顔つきになる。
「はて。源兵衛長行様と申せば通じるものと思うておりましたが、若はご存じでなかったか。香川郡の百相城の城主、宗鹿家の女婿である御方にござる」
「そのような御仁が同じ讃岐国におられたとは知らなんだ。どうも世事に疎くていかぬな」
「なんの。若が世に出るのはこれからにござる。ささ、どうぞお戻りくだされ」
 自虐を軽くいなした鉄入斎に促されるまま、次郎は帰路についた。
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