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第伍章 吹き溜まり
弐
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「なんだい、まよってるのかい?」
剣を構えて微動だにしない北川に、疾風は笑いながらそう言った。
北川はそれには答えずに、じっと疾風の顔を見ていた。
奇妙な違和感を覚えながら。
確かに、疾風が女であるとは、想像だにしなかった。疑う余地もなく父親だとばかり思っていた。北川も利吉も、美代の付いた嘘の中に完全にとらわれてしまっていた。しかし、今、北川が感じている違和感は、そんなものではない。
この顔……どっかで見覚えが……?
確かに美代に似ている。
しかし、たぶん北川の心に引っかかっている見覚えのあるその顔は美代ではない。
似ているのではなく、この顔そのものを見た事があるのだ。
いってぇ……どこで……。
「ふふふふ、北川様…お忘れかぇ?」
疾風は、北川の心の内を正確に読み切ってそう言った。花魁のごとき口調で。
そう、花魁の……。
北川は、思わず叫んだ。
「ま、まさかてめぇは!」
北川の心の内に、一人の女が像を結んでいる。
あの日、浅草の藤五郎の家からの帰りに出会った……。
こいつは……湊屋の後添いだ。
北川の脳裏に影を結んだその顔は、間違いなく疾風の顔だ。
「あれほど殺気を飛ばしてやったってのに、忘れられてるとはねぇ」
北川は、小さく舌打ちした。
「まぁ、表情を殺して心に残りにくいようには、していたんだけどねぇ」
確かにそうだった、あの時はまるで特徴のない女のように見えた。しかし、あの時のあの殺気、射るような冷たい殺気は、確かに今疾風が放っているのと同じ、嫌なにおいを孕んでいた。
まさか、この俺が、すでに疾風と会ってやがったとは……。
疾風があの時の後添いってんなら、俺と利吉親子が秋葉亭にいる事など、先刻承知で当たり前じゃねぇか。なんてぇへまをやったんだ。
北川は、自ら犯した大きな過ちを自ら弁護するように、苦し紛れに言った。
「しかし、湊屋には後添いの亡骸が……」
北川の脳裏に、湊屋で見た、その亡骸が頭に浮かぶ。顔をバッサリと真っ二つにされたあの亡骸。
「わかってるんだろ?あれは替玉さね」
すでに大方の予見はできていたとはいえ、あらためて聞けば身震いするような事実を、疾風は微笑みながら、こともなげに言った。
「ひでぇ野郎だ」
替え玉にされた不運な女の亡骸を思い出して、北川は絞り出すようにそう一言うめく。
「馬鹿だねぇ、あたしゃ女だよ」
疾風はそう言って、ケタケタと笑った。
そして、自慢げに語り始める。
「それがあたしの常套でね。引き込みってのが第一、店の者に化けてる。その店の者に化けてる引き込みに、わたし自身がまた化ける。どんなに鼻のきく捕り方でも、引き込みである事までは嗅ぎつけても、それが疾風自身だなんてところまで気付きはしないもんさね」
悔しい事に、まったく、疾風の言う通りだ。
北川は唇を噛み締めた。
実は殺された店主の妾が引き込みだった。
そんな事実が出てくれば、詮議はそこで止まる。その先に、もう一段階とんでもない真実が眠ってるなんて思いやしない。
妾に化けた仲間を引き込みに使う、そして用心のためにその引き込みごと始末する。これはよくある手だ。しかし、さらに、殺されて転がっているのが引き込みの替え玉で、あまつさえその引き込みそのものが疾風本人だなどと、だれが思うだろう。
そんな外道のやり口に、だれが思いを致すだろう。
知恵の回る奴め……そうか。
北川は、ずっと抱いてきた疑問に、答えが出たのを感じた。
お豊殺しの件である。
偽疾風の時、偽疾風に殺されなかった女中のお豊を、疾風も美代も、仲間であると勘違いした。疾風はその勘違いを元にしてお豊を殺め、美代はその殺しを予見した。北川が、美代と疾風の間の因縁を疑うきっかけになった出来事だ。
