7 / 26
第弐章 疾風
壱
しおりを挟む
「おう、じゃまするぜ」
お江戸永代橋袂、蕎麦屋台仕合せ屋に、そんな明るい調子でやってきたのは、定町廻り同心の北川正五郎であった。つい先だって、この店の娘の助けで事件を解決して以来、ちょくちょく訪れる気の良い常連である。
「へぇ、北川様、いらっしゃいまし」
そんな北川に、店主は親しげに、それでも町人の分を守った丁寧さで挨拶をした。
「おう、お美代、元気にしておったか」
北川はそんな店主の挨拶を軽くあしらうと、いつものように奥まった辺りの七輪の前でじっと座っている美代に声をかけた。
美代は、聞こえているの聞こえていないのか、振り返ることもしない。
「ふむ、いつも通りで結構な事よ」
「あいすいませんです」
北川は、美代のいつも通りのそぶりにいつも通りに皮肉を言い、店主はいつも通りに謝った。
つまり、これが、いつも通りの流れ。三人の関係そのものと言っていいだろう。
「北川様、ご注文はなんにいたしましょう」
店主は、またいつも通りに注文をきく。
そして、いつも通りの注文を期待して、片方の手には蕎麦がひと束握られていた。
ところが北川は、いつも通りに頷くことはせず、長く重たいため息を一つついて、店主の予想を裏切った。
「いや、よい、それより今日は熱燗だけ、それでよい」
店主は少し小首をかしげ、それでも何事もなかったように頷く。
客が言わぬうちに、その心内まで聞きはしない、店主の粋な計らいである。
「へい、かしこまりまして……美代、熱燗だ、急ぎな」
そう言いながら、背後の美代を見ると、すでに銚子は鍋の中に沈められていた。
どうやら見透かされていたらしい。
「ふ、さすがはお美代と言ったところだな」
「あいすいません」
店主は、決まり事のようにそう口にすると、何やらごそごそと手元を探し、そして小鉢に入った何かを出した。
「なんでぇ、こりゃ?」
「へぇ、蕎麦の実を煎ったモノでございます」
店主はそういって北川の前にそれを差し出した。
そこには、ほんの小さな芥子粒の様な蕎麦の実が、ひとつまみほどむき実の状態で入っていた。とてものこと箸でつまめるようなものではない。
しかし北川は満面の笑みだ。
「そうかいそうかい、そう言われれば確かにこれは蕎麦の実。しかも口に入れる前からすでに、蕎麦のよい香りがほのかにしておるな」
北川は、まるで名品の茶碗でもほめるかのように、その小鉢をあらゆる角度からのぞき込むと、器に鼻を近づけ何べんも大きく鼻から息を吸った。
「うむ、まさに食欲のない人間にはこの上ない酒のアテ、美代もさすがだが、おやじもさすがというところだな」
北川は上機嫌でそう言うと、店主の方を見た。
「ありがとうございます、あたくしとしましても、こんな食べにくいモノは、本当に蕎麦が好きなお人にしか出しませんもんで」
店主はにこやかに微笑みながら言った。
まさに、気が利いているの一語以外に言葉のない、店主の心遣いだ。
「そう言うわけで、北川様もさすがの蕎麦好きって事です」
これには北川も、元々人の良さそうに垂れ下がった目尻をさらに垂れ下げてにやりと笑った。
「なんでい、おべっかくらいじゃなにも出ちゃこねぇぜ」
「いえいえ、本心でございますよ」
あまり聞かない店主のほめ言葉に、北川は、恥ずかしそうにこめかみの辺りをこりこりと掻いた。
こりゃ、どうやら気を使われているようだなぁ。
北川は、何やら面目ないような心持ちではあったが、おかげで、つい先ほどまで水を含んだ綿のようだった重たい気分も、少し和らいだように感じられる。
