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篭の中

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 夏至祭は終わった。
 ユノンは最終日の夜に打ち上がる花火も、輪になり踊る街の人々の姿も、湖に花を流す神官たちの儀礼も見なかった。
 天候が悪く、すべてが中止になったのだ。しかしそれでなくとも、ユノンが祭最終日を楽しむことはできなかったはずだ。
 ユノンは瞳を開ける。朝だ。身体の上に乗せられた重みは、寝ている間も抱きついたまま離してくれない第一の夫の逞しい腕。それを押し退けて身体を起こす気力もとうにない。
 こんこんと扉を叩き、返事も待たぬままに入室するのはミロだ。

「おはようございます。朝食をお持ちいたしました」

 台車を押してきて、寝台の脇に着けた。非常に食欲をそそる香りが漂ってくる。ミロが皿の覆いを外していくと、台車には湯気の立つスープとパン、そして切られた果物の盛り合わせがそれぞれ二人分載せられていた。

「失礼いたします」

 扉口からまた声が聞こえ、誰かがもう一台台車を押して入ってくる。
 ひどく懐かしい声だ。最後に彼女に会った日は、もうだいぶ前のように感じる。

「……ユノン様……」

 食事の台車の脇に茶器と湯を載せた車を着け、アムリは手で口元を覆った。
 最近では侍男侍女たちに毎食部屋まで料理を運ばせることが常となっているが、アムリがここへ来たのは今回が初めてだった。
 タリアスの身体が動き、ユノンを腕の中から解放した。

「今朝も美味そうな匂いだ。ありがとう、あとは私がやるからもう下がってよい」
「では卓だけ寝台の隣に出しておきましょう」

 ミロが壁際に寄せてあった小型の文机を抱え、台車と反対側に寝台に着けて置いた。そして窓際に寄り、分厚いカーテンに手を掛ける。

「カーテンも開けておきましょうね。外はいつものように荒天で面白くはありませんが、ユノン様もずっとお部屋の中では日付や時間の感覚もなくなってしまうでしょうから」
「私がユノンにとってよくないことをしていると?」

 タリアスが低い声を出す。ミロの手から、カーテンの留め布が落ちた。

「いいえ、決してそのようなことを思ってはおりません。私がユノン様の立場でしたら、幸福過ぎて恐ろしくなるくらいです」

 横たわるユノンの位置からでも、青ざめ震えるミロの顔ははっきり見て取れた。

「……私が、あなた様に意見するはずがございません。あなた様は、私のすべて。今の私がこうして恵まれた環境で生きていられるのは、あなたさまのおかげなのです」

 このところタリアスは臣下の小さな発言にも神経質になっている。このままではまずいと、ユノンは重い身体をゆっくりと起こした。

「タリアス様、ミロの言葉に偽りはないでしょう。僕の目から見ておりましても、彼ほどあなた様によく尽くす臣はおりません。忠義者です」

 ミロの怯えた表情がさらなる救いを求めるようにユノンを見つめたが、ユノンはそこからすぐに目を逸らす。
 ミロの肩を持ちたいわけではない。今この場を荒立てたくないだけなのだ。
 タリアスがユノンの腰を抱いた。

「本当にそう思うか?」
「思います。彼だけでなく、皆あなた様を慕っておりますよ」
「……お前がそう言うのなら、信じよう」

 タリアスはユノンの頭を撫で、額に接吻した。
 どれだけ優しい口づけを受けようとも、もうユノンには何の感動もなかった。

「……タリアス様、ユノン様はずっとここに……?」

 目を瞠り、裸のユノンを見つめたまま、アムリが震えた声を出す。

「そうだ。しばらくはこの私の寝室から出さない。用場と泉へ行く以外、外へ出る必要などないだろう?」

 タリアスは腕の中にユノンを引き寄せ、返す。

「そんな。それではユノン様は……」

 ユノンを見つめるアムリの瞳には恐怖が覗く。ユノンはアムリに向かい、視線で「やめろ」と訴えた。
 アムリが怖がるのも当たり前だ。少し前まで祭に行くから着替えと化粧をとはしゃいでいた王妃が、今は王の寝室で服を着る間もほぼ与えられないまま囲われて過ごしているのだから。

「なんだアムリ、お前も私に言うことがあるか?」

 アムリの喉がひくりと引きつったように動いた。ユノンはタリアスの腕の中から何度も瞬きし、小さく首を振る。
 今のタリアスは、常軌を逸している。刃向かってはならない。何をされるかわからない――。

「……いいえ、何もございません」

 アムリは苦し気にユノンから視線を外し、俯いた。

「何もないという割には、物言いたげに見える」
「タリアス様、アムリはこの天候で気が滅入っているのでしょう。女性の方が、男性よりも気分の浮き沈みが激しいと聞きます。
 僕も毎日このように暗い空を見上げていると、まるで心まで曇ってくるようです。もう下がらせましょう」

「……ユノンに免じて許してやろう。もう下がりなさい」

 タリアスの言葉にアムリは一瞬戸惑うようにユノンに視線を投げたが、軽く頷くユノンに促され部屋を出て行った。ミロもそれに続き、室内はタリアスとユノンの二人きりの空間に戻る。

「私は、お前が大切だ。誰よりも近くにいたい。だから、ここから出したくない。お前はどうだ? 外に出たいか?」

 きゅ、と軽く力を込められ、肌と肌が密着する。もう知り尽くした身体。それなのに、交わるたびに現れる恍惚は最初の頃からちっとも褪せやしない。
 何度くたくたになるまで抱かれようとも、ユノンの身体は雄を求め続ける。そして、違う、これではないと駄々をこねるのだ。

「……僕は、タリアス様の仰せのままにいたします。この身も心も、あなた様のものです」

 そう、輿入れする前から決まっていたことだ。身も心も王に捧げ、尽くすこと。
 心など要らない。

「……ですが、たまに湖と庭が見たくなるのです。あなた様と幼い頃に遊んだ花の庭と、いつも穏やかに凪いでいた母なる湖。僕がずっとずっと、愛しているものたちです」

 思い出はいつまでも美しいままだ。
 花が溢れんばかりに咲く庭で微笑んでいた、優しい兄のようなタリアス。そして、激しく愛し合った後に稲妻の落ちる荒れた湖を一緒に眺めたライル。
 どちらも大切に思うことと、そのどちらか一方だけを選ぶことは別問題だ。

 ユノンはタリアスの肩越しに窓の外へと視線を投げる。
 空は暗いねずみ色で、窓に当たっては散る雨粒は攻撃的だ。
 もう何日も天気は荒れたまま、湖の波は高く水位も少しずつ上がり続けている。
 記録に残っている限り、この国が始まって以来の事態だ。それなのに、タリアスは公務もそこそこにユノンと寝室に籠ってばかりいる。
 これでは臣下たちの中にも王への不満が生まれていることだろう。それでもユノンは心配したりしない。タリアスの心のままにいることを求められているからだ。

「花も、この雨風では落ちてしまったことだろう。それに湖も荒れるばかりで恐ろしいだけだぞ」
「それでも、愛しているのです。あなた様のこの国の、美しいものたちです」

 タリアスは考え込むように少し間を置いた。そしてユノンの髪を撫でながらかすかに頷く。

「……わかった。では雨風が弱まったら、また庭を歩こう。別棟を抜け、湖畔に下りよう」
「ありがとうございます。楽しみにしています」

 いつになることかわからない。まるでこの世の終わりのような悪天候の続く日々だ。ユノンは王の言葉に何の期待も抱かなかったが、できる限りの笑顔で微笑んで乾燥した唇に接吻を贈った。

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