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第1章 1学期
香り仄かに ~July 白浜ユリ~
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不思議になるくらい、いつもと変わらない朝だった。
いつもの部屋にいつもの音楽。
いつも通りに窓を開ければ、夏の湿った空気と共に、側溝のどぶ臭さが懐かしく臭ってくる。
こうしてると、いかに自分が家族と関わりなく生きてるかが実感できる。
四畳半の私の部屋。ここだけが、私の世界。
「これじゃあだめだよ」
私は呟きながら机を開け、奥にしまってある滅多に開かないアルバムを引きずり出す。
写真好きの父の趣味だった、今どき珍しい”アルバム”。
微笑むうさぎさんとくまさんの表紙。
ちっとも可愛くないのに、もらった時は喜んだ覚えがある。
それが、家族の喜びにつながることを知っていた、かわいげのない可愛かった頃の私。
最初のページを開く。
赤ん坊の私が、そこでにこやかに笑っている。
私には、それさえ媚びているように見えた。
さすがにそれはないかな。
父の写真も、もちろんある。
若くて、少しいい男の父は私に頬を寄せ満面の笑みだ。
ひとのよさと優しさ、さらに誠実さまで兼ね備えてしかも少しいい男。
できれば、このころの父に会いたかったものだと、娘の私ですら思う。
母も、べた惚れだったんだろうな。
今じゃすっかりおじさん臭くなって。
それでいて人の良さそうな表情だけは変わらないから、ややきもい父。
好きだと強く思ったことはなくても、けして嫌いではなかった。
その人は、もうウチには帰ってこない。
離婚が成立したのは昨日。
そして、今日は父が他人になったはじめての日。
だから、感傷的にならなきゃいけないんだ。
それが、家を去った父へのせめてものはなむけ。
なのに、少しもそんな気分にならない。
アルバムの次のページをめくる。産着にくるまれた私と母。
たぶん父はカメラのこっち側。背景は、我が家。
写真の家は、二十代にして会社社長でお金持ちだった父が、土地から買って建てた家。
少し浮かれすぎのサーモンピンクの外壁。
日本人が住んでいるとは思えない庭。
ライオンの飾りの付いた重厚な玄関の扉……。
さぞかし住みづらかったに違いない。
幸運なことに私にこの家の記憶はない。
この家が建った次の年、私が生まれた。
そして次の年。
一人っ子である母の父、つまり私の祖父が脳梗塞で倒れ寝たきりになった。
そしてお人好しの父は、なんの躊躇もなく新居を会社の部下に貸した。
そして、母の実家である今のボロ家に引っ越した。
「その人は、僕の父さんでもあるじゃないか」
母から聞いた、その時の父の言葉。
まさに、模範解答だ。
だから私にとってこのボロ家が、私の家なのである。
父と母と寝たきりの祖父と、そして私が暮らした幸せな我が家。
でも、それももう終わり。
祖父が抜け、父が抜けたこの家には私と母の二人だけ。
広い家に、私と母の二人……。
……広い家か、良いな。
いや、だめだめ、このアプローチも失敗。
今日は父と、幸せだった家族を思ってしんみりしなきゃいけないのに。
隣の居間から、母がお経を唱える声が聞こえる。
祖父が死んで以来毎日、暇さえあればこうだ。
それまで、仏壇のお花なんか替えたこともない母が、突然信心深い仏教徒になった。
父がいなくなると言うのは、それほどに大きいことなのだ。
っても、死んだ訳じゃないしな、お父さんは。
そう言えば、私にとっての家族の崩壊は、祖父の死をきっかけに始まったんだな。
と、今更ながらに思ってみたりする。
父と母の間では、もうずいぶん前から話は付いていたらしい。
祖父の初七日の法要が終わった夕方、父が突然私に離婚のことを切り出した。
「おじいさんを見送ってあげるまでは、夫婦でいようと決めてたんだ」
そう言った父は、祖父の遺影の前だったからか、妙に神妙な顔をしていた。