そこで、少し気になっていた事を、たずねる事にした。
「ま、それは良いとして、少し聞きにくいことを聞くが……良いか?」
「へぇ、なんでしょう?」
店主は、何気なく答えた。
「最近ここに、役人は来なかったかい」
北川はそう言って、店主の顔をのぞき込んだ。
「お、お役人でございますか?」
途端、眉根にしわを寄せて、店主はいぶかしげに聞き返す。
「ああ、そうだ、役人だ。それも、まぁ、大役人と言うよりは小役人。同心風情が来なかったかな……と思ってな」
言い終わって北川は、いま気づいたかの様な顔で付け加えた。
「ま、拙者も同心風情ではあるがな」
変にかしこまって、北川はそう言って笑った。
が、店主の方はこわばった表情のままである。
「北川様、まさかここの事を御番所でお話になったんで?」
声に、微かに緊張の色が乗っているようにさえ思えた。
北川は、店主の方にちらりと目をやって、その緊張をときほぐすかのようにやんわりと否定した。
「いやいや、そうではないのだ」
手の平をひらひらと泳がせながら店主の懸念を否定し、北川は、心の中でつぶやいた。
しかし、このおやじの役人嫌いも堂にいったモノだな。
初めてここを訪れたときのことが頭をよぎる。北川が役人であると告げた時の、あの、狼狽ぶりが。
ま、多かれ少なかれ、役人とは嫌われるモノではあるが……な。
「ま、あまり聞こえの良い物ではないが、役人の世界というのは何かと妬心の多い場所でな。先だっての拐かしの一件は、名家の関わりで、しかも大店の身内。実入りもよければ、上の方々への覚えもよくてな……やっかむ奴も多いのよ」
眉間の皺が消えぬ店主にむかって、北川は続ける。
「あの内蔵助のごとき昼行灯の北川が、突然見事な勘働きを見せたのは、何か秘密があるに違いない…とな」
「それで……お仲間の同心方がここに御詮議に?」
詮議とな。
さすがにこれには北川も参った。
もちろんその方面の心配はないではなかったが、ほんの軽口で始めた話で、詮議などという言葉を持ち出されてはたまったモノではない。
「いやいやおやじ、詮議などと……」
そのとき、銚子の頭をつかんで美代が近づいてきた。
「とおちゃん、おおげさ」
美代は一言で切り捨てた。
「おじちゃんが言ってるのは、半分はからかいだよ。それに、私達の事は何よりも秘密にしてるはずだよ、おじちゃんは」
そう言うと美代は、北川の前に銚子を置いて「ねぇ」と一言つぶやくと、また奥の七輪の前へと戻る。
「ほぉ、そりゃどういう事だい」
北川は微笑みながら、美代の背中に問いただした。が、言いたい事は、何となくわかっていた。
「私達の事がわかっちゃ、手柄を独り占めできやしないからね」
美代のあまりに素直な物言いに、北川は大声で笑う。
「うははははは、まさにまさに。いやなに、役人の世界もなかなかに面倒なモノだと言いたかっただけよ」
北川の軽やかな笑い声が仕合せ屋の薄明りの内側に満ちる。
そうだなぁ、やっぱりここはこうでなきゃいけねぇ。
北川は、その何とも気安い空気を感じて、心中でそうひとりごちる。
いや、しかし、ほんとにここは、極楽みてぇなところかもしれねぇ。
そんな自分の思いに、北川は自嘲気味に口の端を上げた。
うまい蕎麦を出すとはいえ、川岸のこんな小さな蕎麦屋台が極楽とは、えらく安上がりな蓮の台もあったものだが、ただ、今の北川には心の底からそのように思えていた。
というのも、今の今まで、北川はこの世の地獄にいたのだ。
