仕合せ屋捕物控

綿涙粉緒

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第肆章 風の行方

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 ……湊屋……。

 真っ先に駆けつけた店主の寝所で、北川は、顔なじみの……顔のない骸を見下ろしていた。

 お店大事を思い過ぎたばかりに妻と娘に愛想を尽かされた、思えば哀れな男であった。と、その無惨な亡骸に、北川は静かに手を合わせた。

「後添い……か」

 湊屋の骸の隣には、真っ赤に染まった夜着をはだけた女の骸が転がっている。

 頭の右斜め上から、反対側の肩口にむかってばっさりと一刀のもとに切り伏せられたその骸は、生きていた頃の美しい面影などどこにもなく、顔貌すら判別がつかない。

 むごい……な。

 割れた頭が付いているだけ、首から上のない湊屋の骸よりもなお、むごたらしく思える。

 何てぇ哀れな人生だ。

 あの日、ちらりと聞いた後添えの声には、花魁特有の訛りが確かにあった。

 何をどうして、何の因果で苦界に身を沈めて生きていたのかはしらねぇが……。

 せっかく千載一遇の好機をつかんで、豪商に身請けられて後添いにおさまろうかって矢先。これまで舐め尽くした苦界の水に別れを告げて、やっときれいな水でその身体を満たし始めたその矢先。

 押し込みにあって、顔から真っ二つでころがっちまうとは……。

 北川の脳裏に、かつて鬼と恐れられた今は亡き上役の男の言葉がよみがえる。

「いいか、正五郎。加役の仕事ってのには、人情は必要ねぇ。人情は眼を曇らせる、見えるものも見えなくなっちまうんだ。それでもどうしても、心に人情が湧きそうなときはな、事がすべて片づいたときに、酒と一緒に呑みこんじまうしかねぇのさ」

 ……わかってる、わかってます……しかし……。

「これは、あんまりにも、あんまりじゃねぇか」

 北川はこぶしを握りしめた。

 心に沸き立つ感情は、哀れみに満たされるとすぐに悲しみに色を変え、そして、最後に熱く焼けた怒りが残った。

 許せねぇ……いや、許さねぇ。

「なぁ、湊屋、おれはお前の事はちっとも好きではなかった、なかったが、な。かたきは、とるぜ」

 北川はそう言って、深く頭を垂れた。

 と、その時、後ろの障子が開き、一人の男が入ってきた。

「北川、ここにおったか」

 振り返ると、そこには北町奉行、榊原忠行さかきばらただゆきが神妙な面持ちで立っていた。

「ああ、榊原様でございますか」 

 北川は、相手が奉行にもかかわらず、軽く会釈だけをし、また、なぜこんな最前線に奉行がいるのかも怪しんでいないようだった。

「湊屋には、その、気の毒な事で」

「ああ、そうであるな。あの一件以来つきあいはないといえ……な」

 榊原はそう言って、湊屋の骸に手を合わせた。

 そう、かつて北川に湊屋のかどわかしの件を調べさせていたのは、この榊原だったのである。

 湊屋と縁談を結んでいた太田家とは昵懇の仲らしく、かねてより知らぬ仲であった北川に、内々に頼んでいたのだった。そんなわけで、北川には、奉行ほどの上役がこの最前線に出張ってきているのも、不思議だとは思わなかったのである。

「ええ、それがしも加役になって随分と経ちますが、知り合いが転がってる場所に踏み込むのは……初めてでございますよ」

 押し殺したような北川の声に、榊原は丁寧にわびを入れた。

「すまなかったな、よけいな事を頼んだばかりに……」

 榊原の言葉に、北川は軽く頭を横に振るだけで、言葉を発する事はなかった。

 短い沈黙、そして、榊原がやや遠慮気味に口を開いた。

「でな、北川。わしとしてはお主を疑うわけではないのだが、お主、今回の件、まったくあずかり知らぬところであるか?」

 この問いに、北川は睨むように榊原の顔をのぞき込んだ。

「なんですって?」

 北川の声が震えている。

「榊原様。いくら榊原様の言であったとしても、この北川、許せる事と許せぬ事がございますよ」

 しかし、榊原はそれでも落ち着いたままで続ける。榊原とて、一介の小役人に睨まれたくらいでがたつくような、ただの侍ではないのだ。

「何もお主に許しを請う事もその必要もない、ただわしは聞いておるだけだ、北川。もう一度聞くぞ、お主、今回の一件に関わりはないのであるな?」

「あるはずが……ない、でございましょう?確かにそれがしは、榊原様とは比べものにならぬほどの端役。しかしながら、加役のお役目を頂いているこの身で、なんで押し込みなどと関わりがありましょうや」

 怒りにうちふるえる声で、北川は抗弁する。

 いったい、なぜ自分がこんな所でこんな探りを入れられているのか、まったく見当も付かないままに。

「そうか、ならばこれを見てみぃ」

 北川の怒りなどよそに、榊原は懐から一枚の紙を取り出すと、北川に渡した。

「何ですか……これは?」

 北川はその紙切れを受け取ると、眉をひそめてつまみ上げた。

 半紙ほどの大きさのその紙が、血糊でべっとりと濡れていたからである。

「湊屋の首の下にあったのだ。見つかったときは油紙に包んであったのだがな、それでも血塗れて文字が判じづらい。ただ」

 ただ? いったい、なにが言いたい?

