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交錯

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 目を開けると、褥は薄く透ける美しい天蓋に覆われていた。垂らされた布の外はまだ暗く、窓際に吊るした明かりが隣で眠る愛しい男の頬をほんのりと照らしている。
 重い身体を起こすと首飾りの鎖が擦れ、しゃらりと静かな音が夜に溶けた。手のひらの下でしっとりと湿った敷布に、一寸前までの情事を思い出す。
 男の頬に手を伸ばした。温かく、柔らかい。いつまでも触って、食べてしまいたいくらいに愛おしい。
こんな気持ちは一体いつぶりだろうと考えるも、馬鹿らしくなってやめた。
 過去のことを捨て置くことはさすがにできないけれど、これからはこの男と歩んで行くのだから。この命が存在する限り、この男を愛するのだ。

 手を自らの腹に置き、中に注がれた灼熱に思いを馳せた。
 すでに熱を失ったそれは艶々とした翡翠の杭に堰き止められている。尻のあわいには、後ろめたいような違和感があった。
 杭は交わりの前準備のため使用していたものだが、今は違う。
 お前の精を少しでも長く中に留めたい。だから初夜である今夜はこれを埋め込んでくれと請うと、愛しい男は怪訝な顔をしながらも了承してくれた。
 ――人の世の決まりごとはまったくおかしなものだ。一度種をまいてしまえば、杭などあってもなくても同じなのに。
 男が心底馬鹿にしたように言う顔がおかしくて、それが救いでもあった。
 温かな気持ちで、胸元の碧玉の首飾りに手を伸ばす。かつての夫から贈られた、遠い国で造られたものだ。
 妻となってからは肌身離さず、それこそ立場を手放す際もこれだけは死守した。
 けれど、これを一番大切と思うのはもう終わりだ。
 首飾りを首から外す。長い髪が絡まないよう、手で払った。

「やっとさよならできる。私の過去、私の運命」

 ほの明かりの下でもぎらぎらと輝く首飾りを、寝台の下に落とした。朝になったら、丁度いい箱でも探して仕舞ってしまえ。もう自分には、眩いまでの輝きは必要ない。この男にだけ愛されればいい。

「愛しているよ」

 夢の中のユノンは、眠る男に愛を囁き頬に口付けた。




 
 ……そのまま視界が暗転する。

 夢の中の自分は安心感でいっぱいのまま、再び眠りに就いたのだろうとユノンは思った。
 しかし、暗かった視界がまるで煙のように晴れ間を見せてはくもり、また一時晴れては暗くなりを繰り返している。
 晴れ間は青く、どこまでも見通せそうなほどに澄んでいた。
 長い髪が水草のように揺すられ、丈の長い衣服が手足にまとわりつく。

(ここはどこだ? 水の中?)

 ユノンのユノンとしての意識が状況の分析を始めた。
 先ほどの褥での場面のように、この世界のユノンの考えがわかるわけではないようだった。

(苦しくてたまらない。死んでしまう――)

 晴れ間がかき消える。暗い靄のようなものはユノンの身体を包むように蠢きながら、下へ下へといざなう。

(もうだめだ、このまま終わりか……)

 現実なのか夢なのかも区別がつかない。
 ライルはどこにいるのだろう。ライルに会いたい。このまま諦めれば、夢が醒めてライルに会えるだろうか――。
 そう考え、瞳を閉じた。
 するとふいに瞼の裏が明るくなり、身体が上昇を始める。気付けばもう苦しさはなく、身体は軽い。
 ユノンは、思い切って水を蹴った。
 水面から頭を出せば、陽は眩しい。ユノンは目を細めながら辺りを窺う。
 そこは知らない土地だった。それほど遠くない場所に豊かな木々で覆われた陸地があり、水辺には白い石造りの館がある。
 陸へ向かうのがごく自然なことと思い、ユノンは泳ぎ出した。水は軽く、ユノンの進行を邪魔しない。水は淡水だから、きっとここは湖なのだ。

 次第に脚がつく浅瀬になり、ユノンは歩いて砂浜へ上陸した。
 建物と似たような色合いの白い砂の上、そこには誰もいないと思っていたのに、一度瞬きをする間に何人もの人々がいた。
 皆年若く、好奇心を隠さない好意的な笑顔でこちらを観察している。
 ユノンは驚いて数歩湖に後ずさった。
 特に、目の前に立つ一番年配に見える誰かはよく知る人物にとても似ていたのだ。――愛しているけれど、国を思い諦めたあの人に。
 軽い頭痛を感じ、ユノンは額を押さえた。
 またいつもの感覚だ。ユノンと、夢の中のユノンの記憶や思考が混じり合い始める。
 あまりに驚いたことと記憶が混じり始めたことでユノンは狼狽え、ただ状況説明を求めて目の前の彼を見上げた。