役目がら、その目に見え耳に聞こえる事共は、残念なことに心胆寒からしめるようなことがそのほとんどだ。時として、ほっと心を優しく撫でるような出来事がないでもないが、そんなもの廓の内で嘘をつかない女郎を探すより難しい。
したがって北川も、見たくない光景に見慣れ、聞きたくない話は聞き慣れている、が。
北川が、いましがたまで目にしていた光景は、そして、その耳にした悪党の名は、その北川をして残り物の天ぷらを食べた時のように胸をむかつかせる、そんな地獄であった。
そんな、現実であった。
「お顔の色がすぐれませんが、大丈夫ですかい」
北川のいつもとはあまりに違う様子が、どうにも気になって仕方なかったのか、店主がそう恐る恐るたずねた。
いけねぇな、せっかく心持ちがよくなっていたところを。
「いや、なんでもないさ、ここは極楽みてぇなところだな、と、そう思っていただけだ」
「北川様は、蕎麦があれば極楽なのでしょう」
店主はあまりに場違いな褒め言葉に、あまりに見え透いた謙遜をする。
「それだけじゃ、ねぇよ」
そう、確かにここにはうめぇ蕎麦がある。しかしそれだけじゃねぇ、妙に気の利いた店主と、それになにより、こまっしゃくれた小さな観音様がおわしますじゃねぇか。
北川は、そんなこまっしゃくれた小さな観音。美代の背中をじっと眺める。
ああやって、七輪の中の紅く燃えた炭をじっと見つめながら、手をかざして暖をとる姿なんぞは、どこからどう見てそこいらで虫を追って走り回る子供と変わらない。江戸中の長屋に佃煮にするほどにいる、ただの子供だ。
しかし、その頭の中と来たら。
本当に、神仏のなせる業かもしれねぇな。
江戸の御府内で、様々な人を見てきた北川でさえそう思う。
先だっての拐わかしの一件は言うまでもなく。
その後、二度三度と北川がここを訪れる度に、美代はその顔色や声色、そして何かしらの小さな違和感や身なりの違いを見て取っては、あるいは、いったい何を見てそう思ったか北川自身にすらわからぬほどの些細な何かをもとに、あれこれと北川の心中を察して見せた。そしてその全ては、ぴしゃりと小気味よいほどに外れることはなかった。
その上、さかしらにそれを見抜いて手柄ぼこりをするようなことがないのがまた、子供らしくない。
しかし北川は、その子供らしさのない美代の子供らしくないところが、えらく気に入っているのだ。
もちろん、北川とて子供を見て可愛いと思わないという事はない。いや、子供であるだけでそれを見ればなにかしら可愛いものだ。しかし、触れ合ってみて可愛いと思ったことはほとんどない。ただただ煩わしいとしか思わない。そんな北川にとって、子供の見た目に大人の理知を詰め込んだ美代は、ある意味おあつらえ向きの話し相手と言えた。
「おい、お美代、ここに来て酌をしてくれぬか」
「もう、ここはそういうお店じゃないのに」
北川の願いに、美代は抑揚無くそう口答えをしたものの、とはいえ断ることもなく小走りに北川の側までくると、その隣にちょこなんと座った。そして、銚子に、その細く嫋やかで真っ白な指を添えて、ゆっくりと酌をする。
その手つき、その風情。やはり子供のものは思えない。
と、そんな美代に見とれていた北川は、美代の髪に先だって買い与えたかんざしが刺さっているのに気付いた。あれから後、来るたびに楽しみにしていたのだが、買い与えた当日以来刺してくることがなかったのだ。
「おお、やっとかんざしをつけてくれたか」
「おじちゃんのためじゃない」
お、てれてやがるのか?
