Blue Spring Girls ~ハルヲアイスルヒトハ~

綿涙粉緒

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第2章 2学期

小さな双子のお父さん ~September 安里ミカ~

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 シャワーの音が聞こえる。

 あの男が狭いユニットバスに消えて、もう二十分にもなる。
 太るにまかせた水風船のお化けのようなあいつのことだ、きっとあちこち浴室の壁にぶつけながら丹念に体を洗っているのだろう。

 丹念に、丹念に、私の痕跡をぬぐっているのだろう。

 臭いを、汗を、汗でない液体を。

 可愛い奥さんのため、二人の娘のため。
 おとうさんでありつづけるため。

 私は、ベットの下に落ちているスマホを拾って青白く光る画面を眺めた。

 そして、静かに笑った。



 夜の街でお金を稼ぐようになって、そんなことをする男は今日のこの男が初めてだった。
 そいつは、私を抱く前にスマホで家族の写真を見せはじめたのだ。

「これが奥さんで、こっちの二人が娘……」

 糸のように細い目を頬の肉にうずめながら、男は微笑みながら言った。

 白い、小さな家の前での家族写真。

 たぶんそれだけが自慢なのだろう真っ黒なストレートヘアの小さい顔の女、たぶん奥さん。
 そして、同じストレートの髪を同じ仕草でつまんでいる二人の女の子。
 一目で双子だとわかる二人の少女は、これも同じように眩しそうな目でカメラのレンズを見つめている。

 たぶん、無邪気なその二つの瞳の向こう。
 そこには、今と同じように崩れそうな微笑みをたたえたこの男の顔があるのだろう。
 何も知らない黒い瞳には、今、私の瞳に写っているのと同じモノが写っているのだ。

 吐き気がした。
 私は、二人の少女から目をそらす。

 そこには、窓の外の安っぽい夜景が、演歌歌手の舞台衣装のようにちらちらと輝いていた。
 ガラス一枚向こうにある、スポットライトを待っている安っぽい世界。
 そのスポットライトは今、私に向かって降り注いでいる、女子高生の衣装を着た私に。

 いや、ちがう。

 きっと本当にスポットライトを浴びているのは三年目のこのセーラー服の方なんだろう。
 もう、香水の香りと雑踏のすえた臭いしかしない。
 チョークの臭いもワックスの臭いも印刷物の臭いも、すっかり消えた私のセーラー服。

 そう、そんな、女子高生の衣装に包み込まれた私を、私自身を、お客は求めていない。

 中身なんて、関係ない。

 たとえるなら、小さな子供に与えたキャンディー。
 包み紙の綺麗なものから消えていく、そんな安っぽいキャンディー。
 最初から、この男に、私の姿なんか見えてはいない。

 そんな私の隣で、男はまだ家族のことを話している。

 でも私は、その一割も聞いちゃいない。
 そして男もまた、そんなことは気にしてもいない。
 彼が求めてるのはそんな事じゃないし、私が与えるのはそんなモノじゃないから。

 そう、そこに感情や感傷のはいる余地はない。そんなこと、初めからわかってる。

 溜息と共に、私は、キャンディーだ何だという妄想を作り笑顔で振り払った。
 無邪気な子供の顔を見たからだろうか、そんなバカな妄想が頭に浮かんだのは。

 あほみたいだ。

 微笑みながら前髪をかき上げ、もう一度窓の外を見た。出番待ちの世界の方を。

 当たり前のことだけど。
 スポットライトを浴びているのが衣装だろうが私自身だろうが、何の関係もない。
 
 そこに、衣装の通りの身体が入っているかどうかさえも。

 包み紙が本物なのかなんて。
 包み紙の中にあるものが本当にその味なのかなんて。
 関係ない、知らない方が安全だし、知る必要もない。

 スポットライトを浴びて舞台にいる以上、私は仕事をこなす。
 そうそれだけ、それだけだ。

 私はもう一度微笑んだ。
 窓に映る自分を見ながら、ちゃんと出来てるか確かめながら。
 仕事用の、作り込まれた無邪気な少女の顔を。

 そのとき、ふと、窓に映るもう一人の私と目があった。
 同じような無邪気な微笑みを私に投げかける、セーラー服の少女に。

 と、同時に、私の瞳はその少女の前で凍った。

 なぜなら、その少女は、香水の香りも雑踏の臭いもない普通の女の子に見えたから。
 自慢の長い黒髪、大きな瞳と小さな唇。
 オレンジ色の白熱灯の下でもそうとわかる白い肌。

