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第参章 縁
壱
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「最近はおつとめが忙しいのでございますね」
北川の妻、きよが、繕い物をしながらそう話しかけてきたのは、ちょうど夕餉が終わり、出がらしの薄い番茶を飲んでいたときのことであった。
声色が、よくねぇな。
もう連れ添って二十年になる妻の事だ、北川は敏感にその心持ちを察知して、気がつかれぬように身構えた。
「う、うむ。疾風の事もあるのでな、なにやかにやといそがしいのよ」
きよは「ふぅん」と興味なさげに返事をして、針を動かしながら続けた。
これで指を刺さないのだから、器用なものである。
「私は、お役目の事はよくわかりませんが、近頃は昼の間だけでなく、子の刻過ぎにもそっと家を脱けだしていらっしゃるようにお見受けいたしますが」
北川はどきりとした。
それは、仕合せ屋に行っている時の事ではあろうが、きよには気づかれていないとの自信があったからである。
もちろん、そこへゆく事がやましい事だとは思わない。が、しかし深夜の外出というのは、それがどこであっても妻には言いにくいものである。
「ふ、ふむ。役目によってはの、遅くにでる事もあるでの」
しどろもどろである。
「まぁ、旦那様がどこでなにをなさっていようと、私のようなものが口を出す事ではございませんでしょうが、もしどこぞにおなごでも囲っておいででしたら、そう言っていただかないと、妻として体裁というものがございますので」
囲う……とは、剣呑だ。
北川は、急いで湯飲みをおくと、きよの前に進み出てきちんと正座をした。
ここは、曖昧にしておかぬ方が……よかろう。
「きよ、おまえに心配をかけたのは、申し訳なかった。しかしだ、わしは誓っておなごなど囲ってはおらぬ。今までもないし、これからもない。本当だぞ」
北川が、かしこまってそう言うと、きよはつんけんしたまま答えた。しかし、いつもならこのあたりで収まりがつくのだが、今晩はどうにも虫の居所が悪いらしい。
「いえ、私は別に旦那様がおなごを囲うのがいやだなどと申し上げてるのはございません。北川家に嫁して二十年余り、いまだに子を成せぬ不出来な嫁に、そんな事を言う資格はございませんもの」
う、またその話か。
北川は、予想ができていたこととはいえ、自然と眉間に皺が寄るのを感じた。
「いやそれは違おう、子が出来ぬは、なにもきよだけのせいではない。確かに、お前が子を成せぬ身体なのかも知れぬが、同様に、このわしに子種がないという事もあろう。種と畑とどちらが悪いかなどは、それこそ神仏のみの知る所ではないか」
北川は必死で取りなすが、きよは「わかっていますとも」と冷たく言い放って、さらに続ける。
「そうですとも、でも、だからといって、どちらのせいであっても、子が出来ぬことにかわりはございませんでしょう。それなのに旦那様は、私が進めても進めても、養子をとろうともなさいません」
養子、ねえ。
北川は、そう心中でつぶやきながら、そっときよの顔を窺う。行灯に照らされるきよの影から、湯気が立ち上るが見えるような気がした。
「子はできぬ、養子はとらぬでは、北川の家は絶えてしまいます。そうであれば、私のような浅はかな女には、旦那様がどこかにおなごを囲って、それに子が出来るのを待っているとしか、思えなくても仕方がございませんでしょう」
きよの言い分にも、一理ある。
確かにこのままでは、北川の家名は絶える。
しかし北川としては、絶えた所でたいそうな家柄でもなく、また、北川自身、子供が好きではないというのも手伝って、養子をもらう気が進まぬのも、事実。しかし、そんな子供のような言い訳では、きよの気は収まらないであろうと思われた。
北川は、むぅっと唸りながら腕を組む。
と、不意に北川は、ある事を思いついて、きよに尋ねてみる事にした。
お茶を濁そう。と、いうわけだ。
「そうそう、養子といえばな、きよ。たとえばこの家に養子が来たとして、お前はその子を、実の子と同じように育てる事ができようかな?」
