鈍牛 

綿涙粉緒

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序章 鈍牛

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「で、どうなんだい」

「へぇ、寒川さむかわの一件、ありゃ仁助にすけのやり口に違いないと、秋川様も太鼓判でござんしたよ」

つばくろの野郎で間違いねぇ、秋川様がそう言いなすったんだな」
 
 さて、ちょっとやそっとでは起きないだろうほどに深く眠りについた千勢を股ぐらに押し込めたまま、藤五郎は恭しく仕事の話を再開させた。

 藤五郎が五平に訪ねたあの件。

 それは先日、大川端の茶屋『寒川』で起きた押し込みの一件。

 ここひと月あまり、忌々しくも藤五郎の縄張りでばかり起こる、小商いの店を狙った、どう見てもひとり働きにしか見えない立て続けの押し込み騒ぎ。その下手人と思しき人物こそ、燕の仁助なのである。 

「へぇ、間違いなく」

 秋川様とは、北町の定町廻同心の秋川小十郎という侍で、えらくこの件にご執心であると噂の男だ。

「そうかい、ならそうなんだろうな」

 嗅ぎまわることに関しては藤五郎の上を行く五平。

 さすがに今回の件でその人物を飛ばして話を聞いて回るというようなうかつなことはしない。

「秋川様が言うには、今回もご丁寧に仁助と名のへぇった木彫りの燕が置いてありましたし、その細工の様子からもこれまでの仁助の仕事に間違いねぇだろうってことでさ」

「で、いつも通り」

「なくなっていたのは、店においてある金のきっかり半分だったそうで」

「人死には」

 聞かれて五平は口ごもる。

「なんでぇ、人死にがあったのかい」

 これまで燕の仁助は人殺しを働いてはいなかった。

 犯さず殺さず、しかも店の金の半分は残していくということで、義賊とまではいかないものの浅草芸者の間ではもちろん深川の姐さん連中の間でもえらく評判になっているくらいのモノであったのだが。

「へ、へぇ、今回ばかりは一人。奉公人で流れ板の忠兵衛ってぇ小男がバッサリと」

「バッサリ?」

「ええ、一刀のもとに」

「それも秋川様に?」

「いや、これはさすがに北町の同心方何人かと、あとは死体を検めた八助親分に」

「そうか、あの日の当番は八助だったな」

 八助とは、上野あたりを縄張りにする目明しで、藤五郎とは旧知の仲だ。

「おめえが話を聞いた同心方は仏さんを検分したのかい」

「いいえ、ちがいますぜ、あっしが出向いた日にゃ死体を検めたお役人は二人とも非番でして」

「そうかい」

 藤五郎はそう言うと、ゆっくりと顎をさすった。

「とにかく、これで全部でござんすよ」

「ぜんぶ、か」

 五平の言葉に、藤五郎は「ううむ」とうなると腕組みをはじめた。

 そして、基本、藤五郎はこの姿勢になったら時の経つのも忘れて動かなくなるのだ。

 こりゃ長っちりになるかな。

 五平は参ったとばかりに小さく長い息を吐いた。いつぞやは、藤五郎のわきに控えたまま二晩動けなかったことさえあるのだ。とはいえ、ふいに思いついたように五平に使い走りを命じて、そしてそれをきっかけに数々の事件を解決してきているものだから、五平もその場を動くわけにはいかない。

 そしてこの、動かざること山の如しな姿こそ、藤五郎をして「鈍牛」と二つ名される由来のなのであるが。

 まあ、とにかく五平は相応の覚悟をして藤五郎をじっと見つめた。

 の、だが。

 なんとこの日ばかりは、藤五郎がすっとだしぬけに立ち上がったではないか。

「親分待ってくださいよ。いったい、どうしたんですかい?」

 あまりのことに、五平は目をむいて口走る。

 しかし藤五郎は、そんな五平をじろりと睨むと「おかしいかい」と一声かけて土間に降り、そそくさと草鞋を履きはじめた。

「ど、どこに行かれるんで?」

 地獄の閻魔ですらひるもうかという藤五郎の睨みに冷や汗をかきながらも、五平は行き先を尋ねる。

 そもそも、藤五郎が五平に声をかけなかった以上、五平としては厄介事に首を突っ込む必要はない。いくら目明しと手下の関係とはいえ、頼まれもせずに仕事を手伝うわけではないのだ。

 よって、普段なら、行き先を尋ねるなどという自ら厄介事を迎えにゆくようなことはしないのだが、五平としては、それ以上に、腰の軽い鈍牛なんぞという珍かなものへの興味が勝ったのである。

 きっと、なにかとんでもねえところに顔を出しに行くに違ぇねえ。

 五平は、固唾をのんでその答えを待った。しかし、だ。

「寒川に決まってるじゃねぇか」

 その答えは、藤五郎らしからぬ間抜けな答えで、五平は拍子抜けした声で繰り返す。

「寒川って、今からですかい?」

「まずいのかい」

「いや、まずかぁねえんですけど」

 今いったところで、寒川にはもう何も残ってはいない。

 言うまでもなく、北町と火盗改かとうあらためが根こそぎ色々持っていたあとだ。今回の押し込みの関するものは血しぶきひとつも残っておらず、清めの塩を拝むくらいの事しかできないことは藤五郎も周知のはずである。

 にもかかわらず、腰の重い鈍牛が、わざわざ行こうと言い出したのだ。

「要りますかい、それ」

「うるせえ、念の為だ」

「へぇ、それはなんとも……珍しいこって」

 そう五平がもらすのも無理もないことであった。

「おめぇがどう心得ているかは知らねぇが、俺は働き者なんでね」

 藤五郎は、五平の困惑など気に留める様子もなくそう言い放つと、さらに意外なことを口走った。

 本当に、予想だにしないことを、だ。

「千勢、おめぇもこい」

 さすがの五平も、この一言は聴き逃がせない。

「ちょ、親分。まさかガキ連れて行こうってんじゃないでしょうね」

「悪いか」

「悪いも何も、あんなところ、子供を連れて行っていい所じゃござんせんよ」

 確かに、今ではもうすっかり清められているとはいえ、そこは人間が惨殺された場所だ。

 大人ですら気色が悪いというのに、子供なんぞを連れていっては、どんなたちの悪いものに取り憑かれても文句は言えない。いや、それ以前に、こういう仕事は子供連れでするもんじゃない。

 しかも普段なら、子供好きの藤五郎が一番嫌がりそうなことですらある、の、だが。

「うるせぇ、いやならてめぇは来なくて構わねぇ」

 藤五郎はそう言うと、千勢の細く白い手を乱暴にひっつかむやいなや五平に一瞥もくれることなくすたすたと長屋を後にした。その時、戸口でちらりと見た千勢の顔は、その勢いに一層顔を青白くさせていたように見え、その瞳はおびえきっているようにも見えた。

 その心細そうな瞳が、五平の心に鈍い痛みを刻む。

 ったく、この大親分さんは何をそんなにいているんだか。

「ええい、もう、あっしは知りませんからね」

 そう忌々しげにつぶやくと、五平は、その奇妙な二人連れの後を不平たらたらで着いていくことにした。
 
 
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