北川がそう感じてニヤつくと、店主が口を挟んだ。
「いえね、美代の奴は、頂いた日からずっと、そいつを頭にひっつける練習をしていたんでございますよ。本人は、値のはるものだから落ちないように出来るまで外につけていけない。なんてぼやいてましたがね、どうやら気に入っているみたいですよ」
そうか、それは何よりだ。
と、美代が鋭く言葉を発した。
「言葉通りです。こんな値のはるものを素っ町人に与えたら迷惑になるってことくらいわかってくれなきゃ困る」
いつものように、冷たくそう言うと、美代はぷいっと後ろを向いてしまった。
あまりにひどい口のききようだが、当然北川も、もちろん店主もそれを咎めだてたりはしない。ただ二人で顔を見合わせて苦笑いするだけだ。
「そうかそうか、それはすまなかったなお美代。しかし、よく似合っておるぞ」
そう言って、北川は美代の頭に手を伸ばした。
「値のはるかんざしが素っ町人に似合うとは、さすがはお美代と言った所よな」
そういって北川は、そのまま美代の頭をなでた。
ところが、初めは迷惑そうでも黙ってなでられていた美代が、突然北川の手を乱暴に払った。
「ん?どうした、お美代?」
北川がいぶかしがって美代の顔をのぞくと、美代は蒼白な顔で、北川から視線をそらせると、店主の方へゆっくりと顔を向けた。
何かを訴えかけるように。
つられて北川も店主を見る。
「なんだ、いったいどうしたってんだ」
「い、いえ……気のせいかも知れませんがね……」
店主は、どうにも言いにくそうな感じである。
「おいおい、なにを隠しておる?」
今度は美代の顔をのぞき込む。
「よい、よいから申せ」
美代は、店主の顔を一瞬だけ見つめると、眉間に皺を寄せたまま、ゆっくりと、恐る恐る言った。
「おじちゃん……血のにおいがするよ」
北川はビクッとして、美代の頭に差しだしかけた手を止めた。
美代は続ける。
「人間の血のにおいだよう」
そう言って後ずさる美代を、北川はなんとも言いようのない微妙な表情で見つめた。
また何か、一騒動起こりそうな予感がしていた。
お江戸永代橋袂、蕎麦屋台仕合せ屋に、そんな明るい調子でやってきたのは、定町廻り同心の北川正五郎であった。つい先だって、この店の娘の助けで事件を解決して以来、ちょくちょく訪れる気の良い常連である。
「へぇ、北川様、いらっしゃいまし」
そんな北川に、店主は親しげに、それでも町人の分を守った丁寧さで挨拶をした。
「おう、お美代、元気にしておったか」
北川はそんな店主の挨拶を軽くあしらうと、いつものように奥まった辺りの七輪の前でじっと座っている美代に声をかけた。
美代は、聞こえているの聞こえていないのか、振り返ることもしない。
「ふむ、いつも通りで結構な事よ」
「あいすいませんです」
北川は、美代のいつも通りのそぶりにいつも通りに皮肉を言い、店主はいつも通りに謝った。
つまり、これが、いつも通りの流れ。三人の関係そのものと言っていいだろう。
「北川様、ご注文はなんにいたしましょう」
店主は、またいつも通りに注文をきく。
そして、いつも通りの注文を期待して、片方の手には蕎麦がひと束握られていた。
ところが北川は、いつも通りに頷くことはせず、長く重たいため息を一つついて、店主の予想を裏切った。
「いや、よい、それより今日は熱燗だけ、それでよい」
店主は少し小首をかしげ、それでも何事もなかったように頷く。
客が言わぬうちに、その心内まで聞きはしない、店主の粋な計らいである。
「へい、かしこまりまして……美代、熱燗だ、急ぎな」
そう言いながら、背後の美代を見ると、すでに銚子は鍋の中に沈められていた。
どうやら見透かされていたらしい。
「ふ、さすがはお美代と言ったところだな」
「あいすいません」
店主は、決まり事のようにそう口にすると、何やらごそごそと手元を探し、そして小鉢に入った何かを出した。
「なんでぇ、こりゃ?」
「へぇ、蕎麦の実を煎ったモノでございます」
店主はそういって北川の前にそれを差し出した。
そこには、ほんの小さな芥子粒の様な蕎麦の実が、ひとつまみほどむき実の状態で入っていた。とてものこと箸でつまめるようなものではない。