北川は、今日一日そのことをずっと考えていたのである。
養子と、実子。
その二つに、同じように愛情がかけられるものか……と。
「お前でなくとも、世間話としてな、血の繋がらぬもらい子を、実の子のごとく慈しみ、同じように育てるなどという事が、人の身で本当にできるものであるかな?」
そういって北川は、きよの顔を見た。
そして凍り付いた。
そこにあったきよのその顔は、まさに般若のそれで、目、眉ことごとくつり上がり、引き絞られた口元からは牙が生え、その白い額からは今にも角が生えてきそうなほどであったからだ。
元々若い頃は、小町、小町ともてはやされたほどの美しい顔である。
そして、顔が美しければ美しいほど、その怒った顔というのは恐ろしい。ゆらゆらと揺れる行灯の明かりに照らされたその顔は、他のどんな女のそれよりもいっそう恐ろしいものに、北川には見えていた。
「何という情けない事をおっしゃるのですか。それでは旦那様は、今の今まで養子をお断りになっていたのは、私が子いびりでもするだろうと思っておられたからという事でございますか?」
言いながら、きよの瞳から止めどない涙が滝のようにあふれてでた。
どうやら北川の一言は、とんでもない誤解を招いてしまったようである。
「旦那様は、おなごを囲っておる事を隠したい一心で、そのような惨い事をおっしゃるような、そんなお人でございますか?それとも、子を成せぬような女には、どんな仕打ちも甘んじて受けよとおっしゃるのですか?」
きよは言うなりその場に突っ伏して、肩をひくつかせながら嗚咽し始めた。
これにはさすがに北川も、急いできよのすぐ側に歩み寄り、肩をさすりながら弁明した。
「いや、違う、違うぞ、わしはそのような事を言っているのではない。勘違いをするな、本当に世間話だったのだ。確かに、不用意ではあった、あったが、の、わしはきよが子をなさずともよいのだ、わしの側におってくれさえすれば……」
きよは、北川の取りなしも効かぬのか、突っ伏したまま肩をふるわせ続けた。
北川は、そんなきよに、すまぬ、すまぬと言い募り、あたふたと弁明を続ける。
そして、ほんの四半刻ほどそうしていると、不意に、きよの様子が変わった。
「ふ、ふふ、ふふふふふ、あははははは」
なんときよは、北川の必死の弁明が終わるのを待たずに、突如笑い始めたのである。
あまりに唐突な笑いに、北川は、きよの気でも違ったのではないかと、本気で驚いたほどだ。
「ど、どうした、なに、いかがいたした」
あわあわと慌てる北川に、きよは笑いをかみ殺しながら言った。
「もう、旦那様ったら、本当に正直なお方ですね」
そう言って顔を上げたきよの目には、もうすでにかけらほどの涙も浮かんではいなかった。
かつがれたのか……。
そう気づいた途端、北川には信じられない思いと怒りが、沸々と湧いてきた。
「なな、なんと、その涙まで偽りであったか」
北川がそう詰問すると、きよは悪びれる様子もなく、その顔に童女のようなほほえみを浮かべて「はい」と答えた。
悔しいかな、きよは北川にとっては唯一無二の恋女房。いかに頭に血が上っていたとしても、この顔で微笑まれては、大声で怒鳴る事もできない。
「きよ、いくらお前のやる事とはいえ、それは、少しばかりからかいの度が過ぎ…」
北川が文句を言おうとすると、きよは、片手でそれを制した。
そして急に真顔になって、言った。
「旦那様、それで、先ほどお訪ねの事でございますが」
「あ、あ、うん」
「私が思いますに、もらい子を実の子と同じに育てるのは、無理かと存じます」
これには北川も驚いた。
普段から、養子、養子とうるさいきよの事だ、北川の予想としては、同じに育てられる、というに違いないと踏んでいたのだ。養子を望む人間として、それが当然である、と。
「無理……とな」
「はい。でも同じように、実の子をもらい子のごとく育てる事も、また、無理なのだと思います」
謎かけのように、きよは言った。
「それはどういう意味だ」
きよの言わんとする所が、北川にはさっぱりわからない。
