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お飾りの婚約者

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(レヴィ卿……)

 夢から、ふつ、と目を覚まして、エステルは見慣れない天井をしばらくぼんやりと見つめた。みじろぎして横を向けば、やはり見慣れない寝室である。やけに広いベッドの片側に寄ってエステルは横たわっている。柔らかな布団の感触を感じながら、ようやくエステルは意識がはっきりとしてきた。

(……そうだわ。昨日からヴァロワ侯爵様の家に引っ越したんだった……)

 どうやらもうラウルは先に起きているらしく、ベッドはもぬけの殻だ。

(ベッドが揺れるのにも気付かないほど、私は熟睡してたのね……)

 溜め息を吐きながらベッドを滑り降りて、エステルはびくっと身体を跳ねさせる。目の前に飛び込んできたのは昨日の破廉恥な寝間着で、むき出しになった自分の太ももだ。しかも、昨日ラウルに下着をはぎとられてから、彼女は履きなおしていなかったのを思い出す。顔を赤面させたが、すぐに気を取り直してベッドの上に放られていた下着を手にとった。

(これは何かしら?)

 ミレーヌを呼ぶ前に自分で下着をつけなおそうとして、自分の太ももを見たエステルは首を傾げた。小さく鮮やかな痣がいくつか浮かんでいるのを見つけたからだ。よく自分の身体を検分すれば、それは寝間着から覗いた胸元近くにもあるようだった。

(やだ……こんな薄着だったから、虫にさされたのかしら)

 再び溜め息を吐きながら下着をつけ終えると、エステルはベッドサイドに置いてあったベルを鳴らしてミレーヌを呼ぶ。身支度のためにやってきたミレーヌを筆頭とするメイドたちは、エステルの世話をしながら機嫌が良さそうだった。ミレーヌだけはなぜか困ったような微笑を浮かべていたが。

「ありがとう」

 着替えを終えたエステルは寝間着を片付けているメイドを見て、小さく溜め息を吐く。その視線に気付いたメイドはぱあっと顔を輝かせた。

「今夜も閣下にお気に召していただけるようなネグリジェをご用意いたしますね!」

「え、……と?」

 意図が判らず首を傾げていると、別の背の低いメイドがお茶を差し出してくる。

「こちらを毎日お召し上がりください」

 ティーカップを受け取りながら、エステルはそのお茶の独特な香りに目を瞬かせた。

「初めて見るお茶だわ。これを毎日?」

「はい。正式なご結婚までは必要です」

 メイドは真面目に頷いたが、エステルには意味が判らない。それを悟ったのだろう。ミレーヌがそっと近寄って、エステルの耳に口を寄せて小さい声で教えてくれる。

「お嬢様、そちらは避妊のためのお茶です。ご結婚前に懐妊なされないように、毎日飲む必要があるのです」

 元々は娼婦の間で使われていたものだったが、近頃は婚約者の家に入った令嬢の間でも用いられるものだ。ただし、非常に効能が強く堕胎にも用いられるお茶なので、詳しい者がいなければ淹れることができない。恐らくこの背の低いメイドが詳しいのだろう。そんなことをエステルは知らないが、とにかくミレーヌの説明で見慣れないお茶の意図を彼女は理解した。

「し、してないわ! 赤ちゃんができるようなことは!」

 瞬時に否定したが、寝間着を持っているメイドはふふふっと嬉しそうに笑う。

「昨日はそうでも、これからは必要ですよぉ! 昨晩は随分とお喜びだったご様子ですし!」

「よしなさい、はしたないわよクロエ」

 クロエと呼ばれたメイドは「でも」と言っている。昨日もたしなめられていたメイドだ。注意しているのも同じメイドである。確かソフィといったか。

「ソフィ、どういうこと?」

 問われたソフィは驚いたような顔をした。自己紹介はしたが、メイドの名前を覚えているとは思わなかったのだろう。問いかけに答えるべきか一瞬迷ったように、ミレーヌをちらりと見る。ミレーヌは婚約する前からのエステルの専属メイドなので、先輩に聞いた方がいいと思ったのだろう。

 ソフィの代わりにミレーヌが苦笑いで頷いた。

「お嬢様のお体に、口づけの赤い痕がたくさんございますでしょう? ですから、昨晩は侯爵閣下にお気に召していただけたのだろう、とクロエは言ってるんですよ」

「あれが……?」

(虫刺されではなかったのね!?)