しかし北川は満面の笑みだ。
「そうかいそうかい、そう言われれば確かにこれは蕎麦の実。しかも口に入れる前からすでに、蕎麦のよい香りがほのかにしておるな」
北川は、まるで名品の茶碗でもほめるかのように、その小鉢をあらゆる角度からのぞき込むと、器に鼻を近づけ何べんも大きく鼻から息を吸った。
「うむ、まさに食欲のない人間にはこの上ない酒のアテ、美代もさすがだが、おやじもさすがというところだな」
北川は上機嫌でそう言うと、店主の方を見た。
「ありがとうございます、あたくしとしましても、こんな食べにくいモノは、本当に蕎麦が好きなお人にしか出しませんもんで」
店主はにこやかに微笑みながら言った。
まさに、気が利いているの一語以外に言葉のない、店主の心遣いだ。
「そう言うわけで、北川様もさすがの蕎麦好きって事です」
これには北川も、元々人の良さそうに垂れ下がった目尻をさらに垂れ下げてにやりと笑った。
「なんでい、おべっかくらいじゃなにも出ちゃこねぇぜ」
「いえいえ、本心でございますよ」
あまり聞かない店主のほめ言葉に、北川は、恥ずかしそうにこめかみの辺りをこりこりと掻いた。
こりゃ、どうやら気を使われているようだなぁ。
北川は、何やら面目ないような心持ちではあったが、おかげで、つい先ほどまで水を含んだ綿のようだった重たい気分も、少し和らいだように感じられる。
そこで、少し気になっていた事を、たずねる事にした。
「ま、それは良いとして、少し聞きにくいことを聞くが……良いか?」
「へぇ、なんでしょう?」
店主は、何気なく答えた。
「最近ここに、役人は来なかったかい」
北川はそう言って、店主の顔をのぞき込んだ。
「お、お役人でございますか?」
途端、眉根にしわを寄せて、店主はいぶかしげに聞き返す。
「ああ、そうだ、役人だ。それも、まぁ、大役人と言うよりは小役人。同心風情が来なかったかな……と思ってな」
言い終わって北川は、いま気づいたかの様な顔で付け加えた。
「ま、拙者も同心風情ではあるがな」
変にかしこまって、北川はそう言って笑った。
が、店主の方はこわばった表情のままである。
「北川様、まさかここの事を御番所でお話になったんで?」
声に、微かに緊張の色が乗っているようにさえ思えた。
北川は、店主の方にちらりと目をやって、その緊張をときほぐすかのようにやんわりと否定した。
「いやいや、そうではないのだ」
手の平をひらひらと泳がせながら店主の懸念を否定し、北川は、心の中でつぶやいた。
しかし、このおやじの役人嫌いも堂にいったモノだな。
初めてここを訪れたときのことが頭をよぎる。北川が役人であると告げた時の、あの、狼狽ぶりが。
ま、多かれ少なかれ、役人とは嫌われるモノではあるが……な。
「ま、あまり聞こえの良い物ではないが、役人の世界というのは何かと妬心の多い場所でな。先だっての拐かしの一件は、名家の関わりで、しかも大店の身内。実入りもよければ、上の方々への覚えもよくてな……やっかむ奴も多いのよ」
眉間の皺が消えぬ店主にむかって、北川は続ける。
「あの内蔵助のごとき昼行灯の北川が、突然見事な勘働きを見せたのは、何か秘密があるに違いない…とな」
「それで……お仲間の同心方がここに御詮議に?」
詮議とな。
さすがにこれには北川も参った。
もちろんその方面の心配はないではなかったが、ほんの軽口で始めた話で、詮議などという言葉を持ち出されてはたまったモノではない。
「いやいやおやじ、詮議などと……」
そのとき、銚子の頭をつかんで美代が近づいてきた。
「とおちゃん、おおげさ」
美代は一言で切り捨てた。
「おじちゃんが言ってるのは、半分はからかいだよ。それに、私達の事は何よりも秘密にしてるはずだよ、おじちゃんは」
そう言うと美代は、北川の前に銚子を置いて「ねぇ」と一言つぶやくと、また奥の七輪の前へと戻る。
「ほぉ、そりゃどういう事だい」
北川は微笑みながら、美代の背中に問いただした。が、言いたい事は、何となくわかっていた。
「私達の事がわかっちゃ、手柄を独り占めできやしないからね」
美代のあまりに素直な物言いに、北川は大声で笑う。
