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ことことと鍋が噴くようなかすかな音に目を開けると、そこは真っ暗な森の中ではなかった。
「いっっ……!」
身体を起こそうとしたが、激痛ですぐに諦めた。アベルは目だけを動かして状況を確認しようとする。
身体中が痛い。けれど痛むということは自分はまだ生きていて、誰かに助けられたのだ。
どうやらここは温かな部屋で、寝かされているのは誰かのベッドの中だ。
薪のくべられた暖炉からはパチパチと火の粉がはぜる音が聞こえ、暖色の灯りが柔和に部屋を満たしている。
「気がつかれましたか?」
声を掛けられ、声の主の方へ視線を向ける。
ドアで仕切られない隣の部屋から、細身の男がゆっくりと入って来た。
「先ほどはピムが大変な失礼を。本当にごめんなさい。身体は痛みますか?」
「……ああ、すごく」
「ごめんなさい……」
男はベッドのそばまで寄って来て、膝をついてアベルを見下ろす。どうやら彼の「ピム」とやらがアベルを攻撃したらしい。
伏せた瞳は悲しげで、頬は青白い。明らかに狼狽した様子で、危害を加えたかったわけでないことは信用できるような気がした。
「こんなところで誰かに出くわすことなんかまずないんです。だからピムは警戒して、僕を守ろうとしたんです」
「ピムって」
「飼い犬です」
ぴゅう、と彼が小さく口笛を鳴らすと、のっしのっしと足音を立てながら、どこからともなく大きな犬が視界に現れた。両耳はピンと立ち、眼光は鋭い。グレーの毛並みは艶やかで、「ピム」なんて愛嬌のある名前は似合わない。
「犬……? オオカミじゃないのか」
「どちらなのか、僕にもわかりません。ただ、優しい友達なんです。許してやってはくれませんか」
ピムは彼の頬をぺろりと舐める。凶暴な感じはなく、危害を加えてきそうな雰囲気もない。こうして見れば本当にただの少し大きい飼い犬だ。
「おわびに、傷が治るまでこの家にいらしてください。狭いところですが、僕には多少薬草の知識もありますし、身体がよくなったら街への案内もいたします」
「薬草……」
――頭蓋は魔薬の原料、臓物は魔獣の飼料――。
嫌な話を思い出してしまい、恐怖が蘇ってくる。
アベルは引きつった顔で男を観察する。
男、というよりまだ少年と言ってもいい歳の頃だろうか。
瞳は氷の色、髪はほとんど白に近いようなプラチナブロンド。細い頬には先ほどより赤みが差し、服装は粗末だが、まるで幼い女の子たちが遊ぶような王子様の人形みたいだ。
もし彼が強力な夜ノ森の魔法使いだと言われても信じ難い。
そんなに怖しい魔法使いなら、もっと歳を重ねてしわくちゃで、意地の悪い目をしているはず……。
「あの、どうかされましたか?」
じっと見られて居心地が悪いのか、少年は困ったように微笑んだ。
「いや、魔法使い……」
「魔法使い?」
その言葉に、少年が驚いたように目を見開く。
「もしここが夜ノ森なら、凶悪な魔法使いがいるとエシュハルトで聞いた。そんな迷信じみたことを信じるのも恥ずかしいのだが」
夜ノ森なんてあるはずがない。魔法使いもいない。こんな話をするなんて自分らしくないと、アベルも苦笑する。
「いかにもここが夜ノ森ですよ」
しかし少年は優しい笑みですぐさま肯定した。
「いや、夜ノ森なんて迷信だろう? あんたまで俺を馬鹿にしないでくれよ。新米の行商人だと人に話すと、すぐそんな類の話をされる」
そこまで言い、そういえば荷物はどこだと思い出した。咄嗟に起き上がろうとしてしまい、またしても痛みに顔をしかめて倒れ込んだ。
「大丈夫ですかっ?」
「に、荷物……商売道具が」
「ご安心ください。すべて玄関に運んであります」
「よかった……」
高価な貴金属類や宝飾品を扱っているので、失くしてしまっては大損失だ。アベルは安心して深く息を吐いた。
「でも、夜ノ森についてのお話は本当です。魔法使いもいます。今ここにはいませんが」
「は……?」
少年は相変わらず困ったような顔だが、もう笑ってはいない。
「僕はヴィルフリートに命を救われ、ここにいます。彼は僕にマイネという名をくれ、この夜ノ森で暮らし、番をする役目を与えてくれました」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って……」