「はい。確かに血の繋がりというものは、とても大きなものかも知れません。しかしそれも、あまたある親と子の繋がりのひとつにしか過ぎないのも事実。そうでございましょう」
いつの間にか、きよの手が、北川の手の上に添えられていた。
冷たい手の平の感触が、心地よかった。
「男のお子と女のお子を同じく育てることができないように、気の強い子と弱い子、長男次男を同じく育てる事ができないように、もらい子と実の子も、まったく同じに育てるというのは無理な事ではないでしょうか」
なるほど、な。
北川は、小さく膝を打った。
血の繋がりでさえも、それぞれの子供の違いのひとつに過ぎぬ、と。
娘と息子の違い、性格の違い、そして長男次男の違い。そんな、当たり前の違いと同じように、実の子ともらい子の違いもまた、当たり前なのだ、と。
「ですから、ね、旦那様。血の繋がった親子でも気の合わぬことはありますし、繋がっているからこそより憎しみあう事もございましょう。同じように、血の繋がりがなくとも、慈しみ、思い合って生きてゆく事ができるのではないでしょうか」
いい女だ。
目の前で話すきよをまじまじと眺めながら、あらためてそう思った。
「ですから旦那様、もしこの家に養子がやってきても、私は大丈夫でございますよ。実の子を持った事のない身ではありますが、実の子に負けぬ位の慈しみを持って、育てる自信が、私にはございますから」
そう言って微笑むきよを、北川はたまらず抱きしめた。
自らの中に渦巻いていたひとつの疑念を、この賢くも優しい妻が、すっきりとはらしてくれた心持ちだったからである。
今日の昼間、浅草のとある人物を訪れて以来、北川の頭に渦巻いていた疑念を。
きよを胸に抱きながら、北川はほっと一つ息を吐いた。
そうよな、実の子ももらい子も、それぞれ違うだけの可愛い子供に過ぎぬよな。
「きよ、わしは当分養子は持たぬぞ」
きよの細い身体を抱きしめたまま、北川はそうささやいた。
「どうしてでございますか」
北川がなにを言いたいのか百も承知で、きよは聞いた。
そして今度は、それを咎めない。
それがまた、いい女である。
「わしはまだまだ、お前と二人きりがよいでな」
北川はそう言うと、行灯を引き寄せて、その明かりをふっと吹き消した。
北川の妻、きよが、繕い物をしながらそう話しかけてきたのは、ちょうど夕餉が終わり、出がらしの薄い番茶を飲んでいたときのことであった。
声色が、よくねぇな。
もう連れ添って二十年になる妻の事だ、北川は敏感にその心持ちを察知して、気がつかれぬように身構えた。
「う、うむ。疾風の事もあるのでな、なにやかにやといそがしいのよ」
きよは「ふぅん」と興味なさげに返事をして、針を動かしながら続けた。
これで指を刺さないのだから、器用なものである。
「私は、お役目の事はよくわかりませんが、近頃は昼の間だけでなく、子の刻過ぎにもそっと家を脱けだしていらっしゃるようにお見受けいたしますが」
北川はどきりとした。
それは、仕合せ屋に行っている時の事ではあろうが、きよには気づかれていないとの自信があったからである。
もちろん、そこへゆく事がやましい事だとは思わない。が、しかし深夜の外出というのは、それがどこであっても妻には言いにくいものである。
「ふ、ふむ。役目によってはの、遅くにでる事もあるでの」
しどろもどろである。
「まぁ、旦那様がどこでなにをなさっていようと、私のようなものが口を出す事ではございませんでしょうが、もしどこぞにおなごでも囲っておいででしたら、そう言っていただかないと、妻として体裁というものがございますので」
囲う……とは、剣呑だ。
北川は、急いで湯飲みをおくと、きよの前に進み出てきちんと正座をした。
ここは、曖昧にしておかぬ方が……よかろう。
「きよ、おまえに心配をかけたのは、申し訳なかった。しかしだ、わしは誓っておなごなど囲ってはおらぬ。今までもないし、これからもない。本当だぞ」
北川が、かしこまってそう言うと、きよはつんけんしたまま答えた。しかし、いつもならこのあたりで収まりがつくのだが、今晩はどうにも虫の居所が悪いらしい。
「いえ、私は別に旦那様がおなごを囲うのがいやだなどと申し上げてるのはございません。北川家に嫁して二十年余り、いまだに子を成せぬ不出来な嫁に、そんな事を言う資格はございませんもの」