しかし、今、疾風の自慢げな話を聞いて合点がいった。
疾風も美代も、ただ単にお豊を一味と勘違いしただけじゃない。二人は、偽疾風の一味が、本家疾風の手口に近づきつつあると感じたのだ。引き込みを使っての押し込み、そして、結果的に生き残ったお豊。今はまだ、最後の決め手にまで辿り着いていなくても、このまま放置したらいつかは本家疾風の秘密に辿り着く。
疾風はそれを警戒して殺した。
そして美代は、そんな疾風の気持ちを読んだ。
なぜなら、美代は、疾風の本当の手口を知る唯一の人間だったから。疾風の本当の手口をもっとも間近で見てしまった娘なのだから。引き込みとして店に入った妾そのものが疾風だと知っている、唯一の人間なのだから。
「ふふふふ」
北川の思索を眺めながら、疾風が笑った。
「何がおかしい?」
北川は、疾風のにやけた顔をにらみ返す。
「あんたも、本当に間抜けな人だねぇ。顔の色から、考えている事が丸わかりじゃぁないかぃ」
そう言うと疾風は、左手に提げていた刀を左の肩に担ぐように持つと、自らの白い頬にぴたぴたと打ち付けながら、笑った。
北川は、負けじと凄む。
「なにがいいてぇ?」
「あんた、今、お豊殺しについて考えてたんだろ?そして、美代とあたしの思惑が合致した事に納得がいった……違うかい?」
北川は息をのんだ。
美代の力を初めて知った時、その時の数倍の驚きだった。
こりゃ……美代とは桁が違う……。
ほんの少しの表情のゆがみで、その心の内側を正確に射抜く。手がかりや足掛かりのいる美代のそれより、数段上だ。
「残念だけど違うよ。あたしはね、美代を試したんだよ」
「試した?」
北川は、馬鹿のように繰り返すしかできなかった。
それが精一杯だった。
「わたしがお豊を一味と勘違いするようなうかつな女に見えるかい?」
疾風は、北川を見下すようにそう言った。
「あの一件、私にとってたまたま都合がよかっただけさ」
疾風はそう言うとにやりと笑う。
「あれで、もし美代が気づいたら、美代はあの小さい頃の出来事を鮮明に覚えてるって事になるだろ?そしてその経験を元に正確な先読みが出来るってことさ。気づかなかったら、そんな使えない娘はいらない。でも気づいてくれたら、鍛え方次第じゃ、疾風の名を継ぐ資格があるってね」
そこまで言うと、担いでいた刀を北川の方に突き出した。
「これもみんなあんたのおかげさ、美代のところにお豊の一件を持ち込んで、なぞ解きをさせてくれるなんてね、本当に助かったよ」
「畜生が……」
誰に対してでもなくそうしぼりだし「くうう」と唸る北川。自らの犯したあやまちの大きさに気付いたところで、今更言い返す言葉もない。
すると疾風は、そんな北川に蔑むように一瞥をくれると、刀を突き出したまま、背後に立ち尽くす美代の方に振り返った。
後ろを向いていても、その刀がこちらを向いている以上、北川は斬りかかれない。こうして話をしながらも、互いに斬込む機会を伺って、その間合いの際でせめぎ合っているのだから。
「ねぇ、あんたはわたしにそっくりの、良くできた娘だよぉ」
疾風はそう言うと、優しく美代の髪を撫でた。
母親が娘にするように。
あきれるほど自然に。
「あんたなら、わたしより凄腕の疾風にだって…成れるんだよ」
美代は、やはり微動だにしない。
恐怖で固まってしまっているようだった。緋牡丹の晴れ着に身を包んで、ただ、立ち尽くしている。
「あたしらは、たった二人の親子なんだからねぇ。組めば、無敵さ」
北川は、言葉を失っていた。
何もかも疾風の言う通りに思えた。
この二人ほど似た親子がいるだろうか?美代が、疾風と同じ道を歩んだ時、自分はこの最強の盗賊を止められるのか?美代の生きる道は、そこにしか……ないのか?
