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嵐の中で

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 低く重く、身体の底に響く音が聞こえる。
 ユノンは目を開けた。全身が汗でべたべたする。不快で身体を起こすと、窓のそばに寄る裸のライルの姿があった。

(ここは、どこだ? 僕はどこにいる?)

 辺りを見回せば、そこは古ぼけた小さな部屋だ。古い卓に椅子、そして自分が座っているのは分厚い絨毯。

「気がついたか?」

 声をかけられ顔を上げると、ライルがこちらを振り向いている。
 ユノンはライルとともに街へ降りて夏至祭の広場の賑わいを楽しみ、その後に二人で抜け出すようにここへ来た。
 最初からこうなればいいと思っていた。そのことを思い出した。

「……さっきの音は、なんですか?」

 遠くから聞こえてきたような気がした。空気をびりびり震わすような、相当に大きな重低音。

「見てみるか」

 目でこちらへ来いと促され、ユノンも窓に寄る。
 外はここへ到着した時よりもいくらか薄暗くなっているようだ。自分はどのくらい寝ていたのだろう。
 靄とも霧ともつかないぼんやりとした大気、遠く向こうの入り江の外に、荒れて波打つ湖が見えた。
 分厚い濃灰色の雲から、白い稲妻が幾筋か水面に向かい放たれた。視界が白く染まる。
 そして次の瞬間には、大地を震わす大きな音が鳴り響いた。

「……雷だったのですね」

「あちらはきっと大雨だ。おそらくすぐにこちらまで到達するぞ。どうする? ここで待ってやり過ごすか?」

 窓の外に見える草木が揺れている。風も出てきたようだ。
 それでも、ユノンにはタリアスとの約束がある。
 夕方には城に戻って支度をし、宵の口からの宴席に参加すること。近隣国の大使や王族に、王妃として挨拶しなければならない。

「いいえ、戻らなければ。急ぎましょう」

「外は荒れ始めている。今日一日天気はもつと思っていたが、ここまで急激に荒れるとは俺も予測できなかった。危険かもしれない」

「あなたが一緒だから大丈夫でしょう」

 慎重なライルを見上げ、彼の両手を握って言った。
 ライルは何か言いたげな目で考え込むようにユノンを見下ろしていたが、考えに区切りを付けたのかやがて「わかった」と頷いた。
 身支度をし外に出ると、まだ雨はごく小降りだが頬に吹きつける風は強い。クエントに乗り元来た道を行くうちに、林の中で雨はとうとう本降りになった。
 クエントは時折小さくいななきながら足を止め、悪路を避けるように進む。
 服は濡れ、強風が体温を奪う。ユノンの歯は、夏だというのにガチガチ鳴った。

「寒いか?」

 ライルが背後から密着する身体をさらに押し付けてきた。彼の気遣いなのだろう。

「平気です」

 自分が帰ると言ったのに、ここで弱音を吐くわけにはいかない。
 ユノンは気丈に笑顔でライルを振り返った。
 雨足はさらに強まる。草が絡まり泥が脚を滑らす山道にクエントも難儀している。早歩きが精一杯といった体で慎重に進み、たまに一瞬脚を滑らせ体勢を立て直すごとに不安が大きくなっていく。

「山道もそろそろ終わりだ。宿屋街まで出れば、あとの道は舗装されているからすぐに城に到着できる」
「はい」

 心を覆う重い雲を少しでも払おうとしてくれているのか、ライルがいつもの調子で話しかけてきた。

(大丈夫、もう少しだ。街まで出れば、後は城まですぐ――!)

 そこまで考えた時に、一際強い風が吹きつけた。運ばれてきた枯れ葉や細かな枝が全身を叩き、思わず手で顔を覆う。
 びゅうう、と低く高く唸る恐ろしい声のようなものを、ユノンは聞いた。
 一瞬後に手を顔から退けると、視界に入ってきたのは横からクエントの頭に向かい飛んでくる太く大きな木の枝だった。
 これが当たればまずいだろう。
 クエントは怪我をし、痛みに驚いて後ろ足で立ち上がる。そうすれば自分とライルは落馬し、きっと無事ではすまない。
 人通りの少ないこんな道で、馬を失い怪我をするわけには――。
 瞬く間に、一瞬後に起こりうる事態が鮮やかに予測できた。言葉としてすべてまとまる前に、ユノンは身体を前に乗り出していた。

「ユノン!」

 ライルが叫ぶ声が聞こえ、その後すぐに右腕と右頬に衝撃が走った。
 擦るのとも切るのとも違う。鞭で打たれる痛みはこんなものかもしれないなと考えながら、ユノンはクエントの背から落ちた。

「ユノン! 大丈夫か、ユノン!」

 激しい雨音と、風にさらわれる葉ずえの悲鳴を聞きながら、ライルの声は確かにユノンに届いていた。
 ユノンを落としたままいくらか進んだクエントが、ライルによって止められるのも視界の端に映っていた。

「ユノン! なぜあんなことを」

 クエントから降りたライルが駆け寄ってくる。
 偶然柔らかく折り重なった草の上に落ちたようで、多少身体は痛いが落馬による大怪我はないだろうとユノンは判断した。
 ただ頬と腕の枝と衝突した部分はひりひりと熱を持つように痛い。身体のどこかがこんなにも痛むのは初めてのことだった。
 顔中に貼りつく濡れ髪をなんとか払い、ユノンはライルを見上げた。

「……クエントに当たれば、二人とも落馬します」
「それはそうだが、何もあんたが馬を庇うことはないだろう?」

 ライルが感情的に怒鳴りつけてくる。この男にはこんな面もあるのかと、ユノンは少し嬉しくなった。

「ふふ」
「何がおかしい!」
「あなたもこんな風に、怒ったりすることがあるんですね」

 ライルはユノンに頬を張られても、怒ったりはしなかった。それどころか、あの時はライルの方がユノンに対しこんなこともできるのかと驚いていたのだ。

「は……?」

 こんな時に笑ったりして、さぞかし怪訝に思っただろう。頭を打っておかしくなったとも思われかねない。
 それならそれで面白そうだとも、ユノンは呑気に思った。

「こんな時に何を言ってる。立てるか?」
「ええ、腕と顔以外痛む場所はありません」

 ライルに頬を押さえろと手巾を渡され、助け起こされた。肩を抱かれるようにしてクエントのところへ向かう。
 クエントの頬を撫でると、鼻先をユノンに擦り付けてきた。
 この馬が怪我を負わなくてよかった。自分とライルの秘密のひと時を応援してくれたのだ。こんなことに付き合わせて、怪我などさせられない。
 ライルに押し上げられ、再びクエントの背に乗った。

「僕は、もっといろんなあなたを知りたいです。心から笑っているあなたや、喜んでいるあなたはまだ見たことがない」

 聞こえなくてもいいと思いながら呟いた。
 風は心なしか弱くなり、雨粒も先ほどよりは大きくない。頬を押さえる手巾には雨粒が滲みあっという間にびしょ濡れになった。

「……言っただろう。俺の心が満たされるのは、あんたといる時だけだ。あんただけが、欠けた俺の心を完全な形にできる」

 とても嬉しい。だったら、ずっと一緒にいれば、いつかは子どものように笑うライルや心底喜ぶライルを見ることができるはずだ。
 ユノンは背後に密着するライルの胸板の温かさに想いを馳せる。
 ずぶ濡れで冷え切った身体に、そこからじんわりと温もりが広がっていくようだった。


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