う、またその話か。
北川は、予想ができていたこととはいえ、自然と眉間に皺が寄るのを感じた。
「いやそれは違おう、子が出来ぬは、なにもきよだけのせいではない。確かに、お前が子を成せぬ身体なのかも知れぬが、同様に、このわしに子種がないという事もあろう。種と畑とどちらが悪いかなどは、それこそ神仏のみの知る所ではないか」
北川は必死で取りなすが、きよは「わかっていますとも」と冷たく言い放って、さらに続ける。
「そうですとも、でも、だからといって、どちらのせいであっても、子が出来ぬことにかわりはございませんでしょう。それなのに旦那様は、私が進めても進めても、養子をとろうともなさいません」
養子、ねえ。
北川は、そう心中でつぶやきながら、そっときよの顔を窺う。行灯に照らされるきよの影から、湯気が立ち上るが見えるような気がした。
「子はできぬ、養子はとらぬでは、北川の家は絶えてしまいます。そうであれば、私のような浅はかな女には、旦那様がどこかにおなごを囲って、それに子が出来るのを待っているとしか、思えなくても仕方がございませんでしょう」
きよの言い分にも、一理ある。
確かにこのままでは、北川の家名は絶える。
しかし北川としては、絶えた所でたいそうな家柄でもなく、また、北川自身、子供が好きではないというのも手伝って、養子をもらう気が進まぬのも、事実。しかし、そんな子供のような言い訳では、きよの気は収まらないであろうと思われた。
北川は、むぅっと唸りながら腕を組む。
と、不意に北川は、ある事を思いついて、きよに尋ねてみる事にした。
お茶を濁そう。と、いうわけだ。
「そうそう、養子といえばな、きよ。たとえばこの家に養子が来たとして、お前はその子を、実の子と同じように育てる事ができようかな?」
北川は、今日一日そのことをずっと考えていたのである。
養子と、実子。
その二つに、同じように愛情がかけられるものか……と。
「お前でなくとも、世間話としてな、血の繋がらぬもらい子を、実の子のごとく慈しみ、同じように育てるなどという事が、人の身で本当にできるものであるかな?」
そういって北川は、きよの顔を見た。
そして凍り付いた。
そこにあったきよのその顔は、まさに般若のそれで、目、眉ことごとくつり上がり、引き絞られた口元からは牙が生え、その白い額からは今にも角が生えてきそうなほどであったからだ。
元々若い頃は、小町、小町ともてはやされたほどの美しい顔である。
そして、顔が美しければ美しいほど、その怒った顔というのは恐ろしい。ゆらゆらと揺れる行灯の明かりに照らされたその顔は、他のどんな女のそれよりもいっそう恐ろしいものに、北川には見えていた。
「何という情けない事をおっしゃるのですか。それでは旦那様は、今の今まで養子をお断りになっていたのは、私が子いびりでもするだろうと思っておられたからという事でございますか?」
言いながら、きよの瞳から止めどない涙が滝のようにあふれてでた。
どうやら北川の一言は、とんでもない誤解を招いてしまったようである。
「旦那様は、おなごを囲っておる事を隠したい一心で、そのような惨い事をおっしゃるような、そんなお人でございますか?それとも、子を成せぬような女には、どんな仕打ちも甘んじて受けよとおっしゃるのですか?」
きよは言うなりその場に突っ伏して、肩をひくつかせながら嗚咽し始めた。
これにはさすがに北川も、急いできよのすぐ側に歩み寄り、肩をさすりながら弁明した。
「いや、違う、違うぞ、わしはそのような事を言っているのではない。勘違いをするな、本当に世間話だったのだ。確かに、不用意ではあった、あったが、の、わしはきよが子をなさずともよいのだ、わしの側におってくれさえすれば……」
きよは、北川の取りなしも効かぬのか、突っ伏したまま肩をふるわせ続けた。
北川は、そんなきよに、すまぬ、すまぬと言い募り、あたふたと弁明を続ける。
そして、ほんの四半刻ほどそうしていると、不意に、きよの様子が変わった。
「ふ、ふふ、ふふふふふ、あははははは」