なんだか頭が痛い。頭が理解を拒んでいる。
「あの、魔法使いなんているわけない。魔法使いたちは大昔に一斉に魔力を放棄して人間になったって」
「でもヴィルフリートはずっと魔力を持ち続けているんです。それにはきちんとした理由もあります」
「いやいや……」
魔法使いも夜ノ森も、マイネという少年に出会い迷信だったのだと安心したかったのに。
「どうして怪我させられて、こんな話まで聞かされるんだよ……」
「ごめんなさい」
「いや、謝んないで」
謝る際の雰囲気が深刻そうで、かえって信じなければと思わされてしまう。
「でも、信じていただかなくても結構ですよ。怪我が治ったらすぐに街へご案内しますから。この暗い森での出来事なんて、すぐに忘れてしまうに違いありませんから」
「……そうかな」
そうですよとマイネはゆっくり頷き、微笑む。
彼の仕草はなんというか、こんな辺鄙な森の中で暮らしているというのに上品さが漂っている。
彼の話が本当なのかもまだ信じきれないが、野蛮で怖い魔法使いと繋がっているという風にはとてもじゃないが見えない。
「夕飯を用意しているんですよ。そろそろスープが煮える頃です。準備ができ次第そこのテーブルに運んできますので、ゆっくりしていてください」
「はい……」
もう考えるのも嫌になって素直に返事し天井を見つめる。
マイネは隣の部屋に歩いて行き、ピムはそのまま暖炉の前にごろりと丸まった。
横目で見ると、先ほど攻撃してきた獣と同じ動物だとは思えない。攻撃性の欠片も見えないし、まったくアベルを気にしていない。
ピムはくわあ、とあくびし、目を閉じた。
まったくおかしなことになった。でもきっと次に眠って目を開ければ元の世界に戻っている。エシュハルトの宿屋のベッドの上で朝を迎え、今朝に戻るに違いない。これは夢なのだ。
そして次の目的地に向けて出発し、夕方にはミロハルトに到着する。
それまではせいぜいこのおかしな夢の世界を見ておこうと、アベルは隣の部屋から聞こえてくる煮炊きの音に耳を澄ましていた。
「いっっ……!」
身体を起こそうとしたが、激痛ですぐに諦めた。アベルは目だけを動かして状況を確認しようとする。
身体中が痛い。けれど痛むということは自分はまだ生きていて、誰かに助けられたのだ。
どうやらここは温かな部屋で、寝かされているのは誰かのベッドの中だ。
薪のくべられた暖炉からはパチパチと火の粉がはぜる音が聞こえ、暖色の灯りが柔和に部屋を満たしている。
「気がつかれましたか?」
声を掛けられ、声の主の方へ視線を向ける。
ドアで仕切られない隣の部屋から、細身の男がゆっくりと入って来た。
「先ほどはピムが大変な失礼を。本当にごめんなさい。身体は痛みますか?」
「……ああ、すごく」
「ごめんなさい……」
男はベッドのそばまで寄って来て、膝をついてアベルを見下ろす。どうやら彼の「ピム」とやらがアベルを攻撃したらしい。
伏せた瞳は悲しげで、頬は青白い。明らかに狼狽した様子で、危害を加えたかったわけでないことは信用できるような気がした。
「こんなところで誰かに出くわすことなんかまずないんです。だからピムは警戒して、僕を守ろうとしたんです」
「ピムって」
「飼い犬です」
ぴゅう、と彼が小さく口笛を鳴らすと、のっしのっしと足音を立てながら、どこからともなく大きな犬が視界に現れた。両耳はピンと立ち、眼光は鋭い。グレーの毛並みは艶やかで、「ピム」なんて愛嬌のある名前は似合わない。
「犬……? オオカミじゃないのか」
「どちらなのか、僕にもわかりません。ただ、優しい友達なんです。許してやってはくれませんか」
ピムは彼の頬をぺろりと舐める。凶暴な感じはなく、危害を加えてきそうな雰囲気もない。こうして見れば本当にただの少し大きい飼い犬だ。
「おわびに、傷が治るまでこの家にいらしてください。狭いところですが、僕には多少薬草の知識もありますし、身体がよくなったら街への案内もいたします」
「薬草……」
――頭蓋は魔薬の原料、臓物は魔獣の飼料――。
嫌な話を思い出してしまい、恐怖が蘇ってくる。
アベルは引きつった顔で男を観察する。
