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第肆章 風の行方
弐
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「なぁ、利吉。おめぇいったい何から何を守ってやがる?何がお前にそこまでの啖呵を切らせやがるんだ?」
命がけで啖呵を切る利吉を、北川は、ぐいっと身を乗り出して睨んだ。
しかし、それでも利吉はひるまない。
「関係ございませんでしょう。ね、北川様、関係ございませんでしょう?」
利吉の顔は、真っ白だった。
血の気が失せ、それでも興奮だけが、頭の頂点にまで達しているようだった。
「確かに、お美代は疾風なんて言う悪党と同じ事を考えつきましたよ。でもそれは、藤五郎親分のおっしゃるように、美代と疾風の間の因縁が浅くねぇからですよ。美代は、勘が鋭いから、疾風との浅からぬ因縁で、あの悪党の気持ちを読めるようになっただけですよ」
利吉は、口の端に泡を溜めながら続けた。
生涯で、最も長く話している瞬間だ。
「でもそれも、北川様にはかんけぇねぇ。いや、確かに北川様は町方のお役人でございましょうけど、それでも、美代は悪党じゃねぇんだ、関係なんてあるモンじゃないでしょう」
利吉の剣幕に、北川は黙り込んでいた。
しかし引き下がるわけにも行かない。
北川にだって、引き下がれないわけが……。
「とおちゃん、もういいよ。もう、いい」
北川と利吉の睨み合いの最中、突然美代は立ち上がってそう言うと、北川の前に進み出た。
「な、なにを言うんだ、美代、お前まさか……」
利吉は、今に美代に飛びつきそうな風情で、そう言った。
しかし美代は、そんな利吉を片手で制すると、北川の方にきちんと向き直って、言った。
「おじちゃん……ううん、北川様。北川様には、引き下がれない理由があるんですよね、私達には言えない……」
美代は一度言葉を切り、きっと北川をにらむ。
「……理由が」
北川は息を呑んだ。
表情を見せない美代が、まるで大人そのものの声色で語りかける。しかも、その瞳には、どうやら北川が隠し続けていた真実が、映っているようなのである。
本当に……ばれてやがるのか?
「ほぉ、美代、お前の言うその理由とは、何だ」
情けねぇ、声が震えてやがる。
北川は、舌打ちをした。
「うん、わかってる。北川様が隠してる事、ちゃんとね」
美代はそう言うと、北川の前にすっと座り、その顔をしっかりと凝視した。
「北川様は、町方の役人なんかじゃない。北川様は、本当は……」
その場に沈黙が根を下ろす。
張りつめる空気の引き合う音が、聞こえてくるようであった。
「……加役の役人。そう、火付け盗賊改めのお役人様だよね」
火付け盗賊改め。
凶悪犯を相手に探索事をする、町方とは分離した特務機関。裁量権を持ち、捕縛がかなわぬ場合はその場で切り捨てても良いとされる。この時代もっとも恐れられた役職である。
そしてこの江戸で、誰よりも盗賊を憎み、その天敵である役目だ。
「か、火盗改め……」
利吉は、その場にへたり込んだ。
そんな利吉の姿を見て、北川は「ふっ」っと鼻で笑うと、そのまま美代に問いかけた。
「いつ、気づいた」
美代を見る北川の視線は、いつになく鋭く、迫力に満ちている。しかし美代は、まったく動じることなく、恐れる事もなく、それどころか少し微笑んでいるようであった。
「最初から……だよ」