母は、後ろで泣いていた。
私は……。
律儀な父を思って、少し笑いそうだった。
駄目だ、もう根本的に無理なのかな。
言い訳させてもらえば、決して私が不義理な娘というわけではない。
だってそうでしょ、勝手に結婚して勝手に私を産んで勝手に離婚して。
それで、私に何を思えっていうんだ。
私のことだってちゃんと考えた、何て言わせない。
だったら、離婚しなきゃ良いんだ。
もし、どうしても、どう頑張っても離婚したかったとしても。
祖父のせいなんかにせずに、もっと早く別れてれば良かったんだ。
私が、多感な思春期を迎える、もっと前に。
父さんの馬鹿やろぉぉ……。
て、無理があるなこの流れは。
何がいけないのかな。
こうまで悲しめないんじゃ、なんか父がかわいそうだ。
これで、父にはよそに若い女の人が待ってるとか、ない。
母に実は若い男がついてるなんて話でもあれば……うん、ない。
もしくは、祖父の財産とか、後は母の借金、とか。
ああ、、もう絶望的にないね。
誠実な父、清楚な母、裕福な家庭に父母共に一軒家持ち。
そして、異常にモノわかりの良い娘。
まあ、二十年目の性格の不一致も、この整った条件下では立派な離婚原因。
二人の胸の内はわからないけど、気の毒がってる周りの方が気の毒なくらいあっさりとした離婚。
慰謝料もなければ調停もない。
もちろん物わかりの良い娘に親権争いの火の粉はかかってきそうにない。
しかも、時代は離婚くらいのことでは珍しがってくれないし。
なんか、馬鹿らしくなってきたな。
スマホの画面を見る。
今日は十四時から友達と市営プールに行く予定がある。
最近大学生の彼氏ができたらしいアオイと久しぶりに遊ぶのだ。
出来ればそれまでにしんみりしておきたい。
その後じゃたぶん疲れている上におなかも減ってるから。
そだちざかりの私がしんみりできる気がしない。
現在十一時、あと三時間。
きちんと寝とかなきゃって思うと眠れないのと一緒だな。
時間を意識してしまった以上、もうしんみり出来ないような気がする。
でも、このまましんみりしないままで終われるほど、わたしは父のことが嫌いではない。
はずだ、うん、間違いない。
いや、むしろ大嫌いで仕方がないくらいだったら特別な感情もわくのかもしれない。
でも、嫌いじゃないしなあ。
人生って、矛盾だらけである。
なんて、哲学者を気取ってみてもなんの解決にもならない。
はあ、父さん、不義理な娘を許してね。もうどうやっても無理そうです。
別に、実感がないというわけでもないと思う。
今にもその扉の向こうから、父が「よう」何て言いながらあらわれる……。
なんて事は今までだってなかったし。
だいたい仕事の忙しい父は、家にそうそう頻繁にいたわけじゃない。
家庭サービスだって少な目で、いいお父さんとしては合格点にはほど遠い。
実感がわく以前だな。
ううん、どうやら悪いのは父の方だ。
やめた、麦茶でも飲もう。
麦茶を取りに、とっても行きづらいのだけど、居間を通って台所へ向かう。
当然のように、母がお経を唱えていた。
「だいじょうぶなの」
私の登場に、突然お経を唱えるのをやめて母がたずねた。
「なにが?」
失言だな、と思ったときにはもう遅い。
母の表情は見る見る曇ってゆく。
「なにがって、寂しくないの。そんな風に言ったら、お父さんがかわいそうだわ」
はあ、誰のせいでそのような状況になっているのかは、この際無視なんですね。
そりゃ良いけど、いくらなんでも別れたての旦那を気遣うのはおかしくないか。
「そんなこと言っても、なんでもないくらいに思ってなきゃやってられないでしょ、これからは二人なんだから、強くなきゃ駄目なの」
嘘、満載だ。
しかも、その嘘満載の言葉に、母は涙ぐんでいるように見える。
麦茶は却下。
急いで、部屋に戻ろう。
部屋に帰って扉を閉めると、なんだか母がうらやましくなってきた。
だって、女はああでなきゃって気が、しなくもない。
実父の仏壇の前で、別れた旦那を思って涙ぐむ未亡人。