「ふざけるんじゃねぇよ、おけい。いや、疾風!」
その時、暗闇の中から、息も絶え絶えな利吉の声が御堂に響いた。
どうやら、深手は負っていないらしい。
「ふざけるんじゃねぇ、美代は、俺の娘だ。蕎麦屋台仕合せ屋の娘なんだよ」
ふらつきながらもゆっくりと立ち上がり、疾風を睨みつけながらそう言う利吉を、疾風はニヤニヤと眺めている。
「盗賊なんかに、してたまるかよ」
力強い響きだった。
北川には、まったく動かなかった美代の表情が、ぴくりとだが少し動いたような気がした。
疾風は、相変わらず笑っている。
「おめぇに、美代はわたさねえ」
利吉は声の限りに叫んだ。その叫びは、折れかけていた北川の心にも、救いだった。
「わたしたりなんかしねぇ!」
利吉の声が、空気を震わせた。
父親という、迫力の固まりが、そこにあった。北川は、美代とは血の繋がらない利吉の中に、はっきりとその熱い固まりを見ていた。
「ふふふふ、正直だけが取り柄のあんたが、そんな事言うようになるとはねぇ」
疾風は、昔を懐かしむようにそう言った。しかしその顔は、声色とは対照的に苦々しく歪んでいる。
「美代は渡さないって?あんたがかい?あんたみたいに蕎麦打つしか能のない人間が、このあたしからどうやって取り返すんだい、血の繋がらない娘を」
その時北川は、ほんの少しだけ疾風の声から余裕の色が薄れているように感じていた。
なんでだかはわからないが、微かに、取り乱しているような……。
「命に代えても取り戻す、この俺の命に代えてもなぁ」
「出来るのかい?無駄に死ぬだけじゃないのかい?」
疾風は無表情でそう言い放つ。
しかし、利吉は一筋の動揺も隙も見せない。それどころか利吉は、胸を張って自信にみなぎる声で言った。
「俺は、死ぬだろうさ。でもな、疾風、俺が死ぬ気で美代を助けようとしたらな、優しい美代は、絶対にお前の言いなりにはなりゃしねぇよ」
北川には、目の前で疾風と対峙するその男が、あの蕎麦屋のおやじとはどうしても思えないような気がしていた。そこにいる人間は、明らかに北川より強い心で、疾風と戦っているのだから。しかし、そんな北川の驚きもよそに、利吉はさらに力強く続ける。
「俺を殺した女の言いなりになんか、美代は絶対にならねぇ。たとえ俺が死んでも、俺は、美代の心だけは、絶対にてめぇなんかには渡しゃしない!」
「だまりな!!」
利吉の剣幕に、とうとう疾風が叫んだ。
明らかに取り乱している、利吉の強靱な心に、その錬磨の心が折れそうになっている。
「ふざけた事ぬかしでないよ!あんたみたいな凡人の蕎麦屋に、あたしや美代の苦悩なんかわかりっこないんだ」
疾風はその手に握られた剣先を北川からそらし、利吉に向けた。
北川は一喝する。
「やめろ、疾風!」
疾風も、負けじと恫喝した。
「動くんじゃないよ、動けば、この親子ごとたたっ斬るからね!」
その言葉を聞いて、利吉は落ち着き払って言った。
「ほら見てみろ、疾風。それがおめぇの本音よ。おめぇは美代の事なんか考えちゃいない、邪魔になればいつでも殺せる。それが、そんなのが本当の親子かよ?」
なんだ……いったい……利吉のこの落ち着きは?
「おめぇは美代の親なんかじゃねぇ、美代は疾風の娘なんかじゃねぇ!」
あの疾風に、その切っ先を向けられてなお、この落ち着きは……なんなんだ?
「黙りな!いいかい、親子なんてのはね、こんなもんだよ。親子だから、血が繋がってるから慈しみあうもんだとでも言いたいのかい?互いに助け合うとでも言いたいのかい?馬鹿言うんじゃないよ、そんなの、地獄を見た事ない人間の世迷い言さ」
疾風はそう言って、美代の首に刀を当てた。
「確かにあたしは、美代の命でさえいつでも奪えるよ。でもね、あんた達だって、いつか美代が疎ましくなる。美代の、この力がね」
北川は、疾風の言っている事が理解できなかった。
美代の、あの天から授けられたとしか言いようのないあの力が……なぜ疎ましい?
そんなわけ、ねぇ。
「疾風、おめぇ、いったい何を言ってやがる。美代のな、美代のその力は何度となくこのわしを助けた。これからだって、この世の中のために役に立つ力だ。それを疎ましくなど……」
「う……うははははははは」
北川の言葉に、突如疾風は大声で笑い始めた。
「はははは……はぁ……はぁ。本当に馬鹿だね、あんた。たとえそれが素晴らしい力でも、過ぎたる力は疎ましいものさ。そんな事もわからないのかい」
そう言って疾風は、北川の方に身を乗り出すとさらに言った。
「良いだろう、あんたらには聞かせてやるよ、このあたしの生い立ちをね。この力を授かったばかりに、地獄を歩いたわたしの人生をねぇ!」
そして疾風は、北川に向き直り身体の前に刀を青眼に構えると、遠い目をして語り始めた。
その、重く苦しい人生の全てを。
冷たく悲しい風の、吹き始めた場所の話を。
語り始めた。
剣を構えて微動だにしない北川に、疾風は笑いながらそう言った。
北川はそれには答えずに、じっと疾風の顔を見ていた。
奇妙な違和感を覚えながら。
確かに、疾風が女であるとは、想像だにしなかった。疑う余地もなく父親だとばかり思っていた。北川も利吉も、美代の付いた嘘の中に完全にとらわれてしまっていた。しかし、今、北川が感じている違和感は、そんなものではない。
この顔……どっかで見覚えが……?