「ほぉ」
なんてこったい。
「北川様ははじめ、仕合せ屋に変装していらっしゃったでしょ。もうそれが変だよ。だって、町方の同心様と言えば、街々の顔役。変装なんかしても意味がないし、必要もない」
北川を見つめながら、美代は、今度はしっかりと微笑んだ。
「たまたま私と父ちゃんが遅い仕事だから、町方のお役人と知り合いがなかったせいでうまくいった様に見えちゃったけどね」
からかっているのではない、何か、化かし合いを楽しんでいるかのように。
「なのに、北川様は変装してた。でも、本物の御浪人でない事は、つるつるとした月代を見ても瞭然だったし、何より、本当に探索をしているとしか考えられないほど、事件に詳しくて、話が早かった」
そう語りながら微笑む美代を見て、北川も自然に笑みをこぼしていた。
なにもかも美代の言うとおり。
その、ひとつひとつの指摘が妙に心地よくさえ思えていた。
「ね、誰よりも早く事件を知って、その内実に詳しく、しかもきちんとしたお武家で、町方ではない……。そうなると、最初のかどわかしは別として、そのあとの事件の内容から考えても、加役だとしか考えられない……よね」
北川は、にやりと笑って、話をさえぎった。
「しかし、お美代。それではまだ足りぬのではないか?確かにお前の言うとおり、加役の線が一番濃い。しかしな、もう一つだけあり得る線があるのではないか?」
美代は、そう北川が切り返す事も先刻お見通しのようである。少しうつむいて照れながら、北川の問いに答えた。
「うん、そう、もう一つ線が残ってる。それは……」
美代は、ごくりとつばを飲んだ。
「……おじちゃん、いや、北川様が悪党だって線」
その通りである。
一角のお武家で、しかも町方でなく、さらに事件の情報が早く内情に詳しい。そこから導き出される筋道は、北川が加役であるというのともう一つ。北川が、悪党であるという線だ。それこそ、北川が疾風の一味、いや疾風そのものならば、説明がすべてきっちりつく。
「でもそれはない、それは、絶対にないんだ」
美代は、うつむきながらそう言った。
何の証も立てず、ただ、そう断言した。
それが、北川にはひっかかった。
「それは、美代らしくないな。俺が加役であって悪党でないというならば、その証を立てて説明するのがいつもの美代のやり方であろう?それを、ただ、違うというのはどういう……」
北川が問い、美代は、うつむいたまま口を開けようとした。
その時。
急に廊下をバタバタと走る音がして、何者かが部屋に走りながら近寄ってくる気配がした。
豪奢な料亭の雰囲気にそぐわない気配。
北川は、無意識に刀の柄を握った。
近づいてきた足跡が、ふすまの向うで止まる。そして、バンッと音がしてふすまが一気に左右に開かれた。
「旦那、てぇへんですっ!!」
開いた途端、ふすまの向こうに現れてそう叫んだのは……太平だった。
青ざめた顔に、玉のような汗が浮かんでいる。
尋常な用件ではなさそうだ。
「どうした、青い顔してなにがあった?」
北川がそう問うと、太平は、息を整える間もなく、荒れた息と共にその場のすべてを凍り付かせる言葉を吐いた。
「は、疾風がでました、つい、いましがた……」
なに?疾風?!寄りにも寄って、こんな時に……。
北川は、息も絶え絶えな太平に問い返した。
「いってぇどこにだ!!」
「そ……それが……」
太平は一瞬口ごもった。
「早く言いやがれ、どこに出たんだ、疾風は!」
「み……」
み?