善し悪しは考えないとして、絵になることは間違いない。
時間を気にしながら、しんみりしようと努力する娘。よりは数倍正常だ。
どうせ私は異常ですよ。
母へのかすかなあこがれは、だんだんと怒りに変わってきた。
たとえ絵になっても、私はあんな女にはならない。
すぐ何かあるとめそめそして、父がいるときも頼ってばっかりの弱い女。
深入りを嫌う娘には、どちらから別れを切り出したのかはわからないけど、私が父でも愛想は尽きる。
いや、でも案外、男はああいうのが好きなのかもしれない。
やっぱ、変なのは私か。
はあ、なんだか、もうどうでも良くなってきた。
はっきり言って、私には関係のないことのようにさえ思えてきた。
結局、当事者は母と父で、私は部外者なんだよね。
そりゃ確かに。
出てゆく父を哀れんでやって父のいない家を寂しく思ってやれないのは不義理だよ。
でも、母があれだけグジグジしてるんだから、十分な気がしてきた。
もうやめた、今度は本気。
私は、開きっぱなしのアルバムを閉じて机にしまう。
その時、窓の外からいつもと同じどぶの臭いに混じって、少し刺激的な甘い匂いが香ってきた。
もしかして、この香り。
窓から顔を出して、外を見る。
するとそこには、一輪の白百合が少しうつむき加減に花を咲かせていた。
「やっぱり、もうそんな季節かあ」
祖父の死、両親の離婚と続いたせいで、すっかりこの白百合のことを忘れてた。
私と同じ名前を持つ花、私の誕生日の頃に花を咲かせる白百合の花。
いつもこの場所に、毎年一本だけお父さんが植えるんだ。
そして、毎年花が咲くたびに、私と二人、ここでその花の咲く姿を眺めるんだ。
お父さんに教えてあげなきゃ。
そう思ってはっとした。一瞬、父がいないことを忘れていた。
その時、父の笑顔が私の脳裏をよぎった。父の声が、耳をかすめた。
「僕はね、この花の咲くのを見るたびに、君の名前を百合にして良かったなって思うんだよ」
私は、そう話す父が大好きだった。
私の名前を、一番誇らしく思えるその時を、私は愛していた。
「そか、もうお父さんはいないんだね」
口に出していったとたん、私の瞳から、抑えることの出来ない涙が溢れた。
もう、ここに父はいない。
もう、私の名前の由来を嬉しそうに語ってくれる父は、いない。
もう、二度とこの花を私と見つめてはくれない。
もう、二度とこの場所にこの花を植えてはくれない。
もう、二度と、白百合は、ここには咲かない。
もう、もうお父さんは、いないんだ。
「やだよぅ、そんなの」
私は、隣にいる母に聞こえないように、声を押し殺して泣いた。
父の顔と声が、交互に浮かんでは消える。
小学生の時、中学生の時、一昨年、去年。
何度も何度も、いつも同じ話を、本当に嬉しそうに話してくれた父の姿が。
いつも私の隣にいるた父の姿が、浮かんでは消えた。
いつも、この白百合を大事そうに育てていた父が、今、いない。
毎年、私の隣で笑っていた父が、今、いない。
来年も、そのまた次も、私が大人になって子供が生まれても。
ずっと、ずっとここで笑っていて欲しかった。
私の子どもにも、同じように私の名前のことを話して欲しかった。
いつまでも、私を見つめていて欲しかった。
いつまでも、お父さんでいて欲しかった。
あんなに出てこなかった涙が、今はもう止まらない。
声を抑えるのに精一杯で、他のことになんか気が回らなかった。
そのまま、どのくらい泣いただろう。
机の上で突っ伏していた私に隣から母の声が聞こえた。
「百合ちゃん、そろそろ準備しなきゃでしょ」
私は、涙目をこすりながら時計を見た。
十三時半、まずい、遅れる。
わたしは速攻で起きあがり、タンスから水着を引き出した。
まずいなあ、どれ着ていくか決めてなかったんだ。
三着の水着を広げたりかざしたりしているわたしの瞳から、いつのまにか涙はきえていた。
窓の外から、また仄かに白百合の香りが漂ってくる。
「ごめんねお父さん、来年はわたしが植えるから、許して」