 それは、ただ無邪気に今を生きる、無垢な少女のように見えたから。

 そして彼女は、凍りついた私をじっと見つめていた。
 窓の外、出番待ちの世界の方から。

 いつの間にか少女から微笑みは消えていた。
 でも、私を見つめるその瞳は、潤んだように輝き続けている。
 なにかを訴えるように。
 今にも泣きそうな顔で、なにかを伝えたい表情で。

 私を見ていた。

 そして、私の心と裏腹に。
 もう一度微笑んだ気がした。

 その瞬間私はヒッと息を呑んで、急いで窓から目をそらした。

 私の、いや、窓の少女の微笑みが、瞳が、あまりにも無邪気だったから。
 仕事用でもない、作り込まれてもいない。
 心の一番深い暖かな所からしみ出してくるような、そんな、とても素敵な表情だったから。
 思わず、微笑み返してしまいそうだったから。

 そこにいるのが、間違いなく私だったから。

 そんなはず、そんなはずない。

 私の笑顔は、今の私の瞳は、仕事用の嘘。演じられた私、脚本の中の私。
 偽物のもう一人の私。

 私は、逃げるように、もう一度男の写真を見た。

 そこには無垢な微笑みを浮かべる、二人の少女がいる。
 窓に映る私のように、同じ瞳で、同じ微笑みで。

 私と同じ、二つの顔で。 

 ふいに、体中の毛穴を泡立たせるような寒気が私を襲い、すがるように、私は、男に飛びついていた。

 何か大きな、大きな暖かいものにすがりつかずにはいられなかったから。
 大きな優しさの中に、飛び込みたかったから。
 たとえ、たとえそれが錯覚なのだとしても。

 私は、男の柔らかな体温が、血の熱が。
 この凍てついた痛みを、安らぎと共にゆるゆると溶かしてくれることを願った。
 写真の少女の父のような、おとうさんのようなぬくもりで。

「いったいどうしたの」

 男はそう言って、私の髪を優しく撫でた。

 そしてそのまま、いったん私を引き離すと、期待通りのやさしい微笑みで私を見つめた。
 細い瞳が頬の肉に埋もれた、崩れそうな笑顔で。
 ふたりの可愛い双子を見つめるのと同じ、おとうさんの笑顔で。