ま、まさか。
北川の脳裏に、ひとつの名前が浮かぶ。そしてその名前を、太平は震えながら口にした。
「……湊屋です」
悪い予感は、当たるものだ。
「湊屋に疾風が出たんですよ!!」
北川は絶句した。
何だってんだ、どうしてこうも俺の周りで……。
北川は額をぺしゃりと打って目を閉じた。そして、何やらいろいろと考えを巡らせ、叫んだ。
「太平、お前はここに残れ!!」
「へい!え、なんですって?」
北川は、太平の肩をつかんでその顔中に唾をひっかけながら叫んだ。
北川の心に、拭いきれない嫌な予感が、ごうごうと渦巻いていたのだ。自分を中心に回っているような、漠然とした不安の渦が。
「いいから、お前はここに残るんだ。な、大した根拠はねぇんだが、どうも事が……この北川の近くで起こり過ぎてやがる。念のためだ、良いか、お前はここに残ってこの親子をみてるんだ」
太平は、お供の袖を食らう事よりも、北川のその剣幕に圧倒されて「へい」と、半ば反射的に返事をした。
北川はその返事を確認すると、座っている美代をみた。美代は、青い顔でうつむいている。
無理もない事であった、美代の母を奪い、心に一生消えない傷を残した疾風が、今すぐ近くにいるのだ。
「お美代、大丈夫だ、大丈夫だよ。こっからはわしの役目、泣く子も黙る加役の仕事だ。安心してこの太平についていなさい、頭は抜けているが、腕は立つ」
すると美代は、すっくと立ち上がって、北川に駆け寄った。
そしてその襟を小さな両の手でつかむと、震える瞳をまっすぐに北川に向け、小さく、それでいて力強くつぶやいた。泣いてはいなかった、ただ、瞳の奥に言いしれない熱が込められている。
「違うよおじちゃん、私は大丈夫なんだ……でも、おじちゃんは……危ない事になると思うの」
美代は、こんな状況でも、自分より北川の身を案じているようだった。先読みでも、勘働きでもない、普通の人間の心情で、北川を心配している。北川にはそう思えた。
だから、たまらず北川は、美代の頭をしっかりと抱きしめた。その手の内で美代は震えている。
そう、そうだった、いくら勘働きに優れていようと、地獄を見て育っていようと、美代は、ただの小娘。
子供じゃねぇか。
「信じろよ、お美代。おめぇの勘働きより、大悪党の疾風より、なんとも言えねぇ不安より、この……おじちゃんをな」
そう言うと北川は、ふと思いついて、懐から小さな包み紙を出した。
そしてその包み紙の中から、以前にあげたものとは色違いの、桜色の珊瑚のついたかんざしを取り出し、美代に手渡した。
「お美代、これはな、今日の機嫌取りにお前に買ってきたものだ。いいか、何の心配もしねぇでいいから、これをもって待っていろ。きっと無事にけぇってくるから」
そう言うと北川は、美代の頭をつかんで二、三度ゆすると、利吉に「心配いらねぇよ」と一声かけて、部屋を飛び出していった。
暗い江戸の町中へ。
これから起こる、一生忘れられない事共の事など知らず。
この夜が、北川にとって、人生で最も長い一夜になる事など、気づくはずもなく。
北川の後ろ姿は、暗い夜の町に、消えた。
命がけで啖呵を切る利吉を、北川は、ぐいっと身を乗り出して睨んだ。
しかし、それでも利吉はひるまない。
「関係ございませんでしょう。ね、北川様、関係ございませんでしょう?」
利吉の顔は、真っ白だった。
血の気が失せ、それでも興奮だけが、頭の頂点にまで達しているようだった。
「確かに、お美代は疾風なんて言う悪党と同じ事を考えつきましたよ。でもそれは、藤五郎親分のおっしゃるように、美代と疾風の間の因縁が浅くねぇからですよ。美代は、勘が鋭いから、疾風との浅からぬ因縁で、あの悪党の気持ちを読めるようになっただけですよ」
利吉は、口の端に泡を溜めながら続けた。
生涯で、最も長く話している瞬間だ。
「でもそれも、北川様にはかんけぇねぇ。いや、確かに北川様は町方のお役人でございましょうけど、それでも、美代は悪党じゃねぇんだ、関係なんてあるモンじゃないでしょう」
利吉の剣幕に、北川は黙り込んでいた。
しかし引き下がるわけにも行かない。
北川にだって、引き下がれないわけが……。
「とおちゃん、もういいよ。もう、いい」
北川と利吉の睨み合いの最中、突然美代は立ち上がってそう言うと、北川の前に進み出た。
「な、なにを言うんだ、美代、お前まさか……」
利吉は、今に美代に飛びつきそうな風情で、そう言った。
しかし美代は、そんな利吉を片手で制すると、北川の方にきちんと向き直って、言った。
「おじちゃん……ううん、北川様。北川様には、引き下がれない理由があるんですよね、私達には言えない……」
美代は一度言葉を切り、きっと北川をにらむ。
「……理由が」
北川は息を呑んだ。
表情を見せない美代が、まるで大人そのものの声色で語りかける。しかも、その瞳には、どうやら北川が隠し続けていた真実が、映っているようなのである。
本当に……ばれてやがるのか?
