旅商人と夜ノ森の番人

すがのさく

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「森を出られたらキスしてって言ったの、覚えてたの」

 少年の声は落ち着き払い、柔らかい。初めて出会った時のことを思い出した。
 目覚めた自分を心配げに見つめ、優しく言葉をかけてくれたマイネ。

「忘れるはずない。ずっとずっと君の夢ばかり見てた」
「僕も、あなたの夢を見てた気がするよ」

 軽く胸を押され、身体を離した。少年は両手のひらをアベルの胸の辺りに押し当て、ゆっくり慎重に首、顔、と上らせていく。

「泣いてるの、アベル。どうして」

 どうして、なんてきっとわかっているだろうに。
 濡れた頬を包む手に、自分の手を重ねた。

「いつからなんだ、マイネ。どうして」

 アベルの首のあたりに向かい静かに微笑んでいるマイネは、少し考えるような間を置いた。

「……取られてしまった。道連れになったんだ。奴らの見える方の目を潰したのは僕だから。そうしないと、どうしようもなかったんだ」

 聞いたのはこちらだけれど、道連れとか取られてしまったとか、そういうのはもう十分だった。
 彼は明るい陽の下に戻ってきた。そういうのは、忘れてしまえばいい。 
 滲む視界で、もう見えない少年の目を見つめる。
 何も見えないはずなのに、今この瞬間はしっかりと視線が交わっている。優しい、優しい眼差しだ。
 アベルは再び彼を腕の中に収めた。

「……アベル、僕はこの先きっとすぐあなたの邪魔になる」
「何も聞こえない」

 聞きたくない。彼の言わんとしていることはわかる。でも、聞かなくていい。
 やっと常夜の森を出られたのに、彼は闇の中に取り残されてしまったのか?
 そんなはずない。だって隣には自分がいるじゃないか。

「マイネ、君は俺がいなければ今頃は悪いやつに拾われて娼館行きだったよ。ものすごい美人が倒れてるって噂になってたから」

 冗談を言うように明るく話すが、腕の中の彼は笑ってはくれない。

「……そうか。でも、もうそれくらいしか僕にできる仕事はないな」

 そんな悲しいこと言わないでほしい。こんなに大事に思っているのに、離れていくようなことは聞きたくない。

「そんなこと言うなよ。一緒に俺の故郷に行こう。売り物を失くしてごめんって、家族に一緒に謝ってくれないと」
「あなたの故郷に?」
「そうだよ。約束したよ、忘れたの?」

 抱き締める腕に力を込めた。抱き締め返してくれる彼の力に、希望を感じる。

「君のことは俺の恩人だと話すよ。きっとみんな喜んで迎えてくれる。それに君は薬草に詳しいし、どこへ行っても頼られる存在になるに決まってる」

 少年がふふっと笑った。少しの寂しさを含んだようなその笑いを、心からのものに変えたい。

「二人で店を開いてもいいね。君の薬草と、俺の作品を置く店だ」
「アベルも宝飾品を作るの?」
「たまに、帰った時に。まだ修行中だけど」
「あなたの作る作品、見てみたかったな」

 もう諦めている。そんな調子だ。
 確かに、彼の目にはもう何も映らないのかもしれない。アベルの作品も見られない。
 それでも、それが二人で同じ道を歩むことの妨げになるとは思えない。

「君がそばにいてくれないと作れない。俺は、もう君とずっと一緒にいるって決めたんだ。俺が君の手を引くから、どうか一緒に来て」 

 両肩を掴んで、もう一度キスをして、訴えた。
 キスの寸前、温かい唇が何か言葉を発するように動いたが、アベルの口づけを素直に受け入れた。
 魔法使いは夢から醒めて、人間の少年に戻った。
 長く時を止めていた彼の時計は動き出した。これからは、アベルと同じ時を歩んでいく。

「アベル……」

 涙を滲ませた瞳が俯いている。
 愛しくてたまらない。彼はきっと空腹だから早く何か食べさせてやらなければと思っていたが、ちょっと長いキスくらいなら許してくれるだろう。

「愛してるよ。新しい名前は、二人でじっくり考えよう」

 もう何度目かのキスも、彼は拒まなかった。
 これから幾度も彼に口づけを贈ることになる。これが当たり前のことになっても、感動がなくなっても、きっと自分はいつまでも彼を愛している。

 未来について確信が持てることといえば、そのことだけだった。
 
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