そう呟いたわたしの心は、もう夏空のプールへと飛んでしまっていた。
窓の外には入道雲。
気温がまた少し、上がったような気がした。
いつもの部屋にいつもの音楽。
いつも通りに窓を開ければ、夏の湿った空気と共に、側溝のどぶ臭さが懐かしく臭ってくる。
こうしてると、いかに自分が家族と関わりなく生きてるかが実感できる。
四畳半の私の部屋。ここだけが、私の世界。
「これじゃあだめだよ」
私は呟きながら机を開け、奥にしまってある滅多に開かないアルバムを引きずり出す。
写真好きの父の趣味だった、今どき珍しい”アルバム”。
微笑むうさぎさんとくまさんの表紙。
ちっとも可愛くないのに、もらった時は喜んだ覚えがある。
それが、家族の喜びにつながることを知っていた、かわいげのない可愛かった頃の私。
最初のページを開く。
赤ん坊の私が、そこでにこやかに笑っている。
私には、それさえ媚びているように見えた。
さすがにそれはないかな。
父の写真も、もちろんある。
若くて、少しいい男の父は私に頬を寄せ満面の笑みだ。
ひとのよさと優しさ、さらに誠実さまで兼ね備えてしかも少しいい男。
できれば、このころの父に会いたかったものだと、娘の私ですら思う。
母も、べた惚れだったんだろうな。
今じゃすっかりおじさん臭くなって。
それでいて人の良さそうな表情だけは変わらないから、ややきもい父。
好きだと強く思ったことはなくても、けして嫌いではなかった。
その人は、もうウチには帰ってこない。
離婚が成立したのは昨日。
そして、今日は父が他人になったはじめての日。
だから、感傷的にならなきゃいけないんだ。
それが、家を去った父へのせめてものはなむけ。
なのに、少しもそんな気分にならない。
アルバムの次のページをめくる。産着にくるまれた私と母。
たぶん父はカメラのこっち側。背景は、我が家。
写真の家は、二十代にして会社社長でお金持ちだった父が、土地から買って建てた家。
少し浮かれすぎのサーモンピンクの外壁。
日本人が住んでいるとは思えない庭。
ライオンの飾りの付いた重厚な玄関の扉……。
さぞかし住みづらかったに違いない。
幸運なことに私にこの家の記憶はない。
この家が建った次の年、私が生まれた。
そして次の年。
一人っ子である母の父、つまり私の祖父が脳梗塞で倒れ寝たきりになった。
そしてお人好しの父は、なんの躊躇もなく新居を会社の部下に貸した。
そして、母の実家である今のボロ家に引っ越した。
「その人は、僕の父さんでもあるじゃないか」
母から聞いた、その時の父の言葉。
まさに、模範解答だ。
だから私にとってこのボロ家が、私の家なのである。
父と母と寝たきりの祖父と、そして私が暮らした幸せな我が家。
でも、それももう終わり。
祖父が抜け、父が抜けたこの家には私と母の二人だけ。
広い家に、私と母の二人……。
……広い家か、良いな。
いや、だめだめ、このアプローチも失敗。
今日は父と、幸せだった家族を思ってしんみりしなきゃいけないのに。
隣の居間から、母がお経を唱える声が聞こえる。
祖父が死んで以来毎日、暇さえあればこうだ。
それまで、仏壇のお花なんか替えたこともない母が、突然信心深い仏教徒になった。
父がいなくなると言うのは、それほどに大きいことなのだ。
っても、死んだ訳じゃないしな、お父さんは。
そう言えば、私にとっての家族の崩壊は、祖父の死をきっかけに始まったんだな。
と、今更ながらに思ってみたりする。
父と母の間では、もうずいぶん前から話は付いていたらしい。
祖父の初七日の法要が終わった夕方、父が突然私に離婚のことを切り出した。
「おじいさんを見送ってあげるまでは、夫婦でいようと決めてたんだ」
そう言った父は、祖父の遺影の前だったからか、妙に神妙な顔をしていた。
母は、後ろで泣いていた。
私は……。
律儀な父を思って、少し笑いそうだった。
駄目だ、もう根本的に無理なのかな。
言い訳させてもらえば、決して私が不義理な娘というわけではない。