「おかえり、リーデルエント。大変な目に遭ったのだな」

 慈愛に満ちた瞳だった。彼は両手を広げ、この世界のユノンを抱き締める。

「あやつがついた嘘を、この私がすぐに気付くべきだったのに」
「いいえ、フェデリール様。お忙しいあなたが、お心を痛められる必要はございません」

 またリーデルエントと呼ばれた。それがこの少年の名と思って間違いなさそうだ。そして、今度はリーデルエントの口から知らない名が出てきた。フェデリールは目の前のこの男か。
 この二人は、以前から知り合いなのだろうか。

「フェデリール様、リーデルエントが戻ったので宴を開きましょう!」

 誰かが声高らかに提案した。その案に反応してかがやつく周囲を、フェデリールが諫める。

「静かになさい。リーデルエントは私の使いとなった。もう以前のような気やすい扱いは控えなさい」

 フェデリールがリーデルエントを腕の中から解放しよく響く声で言い渡すと、周りの男女はしんと静まる。
 宴なんていらない。今はただ、少し一人で休む時間がほしかった。
 身体は驚くほど軽く、元気だ。けれどフェデリールのそばにいると、かつての夫を思い出してしまい気が狂ってしまいそうだ。

「……少し、一人になりたいです」

 そうこぼすと、周囲は皆憐れみの目を向けてくる。それが苦しくて、リーデルエントは深く俯いた。白い砂に、暗く影が落ちる。

「いいだろう、リーデルエント。あの館はもうお前のものだ。自由に使いなさい」
「ありがとうございます」
「……お前の夫を、私に似せなければよかったな。注意を払ったとしても、どうしても魂の造型は見た目だけ既存のものに似通ってしまう場合がある」
「……」

 顔を見ないまま礼を言いそのまま歩いて行こうとすると、無言になった人々が割れてリーデルエントに道を提供してくれた。
 明らかな憐れみの視線を感じながら道を進むと、ふいに女児の声に名を呼ばれ立ち止まった。

「リーデルエント様、それ、とってもきれい」

 まだ年若い魂なのかもしれない。空気も読めずに笑顔でリーデルエントの首から下がる飾りを覗き込む。
 きらきらと屈託のない目に、少しだけ救われたような気持ちになった。

「よく見せて!」
「ああ、いいよ」

 周囲が止めるのも気にせず、女児はリーデルエントに首飾りを見せるようせがんだ。
 見られて困るものでもない。リーデルエントは頭からそれを抜き、女児に差し出す。

「わあ、すごい! ここにある湖たちのどれよりも青くて、とっても光ってる!」

 リーデルエント――ではなく、ユノンは驚愕した。
 首飾りは、タリアスから贈られたものとまったく同じものだった。
 夢の中でこの首飾りを見たのはきっと初めてではない。
 現実世界では夢の記憶はどんどんと薄れて曖昧になり、逆に夢の中では現実世界でのことが同じようになってしまうけれども、今ははっきりとわかる。
 リーデルエントとユノンは、同じ首飾りを持っている。どちらも、夫から贈られたものだ。
 ユノンは焦って辺りを見回した。誰も知らない顔だ。覚えていない。
 きん、と頭痛がひどくなりうずくまると、肩に手を置かれた。

「リーデルエント、一つ見つけたね。もう少しだ」

 穏やかで静かな声に、すっと頭痛が引いた。怖い。言い知れぬ恐怖がユノンの意識を占める。

「……何を、見つけたというのです……?」
「早く帰っておいで。みんな待っている」

 帰っておいで? 待っている? 先ほどリーデルエントに向かい「おかえり」と述べたばかりなのに?
  ……逡巡し、はたと気付いた。
 フェデリールが語りかけている相手が、リーデルエントではない可能性がある。――それは。

「おいで、リーデルエント。美しいその姿を見せてやりなさい」

 フェデリールは女児から首飾りを受け取るとリーデルエントの胸に掛け直した。
 そして不安と恐れで何も言えなくなってしまったリーデルエントの手を引くと、湖の上を歩き少し深さのある辺りまで連れていく。

「フェデリール様、何を」
「お前の中の彼に、見せてやりなさい。リーデルエントは間違いなく、私の最高傑作の部類に入る」

 もうだめだ、彼は知っているのだ。リーデルエントの中に、ユノンがいることを。リーデルエントの意識と時折混ざり合いながらも、別個にユノンの意識が存在していることを。

「さあ」

 促され、水面を見下ろす。
 二人の周りにさざ波はなく、よく磨かれた鏡のように足元に横たわっている。
 リーデルエントはしゃがみ込み、覗き込んだ。
 碧玉の首飾りに、黒い髪、黒い瞳。男のくせに逞しさのない華奢な身体。
 よく知っている。飽きるほど見知っている。
 ユノンはリーデルエントの頬に両手をやった。
 知っている、知っている。この身体は、全部知っている。

「ひっ……」

 喉が上手く空気を取り込めず、おかしな音がした。
 先ほど頭痛は消えたはずなのに、頭は再びがんがんと暴れ出す。

「う、あ……」

 あまりの痛みにユノンは体勢を崩した。
 リーデルエントの身体は静かに水面に沈み、冷たい感覚が全身を包んだ。


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