なんときよは、北川の必死の弁明が終わるのを待たずに、突如笑い始めたのである。
あまりに唐突な笑いに、北川は、きよの気でも違ったのではないかと、本気で驚いたほどだ。
「ど、どうした、なに、いかがいたした」
あわあわと慌てる北川に、きよは笑いをかみ殺しながら言った。
「もう、旦那様ったら、本当に正直なお方ですね」
そう言って顔を上げたきよの目には、もうすでにかけらほどの涙も浮かんではいなかった。
かつがれたのか……。
そう気づいた途端、北川には信じられない思いと怒りが、沸々と湧いてきた。
「なな、なんと、その涙まで偽りであったか」
北川がそう詰問すると、きよは悪びれる様子もなく、その顔に童女のようなほほえみを浮かべて「はい」と答えた。
悔しいかな、きよは北川にとっては唯一無二の恋女房。いかに頭に血が上っていたとしても、この顔で微笑まれては、大声で怒鳴る事もできない。
「きよ、いくらお前のやる事とはいえ、それは、少しばかりからかいの度が過ぎ…」
北川が文句を言おうとすると、きよは、片手でそれを制した。
そして急に真顔になって、言った。
「旦那様、それで、先ほどお訪ねの事でございますが」
「あ、あ、うん」
「私が思いますに、もらい子を実の子と同じに育てるのは、無理かと存じます」
これには北川も驚いた。
普段から、養子、養子とうるさいきよの事だ、北川の予想としては、同じに育てられる、というに違いないと踏んでいたのだ。養子を望む人間として、それが当然である、と。
「無理……とな」
「はい。でも同じように、実の子をもらい子のごとく育てる事も、また、無理なのだと思います」
謎かけのように、きよは言った。
「それはどういう意味だ」
きよの言わんとする所が、北川にはさっぱりわからない。
「はい。確かに血の繋がりというものは、とても大きなものかも知れません。しかしそれも、あまたある親と子の繋がりのひとつにしか過ぎないのも事実。そうでございましょう」
いつの間にか、きよの手が、北川の手の上に添えられていた。
冷たい手の平の感触が、心地よかった。
「男のお子と女のお子を同じく育てることができないように、気の強い子と弱い子、長男次男を同じく育てる事ができないように、もらい子と実の子も、まったく同じに育てるというのは無理な事ではないでしょうか」
なるほど、な。
北川は、小さく膝を打った。
血の繋がりでさえも、それぞれの子供の違いのひとつに過ぎぬ、と。
娘と息子の違い、性格の違い、そして長男次男の違い。そんな、当たり前の違いと同じように、実の子ともらい子の違いもまた、当たり前なのだ、と。
「ですから、ね、旦那様。血の繋がった親子でも気の合わぬことはありますし、繋がっているからこそより憎しみあう事もございましょう。同じように、血の繋がりがなくとも、慈しみ、思い合って生きてゆく事ができるのではないでしょうか」
いい女だ。
目の前で話すきよをまじまじと眺めながら、あらためてそう思った。
「ですから旦那様、もしこの家に養子がやってきても、私は大丈夫でございますよ。実の子を持った事のない身ではありますが、実の子に負けぬ位の慈しみを持って、育てる自信が、私にはございますから」
そう言って微笑むきよを、北川はたまらず抱きしめた。
自らの中に渦巻いていたひとつの疑念を、この賢くも優しい妻が、すっきりとはらしてくれた心持ちだったからである。
今日の昼間、浅草のとある人物を訪れて以来、北川の頭に渦巻いていた疑念を。
きよを胸に抱きながら、北川はほっと一つ息を吐いた。
そうよな、実の子ももらい子も、それぞれ違うだけの可愛い子供に過ぎぬよな。
「きよ、わしは当分養子は持たぬぞ」
きよの細い身体を抱きしめたまま、北川はそうささやいた。
「どうしてでございますか」
北川がなにを言いたいのか百も承知で、きよは聞いた。
そして今度は、それを咎めない。
それがまた、いい女である。
「わしはまだまだ、お前と二人きりがよいでな」
北川はそう言うと、行灯を引き寄せて、その明かりをふっと吹き消した。
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