「ほぉ、美代、お前の言うその理由とは、何だ」
情けねぇ、声が震えてやがる。
北川は、舌打ちをした。
「うん、わかってる。北川様が隠してる事、ちゃんとね」
美代はそう言うと、北川の前にすっと座り、その顔をしっかりと凝視した。
「北川様は、町方の役人なんかじゃない。北川様は、本当は……」
その場に沈黙が根を下ろす。
張りつめる空気の引き合う音が、聞こえてくるようであった。
「……加役の役人。そう、火付け盗賊改めのお役人様だよね」
火付け盗賊改め。
凶悪犯を相手に探索事をする、町方とは分離した特務機関。裁量権を持ち、捕縛がかなわぬ場合はその場で切り捨てても良いとされる。この時代もっとも恐れられた役職である。
そしてこの江戸で、誰よりも盗賊を憎み、その天敵である役目だ。
「か、火盗改め……」
利吉は、その場にへたり込んだ。
そんな利吉の姿を見て、北川は「ふっ」っと鼻で笑うと、そのまま美代に問いかけた。
「いつ、気づいた」
美代を見る北川の視線は、いつになく鋭く、迫力に満ちている。しかし美代は、まったく動じることなく、恐れる事もなく、それどころか少し微笑んでいるようであった。
「最初から……だよ」
「ほぉ」
なんてこったい。
「北川様ははじめ、仕合せ屋に変装していらっしゃったでしょ。もうそれが変だよ。だって、町方の同心様と言えば、街々の顔役。変装なんかしても意味がないし、必要もない」
北川を見つめながら、美代は、今度はしっかりと微笑んだ。
「たまたま私と父ちゃんが遅い仕事だから、町方のお役人と知り合いがなかったせいでうまくいった様に見えちゃったけどね」
からかっているのではない、何か、化かし合いを楽しんでいるかのように。
「なのに、北川様は変装してた。でも、本物の御浪人でない事は、つるつるとした月代を見ても瞭然だったし、何より、本当に探索をしているとしか考えられないほど、事件に詳しくて、話が早かった」
そう語りながら微笑む美代を見て、北川も自然に笑みをこぼしていた。
なにもかも美代の言うとおり。
その、ひとつひとつの指摘が妙に心地よくさえ思えていた。
「ね、誰よりも早く事件を知って、その内実に詳しく、しかもきちんとしたお武家で、町方ではない……。そうなると、最初のかどわかしは別として、そのあとの事件の内容から考えても、加役だとしか考えられない……よね」
北川は、にやりと笑って、話をさえぎった。
「しかし、お美代。それではまだ足りぬのではないか?確かにお前の言うとおり、加役の線が一番濃い。しかしな、もう一つだけあり得る線があるのではないか?」
美代は、そう北川が切り返す事も先刻お見通しのようである。少しうつむいて照れながら、北川の問いに答えた。
「うん、そう、もう一つ線が残ってる。それは……」
美代は、ごくりとつばを飲んだ。
「……おじちゃん、いや、北川様が悪党だって線」
その通りである。
一角のお武家で、しかも町方でなく、さらに事件の情報が早く内情に詳しい。そこから導き出される筋道は、北川が加役であるというのともう一つ。北川が、悪党であるという線だ。それこそ、北川が疾風の一味、いや疾風そのものならば、説明がすべてきっちりつく。
「でもそれはない、それは、絶対にないんだ」
美代は、うつむきながらそう言った。
何の証も立てず、ただ、そう断言した。
それが、北川にはひっかかった。
「それは、美代らしくないな。俺が加役であって悪党でないというならば、その証を立てて説明するのがいつもの美代のやり方であろう?それを、ただ、違うというのはどういう……」
北川が問い、美代は、うつむいたまま口を開けようとした。
その時。
急に廊下をバタバタと走る音がして、何者かが部屋に走りながら近寄ってくる気配がした。
豪奢な料亭の雰囲気にそぐわない気配。
北川は、無意識に刀の柄を握った。
近づいてきた足跡が、ふすまの向うで止まる。そして、バンッと音がしてふすまが一気に左右に開かれた。
「旦那、てぇへんですっ!!」
開いた途端、ふすまの向こうに現れてそう叫んだのは……太平だった。
青ざめた顔に、玉のような汗が浮かんでいる。
尋常な用件ではなさそうだ。
「どうした、青い顔してなにがあった?」
北川がそう問うと、太平は、息を整える間もなく、荒れた息と共にその場のすべてを凍り付かせる言葉を吐いた。
「は、疾風がでました、つい、いましがた……」
なに?疾風?!寄りにも寄って、こんな時に……。
北川は、息も絶え絶えな太平に問い返した。
「いってぇどこにだ!!」
「そ……それが……」
太平は一瞬口ごもった。
「早く言いやがれ、どこに出たんだ、疾風は!」
「み……」
み?
