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夜ノ森にはヴィルフリートという名の怖しく魔力の強い魔法使いが住んでいて、これまた怖ろしく凶暴な魔獣を飼っている。
彼は魔薬の原料として人間の頭蓋と、魔獣の飼料として臓物を必要としており、夜ノ森に迷い込んだ者は二度と生きて陽の元へ出ることはできないのだという。
昨晩酒場で聞いた噂話を思い出し、アベルは足を止めた。
行けども行けども森を抜けず、もう脚は棒のようだ。
どうにもこうにもおかしい。時計が壊れていなければ時刻はまだ十四時を少し過ぎたところ。それなのに鬱蒼とした森の中に陽は差さず、まるで深夜だ。
手に持つランタンの灯りだけが煌々と輝き、地面に落ちる自らの影さえ気味が悪い。
――行商の兄ちゃん、気をつけな。
思い出したくなくとも、頭の中にはエシュハルトの酒場の酔っ払いの声が蘇る。
――エシュハルトからミロハルトへ抜ける森は、時々夜ノ森に繋がると言われてるんだ。
酒臭い息のにおいまで鮮明に思い出せる。
頭上では黒い木々がざわざわと音を立て、視界は真っ暗だと言うのにどこかでカラスも鳴いている。
――とてもとても魔力の強い、凶悪な魔法使いなんだよ。噂では気に入った人間がそばを通りかかると、夜ノ森への入り口に誘い込むらしい。あんたみたいに、健康な若い男がよく消えるんだよ……。
背筋が冷たくなる。アベルは一度深呼吸し、昨日の話を忘れようとする。
(あんなの迷信に決まってる。魔法使いなんていなくなって久しいとされてるし、大体酔っ払いの言うことを信じる方がどうかしてる)
そうだ、酔っ払いの話なんて鵜呑みにしてはならないと、自分を鼓舞し再び歩き出す。
足元を照らせば草が踏まれうっすらと道のようになっているし、きっとここを日常的に歩く人物が他にいるのだ。
この暗さは……きっとたまたまだ。今日は皆既日食か何かなのだろう。そう考えなければ説明がつかない。けれど説明がつかないことなんてたくさんあるし、深く考えない方がいい。時計が故障している可能性ももちろんある。
努めて明るく考えながら、アベルは歩き続ける。
しばらくすると暗がりの中、前方に一点だけ橙色の灯りを見つけた。それはゆらゆらと揺れ、明らかに誰かの松明だと見て取れる。
自分の他に、人がいるのだ。
「すみません、こんにちは! ……いや、こんばんはか?」
アベルは途端に嬉しくなって大声を張った。
「迷ってしまったようなんです。この辺りの方ですか?」
松明の揺れが止まる。小走りに近付いて行くと、黒い外套に身を包みフードを被った人物が明かりの主だと知れた。その彼か彼女かがゆっくりと振り向く。
「なんだか真っ暗になって、――うぐっっ!」
なるだけ不審に思われないよう、明るい声で語りながら近付いて行ったつもりだった。
それなのにその誰かの顔を確認する前に、アベルは強い力で横に張り飛ばされた。
何が起こったのか理解できず、木の幹に叩きつけられて崩れ落ちる。胸を強く打ち、呼吸が苦しい。咄嗟に身体を庇った右腕も痛い。
ぐるるる……。
低い、獣の唸り声だ。目を開けても閉じても何も見えない。ランタンも消えてしまったようだ。生臭く温かい呼気が、鼻先にかかる。
もうだめだ。一体どこで何を間違えたか知らないが、きっと自分は出会ってはいけないものに出会ってしまった。
(魔法使い、ヴィルフリート……)
声にならない声で、その名を呟いた。
信じたくなかったけれど、こうなった以上認めざるをえない。
この獣は彼の魔獣なのだろう。
アベルは目を閉じた。もう身体は動かせない。
すべて理解できた。自分は今日ここで死ぬ運命だったのだ。
「やめて、ピム!」
誰かの声が聞こえた。若い男の声のようだ。
うっすらと目を開けると、ぼんやり滲む小さな橙色の光が近づいてくる。
どうせ死ぬのだから、もうなにがどうなってもいい。好奇心なんて無駄だ。