だってそうでしょ、勝手に結婚して勝手に私を産んで勝手に離婚して。
それで、私に何を思えっていうんだ。
私のことだってちゃんと考えた、何て言わせない。
だったら、離婚しなきゃ良いんだ。
もし、どうしても、どう頑張っても離婚したかったとしても。
祖父のせいなんかにせずに、もっと早く別れてれば良かったんだ。
私が、多感な思春期を迎える、もっと前に。
父さんの馬鹿やろぉぉ……。
て、無理があるなこの流れは。
何がいけないのかな。
こうまで悲しめないんじゃ、なんか父がかわいそうだ。
これで、父にはよそに若い女の人が待ってるとか、ない。
母に実は若い男がついてるなんて話でもあれば……うん、ない。
もしくは、祖父の財産とか、後は母の借金、とか。
ああ、、もう絶望的にないね。
誠実な父、清楚な母、裕福な家庭に父母共に一軒家持ち。
そして、異常にモノわかりの良い娘。
まあ、二十年目の性格の不一致も、この整った条件下では立派な離婚原因。
二人の胸の内はわからないけど、気の毒がってる周りの方が気の毒なくらいあっさりとした離婚。
慰謝料もなければ調停もない。
もちろん物わかりの良い娘に親権争いの火の粉はかかってきそうにない。
しかも、時代は離婚くらいのことでは珍しがってくれないし。
なんか、馬鹿らしくなってきたな。
スマホの画面を見る。
今日は十四時から友達と市営プールに行く予定がある。
最近大学生の彼氏ができたらしいアオイと久しぶりに遊ぶのだ。
出来ればそれまでにしんみりしておきたい。
その後じゃたぶん疲れている上におなかも減ってるから。
そだちざかりの私がしんみりできる気がしない。
現在十一時、あと三時間。
きちんと寝とかなきゃって思うと眠れないのと一緒だな。
時間を意識してしまった以上、もうしんみり出来ないような気がする。
でも、このまましんみりしないままで終われるほど、わたしは父のことが嫌いではない。
はずだ、うん、間違いない。
いや、むしろ大嫌いで仕方がないくらいだったら特別な感情もわくのかもしれない。
でも、嫌いじゃないしなあ。
人生って、矛盾だらけである。
なんて、哲学者を気取ってみてもなんの解決にもならない。
はあ、父さん、不義理な娘を許してね。もうどうやっても無理そうです。
別に、実感がないというわけでもないと思う。
今にもその扉の向こうから、父が「よう」何て言いながらあらわれる……。
なんて事は今までだってなかったし。
だいたい仕事の忙しい父は、家にそうそう頻繁にいたわけじゃない。
家庭サービスだって少な目で、いいお父さんとしては合格点にはほど遠い。
実感がわく以前だな。
ううん、どうやら悪いのは父の方だ。
やめた、麦茶でも飲もう。
麦茶を取りに、とっても行きづらいのだけど、居間を通って台所へ向かう。
当然のように、母がお経を唱えていた。
「だいじょうぶなの」
私の登場に、突然お経を唱えるのをやめて母がたずねた。
「なにが?」
失言だな、と思ったときにはもう遅い。
母の表情は見る見る曇ってゆく。
「なにがって、寂しくないの。そんな風に言ったら、お父さんがかわいそうだわ」
はあ、誰のせいでそのような状況になっているのかは、この際無視なんですね。
そりゃ良いけど、いくらなんでも別れたての旦那を気遣うのはおかしくないか。
「そんなこと言っても、なんでもないくらいに思ってなきゃやってられないでしょ、これからは二人なんだから、強くなきゃ駄目なの」
嘘、満載だ。
しかも、その嘘満載の言葉に、母は涙ぐんでいるように見える。
麦茶は却下。
急いで、部屋に戻ろう。
部屋に帰って扉を閉めると、なんだか母がうらやましくなってきた。
だって、女はああでなきゃって気が、しなくもない。
実父の仏壇の前で、別れた旦那を思って涙ぐむ未亡人。
善し悪しは考えないとして、絵になることは間違いない。
時間を気にしながら、しんみりしようと努力する娘。よりは数倍正常だ。
どうせ私は異常ですよ。