確かに美代に似ている。
しかし、たぶん北川の心に引っかかっている見覚えのあるその顔は美代ではない。
似ているのではなく、この顔そのものを見た事があるのだ。
いってぇ……どこで……。
「ふふふふ、北川様…お忘れかぇ?」
疾風は、北川の心の内を正確に読み切ってそう言った。花魁のごとき口調で。
そう、花魁の……。
北川は、思わず叫んだ。
「ま、まさかてめぇは!」
北川の心の内に、一人の女が像を結んでいる。
あの日、浅草の藤五郎の家からの帰りに出会った……。
こいつは……湊屋の後添いだ。
北川の脳裏に影を結んだその顔は、間違いなく疾風の顔だ。
「あれほど殺気を飛ばしてやったってのに、忘れられてるとはねぇ」
北川は、小さく舌打ちした。
「まぁ、表情を殺して心に残りにくいようには、していたんだけどねぇ」
確かにそうだった、あの時はまるで特徴のない女のように見えた。しかし、あの時のあの殺気、射るような冷たい殺気は、確かに今疾風が放っているのと同じ、嫌なにおいを孕んでいた。
まさか、この俺が、すでに疾風と会ってやがったとは……。
疾風があの時の後添いってんなら、俺と利吉親子が秋葉亭にいる事など、先刻承知で当たり前じゃねぇか。なんてぇへまをやったんだ。
北川は、自ら犯した大きな過ちを自ら弁護するように、苦し紛れに言った。
「しかし、湊屋には後添いの亡骸が……」
北川の脳裏に、湊屋で見た、その亡骸が頭に浮かぶ。顔をバッサリと真っ二つにされたあの亡骸。
「わかってるんだろ?あれは替玉さね」
すでに大方の予見はできていたとはいえ、あらためて聞けば身震いするような事実を、疾風は微笑みながら、こともなげに言った。
「ひでぇ野郎だ」
替え玉にされた不運な女の亡骸を思い出して、北川は絞り出すようにそう一言うめく。
「馬鹿だねぇ、あたしゃ女だよ」
疾風はそう言って、ケタケタと笑った。
そして、自慢げに語り始める。
「それがあたしの常套でね。引き込みってのが第一、店の者に化けてる。その店の者に化けてる引き込みに、わたし自身がまた化ける。どんなに鼻のきく捕り方でも、引き込みである事までは嗅ぎつけても、それが疾風自身だなんてところまで気付きはしないもんさね」
悔しい事に、まったく、疾風の言う通りだ。
北川は唇を噛み締めた。
実は殺された店主の妾が引き込みだった。
そんな事実が出てくれば、詮議はそこで止まる。その先に、もう一段階とんでもない真実が眠ってるなんて思いやしない。
妾に化けた仲間を引き込みに使う、そして用心のためにその引き込みごと始末する。これはよくある手だ。しかし、さらに、殺されて転がっているのが引き込みの替え玉で、あまつさえその引き込みそのものが疾風本人だなどと、だれが思うだろう。
そんな外道のやり口に、だれが思いを致すだろう。
知恵の回る奴め……そうか。
北川は、ずっと抱いてきた疑問に、答えが出たのを感じた。
お豊殺しの件である。
偽疾風の時、偽疾風に殺されなかった女中のお豊を、疾風も美代も、仲間であると勘違いした。疾風はその勘違いを元にしてお豊を殺め、美代はその殺しを予見した。北川が、美代と疾風の間の因縁を疑うきっかけになった出来事だ。
しかし、今、疾風の自慢げな話を聞いて合点がいった。
疾風も美代も、ただ単にお豊を一味と勘違いしただけじゃない。二人は、偽疾風の一味が、本家疾風の手口に近づきつつあると感じたのだ。引き込みを使っての押し込み、そして、結果的に生き残ったお豊。今はまだ、最後の決め手にまで辿り着いていなくても、このまま放置したらいつかは本家疾風の秘密に辿り着く。