ま、まさか。
北川の脳裏に、ひとつの名前が浮かぶ。そしてその名前を、太平は震えながら口にした。
「……湊屋です」
悪い予感は、当たるものだ。
「湊屋に疾風が出たんですよ!!」
北川は絶句した。
何だってんだ、どうしてこうも俺の周りで……。
北川は額をぺしゃりと打って目を閉じた。そして、何やらいろいろと考えを巡らせ、叫んだ。
「太平、お前はここに残れ!!」
「へい!え、なんですって?」
北川は、太平の肩をつかんでその顔中に唾をひっかけながら叫んだ。
北川の心に、拭いきれない嫌な予感が、ごうごうと渦巻いていたのだ。自分を中心に回っているような、漠然とした不安の渦が。
「いいから、お前はここに残るんだ。な、大した根拠はねぇんだが、どうも事が……この北川の近くで起こり過ぎてやがる。念のためだ、良いか、お前はここに残ってこの親子をみてるんだ」
太平は、お供の袖を食らう事よりも、北川のその剣幕に圧倒されて「へい」と、半ば反射的に返事をした。
北川はその返事を確認すると、座っている美代をみた。美代は、青い顔でうつむいている。
無理もない事であった、美代の母を奪い、心に一生消えない傷を残した疾風が、今すぐ近くにいるのだ。
「お美代、大丈夫だ、大丈夫だよ。こっからはわしの役目、泣く子も黙る加役の仕事だ。安心してこの太平についていなさい、頭は抜けているが、腕は立つ」
すると美代は、すっくと立ち上がって、北川に駆け寄った。
そしてその襟を小さな両の手でつかむと、震える瞳をまっすぐに北川に向け、小さく、それでいて力強くつぶやいた。泣いてはいなかった、ただ、瞳の奥に言いしれない熱が込められている。
「違うよおじちゃん、私は大丈夫なんだ……でも、おじちゃんは……危ない事になると思うの」
美代は、こんな状況でも、自分より北川の身を案じているようだった。先読みでも、勘働きでもない、普通の人間の心情で、北川を心配している。北川にはそう思えた。
だから、たまらず北川は、美代の頭をしっかりと抱きしめた。その手の内で美代は震えている。
そう、そうだった、いくら勘働きに優れていようと、地獄を見て育っていようと、美代は、ただの小娘。
子供じゃねぇか。
「信じろよ、お美代。おめぇの勘働きより、大悪党の疾風より、なんとも言えねぇ不安より、この……おじちゃんをな」
そう言うと北川は、ふと思いついて、懐から小さな包み紙を出した。
そしてその包み紙の中から、以前にあげたものとは色違いの、桜色の珊瑚のついたかんざしを取り出し、美代に手渡した。
「お美代、これはな、今日の機嫌取りにお前に買ってきたものだ。いいか、何の心配もしねぇでいいから、これをもって待っていろ。きっと無事にけぇってくるから」
そう言うと北川は、美代の頭をつかんで二、三度ゆすると、利吉に「心配いらねぇよ」と一声かけて、部屋を飛び出していった。
暗い江戸の町中へ。
これから起こる、一生忘れられない事共の事など知らず。
この夜が、北川にとって、人生で最も長い一夜になる事など、気づくはずもなく。
北川の後ろ姿は、暗い夜の町に、消えた。
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