「それを書いたのが誰で、誰に書いたものかは、すぐにわかったのだよ」

 そう言うと榊原は、懐から火打ちを出して、カチリカチリと寝所に転がっていた灯明に火をともした。

「読んでみよ」

 北川は、ほんのりとともる灯明にその紙を照らし、ゆっくりと読んだ。

 そして、硬直した。

「こ……こりゃ。もしや……」

「そうよ、それは」

 暗闇の中で、榊原の瞳がぎらりと光る。

「疾風がお前に残したものよ」

 その紙切れには、達筆の手でこう書かれていた。


『北川正五郎殿

 月影に 隠れて紅葉を 狩りに出で   疾風』


「何なんだ……いったい」

 北川は、困惑していた。

 まったく何が何やらわからない。

 なんで疾風が自分のことを知っていたのか? この俳句の意味はいったい何なのか?

 それよりも、何よりも……。

 この押し込み自体……。

 俺にどういう関わりがあるというのだ!

「わしにはこの一件が、湊屋に押し込むことが目的ではなく、疾風のお主に対する挑発のように思えてならんのだが……いかに?」

 いかに……と言われても……。

 確かに北川にも、これが自分に対する当てつけのように思えて仕方がなかった。

 わざわざ湊屋に定めをつけているあたり、そして、まさに今日その日、湊屋の奢りで御馳走にあずかろうとしていたことも。ただもちろん、北川とて、すべての盗賊共の不倶戴天の敵である加役の一員で、しかもここのところ何かにつけ疾風に関わってきたのだから、なにがしかの遺恨を覚えられても不思議ではない。

 しかし、しかしだ、この相手は疾風なのだ。

 あの冷徹で、何の感情もなく畜生仕事をやってのける、あの疾風だ。

 わしが加役と言うだけで、疾風の事件を検めたと言うだけのことで、あの稀代の大悪党が、いちいち遺恨を覚えたりするだろうか?

 面当てのような、小悪党の嫌がらせに近いような殺しを働いたりするだろうか?

 こんな、こすっからい事を……するだろうか?

 しねぇよ、するわけがねぇ。

 北川はそう確信した。

 これは俺への面当てや挑発じゃねぇ、少なくともこっちにその心当たりはねぇし、相手が疾風な以上、あれば覚えているはずだ。

 しかし……となると、この句は……なんだ?

 どうしてこの俺に対して、疾風は文なんぞ残しやがった。俺に対して、いったいこの疾風は、何を伝えようとしてやがるんだ。この、加役の俺に、火付け盗賊検めのこの北川に、疾風の野郎はいったいなにが言いたくてこんな文を残しやがった?

「榊原様、誓って申し上げますが、それがしにはなんの怪しい所もございません。それがしにも、この手紙も句の意味も、その目的すらもまったく考えの及ぶところではございません」

 その言葉に、榊原は「ふむ」と一声頷いて、腕組みをした。

「そうか……、しかし、これは少し変よな」

「変……とは?」

 榊原は続けた。

「うむ、確かに夏のごとき暑さが過ぎて時の経たぬ今は、秋と言えば秋のような心持ちにはなるが、しかし、暦の上では今はもう、冬だ」

 何をのんきに、と、北川は榊原をたしなめようとして……はっとした。

「そうだ……こりゃ……秋の句」

 秋……紅葉……紅葉狩り……。

 月影に隠れて……。

 秋葉亭!

「しまった!!」

 北川は手にしていたその紙を握りつぶして叫んだ。

 なんて間抜けだ、俺は。

 なんで今の今まで気づかなかったのだ?俺と疾風の繋がりは、加役と悪党の繋がりだけではない。そんな繋がりなら、俺だけではなく加役の輩全員にあろうし、それこそ、それは町方であっても同じ事。そうではない、俺には俺にしかない疾風との関わりがあるではないか。

 この世でただ一人、疾風の心を読む人間。疾風に母を奪われ、幸せな生活を根こそぎ奪われてなお生きている人間。疾風と、裂くに裂けない因縁のある……娘。

 お美代との繋がりが。

 そうだ、事は俺の周りを回っていたのではない。この、禍々しい空気は、ずっと、美代をその中心に据えて渦巻いていたのだ。

 と、すれば。

 事は一刻の猶予もない!

「榊原様、事は一刻を争います故、これにて……ごめん」

 言うやいなや、北川は、榊原の返答を聞くまでもなく駆けだして、湊屋を後にした。

 空には満月。まさに青白い月影に世界は包まれていた。

 なんとも言えぬ悪寒が、北川の身体を襲う。

 間に合え……間に合ってくれ!

 一心不乱に駆けながら、北川は、そうつぶやいていた。
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