疾風はそれを警戒して殺した。
そして美代は、そんな疾風の気持ちを読んだ。
なぜなら、美代は、疾風の本当の手口を知る唯一の人間だったから。疾風の本当の手口をもっとも間近で見てしまった娘なのだから。引き込みとして店に入った妾そのものが疾風だと知っている、唯一の人間なのだから。
「ふふふふ」
北川の思索を眺めながら、疾風が笑った。
「何がおかしい?」
北川は、疾風のにやけた顔をにらみ返す。
「あんたも、本当に間抜けな人だねぇ。顔の色から、考えている事が丸わかりじゃぁないかぃ」
そう言うと疾風は、左手に提げていた刀を左の肩に担ぐように持つと、自らの白い頬にぴたぴたと打ち付けながら、笑った。
北川は、負けじと凄む。
「なにがいいてぇ?」
「あんた、今、お豊殺しについて考えてたんだろ?そして、美代とあたしの思惑が合致した事に納得がいった……違うかい?」
北川は息をのんだ。
美代の力を初めて知った時、その時の数倍の驚きだった。
こりゃ……美代とは桁が違う……。
ほんの少しの表情のゆがみで、その心の内側を正確に射抜く。手がかりや足掛かりのいる美代のそれより、数段上だ。
「残念だけど違うよ。あたしはね、美代を試したんだよ」
「試した?」
北川は、馬鹿のように繰り返すしかできなかった。
それが精一杯だった。
「わたしがお豊を一味と勘違いするようなうかつな女に見えるかい?」
疾風は、北川を見下すようにそう言った。
「あの一件、私にとってたまたま都合がよかっただけさ」
疾風はそう言うとにやりと笑う。
「あれで、もし美代が気づいたら、美代はあの小さい頃の出来事を鮮明に覚えてるって事になるだろ?そしてその経験を元に正確な先読みが出来るってことさ。気づかなかったら、そんな使えない娘はいらない。でも気づいてくれたら、鍛え方次第じゃ、疾風の名を継ぐ資格があるってね」
そこまで言うと、担いでいた刀を北川の方に突き出した。
「これもみんなあんたのおかげさ、美代のところにお豊の一件を持ち込んで、なぞ解きをさせてくれるなんてね、本当に助かったよ」
「畜生が……」
誰に対してでもなくそうしぼりだし「くうう」と唸る北川。自らの犯したあやまちの大きさに気付いたところで、今更言い返す言葉もない。
すると疾風は、そんな北川に蔑むように一瞥をくれると、刀を突き出したまま、背後に立ち尽くす美代の方に振り返った。
後ろを向いていても、その刀がこちらを向いている以上、北川は斬りかかれない。こうして話をしながらも、互いに斬込む機会を伺って、その間合いの際でせめぎ合っているのだから。
「ねぇ、あんたはわたしにそっくりの、良くできた娘だよぉ」
疾風はそう言うと、優しく美代の髪を撫でた。
母親が娘にするように。
あきれるほど自然に。
「あんたなら、わたしより凄腕の疾風にだって…成れるんだよ」
美代は、やはり微動だにしない。
恐怖で固まってしまっているようだった。緋牡丹の晴れ着に身を包んで、ただ、立ち尽くしている。
「あたしらは、たった二人の親子なんだからねぇ。組めば、無敵さ」
北川は、言葉を失っていた。
何もかも疾風の言う通りに思えた。
この二人ほど似た親子がいるだろうか?美代が、疾風と同じ道を歩んだ時、自分はこの最強の盗賊を止められるのか?美代の生きる道は、そこにしか……ないのか?