「うははははは、まさにまさに。いやなに、役人の世界もなかなかに面倒なモノだと言いたかっただけよ」
北川の軽やかな笑い声が仕合せ屋の薄明りの内側に満ちる。
そうだなぁ、やっぱりここはこうでなきゃいけねぇ。
北川は、その何とも気安い空気を感じて、心中でそうひとりごちる。
いや、しかし、ほんとにここは、極楽みてぇなところかもしれねぇ。
そんな自分の思いに、北川は自嘲気味に口の端を上げた。
うまい蕎麦を出すとはいえ、川岸のこんな小さな蕎麦屋台が極楽とは、えらく安上がりな蓮の台もあったものだが、ただ、今の北川には心の底からそのように思えていた。
というのも、今の今まで、北川はこの世の地獄にいたのだ。
役目がら、その目に見え耳に聞こえる事共は、残念なことに心胆寒からしめるようなことがそのほとんどだ。時として、ほっと心を優しく撫でるような出来事がないでもないが、そんなもの廓の内で嘘をつかない女郎を探すより難しい。
したがって北川も、見たくない光景に見慣れ、聞きたくない話は聞き慣れている、が。
北川が、いましがたまで目にしていた光景は、そして、その耳にした悪党の名は、その北川をして残り物の天ぷらを食べた時のように胸をむかつかせる、そんな地獄であった。
そんな、現実であった。
「お顔の色がすぐれませんが、大丈夫ですかい」
北川のいつもとはあまりに違う様子が、どうにも気になって仕方なかったのか、店主がそう恐る恐るたずねた。
いけねぇな、せっかく心持ちがよくなっていたところを。
「いや、なんでもないさ、ここは極楽みてぇなところだな、と、そう思っていただけだ」
「北川様は、蕎麦があれば極楽なのでしょう」
店主はあまりに場違いな褒め言葉に、あまりに見え透いた謙遜をする。
「それだけじゃ、ねぇよ」
そう、確かにここにはうめぇ蕎麦がある。しかしそれだけじゃねぇ、妙に気の利いた店主と、それになにより、こまっしゃくれた小さな観音様がおわしますじゃねぇか。
北川は、そんなこまっしゃくれた小さな観音。美代の背中をじっと眺める。
ああやって、七輪の中の紅く燃えた炭をじっと見つめながら、手をかざして暖をとる姿なんぞは、どこからどう見てそこいらで虫を追って走り回る子供と変わらない。江戸中の長屋に佃煮にするほどにいる、ただの子供だ。
しかし、その頭の中と来たら。
本当に、神仏のなせる業かもしれねぇな。
江戸の御府内で、様々な人を見てきた北川でさえそう思う。
先だっての拐わかしの一件は言うまでもなく。
その後、二度三度と北川がここを訪れる度に、美代はその顔色や声色、そして何かしらの小さな違和感や身なりの違いを見て取っては、あるいは、いったい何を見てそう思ったか北川自身にすらわからぬほどの些細な何かをもとに、あれこれと北川の心中を察して見せた。そしてその全ては、ぴしゃりと小気味よいほどに外れることはなかった。
その上、さかしらにそれを見抜いて手柄ぼこりをするようなことがないのがまた、子供らしくない。
しかし北川は、その子供らしさのない美代の子供らしくないところが、えらく気に入っているのだ。
もちろん、北川とて子供を見て可愛いと思わないという事はない。いや、子供であるだけでそれを見ればなにかしら可愛いものだ。しかし、触れ合ってみて可愛いと思ったことはほとんどない。ただただ煩わしいとしか思わない。そんな北川にとって、子供の見た目に大人の理知を詰め込んだ美代は、ある意味おあつらえ向きの話し相手と言えた。
「おい、お美代、ここに来て酌をしてくれぬか」
「もう、ここはそういうお店じゃないのに」
北川の願いに、美代は抑揚無くそう口答えをしたものの、とはいえ断ることもなく小走りに北川の側までくると、その隣にちょこなんと座った。そして、銚子に、その細く嫋やかで真っ白な指を添えて、ゆっくりと酌をする。
その手つき、その風情。やはり子供のものは思えない。
と、そんな美代に見とれていた北川は、美代の髪に先だって買い与えたかんざしが刺さっているのに気付いた。あれから後、来るたびに楽しみにしていたのだが、買い与えた当日以来刺してくることがなかったのだ。
「おお、やっとかんざしをつけてくれたか」
「おじちゃんのためじゃない」
お、てれてやがるのか?