母へのかすかなあこがれは、だんだんと怒りに変わってきた。
たとえ絵になっても、私はあんな女にはならない。
すぐ何かあるとめそめそして、父がいるときも頼ってばっかりの弱い女。
深入りを嫌う娘には、どちらから別れを切り出したのかはわからないけど、私が父でも愛想は尽きる。
いや、でも案外、男はああいうのが好きなのかもしれない。
やっぱ、変なのは私か。
はあ、なんだか、もうどうでも良くなってきた。
はっきり言って、私には関係のないことのようにさえ思えてきた。
結局、当事者は母と父で、私は部外者なんだよね。
そりゃ確かに。
出てゆく父を哀れんでやって父のいない家を寂しく思ってやれないのは不義理だよ。
でも、母があれだけグジグジしてるんだから、十分な気がしてきた。
もうやめた、今度は本気。
私は、開きっぱなしのアルバムを閉じて机にしまう。
その時、窓の外からいつもと同じどぶの臭いに混じって、少し刺激的な甘い匂いが香ってきた。
もしかして、この香り。
窓から顔を出して、外を見る。
するとそこには、一輪の白百合が少しうつむき加減に花を咲かせていた。
「やっぱり、もうそんな季節かあ」
祖父の死、両親の離婚と続いたせいで、すっかりこの白百合のことを忘れてた。
私と同じ名前を持つ花、私の誕生日の頃に花を咲かせる白百合の花。
いつもこの場所に、毎年一本だけお父さんが植えるんだ。
そして、毎年花が咲くたびに、私と二人、ここでその花の咲く姿を眺めるんだ。
お父さんに教えてあげなきゃ。
そう思ってはっとした。一瞬、父がいないことを忘れていた。
その時、父の笑顔が私の脳裏をよぎった。父の声が、耳をかすめた。
「僕はね、この花の咲くのを見るたびに、君の名前を百合にして良かったなって思うんだよ」
私は、そう話す父が大好きだった。
私の名前を、一番誇らしく思えるその時を、私は愛していた。
「そか、もうお父さんはいないんだね」
口に出していったとたん、私の瞳から、抑えることの出来ない涙が溢れた。
もう、ここに父はいない。
もう、私の名前の由来を嬉しそうに語ってくれる父は、いない。
もう、二度とこの花を私と見つめてはくれない。
もう、二度とこの場所にこの花を植えてはくれない。
もう、二度と、白百合は、ここには咲かない。
もう、もうお父さんは、いないんだ。
「やだよぅ、そんなの」
私は、隣にいる母に聞こえないように、声を押し殺して泣いた。
父の顔と声が、交互に浮かんでは消える。
小学生の時、中学生の時、一昨年、去年。
何度も何度も、いつも同じ話を、本当に嬉しそうに話してくれた父の姿が。
いつも私の隣にいるた父の姿が、浮かんでは消えた。
いつも、この白百合を大事そうに育てていた父が、今、いない。
毎年、私の隣で笑っていた父が、今、いない。
来年も、そのまた次も、私が大人になって子供が生まれても。
ずっと、ずっとここで笑っていて欲しかった。
私の子どもにも、同じように私の名前のことを話して欲しかった。
いつまでも、私を見つめていて欲しかった。
いつまでも、お父さんでいて欲しかった。
あんなに出てこなかった涙が、今はもう止まらない。
声を抑えるのに精一杯で、他のことになんか気が回らなかった。
そのまま、どのくらい泣いただろう。
机の上で突っ伏していた私に隣から母の声が聞こえた。
「百合ちゃん、そろそろ準備しなきゃでしょ」
私は、涙目をこすりながら時計を見た。
十三時半、まずい、遅れる。
わたしは速攻で起きあがり、タンスから水着を引き出した。
まずいなあ、どれ着ていくか決めてなかったんだ。
三着の水着を広げたりかざしたりしているわたしの瞳から、いつのまにか涙はきえていた。
窓の外から、また仄かに白百合の香りが漂ってくる。
「ごめんねお父さん、来年はわたしが植えるから、許して」
そう呟いたわたしの心は、もう夏空のプールへと飛んでしまっていた。
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