「ふざけるんじゃねぇよ、おけい。いや、疾風!」
その時、暗闇の中から、息も絶え絶えな利吉の声が御堂に響いた。
どうやら、深手は負っていないらしい。
「ふざけるんじゃねぇ、美代は、俺の娘だ。蕎麦屋台仕合せ屋の娘なんだよ」
ふらつきながらもゆっくりと立ち上がり、疾風を睨みつけながらそう言う利吉を、疾風はニヤニヤと眺めている。
「盗賊なんかに、してたまるかよ」
力強い響きだった。
北川には、まったく動かなかった美代の表情が、ぴくりとだが少し動いたような気がした。
疾風は、相変わらず笑っている。
「おめぇに、美代はわたさねえ」
利吉は声の限りに叫んだ。その叫びは、折れかけていた北川の心にも、救いだった。
「わたしたりなんかしねぇ!」
利吉の声が、空気を震わせた。
父親という、迫力の固まりが、そこにあった。北川は、美代とは血の繋がらない利吉の中に、はっきりとその熱い固まりを見ていた。
「ふふふふ、正直だけが取り柄のあんたが、そんな事言うようになるとはねぇ」
疾風は、昔を懐かしむようにそう言った。しかしその顔は、声色とは対照的に苦々しく歪んでいる。
「美代は渡さないって?あんたがかい?あんたみたいに蕎麦打つしか能のない人間が、このあたしからどうやって取り返すんだい、血の繋がらない娘を」
その時北川は、ほんの少しだけ疾風の声から余裕の色が薄れているように感じていた。
なんでだかはわからないが、微かに、取り乱しているような……。
「命に代えても取り戻す、この俺の命に代えてもなぁ」
「出来るのかい?無駄に死ぬだけじゃないのかい?」
疾風は無表情でそう言い放つ。
しかし、利吉は一筋の動揺も隙も見せない。それどころか利吉は、胸を張って自信にみなぎる声で言った。
「俺は、死ぬだろうさ。でもな、疾風、俺が死ぬ気で美代を助けようとしたらな、優しい美代は、絶対にお前の言いなりにはなりゃしねぇよ」
北川には、目の前で疾風と対峙するその男が、あの蕎麦屋のおやじとはどうしても思えないような気がしていた。そこにいる人間は、明らかに北川より強い心で、疾風と戦っているのだから。しかし、そんな北川の驚きもよそに、利吉はさらに力強く続ける。
「俺を殺した女の言いなりになんか、美代は絶対にならねぇ。たとえ俺が死んでも、俺は、美代の心だけは、絶対にてめぇなんかには渡しゃしない!」
「だまりな!!」
利吉の剣幕に、とうとう疾風が叫んだ。
明らかに取り乱している、利吉の強靱な心に、その錬磨の心が折れそうになっている。
「ふざけた事ぬかしでないよ!あんたみたいな凡人の蕎麦屋に、あたしや美代の苦悩なんかわかりっこないんだ」
疾風はその手に握られた剣先を北川からそらし、利吉に向けた。
北川は一喝する。
「やめろ、疾風!」
疾風も、負けじと恫喝した。
「動くんじゃないよ、動けば、この親子ごとたたっ斬るからね!」
その言葉を聞いて、利吉は落ち着き払って言った。
「ほら見てみろ、疾風。それがおめぇの本音よ。おめぇは美代の事なんか考えちゃいない、邪魔になればいつでも殺せる。それが、そんなのが本当の親子かよ?」
なんだ……いったい……利吉のこの落ち着きは?
「おめぇは美代の親なんかじゃねぇ、美代は疾風の娘なんかじゃねぇ!」
あの疾風に、その切っ先を向けられてなお、この落ち着きは……なんなんだ?
「黙りな!いいかい、親子なんてのはね、こんなもんだよ。親子だから、血が繋がってるから慈しみあうもんだとでも言いたいのかい?互いに助け合うとでも言いたいのかい?馬鹿言うんじゃないよ、そんなの、地獄を見た事ない人間の世迷い言さ」
疾風はそう言って、美代の首に刀を当てた。
「確かにあたしは、美代の命でさえいつでも奪えるよ。でもね、あんた達だって、いつか美代が疎ましくなる。美代の、この力がね」
北川は、疾風の言っている事が理解できなかった。
美代の、あの天から授けられたとしか言いようのないあの力が……なぜ疎ましい?
そんなわけ、ねぇ。
「疾風、おめぇ、いったい何を言ってやがる。美代のな、美代のその力は何度となくこのわしを助けた。これからだって、この世の中のために役に立つ力だ。それを疎ましくなど……」
「う……うははははははは」
北川の言葉に、突如疾風は大声で笑い始めた。
「はははは……はぁ……はぁ。本当に馬鹿だね、あんた。たとえそれが素晴らしい力でも、過ぎたる力は疎ましいものさ。そんな事もわからないのかい」
そう言って疾風は、北川の方に身を乗り出すとさらに言った。
「良いだろう、あんたらには聞かせてやるよ、このあたしの生い立ちをね。この力を授かったばかりに、地獄を歩いたわたしの人生をねぇ!」
そして疾風は、北川に向き直り身体の前に刀を青眼に構えると、遠い目をして語り始めた。
その、重く苦しい人生の全てを。
冷たく悲しい風の、吹き始めた場所の話を。
語り始めた。
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新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
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