 その笑顔に、思わず微笑みと共に涙があふれそうになった。
 そこに、私がなくしたなにかがあるような気がした。
 
 ほんの少し前まで持っていた。
 みんなと同じように持っていて、当たり前だと思っていた。

「大丈夫?」

 男の声は、どこまでも優しい。

「うん」

 私はもう一度、男の柔らかい身体に抱きつこうと決心した。
 そして、そこに、ある大切なモノに触れたいと思った。

 しかし、素早く首の後ろに腕をまわした私を、男は両腕を突っ張って、言った。

「急がなくてもいいじゃない、ちゃんと払うものは払うから」

 引き離された私を見つめるその男の顔から、さっきまでの微笑みは消えていた。
 かわりに、今まで何度も見たお客の顔が、そこにはあった。

 急にぼやけた世界。
 
 私はブルリと震えた。
 体中の血液が、毛穴の一つ一つから蒸散し、体温を奪っていくような錯覚に囚われた。

 そんな私に気づくこともなく、男は私の耳に顔を寄せる。
 そして、秘事をうち明けるかのように言った。
 とても嬉しそうに、とても幸せそうに。

 耳の腐り落ちそうな、言葉を。

「それでさ、お願いなんだけどさ」

「やってる最中ボクのことお父さんって呼んでくれないかい」

「娘にそっくりなんだ、君。笑顔が特に」

「ほら、ちゃんとそのぶんはずむからさ」

「ね、いいだろ」

 男はヘッドボードの上の財布から、数枚の紙幣を抜いて私の手に握らせた。
 それは、相場のほぼ倍の枚数だった。

「にてない」

 紙幣を握りしめながら、私は絞るようにそう呟いた。

「ん、なに、なんか言った」

 男の問いに、私は、頭を大きく振ってそして微笑んだ。
 百点満点の理想通りの笑顔で。

 誰にも似ていない、作り物の笑顔で。

「いいよ、お父さん。来て」

 その一言で、嬉しそうに、男は私を押し倒した。

 男の呼吸の下で、私は、何度も何度も「お父さん」と叫んだ。

 突き上げるリズムに合わせて。
 速度を上げる呼吸に合わせて。
 男の高まりに合わせて。

 何度も何度も。

 その言葉が、意味を失うまで。
 ただの記号に成り下がるまで。

 何度も、何度も、何度も。

 そして、その最中、一度だけ窓に映る私の顔と視線を合わせた。
 夜を背景にした窓に映る、激しき上下する私の顔。
 甘い声を吐き、だらしなく口を開けた私の顔。
 
 その顔は、よく見えなかったけどその顔は。
 私の顔そのものだったような気がする。

 スポットライトを浴びた演技者そのものの、今の私の顔。
 本当の、私の、顔。

 声がかれるほど、私は叫び続けた。

 「おとうさん」「おとうさん」「おとうさん」「おとうさん」「おとうさん」

 満足そうに男が果てるまで、私の叫びは狭い部屋に響いた。

 私の心は、もう、何も感じてはいなかった。 



 拾い上げたスマホを元に戻して耳を澄ます。
 男は、まだシャワーを浴びているようだった。

 湿った身体の上に、そのまま制服を着る。
 汚れきった身体に張り付く、制服の感触。
 それでも、もう今日は、シャワーを浴びる気がしなかった、
 
 私はヘッドボードの上の紙幣をつかみ浴室の方へと歩いた。

 男は鼻歌を歌っていた。

 私の知っている、子供向けのアニメの主題歌だった。
 歌に混じって、まだシャワーの音は続いている。

 かまわず、私はゆっくりとノブに手をかけると、息を整えてドアをそっと引いた。

「どうしたの、もう行くの」

 たいして驚きもせず、男は泡まみれの体でそう言った。
 私は無言でうなずく。

「そうなの、じゃあね。今日は楽しかったよ」

 男は、言いながら頭の泡をシャワーで落とす。
 そして、そうすることが彼なりの礼儀であるかのように、タオルで顔の水気を拭き取ってから。

 丁寧に頭を下げた。

 さっきまで、娘の名で呼んでいた、身体に。

 私は少し頭を傾けて、男の顔も見ずにゆっくりと扉を押した。
 そして、扉の閉まる瞬間、シャワーの音にまけない声で、そのすべてに別れを告げた。

「さよなら、おとうさん」

 返事を確認することもなく、私は急いで扉を閉めた。
 そして早足で部屋を出て、振り返らずホテルをあとにした。

 息を切らして外に出る。
 外は九月の夜の肌寒くなってきた空気に満ちて、風が火照った頬に心地よく吹き付けてくる。

 目の前には夜の街。
 私はまた、出番待ちの世界へと帰ってきた。

 大きく一つ息を吐いてから、私は人の声のする方に歩き始める。

 再びスポットライトを浴びるために。

 歩きながら、スカートを折り曲げてその丈を短くする。
 スマホを開いてメッセージを確認する。

「ホ別30K……か」

 遠くで、やかましくクラクションが鳴った。

 朝まで、まだ、時間はたくさん残っている。
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