 瞬間に顔が熱くなったが、次の言葉でまたすぐにその熱も冷める。

「あんなに愛の証が刻みつけられているんですもの、閣下の愛は深いんですねえ」

 はしゃぐクロエに再びソフィがたしなめていたがその時には既にエステルの表情は固まっていた。

「そうかしら」

 発した言葉が、エステル自身でも驚くほどに冷たい。けれどそれも仕方がないだろう。

(……侯爵様は確かに昨晩『俺の星』とおっしゃったわ)

 それは、娼婦に向けた安い口説き文句のはずだ。

(大体、昨日初めて会ったばかりの女を『愛してる』なんて言うかしら)

 気が緩んだ瞬間に告げられたあの言葉の真意を問うてはいないが、彼がエステルのことをただ組み敷くべき女だと認識していたのであれば、今までの行動が納得できる。初恋の男がいることを気遣うのも、自ら屋敷を案内して優しくしたのも。乙女でないことを構わないと言った癖に、正式な婚姻を待たずに手を出してきたことだって全て、ただ色事にふけるためだけのものだったと考えればつじつまが合うだろう。正にダミアンが夜会で再会したばかりのエステルにそうしたように。

(……ダミアンで痛い目を見たばかりなのに、すぐにほだされて。私はだめね)

 愛されてなんかいない。そうは思っても、婚約者の立場としてそれを言うわけにもいかない。喉元まで出かかったその言葉を飲んで、エステルは寝室を後にした。

 その後、朝食のために食堂へ移動したエステルは内心で首を傾げた。広いダイニングテーブルはゆうに十人はかけられそうだが、そこには一人分の食器しか並んでいない。ラウルの他の家族は紹介されていないから彼一人しか居ないのかもしれないが、それにしたってラウルの食事がない。

「本日ラウル様はすでにお出かけでいらっしゃいます。お戻りは明後日とのことですが、エステル様には屋敷内で自由に過ごして欲しいとの御伝言です」

 エステルの内心を見透かしたように、食堂でエステルを迎えた家令がそう告げる。それに合わせてエステルの朝食が運び込まれた。

「そうなの……」

(お忙しい方なのに昨日は一日時間を割いてくださったのね。……いいえ、もしかしてそれも肌を合わせるためで、もう必要ないから……)

 だからこの屋敷に来た翌日だというのに、朝食も共にせずにラウルは二日も家を開けてしまうのかもしれない。嫌な考えが頭を支配しそうになって、エステルは慌てて頭を振る。心は身体に引きずられやすい。まだ病み上がりで万全ではない身体が、マイナス思考にさせてしまうのだろうとエステルは深呼吸して背筋を伸ばす。

「自由、ね……」

 食事をとりながらエステルは思案する。

(侯爵様がどういうつもりでああおおしゃられたのかが判らないのよ。決めつけは良くないわ。……今、ここに侯爵様がいらっしゃらなくても、私が婚約者なのは変わらないのだもの。私は私の成すべきことをするだけよ)

「マクロン」

 食事の手を止めて、エステルは家令の名前を呼ぶ。

「私はここで何をしたらいいかしら? 婚姻の手続きが終わっていないから今はまだ早いかもしれないけれど、内政の管理に関わる仕事はいつから始めたらいいかについて、侯爵様からうかがっている? 私はできるだけ早く始めた方がいいと思うのだけど……」

「内政、ですか」

 マクロンの顔が曇ったのに、エステルは苦笑いする。

(やっぱり昨日いきなりできた婚約者が内政だなんて言われても困るかしら……。それとも財産目当てだなんて思われる?)

 もともと財産の管理といった内向きの仕事は、女主人、つまり妻の役割だ。侯爵家ともなれば扱う財産が多すぎるため、補佐として家令が実務と執り行うが、方針を決めるのは主人たちである。

(けれど、婚約者としてできることなんて、今はそれくらいしか思い浮かばないし……)

 思案するエステルに、マクロンは「恐れながら」と声をあげる。

「ラウル様より、エステル様には『何もさせるな』と仰せつかっております」

「……どういうこと?」

「この屋敷の中ではお好き過ごして構わないとのことですが、エステル様には内政にまつわることは何もさせるなとおっしゃられておりました」

「理由を、聞いてもいいかしら」

 声が震えるのをおさえてエステルが尋ねるのに、マクロンは首を振った。

「理由は話していらっしゃいませんでした。申し訳ございません」

「そう……」

 カトラリーを握る手に力がこもって震えるのを、何とかエステルは抑える。

「よく、わかったわ」

 噛みしめるように呟いて、エステルは目を伏せる。

(実務に関わらせてもらえないなんて。とんだお飾りの婚約者ね。私は、侯爵様に血統と身体を捧げる都合のいい婚約者でいればいい、ということなんだわ……)

 思い至れば、昨晩のラウルの言葉がまたエステルの胸を抉る。

『愛している、俺の星』

 それは決して、エステル自身に向けられたものではなく、おかざりの婚約者に向けられた上辺の言葉でしかなかったのだろう。
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