アベルはもう一度目を閉じた。
彼は魔薬の原料として人間の頭蓋と、魔獣の飼料として臓物を必要としており、夜ノ森に迷い込んだ者は二度と生きて陽の元へ出ることはできないのだという。
昨晩酒場で聞いた噂話を思い出し、アベルは足を止めた。
行けども行けども森を抜けず、もう脚は棒のようだ。
どうにもこうにもおかしい。時計が壊れていなければ時刻はまだ十四時を少し過ぎたところ。それなのに鬱蒼とした森の中に陽は差さず、まるで深夜だ。
手に持つランタンの灯りだけが煌々と輝き、地面に落ちる自らの影さえ気味が悪い。
――行商の兄ちゃん、気をつけな。
思い出したくなくとも、頭の中にはエシュハルトの酒場の酔っ払いの声が蘇る。
――エシュハルトからミロハルトへ抜ける森は、時々夜ノ森に繋がると言われてるんだ。
酒臭い息のにおいまで鮮明に思い出せる。
頭上では黒い木々がざわざわと音を立て、視界は真っ暗だと言うのにどこかでカラスも鳴いている。
――とてもとても魔力の強い、凶悪な魔法使いなんだよ。噂では気に入った人間がそばを通りかかると、夜ノ森への入り口に誘い込むらしい。あんたみたいに、健康な若い男がよく消えるんだよ……。
背筋が冷たくなる。アベルは一度深呼吸し、昨日の話を忘れようとする。
(あんなの迷信に決まってる。魔法使いなんていなくなって久しいとされてるし、大体酔っ払いの言うことを信じる方がどうかしてる)
そうだ、酔っ払いの話なんて鵜呑みにしてはならないと、自分を鼓舞し再び歩き出す。
足元を照らせば草が踏まれうっすらと道のようになっているし、きっとここを日常的に歩く人物が他にいるのだ。
この暗さは……きっとたまたまだ。今日は皆既日食か何かなのだろう。そう考えなければ説明がつかない。けれど説明がつかないことなんてたくさんあるし、深く考えない方がいい。時計が故障している可能性ももちろんある。
努めて明るく考えながら、アベルは歩き続ける。
しばらくすると暗がりの中、前方に一点だけ橙色の灯りを見つけた。それはゆらゆらと揺れ、明らかに誰かの松明だと見て取れる。
自分の他に、人がいるのだ。
「すみません、こんにちは! ……いや、こんばんはか?」
アベルは途端に嬉しくなって大声を張った。
「迷ってしまったようなんです。この辺りの方ですか?」
松明の揺れが止まる。小走りに近付いて行くと、黒い外套に身を包みフードを被った人物が明かりの主だと知れた。その彼か彼女かがゆっくりと振り向く。
「なんだか真っ暗になって、――うぐっっ!」
なるだけ不審に思われないよう、明るい声で語りながら近付いて行ったつもりだった。
それなのにその誰かの顔を確認する前に、アベルは強い力で横に張り飛ばされた。
何が起こったのか理解できず、木の幹に叩きつけられて崩れ落ちる。胸を強く打ち、呼吸が苦しい。咄嗟に身体を庇った右腕も痛い。
ぐるるる……。
低い、獣の唸り声だ。目を開けても閉じても何も見えない。ランタンも消えてしまったようだ。生臭く温かい呼気が、鼻先にかかる。
もうだめだ。一体どこで何を間違えたか知らないが、きっと自分は出会ってはいけないものに出会ってしまった。
(魔法使い、ヴィルフリート……)
声にならない声で、その名を呟いた。
信じたくなかったけれど、こうなった以上認めざるをえない。
この獣は彼の魔獣なのだろう。
アベルは目を閉じた。もう身体は動かせない。
すべて理解できた。自分は今日ここで死ぬ運命だったのだ。
「やめて、ピム!」
誰かの声が聞こえた。若い男の声のようだ。
うっすらと目を開けると、ぼんやり滲む小さな橙色の光が近づいてくる。
どうせ死ぬのだから、もうなにがどうなってもいい。好奇心なんて無駄だ。
アベルはもう一度目を閉じた。
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