男、というよりまだ少年と言ってもいい歳の頃だろうか。
瞳は氷の色、髪はほとんど白に近いようなプラチナブロンド。細い頬には先ほどより赤みが差し、服装は粗末だが、まるで幼い女の子たちが遊ぶような王子様の人形みたいだ。
もし彼が強力な夜ノ森の魔法使いだと言われても信じ難い。
そんなに怖しい魔法使いなら、もっと歳を重ねてしわくちゃで、意地の悪い目をしているはず……。
「あの、どうかされましたか?」
じっと見られて居心地が悪いのか、少年は困ったように微笑んだ。
「いや、魔法使い……」
「魔法使い?」
その言葉に、少年が驚いたように目を見開く。
「もしここが夜ノ森なら、凶悪な魔法使いがいるとエシュハルトで聞いた。そんな迷信じみたことを信じるのも恥ずかしいのだが」
夜ノ森なんてあるはずがない。魔法使いもいない。こんな話をするなんて自分らしくないと、アベルも苦笑する。
「いかにもここが夜ノ森ですよ」
しかし少年は優しい笑みですぐさま肯定した。
「いや、夜ノ森なんて迷信だろう? あんたまで俺を馬鹿にしないでくれよ。新米の行商人だと人に話すと、すぐそんな類の話をされる」
そこまで言い、そういえば荷物はどこだと思い出した。咄嗟に起き上がろうとしてしまい、またしても痛みに顔をしかめて倒れ込んだ。
「大丈夫ですかっ?」
「に、荷物……商売道具が」
「ご安心ください。すべて玄関に運んであります」
「よかった……」
高価な貴金属類や宝飾品を扱っているので、失くしてしまっては大損失だ。アベルは安心して深く息を吐いた。
「でも、夜ノ森についてのお話は本当です。魔法使いもいます。今ここにはいませんが」
「は……?」
少年は相変わらず困ったような顔だが、もう笑ってはいない。
「僕はヴィルフリートに命を救われ、ここにいます。彼は僕にマイネという名をくれ、この夜ノ森で暮らし、番をする役目を与えてくれました」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って……」
なんだか頭が痛い。頭が理解を拒んでいる。
「あの、魔法使いなんているわけない。魔法使いたちは大昔に一斉に魔力を放棄して人間になったって」
「でもヴィルフリートはずっと魔力を持ち続けているんです。それにはきちんとした理由もあります」
「いやいや……」
魔法使いも夜ノ森も、マイネという少年に出会い迷信だったのだと安心したかったのに。
「どうして怪我させられて、こんな話まで聞かされるんだよ……」
「ごめんなさい」
「いや、謝んないで」
謝る際の雰囲気が深刻そうで、かえって信じなければと思わされてしまう。
「でも、信じていただかなくても結構ですよ。怪我が治ったらすぐに街へご案内しますから。この暗い森での出来事なんて、すぐに忘れてしまうに違いありませんから」
「……そうかな」
そうですよとマイネはゆっくり頷き、微笑む。
彼の仕草はなんというか、こんな辺鄙な森の中で暮らしているというのに上品さが漂っている。
彼の話が本当なのかもまだ信じきれないが、野蛮で怖い魔法使いと繋がっているという風にはとてもじゃないが見えない。
「夕飯を用意しているんですよ。そろそろスープが煮える頃です。準備ができ次第そこのテーブルに運んできますので、ゆっくりしていてください」
「はい……」
もう考えるのも嫌になって素直に返事し天井を見つめる。
マイネは隣の部屋に歩いて行き、ピムはそのまま暖炉の前にごろりと丸まった。
横目で見ると、先ほど攻撃してきた獣と同じ動物だとは思えない。攻撃性の欠片も見えないし、まったくアベルを気にしていない。
ピムはくわあ、とあくびし、目を閉じた。
まったくおかしなことになった。でもきっと次に眠って目を開ければ元の世界に戻っている。エシュハルトの宿屋のベッドの上で朝を迎え、今朝に戻るに違いない。これは夢なのだ。
そして次の目的地に向けて出発し、夕方にはミロハルトに到着する。
それまではせいぜいこのおかしな夢の世界を見ておこうと、アベルは隣の部屋から聞こえてくる煮炊きの音に耳を澄ましていた。
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