北川がそう感じてニヤつくと、店主が口を挟んだ。
「いえね、美代の奴は、頂いた日からずっと、そいつを頭にひっつける練習をしていたんでございますよ。本人は、値のはるものだから落ちないように出来るまで外につけていけない。なんてぼやいてましたがね、どうやら気に入っているみたいですよ」
そうか、それは何よりだ。
と、美代が鋭く言葉を発した。
「言葉通りです。こんな値のはるものを素っ町人に与えたら迷惑になるってことくらいわかってくれなきゃ困る」
いつものように、冷たくそう言うと、美代はぷいっと後ろを向いてしまった。
あまりにひどい口のききようだが、当然北川も、もちろん店主もそれを咎めだてたりはしない。ただ二人で顔を見合わせて苦笑いするだけだ。
「そうかそうか、それはすまなかったなお美代。しかし、よく似合っておるぞ」
そう言って、北川は美代の頭に手を伸ばした。
「値のはるかんざしが素っ町人に似合うとは、さすがはお美代と言った所よな」
そういって北川は、そのまま美代の頭をなでた。
ところが、初めは迷惑そうでも黙ってなでられていた美代が、突然北川の手を乱暴に払った。
「ん?どうした、お美代?」
北川がいぶかしがって美代の顔をのぞくと、美代は蒼白な顔で、北川から視線をそらせると、店主の方へゆっくりと顔を向けた。
何かを訴えかけるように。
つられて北川も店主を見る。
「なんだ、いったいどうしたってんだ」
「い、いえ……気のせいかも知れませんがね……」
店主は、どうにも言いにくそうな感じである。
「おいおい、なにを隠しておる?」
今度は美代の顔をのぞき込む。
「よい、よいから申せ」
美代は、店主の顔を一瞬だけ見つめると、眉間に皺を寄せたまま、ゆっくりと、恐る恐る言った。
「おじちゃん……血のにおいがするよ」
北川はビクッとして、美代の頭に差しだしかけた手を止めた。
美代は続ける。
「人間の血のにおいだよう」
そう言って後ずさる美代を、北川はなんとも言いようのない微妙な表情で見つめた。
また何か、一騒動起こりそうな予感がしていた。
0
お気に入りに追加
74
あなたにおすすめの小説
鈍牛
綿涙粉緒
歴史・時代
浅草一体を取り仕切る目明かし大親分、藤五郎。
町内の民草はもちろん、十手持ちの役人ですら道を開けて頭をさげようかという男だ。
そんな男の二つ名は、鈍牛。
これは、鈍く光る角をたたえた、眼光鋭き牛の物語である。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
忘却の艦隊
KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。
大型輸送艦は工作艦を兼ねた。
総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。
残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。
輸送任務の最先任士官は大佐。
新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる